長身で端整なルックスと演技力で多くの人を魅力した昭和の名優・田宮二郎さんですが、自殺の真相や遺書が話題です。
今回は田宮二郎さんの芸能界での活躍、嫁や子供、山本陽子さんとの関係や自殺の真相、遺書をまとめてみました。
この記事の目次
田宮二郎のプロフィール
生年月日:1935年8月25日
出身地:京都府京都市
身長:180cm
職業:俳優・司会者
田宮二郎さんは、大阪府大阪市北区に生まれています。
生後4日で住友財閥で大番頭をしていた父親を亡くします。そして、戦後まもなく母親とも死別し、幼少から高校時代まで京都にて親族に育てられます。
京都府立鴨沂高等学校を経て、学習院大学政経学部経済学科を卒業します。
空手は初段で、英語が堪能です。
外交官を志望していましたが、大学在学中に1955年のスポーツニッポン社主催ミスターニッポンコンテストで優勝したことから、大映演技研究所10期生として入社しています。
田宮二郎の芸能界での活動① 映画俳優として大成功
1956年、ファッション雑誌「男子専科」の専属モデルに応募して見事合格しています。それ以後数年間は、俳優業を兼ねて活動しています。
1957年、本名の「柴田吾郎」でデビューしますが、2年後には大映社長の永田雅一氏の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名しています。その後しばらくは端役として活躍していました。
1961年「女の勲章」の演技で注目を集め、同年秋に勝新太郎さんと共演した「悪名」で、勝さんの相棒・モートルの貞役に抜擢され、田宮二郎さんは人気スターの仲間入りを果たします。
モートルの貞役は、シリーズの中で死亡するのですが、田宮二郎さんはシリーズ3作目から貞の弟「清次」を演じることとなり、再び「勝-田宮」コンビとして復活しました。
この「悪名」シリーズは今なお愛されている人気作品で、田宮二郎さんも演技が評価され、1961年にエランドール新人賞を受賞しています。
1966年には「白い巨塔」で財前五郎役を演じ注目を集め、「昭和のクールガイ」と呼ばれて大人気となりました。
そして、白シリーズと呼ばれる一連のドラマで、田宮二郎さんのクールでスマートな魅力は見る者を虜にし、俳優としての絶頂期を迎えます。
また、音楽活動も行っており、シングルレコードをたくさん発表しています。
田宮二郎の芸能界での活動② 事務所を解雇~お茶の間の人気者へ
出典:http://birthday.worksb.biz/
1968年 映画「不信のとき」の宣伝ポスターの原案を見た田宮二郎さんは、主役の自分の名前が4番手扱いになっていたことに激怒しました。
そのため、田宮さんは撮影所長や副社長の永田秀雅氏に抗議しますが、「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され、却下されてしまいます。
それに対抗するためか、田宮さんは右翼の許斐氏利氏を伴って永田雅一氏に詰め寄ったそう。
それにより、刷り直したポスターには田宮二郎さんの希望通りになったようですが、これをきっかけに田宮さんは契約を解除され解雇されることになってしまいました。
映画俳優としての道が閉ざされた田宮さんは、家族を養うため、舞台俳優・司会者・歌手として活動し、ナイトクラブやキャバレーなどの地方巡業もしていたそうです。
そんな中、1969年にクイズ番組「クイズタイムショック」の初代司会を務め、映画で見せる顔とは違う、明るくてテンポよく喋るキャラクターで人気を集めました。
同年、東京12チャンネルの音楽番組「田宮二郎ショー」の司会も務めています。
その後、大映との契約が満了となった田宮さんは、東映プロデューサーの俊藤浩滋氏から誘われ千葉真一さん主演の映画「日本暗殺秘録」に出演し、映画界へカムバックしています。
田宮二郎の芸能界での活動③ 人気テレビ俳優~自殺まで
1971年、田宮二郎さんは夫人を社長にして、個人プロダクション「田宮企画」を立ち上げます。「3000キロの罠」を製作し主演を演じるも、ヒットとはなりませんでした。
しかし、テレビドラマへ本格進出して、次々に主役のドラマが大ヒットし、田宮二郎さんは俳優としての地位を不動のものとしました。
そんな時期、田宮二郎さんはビジネスに強い興味を持ち始めたようです。政財界とも接触するようになり、ゴルフ場やマンションの経営を行っていたそうですが、全て失敗しています。
役者としては天下一品だったものの、経営者としての手腕は無かったことがうかがえますね。
そして、それまで家族に声を荒げることのなかった田宮さんでしたが、これ以降は些細なことで激高するようになっていました。
数々の事業の失敗により、多額の借金を抱えてしまった田宮二郎さんは、さらに大映時代の過労により結核が再発してしまいます。
さらに、次第に精神を病んでいったとのことで、「ずっと自殺を考えている」とほのめかすことも度々あったようです。
精神科医から「躁鬱病」と診断されたものの、田宮二郎さんは病気を認めず、治療の薬を拒否していたそうです。
躁状態の時の田宮さんはあれだけ熱心だったドラマへの関心が薄れていき、いかがわしいビジネスに熱中していたんだとか。そしてうつ状態の時には、泣き崩れてばかりいたそうです。
そして1978年12月28日、猟銃自殺により亡くなってしまいました。田宮さんはクレー射撃を趣味としており、愛用の銃が自殺に使用されたと言われています。
