アントニオ猪木さんとも死闘を繰り広げた昭和の名レスラー・ストロング小林さんが亡くなりました。
この記事ではストロング小林さんの身長などのプロフィール、巨人症の噂、若い頃の画像、たけし城への出演、家族や結婚した嫁、子供、脊髄損傷や現在、死因についてまとめました。
この記事の目次
ストロング小林のプロフィール
ストロング小林のプロフィール
本名 :小林省三(こばやし・しょうぞう)
生年月日:1940年12月25日
没年月日:2021年12月31日(享年81歳)
出生地 :東京都文京区本郷
出身地 :東京都文京区青梅
公称身長:187cm
体重 :125kg(全盛期の公称値)
ストロング小林さんは、1960年代から1980年代にかけて活躍した人気プロレスラーで、1974年のアントニオ猪木さんとの一戦は「昭和の巌流島の決闘」として伝説的に語り継がれています。
ストロング小林さんは、太平洋戦争勃発1年前の1940年に生まれ、日米開戦後は疎開先の青梅で育っています。若い頃から巨体の持ち主で、中学時代には相撲部屋からのスカウトを受けますがこれを断り、東京都立農林高等学校を卒業。その後は国鉄に入社し、南武線の稲城長沼駅で勤務しました。
国鉄勤務の傍ら、ボディビルに打ち込んでいた若い頃のストロング小林さんは、25歳の時にボディビル会場でスカウトを受けて国際プロレスに入門し、1967年7月27日に、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」としてプロレスラーデビューしています。
その後、素顔になってリングネームを「ストロング小林」と改め、1968年に海外修行へと出発。ヨーロッパやアメリカ、日本と国内外のリングを転戦し、IWA世界タッグ王座奪取、USAヘビー級王座獲得、IWA世界ヘビー級王座戴冠など、国際プロレスのエースとして輝かしい戦績を収めました。
1974年の伝説のアントニオ猪木戦を経て1975年に新日本プロレスに正式入団し、坂口征二さんとのタッグチームで北米タッグ王座を獲得するなど活躍しましたが、1981年に腰痛が悪化して長期欠場に入り、1984年8月26日に東京・福生市体育館での引退興行をもって現役を引退されました。
プロレスラー引退後は、「ストロング金剛」の名義で、俳優やタレントとして映画やドラマ、バラエティ番組など多彩な分野で活躍し、「ストロング○○」という自身のプロレスラー時代のパロディキャラクターを数多く演じ、その巨体と愛嬌のあるキャラクターで当時の子供達からの絶大な人気を集めました。
ストロング小林の実際の身長も議論に
出典:https://img.tokyo-sports.co.jp/
ストロング小林さんの現役時代の公称身長は「187cm」もしくは「188cm」でした。
しかし、昭和の時代のプロレスラーは大抵の場合は身長を数cmはサバ読みしていたと言われており、ストロング小林さんの身長もよく議論の対象となっていました。
現在もネット上では、ストロング小林さんの実際の身長は「180cm」ほどではないかと言われているようです。
ストロング小林は巨人症だったとも言われている
その高身長の巨体がプロレスラーとしての魅力であったストロング小林さんには、巨人症ではないかという噂が現役時代からありました。
ストロング小林さんが巨人症であったかははっきりとはわかっていませんが、2021年12月のストロング小林さんの逝去を受けて、インターネット上の匿名掲示板などでは「巨人症で80歳超えとか」、「猪木と顔が似てた、馬場、ホンマンタイプとこういったタイプの巨人症がいるのかも」といった書き込みが見られました。
ストロング小林の若い頃の画像
ストロング小林さんのプロレスラー時代の若い頃の画像を何枚か紹介します。
上の画像は、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」時代のストロング小林さんです。
若い頃のストロング小林さんは、アントニオ猪木さんと似ているという声もよく出ていました。
上の画像は国際プロレス時代、アメリカ人レスラーのバーン・ガニアと戦う若い頃のストロング小林さんです。
ストロング小林は「たけし城」などのバラエティや特撮ドラマ出演でも人気だった
