横山ノックさんは芸人ながら大阪府知事や議員を歴任した政治家ですが、刺された噂や逮捕事件も話題です。
今回は横山ノックさんの若い頃の経歴、結婚した嫁や息子と娘、逮捕騒動、死因や上岡龍太郎さんの弔辞や名言など現在を紹介します。
この記事の目次
横山ノックはお笑い芸人の経歴を持つ政治家
横山ノックのプロフィール
出典:https://killy.biz/
横山 ノック(よこやま のっく)
本名: 山田勇
生年月日: 1932年1月30日
没年月日: 2007年5月3日(享年 75歳)
出身地: 兵庫県神戸市生田区相生町
血液型: O型
横山ノックさんは、お笑い芸人や司会者として活動後、政治家に転身し、参議院議員と大阪府知事を歴任した異色の経歴の持ち主です。
2007年に死去しましたが、令和になった現在もその波乱万丈な人生や、相方である上岡龍太郎さんの名言まで、様々なエピソードが語り継がれています。
横山ノックの若い頃① 横山ノックになるまでのこと
出典:https://www.amazon.co.jp/
今の若い方は、生前の横山ノックさんをご存知ない方も多いかもしれません。
まずは、人を惹きつけて止まない若い頃の横山ノックさんの経歴を振り返ってみましょう。
学歴は?
出典:https://hoikushi-syusyoku.com/
横山ノックさんは北海道で生まれましたが、父親が船員だったので仕事の都合で幼少期に神戸へ引っ越しをしました。
最終学歴は、神戸市立楠高等小学校卒業となります。
当時の学校教育は、明治維新後から第二次世界大戦勃発時あたりまでの古い制度で、高等小学校は、現在の中学校1年~2年生に相当し、学習内容も中学卒業レベルだったようです。
そして、義務教育は高等小学校卒業と定義されていましたので、横山ノックさんの学歴は、今であれば中学校卒業と同等でしょう。
多様化が認められている現在でも、中卒で国会議員になるケースは珍しいですが、当時でもかなり稀有だったようです。
高等小学校を卒業すると、米軍施設で勤務していた横山ノックさんは、同僚からは本名の勇(いさむ)をもじって「サミー」と呼ばれていました。
秋田Oスケ・Kスケを結成
出典:http://km-jimusho.com/
秋田Oスケ・Kスケ時代の横山ノック(左)
1955年、23歳で宝塚新芸座に入団した横山ノックさん。
師匠は「秋田Aスケ・Bスケ」の2代目Bスケさんで、程なくして兄弟子のOスケさんとお笑いコンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。
1958年に松竹芸能に移籍するも、相方の秋田Oスケさんとのコンビを解散し、大宝芸能に移った横山ノックさんは、「三田久」の名義でピン芸人として活動をスタートしました。
ちなみに、元相方の秋田Oスケさんは、後に嫁が不倫の末に相手の男性と心中しています。これにショックを受けた秋田Oスケさんもその後、自殺して壮絶な最期を遂げています。
横山ノック・アウトを結成
出典:http://km-jimusho.com/
横山ノック・アウト時代
しばらくは「秋田Oスケ」のまま活動していましたが、横山アウトさんとコンビを組んだことをきっかけに、芸名を「横山ノック」に改名。この時のコンビ名が「横山ノック・アウト」です。
ただ、コンビで活動していた期間は短く、2年ほどで解散。横山ノック・アウトの解散理由は明かされていません。
なお、コンビ解散後の横山アウトさんはしばらく吉本新喜劇に所属し、「センニチコメディ」に出演するなど、俳優として順調なキャリアを積んでいました。
その後、「コマ新喜劇」が閉鎖されると、芸能界から引退したことが判明しています。
横山ノックの若い頃② 漫画トリオでブレイク
出典:https://rubese.net/
漫画トリオで活躍時の横山ノック(中央)
横山ノックさんが本格的にお笑い芸人としてブレイクしたのは、1960年代に入ってから結成した「漫画トリオ」での活動がきっかけです。
