阪神淡路大震災の死者数や死因~震度や震源地・前震や余震など総まとめ

「阪神淡路大震災」は戦後初の都市型震災であり、多くの建物が倒壊し死者も多数出て、今でもその記憶は語り継がれています。

 

今回は阪神淡路大震災について、震度やマグニチュードや震源地、前震や余震、死者数や死因をまとめました。

阪神淡路大震災とは

阪神淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日に発生した、兵庫県南部地震による大規模地震災害のことです。2019年の今年で24年目になります。

 

 

風化させないで…

 

 

阪神淡路大震災は、近畿圏の広域・兵庫県を中心に、(大阪府、京都府)などが大きな被害を受けました。

 

特に震源地に近い神戸市市街地である東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区被害は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えました。

 

戦後に発生した自然災害においては、犠牲者の数で伊勢湾台風の5,098人を上回り、東日本大震災が発生するまでは、当時戦後最悪のものとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災の震度・マグニチュード・震源地まとめ

 

淡路島北部沖の明石海峡を震源とする、阪神淡路大震災の震度”マグニチュード7.3”を観測しました。

 

 

マグニチュード7.3の大地震だった…

 

 

この大地震によって、神戸と洲本震度6の強い地震を観測した他、東北地方南部から九州地方にかけてと、かなりの広範囲での有感となりました。

 

さらに、気象庁の地震機動観測班の現地調査によれば、神戸市や淡路島の一部地域においては、震度7に相当する強い揺れが発生していたことが発覚しました。

 

気象庁では、この地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と命名しました。また、政府は、被害規模の大きさから、「阪神・淡路大震災」と命名しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災に前震はあったのか?

 

阪神淡路大震災の1日前(1月16日)の夕方小さな地震が起こったそうです。

 

震度1が観測され、震源は本震とほぼ同じで、規模はM3.0でした。記録していた方によると、午後6時28分のことだったと言います。

 

そしてこの前震については、翌1月17日の朝日新聞の朝刊に小さく報じられたそうです。そしてこの地震は、阪神淡路大震災の“前震”と呼ばれることになりました。

 

 

前日の午後6時28分に前震があった

 

 

阪神淡路大震災の「前震」については、神戸市などでは感じない地域があったそう。

 

「風見鶏」関係者によると、この地震を体感したという人は0に等しく、しかも「前震」の情報を知っていた人も皆無だったと言います。  

 

そのため、この前震による地震速報は、地震観測地点が神戸の1ヶ所しかなかったこともあって、ほとんどのメディアで、この情報は流されていませんでした。

 


「関西で大地震が起こらない」

 


このように思っていたこと、この街は大丈夫だろうという過信…それが「無防備都市」象徴的な出来事となってしまいました。

 

つまり、今日の震度1が、明日の大地震になることもあるということが、阪神淡路大震災の前震から学ぶこととなるでしょう。

 

 

 

阪神淡路大震災の余震の回数とは

 

戸海洋気象台の観測によれば、1995年1月17日に起きた有感地震は本震も含み61回あったそうです。

 

つまり、これが意味する事とは、地震回数だけでも過去20年分の地震が、わずか20時間の間で起こったことになるのです。

 

 

 

震災当日の余震は61回もあった

 

 

~兵庫県南部地震の余震~

 

・1995年:2360回

・1996年:180回

・1997年:109回

 

そして、最大余震は、本震直後4分後に起こったマグニチュード5.2神戸震度4最大規模となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災の死者数・死因まとめ

 

阪神淡路大震災では、多くの建物や家屋が倒壊し、住宅が密集する地域では大規模な火災が発生しました。この地震での死者数、そして死因は何だったのでしょうか?

 

 

死因は「自然災害」か「人災」か?