ストロング小林さんはプロレスラーを引退された後は、「ストロング金剛」などの名義でテレビタレントや俳優として活躍し、当時の子供たちからの絶大な人気を得ていました。
ストロング小林さんは、「風雲!たけし城」や「夕やけニャンニャン」など、当時の大人気バラエティ番組にも多数出演し、お茶の間の人気者でした。
特に、たけし城の「悪魔城」というステージで、スキンヘッドの悪魔に扮して挑戦者を捕まえるキャラクターは当時の子供達に人気でした。
また、特撮戦隊ドラマ「超電子バイオマン」では、悪の組織「新帝国ギア」の大幹部モンスターという個性的なキャラクターを演じました。
このバイオマンでの大幹部モンスターも当時子供時代を過ごした人々にとっては、ストロング小林さんが演じた印象深いキャラクターの1つです。
ストロング小林さんは俳優としてもかなり活躍しており、映画「伊賀忍法帖」の金剛坊役、「探偵物語」の和田役、NHK大河ドラマ「太平記」などの代表作をはじめ、時代劇や刑事ドラマなど多数の作品に出演されています。
ストロング小林とアントニオ猪木の伝説的一戦「昭和の巌流島の決闘」
ストロング小林さんの現役時代の最も有名な一戦は、「昭和の巌流島の決闘」とも呼ばれ、伝説的に語り継がれている、1974年3月19日のアントニオ猪木さんとの蔵前国技館でのシングルマッチでしょう。
ストロング小林さんは、国際プロレスを離脱してアントニオ猪木さんに挑戦状を送り、当時アントニオ猪木さんが保持していたNWF世界ヘビー級王座に挑戦。当時の国内を代表するエースレスラー同士の世紀の一戦として国民的注目を集めました。
この時、国際プロレス側がストロング小林さんの契約違反を主張して試合中止を求めますが、ここで東京スポーツ新聞社が、1000万円の移籍金を国際プロレスに支払って、ストロング小林さんを自社所属のプロレスラーとし、この世紀の一戦を実現させたという内幕もありました。
試合展開は、怪力を売りにしていたストロング小林さんハンマーロックなどのパワー技で攻めれば、アントニオ猪木さんがその卓越した技術で関節技やナックルパンチなどで応戦するという白熱したもので、最後は29分30秒原爆固め(ジャーマン・スープレックス・ホールド)でアントニオ猪木さんが勝利しています。
この時のアントニオ猪木さんが決めたジャーマンスープレックスは、そのレスラー人生の中で最も美しく決まったと語り継がれています。
この試合後の勝利者インタビューで、アントニオ猪木さんは「こんな(激しい)試合を続けていたら、レスラー生命が1年で終わってしまうかもしれないが、私はいつ何時、誰の挑戦でも受ける」という伝説の名言を残しています。
このストロング小林さんとアントニオ猪木さんの試合は、その年開設された「プロレス大賞」の年間最高試合賞を獲得しました。
このストロング小林さんとアントニオ猪木さんの「昭和の巌流島の戦い」の新日本プロレス公式のYouTube動画があったので紹介しておきます。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=obTOjvJbRq8]
ストロング小林さんはアントニオ猪木さんに敗戦後、アメリカに遠征してフロリダとニューヨークで戦い、帰国後の12月12日にアントニオ猪木さんに雪辱戦を挑んでいます。
この再戦でストロング小林さんは再びアントニオ猪木さんと熱戦を繰り広げましたが、レフェリーストップにより無念の連敗となりました。
ストロング小林さんはこのアントニオ猪木さんとの試合をきっかけに、1975年5月に正式に新日本プロレスに入団し、アントニオ猪木さんと坂口征二さんに次ぐスターレスラーとして活躍しました。
このストロング小林さんとアントニオ猪木さんの試合以前は、プロレス界では大物日本人レスラー同士の試合がタブーとされ、日本人レスラーと外国人レスラーが基本線とされていました。しかし、このストロング小林さんとアントニオ猪木さんの試合をきっかけにして、大物日本人レスラー同士の対決が主流となっていきました。
こうした意味で、ストロング小林さんとアントニオ猪木さんの試合は、日本のプロレス史を変えた試合として伝説的に語られています。
ストロング小林の家族① 妹が2人いる
ストロング小林さんの家族について見ていきます。
