「大人計画」や「ナイロン100℃」に所属する実力派俳優の三宅弘城さんが嫁が1年前に亡くなっていた事を発表し話題になっています。
この記事では三宅弘城さんの若い頃の経歴、嫁との結婚や子供、嫁を自宅で看取った事や死因、飼っている猫や現在の活躍などについてまとめました。
この記事の目次
- 三宅弘城のプロフィール
- 三宅弘城の若い頃① 横浜生まれの横須賀育ちで器械体操や野球に打ち込む
- 三宅弘城の若い頃② 中学時代にはドラムを始めた他、サッカー部でも活躍
- 三宅弘城の若い頃③ 逗子開成高校で体操部に所属し再び器械体操に取組む
- 三宅弘城の若い頃④ 東京国際大学3年時「劇団健康」に入団
- 三宅弘城の若い頃⑤ 劇団「ナイロン100℃」の旗揚げに参加
- 三宅弘城の若い頃⑦ 音楽バンド「グループ魂」にドラマーとして加入
- 三宅弘城の若い頃⑧ テレビドラマや映画にも多数出演
- 三宅弘城の結婚と嫁
- 三宅弘城は嫁を自宅で看取った
- 三宅弘城に子供はおらず2匹の猫と暮らしている
- 三宅弘城の嫁の死因は膵がん
- 三宅弘城の現在① 舞台「少女都市からの呼び声」
- 三宅弘城の現在② NHKスペシャルドラマ「大河ドラマが生まれた日」
- 三宅弘城の現在③ テレビドラマ「だが、情熱はある」
- まとめ
三宅弘城のプロフィール
三宅弘城のプロフィール
生年月日 :1968年1月14日
出生地 :神奈川県横浜市保土ヶ谷区
出身地 :神奈川県横須賀市
身長 :165cm
血液型 :O型
所属事務所:大人計画
所属劇団 :ナイロン100℃
三宅弘城(みやけ・ひろき)さんは、松尾スズキさん率いる「大人計画」に所属し、人気劇団「ナイロン100℃」の団員として活躍する俳優です。ボケ役もツッコミ役もこなせるコミカルな役柄を中心に、時には狂気を感じるような両面性を持つ難しい役所も演じられる演技派の俳優として高く評価されています。
紅白出場経験もあるコント・ロック・バンド「グループ魂」のドラマー・石鹸としても知られていてミュージシャンとしての顔も持ちます。
また、三宅弘城さんは、子供時代から器械体操に打ち込み、若い頃にはプロボクサーテストにも合格するなど抜群の身体能力を持ち、出演時にはその身体能力を活かしたパフォーマンスを披露する事もあります。
2009年からはNHKEテレの子供向け人気番組「みいつけた!」に登場するイスの応援団長「みやけマン」としてレギュラー出演し、時にバク宙などの華麗なアクロバット技も披露して視聴者を驚かせています。
そんな多才かつ演技派俳優として人気の高い三宅弘城さんですが、2023年6月にTwitterで1年前に嫁を亡くしていた事を公表し注目されています。
ここでは、この三宅弘城さんについて詳しく紹介していきます。
三宅弘城の若い頃① 横浜生まれの横須賀育ちで器械体操や野球に打ち込む
三宅弘城さんは、神奈川県横浜市保土ヶ谷区で父・肇(ハジメ)さん、母・ノリコさんの長男として生まれました。兄弟はおらず一人っ子として育っています。
三宅弘城さんは幼稚園の頃に器械体操を習い始め、小学校低学年まで打ち込んでいます。小学校5年生の時に家族で横須賀市長沢に引っ越し、横須賀市立北下浦小学校へと転校しています。
小学校では、少年野球チームに所属して熱心に打ち込み、スイミングスクールにも通うなどスポーツ万能な少年でした。当時の将来の夢はオリンピック選手だったそうです。
また、家の近くに津久井浜や三浦海岸があったため、夏は水泳、冬は釣りと1年中海に行って遊んでいたそうで、活発な少年時代を送られたようです。
三宅弘城の若い頃② 中学時代にはドラムを始めた他、サッカー部でも活躍
三宅弘城さんは、横須賀市立北下浦小学校を卒業後は、そのまま地元の横須賀市立北下浦中学校へと進学しています。
