初の車椅子国会議員&大臣になった八代英太さんは、転落事故によって下半身不随になりました。
今回は八代英太さんのプロフィールや経歴、家族(結婚した嫁や子供)、息子が八代英輝という噂、転落事故とその後、現在をまとめました。
この記事の目次
八代英太は車椅子の大臣
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八代英太
本名:前島英三郎
生年月日:1937年6月12日
出身:山梨県東八代郡八代町(現在の笛吹市)
学歴:山梨県立石和高校
所属:民主党
活動:タレント、政治家
八代英太さんは日本で初めて、国会に車椅子で登院した国会議員です。
元々は日本テレビ系「お昼のワイドショー」の司会などタレント・コメディアンとして活動していましたが、1973年に転落事故に遭い、下半身不随となって車椅子生活を余儀なくされます。
自分が車椅子の障害者になったことで、障害者には高い障壁(バリア)あることを感じた八代英太さんは、参議院議員に立候補し、政治家の道を歩みだします。
そして、小渕内閣・森内閣で第65代・第66代の郵政大臣を務めました。
八代英太の経歴
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八代英太さんは、山梨県の農家の三男として誕生します。県立石和高校を卒業後、ラジオ山梨に入社し、ラジオアナウンサーとして活動を始めます。
そして1963年、25歳の時にラジオ山梨を退職して上京し、タレント活動を開始しました。
この時、本名の前島英三郎から、故郷の「八代郡八代町」から取って「八代秀樹」という芸名に改名しています。
上京後は森繁久彌さんなどのモノマネで人気となり、日本テレビ系の「お昼のワイドショー」に中山千夏さんと共に加入し、青島幸雄さんと3人で番組を盛り上げました。
1973年6月3日、愛知県刈谷市で転落事故に遭ったことで下半身不随になり、車椅子生活に。
しかし懸命のリハビリを経て、翌年の4月には「お昼のワイドショー」に車椅子で復帰しました。
障害者「バリア」を感じて政治家に転身
八代英太さんはタレント活動を続けていく中で、障害者に対しての差別・障壁を感じ、1974年ごろから本格的に障害者活動を始めます。
そして、1977年7月に行われた参議院議員選挙に無所属で立候補し、84万票を獲得して当選しました。
それまで車椅子の国会議員は存在せず、国会には車椅子のための設備もありませんでした。
そのため、八代英太さんの当選を機に、階段には昇降機がつけられ、さらに和式ばかりだったトイレには車椅子用のトイレが作られるなど、国会もバリアフリー化への一歩を踏み出します。
八代英太さんはその後、自民党に移籍。1995年の参議院議員選挙では落選しましたが、翌年の衆議院議員選挙に出馬して見事当選しました。
1999年には第二次小渕内閣で郵政大臣に抜擢され、2000年の森内閣でも郵政大臣に再任しました。
しかし、2005年の小泉政権下での郵政民政化に反対した八代英太さんは、自民党の公認を得られず、政界引退を打診される事態に。
そのため、自民党を離党して無所属で出馬するものの落選します。さらに、新党だいちや民主党から立候補するも落選しています。
自民党の公認を得られなくなって以降は落選続きでしたが、国政では合計で28年間も活躍しました。
八代英太の結婚した嫁や子供など家族情報 【息子は八代英輝?】
八代英太さんの家族の情報を調べていきましょう。
嫁とはお見合い結婚
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八代英太さんは、上京してタレントとして少しずつ売れ出したタレント時代の1966年に結婚しています。
前々から父親に「最初に苦労している時から伴侶を持っていなければ、お前みたいのはだめだ」と言われていたことを思い出し、急いでお見合いをして結婚したそうです。
時代的な背景もあったとは思いますが、芸能人がお見合い結婚というのは珍しいですね。
結婚した奥様は八代さんが転落事故に遭った時も献身的に介護を続け、八代さんがもう歩けないことが分かった時には、「私が主人の足になります」と発言しています。
子供は3人
奥様とお見合い結婚をした八代英太さんは、3人の子どもに恵まれました。男の子が2人、女の子が1人です。
ちなみに、国際弁護士で「ひるおび!」に出演している八代英輝さんは、八代英太さんの息子ではありません。
名前が一字違いですし、年齢的には親子でもおかしくない年齢差ではありますが、国際弁護士の八代英輝さんの父親は元通産省の官僚です。
そもそも、「八代英太」という名前はあくまでも芸名であり、本名は「前島英三郎」ですので、八代英太さんと八代英輝さんは親子ではないんです。
娘は秘書&本を出版
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八代英太さんの娘は前島由希さんです。
由希さんが4歳の時に八代英太さんは転落事故に遭い、車椅子生活になっています。
子供の頃から国内外の障害者と接する機会があった由紀さんは、障害者の国際会議に参加したことでさらに障害者を身近に感じ、バリアフリーの社会のあり方を考えるようになりました。