ストロング小林さんには3歳年下の珠枝さん、8歳年下のさち子さんという2人の妹がいます。
2021年12月に亡くなったストロング小林さんの葬儀の喪主を務めたのは、下の妹のさち子さんでした。ストロング小林さんが自宅で寝たきりの生活になった後、同居して介護をされていたのが、このさち子さんだったそうです。
喪主を務めた妹のさち子さん(73)は、小林さんが寝たきりの生活となってから自宅に同居し介護を続けてきた。
また、上の妹の珠枝さんによると、ストロング小林さんは大の猫好きで、自宅で3匹の猫を飼わられていたそうで、同居していた妹のさち子さんへの最後の言葉は「猫の世話を頼むよ」という優しい言葉だったのだそうです。
小林さんは、幼い頃から犬や猫が大好きだったという。自宅には3匹の猫を飼っていたが、そのすべては小林さんが拾ってきた野良猫だったという。さち子さんの5歳上の姉で小林さんの妹・珠枝さん(78)は、小林さんが最後まで愛猫を気にしていたことに「優しい兄でした」と言葉を詰まらせていた。
ストロング小林の家族② 結婚した嫁は瀧本いさこさん
ストロング小林さんは1980年頃に瀧本いさこさんという一般女性と結婚されています。
当時の新日本プロレスファンクラブ会報誌 「anton」では、ストロング小林さんが結婚した嫁・瀧本いさこさんは、和歌山県でスポーツ用品店を営む実家の生まれで、3姉妹の長女、ゴルフやスキーなどのスポーツ、茶道や花道などの芸事にも通じる明るい性格の女性だと紹介されていました。
ストロング小林さんの嫁である瀧本いさこさんの現在については情報がなく不明ですが、ストロング小林さんが寝たきりになってからの世話や、葬儀での喪主は妹さんが務められたとの事なので、既に他界されているか、高齢のために施設に入所しているか、あるいは何らかの理由で離婚されていた可能性なども考えられるかと思います。
ちなみに、ストロング小林さんには若い頃に同性愛者疑惑があったのですが、これは当時、新日本プロレスに入門したばかりだった前田日明さんに、先輩レスラーの1人が面白がって「小林さんに挨拶して来いホモだから注意しろよ」と命じ、前田日明さんが恐る恐る挨拶をしに行ったところ、ストロング小林さんが満面の笑みで「キミが前田くん?よろしくね」と優しく返事をしてくれたそうです。
強面であるにもかかわらず、優しく対応されたことで、前田日明さんはストロング小林さんが同性愛者であるという先輩の冗談を信じてしまい、それを周囲に話してしまったことから、そうした噂が広まってしまったという事でした。
ストロング小林の家族③ 子供についての情報はなく不明
ストロング小林さんは1980年頃に瀧本いさこさんという女性と結婚されていますが、この嫁の瀧本いさこさんとの間に子供がいたのかどうかについては情報がなく不明です。
ただ、これについても、ストロング小林さんの葬儀の喪主を妹のさち子さんが務めたという事などから、子供はいなかったのではないかと考えて良さそうです。
ストロング小林の現在① 芸能界引退後に脊髄損傷で下半身不随に
ストロング小林さんは、2021年12月31日に81歳で亡くなられました。
その約2ヶ月前の2021年11月6日、ストロング小林さんはスポーツ報知の取材に応じていました。
それによると、ストロング小林さんはこの取材時から見て3年前に脊髄損傷により下半身不随になり、寝たきりの状態になっていたそうです。
芸能活動を引退して26年。小林さんは脊髄損傷による下半身のまひで3年前から寝たきりとなっている。これまで取材を断ってきたが、介護してきた妹のさち子さんが「プロレス界にストロング小林がいたっていうことを残してもらいたい」とつないでくれた。
この取材時、ストロング小林さんは、1974年3月19日のアントニオ猪木さんとの伝説の1戦の思い出を語ってくれたのだそうです。
「国技館のメインイベントで試合をやるっていうのは、レスラーにとって最高の誇りですから、そこでお客さんがいっぱい来てくれたことは、最高の喜びでしたよ」。小林さんにとっては、猪木に負けた悔しさよりも名勝負を作ることができた思い出の方が大きい。
ストロング小林の現在② 2021年12月に死去…死因はのう肺(化膿性肺炎)
ここまででも既に触れていますが、ストロング小林さんは2021年12月31日に、入院先の病院で亡くなられており、現在は既に他界されています。