三宅弘城さんは中学時代はサッカー部に所属してスポーツを続ける一方で、音楽にも興味を持ちバンド活動も始めています。
三宅弘城さんは中学2年生の時に文化祭で先輩がバンド演奏する姿をかっこいいと思い音楽に目覚めたそうです。最初はギターを練習したそうなのですが、Fコード(人差し指で複数の弦を同時に押さえるバレーコード)がマスターできずに、諦めてドラマーに転向したそうです。
当時はドラムセットは買えずに家で電話帳などをスティックで叩いて練習に励んだのだとか。
当時からパンクロックが好きで、当時はあまり出回っていなかった輸入版レコードを求めてどぶ板通り(米軍基地の関係でアメリカ文化が色濃く入った商店街)へ行き、「ザ・スターリン」や「JAGATARA(じゃがたら)」といったかなりコアなバンドを観にライブハウスにも足を運んだのだとか。
三宅弘城の若い頃③ 逗子開成高校で体操部に所属し再び器械体操に取組む
出典:https://yumeijinhensachi.com/
三宅弘城さんは横須賀市立北下浦中学校を卒業後は、私立の男子校「逗子開成高校」へと進学しています。現在は完全中高一貫校である逗子開成ですが、当時は高校からの入学も受け付けていました。
三宅弘城さんはもう1度器械体操に取り組みたいとの想いから、体操競技部のある逗子開成高校への進学を決められたのだそうです。
三宅弘城さんは高校時代は体操競技に打ち込み、その身体能力の高さを買われてスポーツ系の名門である日本体育大学に水泳の飛び込み競技での推薦の話が決まります。
しかし、三宅弘城さんはミュージシャンを志望していた事と、体操競技ではなく水泳の飛び込み競技での推薦だった事からそれを蹴り、東京国際大学へと進学されています。
三宅弘城の若い頃④ 東京国際大学3年時「劇団健康」に入団
三宅弘城さんは東京国際大学に進学して3年生となり、就職ガイダンスにも参加して将来の進路を考え始めた頃に、偶然、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(三宅弘城さんが中学時代からファンだったロックバンド「有頂天」のボーカル・KERA)さんが主宰する「劇団健康」の舞台を観劇して衝撃を受けたそうです。
三宅弘城さんはその舞台から、演劇の固定概念に縛られないパンクロックのような何か音楽的なものを感じ取ったのだそうで、役者になりたいというよりは「この集団に入りたい」というかなり純粋な気持ちを抱いたのだとか。
そして、三宅弘城さんは「劇団健康」のオーディションを受け、器械体操で培ったバク宙などのアクロバット技や、ドリフターズのいかりや長介さんのモノマネ芸を披露して見事合格。20歳だった1988年に「劇団健康」への入団を果たしました。
しかし、入団から4年間は若手扱いされて長い下積みの時代を送られています。若い頃は舞台でバク宙ばかりやらされていたのだとか。
劇団健康のオーディションで「器械体操をやってたもんで、自己PRでバック宙をやったんです。で、あと何か・・って言われたんで、いかりや長介さんのモノマネをしたんです(笑)。そしたら受かったんですが、最初の頃は舞台でバック宙ばっかやらされてましたよ」と、劇団合格当初の苦労を振り返ってくれました。
三宅弘城さんは、1988年8月の劇団健康の第6回公演「カラフルメリィでオハヨ~いつもの軽い致命傷の朝~」から舞台に出演し、1989年1月の第7回公演「後ろ姿の素敵な僕達」、1989年7月の第8回公演「スマナイ。」にも出演しましたが、脇役中の脇役扱いでフライヤーに名前が載る事もなく、1990年3月の第9回公演「牛の人」でようやく名前が掲載されています。
三宅弘城の若い頃⑤ 劇団「ナイロン100℃」の旗揚げに参加
「劇団健康」は1992年に1度解散しており、その翌年の1993年に新たに劇団「ナイロン100度」が立ち上げられました。三宅弘城さんもこの「ナイロン100℃」に旗揚げから参加しています。