当時のお笑いの枠にはまらない斬新な芸風は、お笑い界を牽引する存在として一躍注目の的に。
この漫画トリオのメンバーは、後年テレビで活躍するコメディアンになる青芝フックさん、そして芸人としての幕引きがあっぱれと称えられた上岡龍太郎さんです。
青芝フックのプロフィール
出典:https://www.sanspo.com/
青芝 フック(あおしば ふっく)
本名: 小島斌
生年月日: 1938年3月12日
出身地: 大阪府大阪市
所属事務所: 和光プロダクション
青芝フックさんといえば丸い眼鏡にちょび髭という、昔ながらのコメディアンのような風貌が特徴。
学生時代に「マルクス兄弟」や「チャップリン」といった、元祖コメディの映画を観てお笑い芸人になりたいと思ったのだとか。
1963年に横山ノックさんに誘われて、「横山フック」として加入。漫画トリオが解散した後は、「青芝フック・赤井タンク」のコンビを結成しています。
芸名を横山フックから青芝フックに変えた際には、周囲から、東芝とか青空などからかわれたこともあったと明かしています。
1966年にコンビ解散以降は、タレントとして現在も活動中です。次に紹介する上岡龍太郎さんは芸能界を引退しているので、漫画トリオで唯一芸能界で生き残っていることになります。
上岡龍太郎のプロフィール
出典:https://bunshun.jp/
上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう)
本名: 小林龍太郎
生年月日: 1942年3月20日
出身地: 京都府京都市左京区
血液型: AB型
身長: 165cm
上岡龍太郎さんは1960年に横山ノックさんに誘われて、「横山パンチ」名義で漫画トリオとして活動を開始しました。
1968年に漫画トリオが活動を停止すると、その後は「上岡龍太郎」へと芸名を変えてタレントに転身。
活動の場を関西に置き、近畿放送やラジオ大阪でレギュラーを持ち、バラエティ番組では「ラブアタック!」、「ノックは無用!」など関西の顔として幅広い人気を得ました。
上岡龍太郎さんといえば、立て板に水を流したと評される流暢な口調に、淡々と理路整然に毒舌を吐くトークが特徴。
1988年からは、「探偵ナイトスクープ」の初代MCとして番組の顔に。探偵ナイトスクープは、徐々に人気を博し、上岡龍太郎さんも東京でも名前が知られる全国区タレントへと成長。
以前から「2000年春になったら隠居する」と言い続け、周囲も視聴者もネタだと受け取っていたのですが、本当に2000年4月に芸能界を引退。
以降、1度もテレビにタレントとして出演した記録はありません。その幕引きの潔さは、令和になった現在も語り継がれています。
漫画トリオの斬新な芸風が注目を集める
出典:https://ameblo.jp/
漫画トリオの構成は、横山ノックさんがボケで、青芝フックさんと上岡龍太郎さんがツッコミという役割分担でした。
漫画トリオが結成されるまでの日本におけるトリオ漫才というのが「かしまし娘」、「フラワーショウ」、「宮川左近ショー」などを代表とする、楽器を使った音曲漫才が一般的でした。
横山ノックさんは、正統派のかけあい漫才をやりたいと考えて、メンバーの2人に対して厳しくツッコミのトレーニングを行ったそうです。
最も特徴的なのは、1つの文章を3人で分割してしゃべるので、誰も休む人がいないという芸風だったこと。
例えば、横山ノックさんが「今日、君の」と切り出すと、上岡龍太郎さんが「ところ行ったんだけど」、すると青芝フックさんが「家におらなんだ」と続けるんです。
これは、横山ノックさんが米軍施設で勤務し、上岡龍太郎さんがジャズ喫茶で働いた中で、テンポよくリズミカルに話を展開することを重視した結果、生まれた芸風でした。
ネタの中に、洋楽や米軍式の行進曲もふんだんに取り入れるなど、新たな時代を感じさせる漫才は、戦後の好景気を迎えようとしている日本人に大いに受け入れられたのです。
お決まりのネタとは?