お昼近くに付き人に「お腹が空いた」と言った言葉が最後だったようで、お弁当を買って帰宅した付き人が、変わり果てた田宮二郎さんを発見しています。享年43歳でした。
この日は、14時から日本テレビ(関東ローカル)で田宮さんが出演した映画「花と龍・第一部」が放送されており、放送中に田宮さん自殺のニュース速報が流れ、多くの人に衝撃が走りました。
田宮二郎の嫁・藤由紀子とは
田宮さんは1965年、「黒の爆走」「黒の超特急」などで共演していた藤由紀子さんと結婚しています。
女優として活躍していた藤由紀子さんは、1961年に松竹に入社しました。エレガントな美貌で注目されていましたが、後に松竹を退社しています。
フリーとなった藤由紀子さんは、テレビドラマ「人間の条件」などに出演します。その後、1962年12月に再デビューする形で大映に入社しています。
大映でも、美しい大型新人として注目を集めていたようです。
サスペンス「黒シリーズ」では全11作中6本に出演し、主演の田宮二郎さんと息の合ったコンビネーションで人気を集めました。
大映映画には欠かせない女優となっていた藤由紀子さんですが、1965年5月に同じ大映の田宮さんと結婚し、映画界を去りました。
田宮さん亡き後は、「子供を育て上げることが田宮二郎の遺志であり、自分の喜びでもある」(柴田光太郎さんHPより)と、女手一つで2人の子供たちを育て上げています。
田宮二郎の息子① 長男・柴田光太郎
田宮さんの長男である柴田光太郎さんは、テレビレポーター・俳優・司会者として活躍しています。「柴ちん」という愛称で親しまれています。
勤めていた教職を3年で辞め、フランスに語学留学した経験を持ち、フランスに留学中にレポーターとしてテレビデビューしました。硬派ジャーナリストとして期待を集めました。
その後は、父である田宮さんと同じ俳優業に進出し、テレビ・舞台で活躍を続けています。
2002年3月に福祉関係の仕事をしている女性と結婚し、1男2女に恵まれました。
2007年4月には、広尾学園高等学校にて再び教鞭を執るようになった柴田光太郎さんは、芸能活動も完全に引退はしていません。
教職に支障のない範囲に限定し、現在も芸能活動を続行しています。
田宮二郎の息子② 次男・田宮五郎
田宮さんの次男である田宮五郎さんは、数々のテレビ番組やドラマ・映画に出演し、俳優として活躍していました。
芸名の姓は父親である田宮二郎さんの芸名から、名は田宮さんの本名「吾郎」に因んで付けられたそうです。
幼少時から俳優を志していたそうで、父である田宮さんからの「俳優になるなら人間を知ってから」との遺言を守っていたといいます。
大学在学中から日本語教師や住み込みの新聞配達・料理人・大工・造園業・司法書士事務・記者など、60種類以上に及ぶ職業を経験したそうです。
2006年に芸能界入りし、同年7月にNHK土曜ドラマ「人生はフルコース」でデビューを果たしました。
目の表情や、ゆっくりした話し方などが、父親の田宮二郎さんを思わせると話題になりました。また、ルックスも父親譲りで、186cmという長身と美しい顔立ちで人気を集めました。
28歳の時に中尾彬さんの姪と結婚していますが、約8年後に離婚しています。元妻との間には、1女を授かっています。
デビュー前からの知り合いだったという浅野ゆう子さんと、2007年から交際していました。
俳優業が順調かと思われた、そんな2012年4月、田宮五郎さんはくも膜下出血で倒れます。そして、2014年11月6日未明、病気療養の末に急死しています。享年47歳でした。
浅野ゆう子さんに看取られながら亡くなられたそうです。
田宮二郎の自殺の真相① 山本陽子との不倫関係
田宮さんと噂のあった山本陽子さんとは、どのような関係だったのでしょうか。
山本陽子のプロフィール
「黒革の手帖」などで知られる女優の山本陽子さんは、1960年代後半から80年代にかけて昭和を代表する美人女優として活躍しました。
高校卒業後は「野村證券」に就職し、2年以上事務員として働いていたそうです。その同僚が内緒で「日活ニューフェイス」に山本さんの応募書類を送ったところ、見事合格しました。
それがきっかけとなり、1963年に「第7期日活ニューフェイス」として芸能界入りします。全盛期だった日活に入社した山本陽子さんですが、人気はいまひとつでした。
しかしその後、テレビドラマに進出してからは急激に人気がアップしていきます。
清潔感あふれる美女役を多く演じており、「高視聴率女優」と呼ばれるまでになります。
初めは和服の似合う美女役が多く、お嫁さんにしたい女優として人気でした。やがて、影がある女性や芯の強い女性、稀代の悪女まで見事な演技で人々を魅了するようになります。
そんな山本陽子さん自身は男勝りな性格で、ポルシェを乗りこなすスピード狂と言われています。お酒も飲むし、自宅で麻雀卓を囲むなど豪快さがうかがえます。
趣味は、日本画制作・ゴルフ・麻雀・骨董品収集・韓国ドラマ鑑賞・車の運転と、非常に多趣味で豊かな感性を感じさせますよね。
2010年には、山本海苔のイメージキャラクターとして42年間務めたことが、ギネス記録に認定されました。長期間イメージキャラクターを務めた山本さんの安定した人気には驚きですね。
また、山本陽子さんは舞台でも活躍しており、1994年「おはん」の演技が高評価を得て「第19回菊田一夫演劇賞」を受賞しています。(上演回数は400回以上に昇ります。)
2人は不倫関係だった?