1993年8月、三宅弘城さんは、この「ナイロン100℃」の旗揚げ公演となった「インタラクティブテクノ活劇 予定外」で初めてメインキャスト(ユロ・リーシャル役)として起用され、以降は「ナイロン100℃」の中心メンバーの1人として活躍しました。
特に、1993年12月の第2回公演(2nd SESSION)の「SLAPSTICKS」では、主人公のビリー役を演じ、舞台俳優として名前が知られるようになります。
体操競技などで培った抜群の身体能力を活かして舞台では激しいアクションがある役柄を担当する事が多く、それが注目されてナイロン100℃の看板俳優の1人となりました。
1996年には、プロボクサーライセンスも取得(宮田ジム所属)し、舞台でのアクションにも活かされています。
三宅弘城さんは、旗揚げ以来、ナイロン100℃の公演のほぼ全てに出演されており、現在も犬山イヌコさん、みのすけさんに次ぐ看板俳優として活躍されています。
三宅弘城の若い頃⑦ 音楽バンド「グループ魂」にドラマーとして加入
1997年、「ナイロン100℃」での活躍で舞台俳優として人気を上げる一方、三宅弘城さんは、宮藤官九郎さん(暴動名義)、阿部サダヲさん(破壊名義)、村杉蝉之介さん(バイト君名義)の3人で活動していたコントグループ「グループ魂」に、「石鹸」の名義でドラマーとして加入。
この時、グループ魂には三宅弘城さんの他にベーシストの小園竜一さん(小園名義)も加入し、以降はコント・ロック・バンドとして活動しています。
三宅弘城さんはこのグループ魂にて、2002年12月にアルバム「Run魂Run」をリリースしてメジャーデビュー。2005年のシングル「君にジュースを買ってあげる♥」のヒットにより、その年のNHK紅白歌合戦への出場も果たしています。
三宅弘城の若い頃⑧ テレビドラマや映画にも多数出演
三宅弘城さんは若い頃から舞台演劇の他に、テレビドラマや映画にも数多く出演されてきました。
三宅弘城さんの若い頃の代表出演作としては2002年ドラマ「木更津キャッツアイ」(竹田イチロウ巡査役)、2002年映画「トリック劇場版」(臼井猛役)、2003年映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」(瀬川吉雄役)、2004年のNHK大河「新撰組!」(望月亀弥太役)、2005年ドラマ「海猿」(別所健二郎役)、2005年映画「電車男」(たむら役)、2006年NHK大河「篤姫」(伊地知正治役)などが挙げられます。
三宅弘城の結婚と嫁
続けて、三宅弘城さんの結婚や嫁についても見ていきます。
三宅弘城さんは39歳だった2007年11月11日に5歳年下の一般女性と結婚されています。
三宅弘城さんは嫁の事を「コンセントさん」という少し変わった愛称で呼んでいたのですが、これは、結婚記念日である11月11日が、日本配線システム工業会が「配線器具の日」と定めている事からのようです。
そもそも11月11日が配線器具の日に決められた理由は、最も使用されている配線器具であるダブルコンセントのプラグ差し込み口が「11」の形をしているからだったそうです。ここから連想して嫁の愛称が「コンセントさん」になったのだとか。
三宅弘城さんの嫁は一般女性のため顔画像などは公開されていませんが、ネット上でかなりの美人と噂されていました。その根拠として示されていたのが三宅弘城さんの結婚式の写真だとする下の画像です。
しかしこれは、2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」のワンシーンで、三宅弘城さん演じる亀助と夫婦となるふゆとの結婚式のシーンです。つまり、上の画像は三宅弘城さんの嫁ではなくふゆ役を演じた女優の清原伽耶さんです。