出典:https://www.sanspo.com/
3人で試行錯誤するうちに、漫画トリオの鉄板となるネタが出来上がっていきました。
まず上岡龍太郎さんが左手を、青芝フックさんが右手を斜め上に挙げた状態を作り、3人で「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン。今週のハイライト!」と合唱して漫才に入ります。
ハイライトとは、横山ノックさんが当時吸っていたタバコの銘柄からきているのだとか。漫才の台本は、主に横山ノックさんが作っていました。
漫才に時事ネタを存分に入れるために、世界中のニュースを研究していた横山ノックさんでしたが、結果として、政治への興味がどんどん高まっていくことになるのです。
横山ノックが結婚した嫁は一般女性
出典:https://zexy.net/
横山ノックさんは、若い頃に結婚しています。
嫁はどんな女性なのか、子供は何人いるのかが気になりますよね。
ここからは、横山ノックさんの結婚について見ていきましょう。
嫁との結婚は1958年頃
横山ノックさんが結婚したのは1958年頃で、まだお笑い芸人としてブレイクする前でした。当時の年齢は26歳です。
気になる結婚相手の女性は一般人のようで、嫁の名前や顔写真、生年月日といった個人を特定できるような情報は公開されていません。
横山ノックには息子と娘がいる
子供は息子と娘が1人ずつ
出典:https://www.huffingtonpost.jp/
横山ノックさんと嫁との間には2人の子供に恵まれました。息子と娘が1人ずついるようですが、2人とも一般人で詳しいプロフィールは非公開です。
ただし、息子は「山田一貴」さんという名前であることが判明しています。
これは、横山ノックさんの訃報が出た際、「長男の山田一貴さんと親戚一同で各社にファックスが送られた」という記事が出たことで知られるようになりました。
娘はおおよそ1960年頃に誕生しているようですが、具体的な誕生日は分かっていません。
仮に1960年生まれであれば、2021年現在の年齢は61歳ということになりますね。
横山ノックと政治① 参議院議員に当選するも芸人活動は継続
出典:http://tarennt.seesaa.net/
横山ノックさんは、漫画トリオとしての活動が順調であったにも関わらず、突如1968年の参議院議員選挙に出馬し政界デビューを果たしました。
ここからは、政治家と芸能界を両立させた横山ノックさんの実績や、当時のタレント政治家の先駆けと言われた政界デビューついても紹介します。
議員同期が豪華!
出典:https://mainichi.jp/
東京都知事を務めた石原慎太郎と青島幸雄
1968年の参議院選挙に無所属で立候補した横山ノックさん。地盤も人脈も無い中、見事に当選を果たしました。
実はこの年、横山ノックさんのほかにも、タレントや作家などが政界へと進出した年でもありました。
例えば、自民党から立候補した作家の石原慎太郎さんは300万票を超える集票力で堂々のトップ当選を果たし、運輸大臣を務めた後に東京都知事を務めました。
ちなみに、長男の石原伸晃さんは衆議院議員として10期当選を果たし、国土交通大臣や環境大臣を務める2世議員として活動。なお、2021年の衆議院議員選挙で落選しています。
その他には、放送作家兼タレントの青島幸夫さんも初出馬で2位当選し、後年第13代目の東京都知事に就任しました。
お笑い芸人と政治家の両立
出典:https://news.1242.com/
現在であれば、タレントが議員に当選した場合はタレント業を休業して政治活動に専念することが暗黙の了解です。
しかし、当時の日本ではタレント業を続けながら議員として活動することも容認されていました。
そのため、横山ノックさんは漫画トリオを解散後もピン芸人としての芸能活動は継続。
冠番組「ノックは無用!」で司会を務め、1976年には「ガンバレ!たこやきちゃん」でレコードデビューするという器用さを見せたのです。
議員としても全国区の参議院選挙に2回、大阪府選挙区で2回当選。その人気を存分に生かし、政治の広報活動を担当しました。
横山ノックと政治② 大阪府知事に就任
タレント知事の先駆けだった
出典:https://dot.asahi.com/
横山ノックさんは、1995年に参議院議員を辞職後、大阪府都知事選挙に出馬して当選しました。
ちなみに、この年に行われた東京都の都知事に就任したのは青島幸雄さんで、「タレント知事ブーム」が起こっています。