旅行会社勤務や外務省派遣員、フリーの通訳などを経て、父親の八代英太さんの私設秘書を務めることになります。
そして、2000年には父親と家族の絆を描いた「お父さんの車椅子―父・八代英太と家族の絆」を出版しました。
兄は山梨県会議員
八代英太さんは農家の三男として生まれました。八代英太さんの7つ上の兄・前島茂松さんは、山梨県の県会議員や自民党山梨県連会長代行を務めました。
兄弟で政治家だったというわけですね。
八代英太は転落事故で脊髄損傷している
せりから転落
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「お昼のワイドショー」の司会に抜擢されるなど人気タレントとなった八代英太さんを、不幸が襲います。
1973年6月3日、愛知県刈谷市の市民会館で行われる畠山みどりさんの歌謡ショーに特別ゲストとして招かれました。
畠山みどりさんが衣装をチェンジする間、20分間ほど漫談やモノマネを依頼されていました。
事故当日、八代英太さんが予定通り舞台に上がった時、舞台中央のせりが下がっていました。このせりに乗って、畠山みどりさんは舞台へ登場する予定だったんです。
せりが下がっていることを知らなかった八代英太さんは、石原裕次郎のモノマネをするために2~3歩下がったところ、せりに真っ逆さまに落ちてしまいました。
せりの高さは4.7mもありました。
八代英太さんが落ちた時、お客さんは演出だと思っていたようで、拍手がしばらく鳴りやまなかったそうです。しかし、既にその時には八代英太さんは意識はありませんでした。
車椅子生活になる
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八代英太さんが意識を取り戻したのは、転落事故から50時間後のことでした。
何とか一命はとりとめたものの、第12胸椎の脱臼・骨折による脊髄損傷を起こしていました。これにより、八代英太さんは下半身不随になっています。
しかし、転落事故直後の八代さんは、ケガは必ず治ると信じていました。
実は、主治医は八代さんの妻や家族には一生車椅子になることを告げていましたが、八代さん本人には告げなかったのです。
マスコミの記事をきっかけに、自分がもう一生車椅子で歩ける見込みはないことを知った八代さんでしたが、落ち込む暇もなく、気持ちを切り替えました。本人曰く「諦めが早い」そう。
そこからは、早く復帰するために必死にリハビリに取り組みます。
医師からは復帰までは1~2年かかると言われていたのに、事故から2ヶ月後の8月には転院し、それから4ヶ月後の12月には退院するまでに回復しました。
そして、事故から10ヶ月後の1974年4月には、「お昼のワイドショー」の司会に復帰しています。
八代英太は転落事故後に裁判を起こす
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八代英太さんは、転落事故に遭った2年後、以下の3者を相手取って裁判を起こします。
・刈谷市
・子安興行社(イベント会社)
事故から2年後に裁判を起こした理由は、相手から誠意ある対応をしてもらえなかったためです。
刈谷市民会館の事務局担当者は、八代英太さんが舞台に出演している時にせりを下げるのは危険だと指摘していました。
しかし、畠山みどりさんは十分な打ち合わせもしていないのに、「八代さんはプロだから大丈夫」とその指摘を無視していました。
八代さんがせりを使うことを知ったのは、当日に市民会館に着いてからだったそうです。
また、打ち合わせでは八代さんの出番の後半でせりが下がるはずだったのに、最初から下がっていました。
つまり、八代さんはセリが下がっていることを知らされないまま事故に遭い、下半身不随になってしまったのです。
これらについての損害賠償を求めた裁判でした。損害賠償請求額は1億4720万円でした。
裁判は長期化し、1985年10月、3者が7380万円を八代さんに支払う判決が出たものの、被告側が控訴。ようやく裁判が決着したのは1988年になってからでした。
判決は次の通りです。
・畠山みどりさん:2500万円
・子安興行社:500万円
事故から15年経っての決着でした。
八代英太の現在
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八代英太さんは現在、事実上政界を引退しています。
現在は福祉のアドバイザーをしたり、NPO法人アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)顧問として、東南アジアの障害者のスポーツ振興に関わるなど、精力的に活動しています。
2018年には、81歳でラオスに行き支援活動も行っています。
80歳を超えた現在でも、積極的に障害者福祉支援の活動を行っています。
八代英太のまとめ
八代英太さんのプロフィールや経歴、家族(結婚した嫁・息子や娘など子供)、転落事故とその後、現在の活動をまとめました。
八代英太さんが国会初の車椅子議員になったことで、日本のバリアフリー・福祉は大きく一歩前進したことは間違いありません。
車椅子の障害者でも国会議員になることができる。これは、障害者たちに大きな勇気を与えたことでしょう。