 

 

~阪神淡路大震災の被災者数~

 

・死者 : 6,434名

・行方不明者 : 3名

・負傷者 : 43,792名

 

NHKが被災者の死因を分析した結果、地震当日に亡くなった5036人の76%に当たる3842人は、地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死だったことが分かりました。

 

震災では多くの木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死、特に1階で就寝中に圧迫死(窒息死)した人が多かったそうです。

 

2階建て木造住宅の場合には、建物が倒壊しても生存のスペースが残りやすかったようで、死者数は少なかったと言います。

 

 

 圧迫死(窒息死)が多数を占める

 

 

また、死亡に至るまでの時間短く神戸市内の死者約2456人のうち、建物が倒壊してからおよそ15分後までに亡くなった人が2221人と92%にも上ったことが分かっています。

 

圧死・窒息死が原因「即死」した人が大半を占めたようです。

 

 

また、死者のうち、20代の若者が30代よりも200人近く多かったことが分かりました。

 

20代が多かった理由として、大学が多く集中する神戸市灘区などで木造アパートに住んでいた学生が、倒壊したアパートなどの下敷きになり窒息死したケースが多いとみられています。

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災の被害が拡大した理由とは

 

なぜ、阪神淡路大震災は大災害となってしまったのか、真実は一体どこにあるのでしょうか?

 

震災前に、震度7に対する地震対策事業よりも、他の公共事業が優先されたのはなぜなのか、そこには悔やんでも悔やみきれない原因があったのでした。

 

 

神戸市民は地震に無防備だった?

 

神戸市民には、「神戸は地震がないところだ」という甘い認識が住民の多くの方々にあったと言います。

 

神戸市は過去に、震度6を超える地震が起きたことがなかったという記録があるために、市民の間で”安全神話”が広がっていたからでした。

 

 

「神戸は地震がないところ」甘い認識…

 

 

また、神戸市第二次世界大戦中に米軍の空爆により被災してしまったため、戦後すぐに建てられた、土台のしっかりしていない建物が多かったそうです。

 

そして、地震対策としては脆弱「木舞」「葺き土」といった建築技法を採用したものが多かったのです。

 

「神戸には地震がない」という甘い考えが、多くの犠牲者を出してしまったのです。

 

 

阪神淡路大震災では、多くの犠牲者が倒壊した建物や家屋の下敷きとなり亡くなってしまいました。

 

そして家屋が密集する地帯では、火災の炎が次々と拡大していき、火災による死者は、500人以上とも言われているようです。

 

 

 

 

 

地震を警告していた?

 

1972年には、大阪市立大と京大のチームによって、「神戸と地震」と題した報告書をまとめていて、神戸市に都市直下地震が起こる恐れを警告していました。

 

 

地震学者は地震を警告していた…

 

 

また、自衛隊は、京阪神地域において震度5~6の地震を想定し、被害状況を推定する調査書を作成していたと言います。


それによれば、特に神戸市のような木造家屋の密集している地域は、建物の倒壊と火災により兵庫県全体で被災者38万5千人と推測していました。

 

実際の阪神淡路大震災の被災者数31万6千人だったので、大災害は正確に予測されたことになります。

 

自衛隊は、この調査書を直ぐに関西地区の各自治体に持ち込み協議を提案したそうですが、黙殺されてしまったそう。

 

 

また、神戸新聞では1974年1980年トップ一面にかなり力を入れて警告記事を書いていました。

 

1974年神戸新聞では、危険区域の予想図も掲載されて、その予想図は実際に被災した地域と全く同じだったそうです。

 

 

神戸新聞は「神戸にも直下地震の恐れ」と警告

 

 

かなり具体的な危険地区の予想図が発表されていたにも関わらず、時が流れると共にその予想図は忘れ去られていき、耐震化工事を行う人はほとんどいなかったそうです。

 

その結果、予想図の通り、危険度が高いと言われていた地域では多くの建物が全壊し、鉄筋コンクリートのビルなども壊滅してしまいました。

 

 

警告を無視した神戸市…

 

当時の神戸市長・宮崎辰雄氏は、”神戸は地震に強い街”と誤った認識のまま、都市計画を進めていたと言われています。


そんな、故・宮崎辰雄氏は、震災当日「迎えの車が来ないから」自宅待機をしていたそう。

 