その後、田中康夫さんが長野県知事、東国原英夫さんが宮崎県知事に当選しました。
横山ノックさんは、タレント知事ブームの先駆けと言える存在として知られています。
政治家としての能力は高かった
お笑い芸人が知事になったことで不安を持つ方もいましたが、そんな心配をよそに、横山ノックさんの施策は高い評価を受けます。
まず、改革の一環として大阪府の赤字解消に取り組んでいます。不良債権が膨れ上がっていた木津信用組合に対し、業務停止命令を発出するなど思い切った決断を素早く下しました。
そしてAPEC首脳会議を成功に導き、1999年の2期目の選挙では235万票という当時の記録を塗り替える獲得投票で再選しています。
横山ノックと政治③ 逮捕されて失職
出典:https://www.amazon.co.jp/
大阪府民から圧倒的な信頼を勝ち取った横山ノックさんは、学歴のハンディを乗り越えて首長として成功していたかに見えました。
しかし、再選直後にある事件が発覚し、辞任及び逮捕という転落劇が待っていたのです。
ここからは、横山ノックさんが逮捕された経緯について紹介します。
セクハラで女性から告訴された
出典:https://itbengo-pro.com/
事件が起きたのは、大阪府の府知事選挙に2度目の出馬をし、選挙活動が行われていた1999年4月8日でした。
この日の夕刻、横山ノックさんは選挙カーの伴走ワゴンに乗り込みます。その車には、21歳の女性選挙スタッフが風邪を引いて、38度の熱を発して休んでいました。
横山ノックさんは、「毛布をかけてやる」と隣の席に座り、女性スタッフの下着に手を差し入れて1時間に渡り、女性の体を触りました。
口止めのつもりか、「ヴィトンのカバンとサイフを買ってやっといたからメシ食いにいこ。誰にも内緒やぞ」と脅したそうです。
選挙スタッフはショックを受けて、告訴に踏み切りました。
強制わいせつ罪で有罪に
出典:https://www.excite.co.jp/
このショッキングなニュースは、大阪府知事選挙が終わった後に大々的に報じられました。
横山ノックさんは「彼女の言ってることは場所も時間もみんな間違っとるよ」と、訴えた女性スタッフを虚偽の疑いで逆告訴。
しかし選挙スタッフの女性は怯むことなく、81人の大弁護団の応援を受けて、民事訴訟を起こし、結果的に横山ノックさんは敗訴。女性へのわいせつ罪の事実を認めて謝罪しています。
その後の2000年8月の裁判では、強制わいせつ罪により1年6か月の懲役、執行猶予3年の有罪判決が下されました。
横山ノックさんは控訴しませんでした。
これにより、知事を失職しただけではなく、退職金の受給資格もはく奪され、将来の叙勲や栄典の可能性も全てを失い、芸能界も追放状態となりました。
上岡龍太郎のコメントがスクープに!
出典:http://mybouzu.info/
ノック横山さんのわいせつ事件が発覚し、メディアが上を下への大騒ぎを繰り広げる中、各紙の記者は、元漫画トリオの上岡龍太郎さんにもコメントを求めるために、取材を強行しました。
上岡龍太郎さんは、デイリースポーツに突撃取材を受けると「府知事に立候補しようかな」とギャグで返したのですが、記者たちに本気にされてしまい、まさかのスクープに。
このスクープを受けて他紙も取材を試みると、またしてもギャグで市長選への出馬を匂わすコメントをした上岡龍太郎さん。
さすがに2度も本気にしないだろうと思いきや、再びスクープに。府知事なのか大阪市長なのかと、大混乱の様相を呈しました。
これを知った上岡龍太郎さんは、また他紙の記者が取材に来たので「まずはマンションの自治会長から」と最後までギャグを放っています。
わいせつ事件の取材で訪れた記者たちにアドリブのギャグで対応とは、飄々とした上岡龍太郎さんのキャラが際立っていますね。
横山ノックの逮捕後の活動
出典:https://middle-edge.jp/
日本中が注目した裁判が終わり、2003年の夏で執行猶予期間が過ぎました。
その後の横山ノックさんは、芸能界に復帰することを考えていたようです。ここからは、横山ノックさんの逮捕後の仕事について紹介します。
復帰は容易ではなかった
執行猶予を無事に終えたことで、テレビに出演することは理論的には可能になりました。
芸能界復帰を試みた横山ノックさんは、2003年10月にKBS京都「とっぴもナイト」にゲストとして出演することで、芸能界への復帰が決まりました。
しかし、視聴者からの批判やメディアのバッシングが激しく、放送を見送らざるを得なくなったのです。