三宅弘城さんは嫁について聞かれると、冗談で「ガタイがよく、喧嘩が強い」と話されていました。
三宅弘城は嫁を自宅で看取った
そんな三宅弘城さんの結婚と嫁についてですが、三宅弘城さんは2023年6月13日に自身のTwitterを更新し、1年目の2022年6月13日に嫁が49歳という若さで死去していた事を明かされました。
一年前の今日、2022年6月13日、妻が天国へ旅立ちました。
— 三宅弘城 (@miyasekken) June 13, 2023
膵がんでした。
見つかってからわずか8ヶ月。
どうしようかずっと迷ってたんですが、なんとなくこのままでは自分が前に進めないような気がして、一周忌を期にお知らせすることにしました。
妻、49歳でした。
三宅弘城さんはさらに続けてツイートを投稿され、嫁との別れについて語り、新型コロナウイルスの影響もあって入院した場合は1日に15分しか面会ができないため、それならばと自宅で嫁を看取る事を決意し、訪問看護や訪問診療をお願いして、嫁の最期も自宅で看取られたのだそうです。
去年はコロナの関係で、入院すると1日に15分しか面会ができませんでした。そうなるとボクがどうにかなってしまいそうだったので「ここはもうオレが面倒診る‼︎」と腹を括り、訪問看護や訪問診療をお願いし、自宅で最期を看取りました。
— 三宅弘城 (@miyasekken) June 13, 2023
「鎌塚氏、羽を伸ばす」の稽古が始まって3日目のことでした。
また、三宅弘城さんはさらにツイートで、嫁について「ネットに出ているような恐妻家ではなく、思い返しても笑顔しか浮かばない、とても優しいおおきなひとでした。」とも綴られていました。
三宅弘城に子供はおらず2匹の猫と暮らしている
三宅弘城さんと嫁との間には子供はいません。
三宅弘城さんは2匹の猫を飼っており、この猫達が子供の代わりのような大切な存在のようです。
嫁の死去を公表された際のツイートでも可愛らしい猫たちの画像を投稿し「コイツらとがんばって生きてゆきます。」とコメントされていました。
誰が言ったかわかりませんが、ネットに出ているような恐妻家などではなく、思い返しても笑顔しか浮かばない、とても優しいおおきなひとでした。
— 三宅弘城 (@miyasekken) June 13, 2023
ありがとう。
ありがとう。
コイツらとがんばって生きてゆきます。 pic.twitter.com/a0g9V1xOQ4
三宅弘城さんはこの猫達の事をよくTwitterで紹介されていて、茶色の子が雄猫で「てんすけ」、白黒の子が雌猫で「ふくこ」という名前だという事です。
三宅弘城さんは猫が大好きなようで、この飼い猫2匹の他にもTwitterでよく野良猫の写真を投稿されています。
あ、猫だ‼︎
— 三宅弘城 (@miyasekken) June 9, 2020
よし、岩合さんになった気持ちで、焦らず時間をかけて近づいていこう。
お、こっち向いた‼︎ pic.twitter.com/wzTem1fK8a
猫に見られながら、大阪千秋楽です。 pic.twitter.com/5WufEjbcWA
— 三宅弘城 (@miyasekken) January 25, 2015
三宅弘城の嫁の死因は膵がん
三宅弘城さんの嫁が2022年6月13日に49歳という若さで亡くなられたと発表されましたが、死因は三宅弘城さんのツイートによると「膵がん」だという事です。
俳優の三宅弘城(55)が13日、ツイッターを更新。昨年6月に最愛の妻が膵(すい)がんのため亡くなっていたことを明かし、「とても優しいおおきなひとでした」としのんだ。
三宅弘城さんのツイートによれば、三宅弘城さんの嫁はがんが見つかってから8ヶ月後に亡くなられたとの事で、発見が遅れたか進行が早かった事が窺えます。