 

故・元神戸市長:宮崎辰雄氏

 

 

必死の訴えもむなしく、警告は無視され続けた…

 

 

市長の故・宮崎辰雄がインタビューに答えている。

 

「神戸は地震に強い街ですよ。地盤も花こう岩だし、いざとなったら山へも海へも逃げられる」

 

引用:想定を問う 不作為の連鎖 災害列島に生きる

 

 

しかし…阪神淡路大震災は発生していまい、神戸市の庁舎は、神戸が地震に対する備えが無かった&警告を無視し続けたことを証明するかのような皮肉な結末になってしまったのでした。

 

そして、神戸市役所のすぐ近く、北側にあるサンキタ通りも、壊滅的な被害を受けました。

 

 

サンキタ通り

 

 

多くの自治体では、毎年9月1日に開催されている”防災の日”には、自衛隊との共同訓練を行い、日頃から震災に対して努力をしていました。

 

しかし兵庫県は、自衛隊が日頃から共同訓練や連絡調整について呼びかけても、「結構です」拒否をしていたというのです。

 

 

兵庫県や神戸市はなぜ無視し続けた?

 

 

兵庫県や神戸市は、なぜ再三にわたる警告を無視し続けたのでしょうか…?

 

”震度6”と想定してしまうと、水道管の耐震化だけでも3千億円超が必要となります。これは後に建設された神戸空港建設費に相当する額だと言われています。


結局、神戸大助教授だった室崎益輝氏「5と6の間を取りましょう。段階的に上げることを検討すればいい」と提案し、想定震度は「5の強」という、警告とは違った数字にすり替えられてしまったのです。

 

当時の水道管の大半は、継ぎ手部分が弱かったそうで、震度6に対応できる耐震管は70年代に登場したものばかりで、神戸市の場合は、3千㎞を超える総入れ替えが必要でした。

 

 

「悔やんでも悔やみきれない」

東日本大震災から半年が過ぎた頃、阪神淡路大震災でまとめ役として勤務していた、神戸市の元職員大阪府内の病院でひっそりと息を引き取ったそうです。

 

「悔やんでも悔やみきれない…」組織の判断に何も出来なかった自分に、たくさんの命を救えなかったことに自責の念にかられながら亡くなっていったのです。

 

 

組織の判断もあって出来なかった…

 

 

阪神・淡路大震災前、総務局で防災担当主幹を務めた吉沢博震災直後、重度のうつ病に陥り、話すことも歩くこともできなくなった。

 

多くの命が犠牲になるのを目の当たりにし、自責の念に駆られたのだと、死の1カ月後、玄関先で妻が語った。「夫は納得できる備えをしたかったが、組織の判断もあってできなかったんです」

 

引用:想定を問う 不作為の連鎖 災害列島に生きる

 

神戸市の「地域防災計画・地震対策編」のまとめ役を務めていたという吉沢博氏。23年前の悔恨については何も語らず、大阪府内の病院にて、85歳で生涯を閉じたそうです。

 

 

「予算を知らない者が勝手な事言うな」

 

 

阪神淡路大震災の震災前には、神戸海洋気象台の委員「想定震度は6にした方がいい」と主張していたと言います。

 

しかし…

 

「今回は、お金がかからないやり方で(計画を)つくるのが市の意向。6では水道管ひとつ整備するのにお金がかかりすぎる」

 

後日、神戸海洋気象台の委員「やっぱり6にした方がいい」と議論を蒸し返した。これに対し、水道局計画課主幹だった碓井昭彦(72)は「予算を知らない者が勝手なことを言うな」と声を荒らげた。

 

引用:想定を問う 不作為の連鎖 災害列島に生きる

 

高速道路がなぎ倒れる程の地震は、「想定外」ではなかったといいます。

 