その後、立川談志さんの独演会への出演を打診されたそうですが、影響を考えて横山ノックさんは断わっています。
結局、執行猶予が明けてから1年以上経った2004年11月に、ワッハ上方で漫才を披露するイベントに出演してようやく復帰が叶いました。
仕事は一向にオファーが来ず、やっとテレビに出演したのが2006年2月のバラエティ専門チャンネル「ぜんタネ」、ラジオ関西の番組に出演と、細々と出演していたようです。
同年9月に舞台「彦八まつり」に出演したのを最後に、横山ノックさんは表舞台から姿を消します。それは、横山ノックさんが2007年5月に死去したからでした。
横山ノックの死因は中咽頭がん
出典:https://ameblo.jp/
横山ノックさんが死去したのは、2007年5月3日のこと。ようやく芸能界に復帰できる目途が付き、小さな仕事を少しずつ始めていた頃でした。
気になるのが死因ですね。ここからは、横山ノックさんの死因について紹介します。
死因は中咽頭がん
出典:https://www.hokuto7.or.jp/
2007年2月に中咽頭がんを患っていることが判明。横山やすしさんをはじめとした弟子達には病名を明かしていたそうです。
本人は最後まで復帰へ意欲を見せていたものの、2007年5月3日に兵庫県西宮市の病院で死去しています。享年75歳でした。
当時の大阪府知事、太田房江さんは「知事在任中には行財政改革の推進などに力を尽くされ、府政の十年にわたる改革の礎をつくられた」とコメントし、横山ノックさんの功績を称えました。
大阪府は遺族へ退職金返納を迫った
出典:https://www.amazon.co.jp/
府知事は任期を終えると、その後の続投有無に関係なく退職金がもらえます。横山ノックさんは、1999年に2期目当選を果たした時点で退職金を受け取っていました。
しかし、生前のわいせつ事件による有罪判決で、大阪府はこの退職金の返納を求めていて、横山ノックさんは完済することないまま死去したため、遺族にも返還請求をしています。
実際に返納したのかは分かっていませんが、死後もなお、横山ノックさんは騒動を巻き起こしました。
横山ノックの葬儀での伝説の弔辞とは
出典:http://www5.nikkansports.com/
横山ノックさんの葬儀が取り行われた際に、上岡龍太郎さんが読み上げた弔辞が「名物弔辞」と称賛されています。
どういった理由で「名物弔辞」だと言われるようになったのでしょうか。その内容を紹介します。
気持ちを揺さぶる内容だった
上岡龍太郎さんは、マイクの前に立つとメモの類を一切開かず、「ノックさん、あなたは僕の太陽でした」という切り口上から始まりました。
そこから先は、まさに立て板に水という表現がピッタリなほど流暢に、そして参列者の情に訴えかけるような、横山ノックさんへの思いを語ります。
「想い出の数々が、まるで宝石のようにキラキラと胸一杯に詰まっています」とのくだりでは、相方としてお笑いの一時代を築いた横山ノックさんとの輝かしい思い出が表現されています。
また一方で、涙を誘うだけではありませんでした。「漫才師から参議院議員、大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん」とも述べ、会場が笑いに包まれることもありました。
そして、「相方や車や住まいや肩書はコロコロと変えたけど、奥さんだけは生涯変えなかったノックさん」という、嫁思いの一面を称えて参列者の気持ちを惹きつけました。
4分に渡り、スラスラと何も見ずに語られた弔辞でしたが、「どんな時でも…必ず…僕の…味方をしてくれたノックさん…」と、溢れる涙を堪えながら言葉が途切れがちになる場面も。
気持ちを揺さぶる見事な話しぶりに、「芸能界を離れて長い年月が経過しているとは思えない」と、絶賛コメントが多数寄せられました。
横山ノックは刺されたことがある?噂と真相
出典:https://publicdomainq.net/
横山ノックさんについて検索すると、サジェストキーワードに「刺された」という物騒なワードが散見されます。
過去の経歴で、こういった事件を起こしたり、逆に刺された傷害事件を調査しましたが、該当するような情報は見当たりませんでした。
ちなみに、横山ノックさんの弟子である横山やすしさんの息子・木村一八さんは、タクシーの運転手に対して傷害事件を起こしたことがあります。
もしかしたら、木村一八さんの事件を見聞きした人が、横山ノックさんが刺されたと誤解をしたのかもしれません。
横山ノック亡き後の現在① 後輩から愛され続けている