三宅弘城の現在① 舞台「少女都市からの呼び声」
出典:https://higashiosaka.hall-info.jp/
三宅弘城さんは現在は俳優として引っ張りだこの人気を得ており、ドラマや映画、舞台と多数の作品に出演されています。
三宅弘城さんの現在の活躍として、2023年の出演作品をいくつか紹介します。
三宅弘城さんは、2023年7月から上演の舞台「少女都市からの呼び声」にフランケ醜態博士の役で出演されています。フランケ醜態博士は物語の肝となる重要な役柄です。
「少女都市からの呼び声」は劇作家の唐十郎さんの傑作と呼ばれている作品で、三宅弘城さんは以前から憧れを抱いており、マネージャーから話を聞いた時は食い気味に「やります!」と出演を即決されたそうです。
三宅弘城の現在② NHKスペシャルドラマ「大河ドラマが生まれた日」
三宅弘城さんは2023年2月にNHK総合で放送されたスペシャルドラマ「大河ドラマが生まれた日」に六車宗夫役で出演されています。
「大河ドラマが生まれた日」は、テレビ放送70周年、大河ドラマ60周年を記念して製作されたスペシャルドラマで、生田斗真さんを主人公に若きテレビマンによる大河ドラマ誕生までの奮闘が描かれています。
三宅弘城さんが演じた六車宗夫は京都太秦の映画撮影所で次長で、伝統的な映画作りに誇りを持ち、当時まだ新興のメディアであったテレビ業界を冷めた目で見つめています。生田斗真さん演じる若手アシスタントディレクター・山岡らの情熱に打たれ、次第に力を貸してくれる存在となります。三宅弘城さんはその心情の動きを見事演じられています。
三宅弘城の現在③ テレビドラマ「だが、情熱はある」
出典:https://img-mdpr.freetls.fastly.net/
三宅弘城さんは、2023年4月から6月にかけて日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ「だが、情熱はある」に山里勤役で出演されています。
ドラマ「だが、情熱はある」は、人気芸人であるオードリーの若林正恭さんと、南海キャンディーズの山里亮太さんの半生を描いた斬新な作品です。
三宅弘城さんは、森本慎太郎さんが演じる山里亮太さんの父親である、山里勤役で出演されています。この作品はドラマの出来自体や、実在する芸人達の喋り方をそっくり再現して見せた俳優陣の演技が高く評価されましたが、その中でも特に三宅弘城さんの熱演には目を奪われるものがありました。
まとめ
今回は、舞台やドラマ、映画などで活躍する実力派俳優の三宅弘城さんについてまとめてみました。
三宅弘城さんは若い頃は、小学生時代は器械体操や野球などのスポーツで運動神経を磨き、中学に進学後に音楽に目覚めてドラムを叩き始めました。大学進学後もミュージシャン志望でしたが、大学3年生に「劇団健康」の舞台を見て衝撃を受けたのをきっかけに同劇団に入団し、役者の道を歩み始めました。
三宅弘城さんは舞台俳優として人気を上げ、「劇団健康」を前身とし、現在も人気劇団として活躍する「ナイロン100℃」の旗揚げにも参加。次第にドラマや映画などへの出演も増やし人気俳優となりました。
そんな三宅弘城さんは、2007年11月11日に結婚。嫁は5歳年下の一般女性で、三宅弘城さんによると、「ガタイがよく、喧嘩が強い」ながら、恐妻家ではなく、とても優しい大きな人だったそうです。
三宅弘城さんは2023年6月13日にこの嫁がちょうど1年前の2022年6月13日に49歳という若さで亡くなっていた事を発表されました。死因は「膵がん」との事でした。
三宅弘城さんと嫁との間には子供はおらず、飼っている2匹の猫を子供のように大切にされているようです。
三宅弘城さんは現在も俳優として活躍されており、映画やドラマ、舞台など数々の作品に出演し、様々な役柄を演じられています。