スポーツ紙の報道では、死因は「のう肺」と発表されています。これは「化膿性肺炎」という症状を指しているようです。
元プロレスラーで俳優としても活躍したストロング小林さん(本名・小林省三)が昨年12月31日午前7時21分、東京・青梅市内の病院でのう肺のため亡くなった。81歳だった。
家族によれば、ストロング小林さんは2021年11月2日に肺を患って青梅市内の病院に入院。9日に吐血して危篤状態になり、それから3日間意識不明の状態が続いた後、4日目の11月12日に奇跡的に意識を回復させ、一時は会話ができるほどまで容態を回復されていたそうです。
妹のさち子さんは、「兄はプロレスラーとして鍛え上げていた体の強さで危篤状態から脱出したのだと思います。」と語られていました。
しかし、ストロング小林さんはこの危篤状態時に寝たきりの状態だったため、痰が左肺に入り込んでしまい、その影響で右肺に水が溜まってしまったという事です。食事も取れなくなり点滴で栄養を補給する状態だったそうです。
それでもストロング小林さんは、かわいがっていた姪がお見舞いに訪れると、優しく「明日、帰るからね」と声をかけられたのだとか。そして、ストロング小林さんはその言葉を最後に12月31日の午前7時21分に帰らぬ人となりました。
妹のさち子さんによると、最期の時のストロング小林さんの肺の状態であれば、常人であればものすごく苦しむと医者に言われたのだそうです。それでもストロング小林さんは家族に対しても「痛い」とか「苦しい」とか1度も弱音を言わなかったのだそうです。
ストロング小林さんは、最期の時まで、そのプロレスラーとしての強さを見せてくれたのではないかと感じられます。
ネット上には、ストロング小林さんの訃報に、悼む声が多数上がっています。
金剛さんも逝ってしまった…
— A・OOSUGA… (@blue_oosuga) January 7, 2022
子供の頃から、プロレスラー・ストロング小林を観ていて…猪木と区別が付かなかった記憶が…
その金剛さんと共演!
レスラー時代痛めた腰が辛そうだった…休憩中はよく厚めのベニヤ板の上で横になってたのを思い出す。
本当に優しかった金剛さん…
ご冥福をお祈り致します
『怒涛の怪力』も鬼籍に入ったか…
— 谷本 明 (@atanimotoronics) January 7, 2022
国際出身レスラーは大概いい人な逸話ばっかりですが(草津を除く)彼も人が良いってイメージすね
で本日の東スポ
1面だけじゃなく2・3面も特集を組んでて流石腐っても東スポ!!
坂口猪木との3ショットって最上級の扱いじゃ無いすかね
RIP ストロング小林 pic.twitter.com/NHWCpqVaaa
まとめ
今回は、アントニオ猪木さんとの「昭和の巌流島の決闘」などの伝説の試合で知られる、昭和の名レスラー・ストロング小林さんについてまとめてみました。
ストロング小林さんは高校卒業後は国鉄で働きながらボディービルダーとして活躍していましたが、スカウトを受けて国際プロレスに入門し、プロレスラーとなりました。
ストロング小林さんの現役時代の公称身長は187cm、または188cmで巨人症の噂もありましたが、実際の身長は180cmほどであったと言われています。
若い頃は、怪力自慢のスターレスラーとして活躍し、アントニオ猪木さんとの1974年3月19日のシングルマッチは現在も、日本のプロレス史を変えた一戦として伝説的に語り継がれています。
プロレスラー引退後は、「ストロング金剛」などを名乗って、「風雲!たけし城」や「8時だョ!全員集合」などのバラエティや、特撮戦隊ドラマ「超電子バイオマン」の悪役などとして出演し、当時の子供達からの絶大な人気を得ました。
家族は2人の妹の存在が知られています。また、1980年に瀧本いさこさんという女性と結婚されていますが、子供はいなかったようです。
現在のストロング小林さんは、数年前に脊髄損傷によって下半身不随になり、特別養護老人ホームと自宅を行き来する生活を続けれていたようです。しかし、2021年11月に体調を崩して入院し、12月30日に容体が急変し、同31日の朝に81歳で亡くなられています。死因は「のう肺」と発表されています。