しかし、この事実は隠蔽されてしまい、政府は「想定外の事態だから誰も悪くない」という態度を取り続けたそうです。

 

専門家によると、神戸市などの火災による犠牲者が増えてしまった原因に、1日以上も経ってからの救出が多かったことが挙げられています。

 

もしも、直ちに駐屯地に待機していた自衛隊重機などを持ち込み救出活動を行えば、「およそ1000人は救助できただろう」と推定しているとのことです。

 

 

 

阪神淡路大震災は復興が早かったことでも話題に

 

阪神淡路大震災の被災地は、世界の災害史上の中でも驚くべき早さで復興を遂げたと言われています。

 

毎日ものすごい勢いで復旧工事をしていたとのことで、復興は急ピッチで行われ、みるみるうちに元通りに回復していったそうです。

 

 

復興は急ピッチで行われた被災地

 

 

加えて「事前復興」の考え方が注目されている。平常時から地域の課題についてどういう議論ができるか、取り組みが求められる。

 

阪神・淡路の被災地でも、震災前からまちづくりの取り組みが見られた地域では復興への動きは早かった。

 

引用:無理のない合意を

 

 

インフラの復旧は迅速だった。電話は震災翌日に交換設備の復旧を完了し、1月末には倒壊家屋を除いて加入者の回線も復旧電気は震災6日後に、水道も2月末には仮復旧した。ガスはやや遅れたものの4月11日には復旧していた。「神戸は政令市であり、交通の大動脈もあったので、とくに鉄道や道路など交通網は他に例を見ないほど早かった。被災者のメンタル面でのケアなどの対応には課題が残りますが、ハード面の復旧はスムーズでした

 

引用:阪神大震災「4年後の神戸」は力強く復活していた

 

阪神大震災の被災地の写真などから分かるのは、震災の1年後には街並みがすっかり元に戻っているのが分かります。

 

 

 

 

 

2019年:阪神淡路大震災24年目へ…

 

平成7年に発生した阪神淡路大震災。

 

今年(2019年)の1月17日で24年目を迎えます。阪神淡路大震災は、戦後初の都市型大災害と言われ、この大地震きっかけに、日本の防災意識が変わったとも言えます。

 

そして、地震が起きた1月17日には、24年目を迎えた今年も「1・17のつどい」として、多くの方が犠牲者に祈りを捧げました。

 

 

「1・17」のつどい

 

阪神淡路大震災の被災地では1月17日、発生から今年で24年目を迎えましたた。

 

「1・17」のつどいが今年も開催され、6434人の犠牲者を悼む行事が各被災地地で執り行われました。震災した遺族らと共に、震災を経験していない世代の若者も祈りを捧げていました。

 

 

竹灯籠(どうろう)に手を合わせる人々…

 

 

大粒の雨が降る中、神戸市中央区の東遊園地では午前5時から、「1・17のつどい」があった。「1995 伝 1・17」の形に並べられた約7千本の竹灯籠(どうろう)に火がともされ、市民らは発生時刻の午前5時46分に黙禱(もくとう)した。

 

久元喜造市長「震災を知らない市民が増えていく中で、震災から得た経験や教訓をいかに次世代に継承していくかという課題に取り組む」と誓った。

 

引用:阪神大震災から23年 「経験や教訓、次世代に継承を」

 

 

 

 

 

 

 

まとめ

・阪神淡路大震災は1995年(平成7年)1月17日に発生した大規模地震。

・阪神淡路大震災は明石海峡を震源としたマグニチュード7.3、震度7の大地震。

・阪神淡路大震災の死者は6,434名だが、死因は圧迫死(窒息死)が77%を占める。

 

いかがでしたでしょうか?

 

今回の記事をまとめると、兵庫県や神戸市は警告を無視し続けた結果、最悪の事態を招く結果となってしまいました。「この街は大丈夫」という過信は禁物です。

 

阪神淡路大震災、東日本大震災を教訓にし、日ごろから私たちも防災グッズを備えたり、震災に備えておくことが大切です。

 

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