出典:https://page.auctions.yahoo.co.jp/
横山ノックさんが死去してから14年が経過し、当時と比べると芸能界も大きく変わりました。
しかし、現在も横山ノックさんの飾らない性格は愛され続けています。
著名人が語った、横山ノックさんの思い出を紹介します。
笑福亭鶴瓶の思い出
出典:https://post.tv-asahi.co.jp/
笑福亭鶴瓶さんは、横山ノックさんが参議院議員になって、「先生」と呼ばれる身の上に変わっても、少しも偉ぶることなく後輩に接してくれたことを語っています。
生前の横山ノックさんは、ボケ担当だったので後輩から鋭いツッコミを受けたり、時には頭をはたかれたりということも多々ありました。
芸歴から見ても政治家という立場から見ても、普通なら恐れ多い行為ですが、「この人の頭はたいたら面白いだろうな」と考えてはたいたころ、横山ノックさんはとても良い笑顔だったそう。
感激した笑福亭鶴瓶さんは「だから愛されるのだ」と実感したのだとか。
こうした経験から、自身も「俺のことを面白いと思ってくれている人からのイジリなら何をされても大丈夫」と、横山ノックさんの姿勢を継いでいることも明かしています。
横山ノック亡き後の現在② 上岡龍太郎の名言に脚光
出典:https://bunshun.jp/
横山ノックさんの葬儀での見事な弔辞が、世の中から脚光を浴びた上岡龍太郎さんでしたが、上岡龍太郎さんの名言も再び注目を集めています。
現役時代に放った、上岡龍太郎さんの名言を見ていきましょう。
闇営業の予言が名言すぎる
出典:https://tabitabi30.com/
上岡龍太郎さんは、1989年に出演した深夜番組「パペポTV」において芸人と反社会勢力の癒着を懸念していました。
そして「芸人っていうのは社会のはみ出し者。いわば暴力団と一緒。芸人と暴力団が癒着したらいけないと言うのは嘘。根が一緒だから癒着も何も元々同じタイプの人間」と語りました。
つまり、パーティーなどで偶然近づくきっかけがあったから癒着が生まれたのではなく、根底にある性分が似通っているので、闇営業も起こりやすくなるという指摘です。
上岡龍太郎さんのこの発言から年月が経過した2019年、宮迫博之さんや入江慎也さんなど吉本興業の闇営業が発覚。
ツイッターでは「名言すぎる」、「30年以上前に闇営業を予言する力がスゴイ」と感心するコメントが多数寄せられました。
思わずハッとする名言
苦しい時は登っている時。自分が凄いと慢心した時は、下っている時。
この言葉は、タレントで名司会として知られている中山秀征さんへ上岡龍太郎さんが送った名言です。
芸能界でどんどん仕事が入るようになると、安心して、さらに慢心してしまうのが世の常。
自身の能力を過信してしまうと、気が付いた時には引き返せない場所に落ちてしまうという戒めの言葉として、「中山秀征さんは今でも心に刻んでいるそうです。
中山秀征さんが芸能界で長い期間に渡って第一線で活躍できている裏には、こういった姿勢が評価されているのかもしれませんね。
もしかしたら、横山ノックさんの浮き沈みの激しかった人生から教訓を得た言葉だった可能性もありますね。
まとめ
出典:https://ageteke.jp/
横山ノックさんは、お笑いユニット「漫画トリオ」のリーダー兼台本作成担当者として、1960年代のお笑いを牽引したお笑い芸人です。
当時の義務教育を終えると、米軍施設での勤務を経てお笑い芸人となりました。
「秋田Oスケ・Kスケ」でコンビ活動をした後、しばらくピン芸人で活動してから「漫画トリオ」を結成。
斬新なネタが受けて「漫画トリオ」はブレイクを果たしました。
そんな人気絶頂の中、1968年に参議院選挙に出馬し、政界入り。3期参議院議員を務めた後に、1995年には大阪府知事へと転身しています。
その後の2期目当選直後に、強制わいせつ罪で告訴された横山ノックさんは、一時は容疑を否認するも、事実を認めて有罪判決を受けて失職。
執行猶予が明けてからはお笑い芸人として再スタートを切りたいと考えていたものの、2007年2月に中咽頭がんが見つかり、3か月後の5月3日に死去しています。
葬儀の際には、「漫画トリオ」のメンバーだった上岡龍太郎さんが葬儀で弔辞を読み上げ、素晴らしい内容に絶賛の嵐に。令和になった現在も名言とともに注目を集めています。
そんな横山ノックさんが死去して、2021年現在で14年の年月が流れていますが、今でも後輩から愛され続けているようです。
どんな時も決して偉ぶらず、お笑い界を盛り上げた横山ノックさんの御冥福をお祈りします。