田宮二郎さんと山本陽子さんは、「白いシリーズ」の第1作目である、1973年のドラマ「白い影」で共演しています。当時、山本陽子さんが31歳、田宮二郎さんが38歳でした。
主演が田宮二郎さんで、ヒロインを山本陽子さんが演じており、田宮さん演じる直江庸介と恋に落ちる看護師役を山本さんが演じました。
続く「白い滑走路」でも、2人は共演しています。
共演をきっかけにかどうかは不明ですが、山本陽子さんは若い頃、田宮二郎さんと不倫関係だったと言われています。
そんな噂が立ったきっかけは、南麻布にある田宮二郎さん名義の高級マンションに山本陽子さんが住んでいたことが発覚したからです。
田宮さん自身は元女優の藤由紀子さんと結婚し子供もいましたが、山本さんとの不倫にはまっていったようです。
なんと、山本陽子さんと田宮夫人がその関係をめぐり直接対決したこともありましたが、田宮二郎さん自身は、夫人のことをとても大切にしていたようで、離婚には至らなかったようです。
その後、田宮さんの私生活は荒れ始めます。会社ゴロから「金を払わないと山本陽子との不倫関係をマスコミに漏らす」など、たびたび脅迫電話がかかってくるようになったそうです。
田宮二郎さんと山本陽子さんの関係は、すでにそういったいかがわしい人たちのゆすりのネタにされるくらい、芸能界に通じている人たちの間では知られていた事実だったのかもしれません。
田宮二郎さんの死後、自殺の原因の1つとして、「愛人トラブル」が当然持ち上がりました。
しかし、田宮さん亡き後の会見で語った山本さんは、不倫関係を否定しています。
そのため、田宮二郎さんと山本陽子さんがどれくらいの間交際していたのかなど、その真相は現在も謎のままとなっています。
ただ、マンションの件や田宮夫人との直接対決エピソード、田宮二郎さんが脅されていた事実からすると、2人が不倫していたのは極めて可能性が高いように思われます。
山本陽子さんは、自己保身もあったかもしれませんが、遺された田宮夫人や2人の息子さんのことを思い、公表しなかったのかもしれませんね。
ちなみに、山本陽子さんは東京出身でずっと東京に住んでいましたが、現在は熱海に住まいを構えているそうです。
そして、山本陽子さん自身は一度も結婚せず、独身を貫いています。現在も美貌を保ち、女優として活躍しています。
田宮二郎の自殺の真相② 病気
田宮二郎さんの自殺原因については、様々な憶測が飛び交いましたが、患っていた躁鬱病が大きな原因だったと伝えられています。
現在では鬱病は広く知られるようになりましたが、当時は鬱病に関する認識が薄く、周囲はもちろん本人にも理解されにくく、対処しづらかったとも考えられます。
また近年、長男の光太郎さんは自殺前の田宮二郎さんについて、次のように語っています。
「実際は大学時代の先輩に海外の漁業権とか、石油の採掘権話にのってお金を取られていったのです。元気で海外に出かけ、口も利かずに帰ってくる。そのころから躁鬱病になっていきました」
遺作となった「白い巨塔」では、撮影も危ぶまれるほどのひどい症状だったと言われています。
事業失敗や借金、そして脅迫電話など、色々なことが重なって田宮さんにのしかかり、躁鬱病を悪化させてしまったのでしょう。
田宮二郎の自殺の真相③ 他殺説
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田宮二郎さんの死には、実は他殺説も存在しています。
他殺説の根拠となっているのは、田宮二郎さんの遺体の第1発見者である付き人の証言です。
田宮二郎さんは、自殺の際、散弾銃の引き金を足の指で引いたとされていますが、付き人によると、田宮二郎さんの手元には銃はなかったはずだと語っています。
実際、田宮さんは「銃は妻に取り上げられてどこにあるか分からない」と言っていたこともあり、自宅に置いてあった銃のケースにも中身が入っている形跡は無かったと言われています。
また、下着から普段着、そして衣装までクローゼットの中を全て管理していた付き人が、田宮さんの死後、クローゼットの中から見たことのない散弾が入った箱を見つけたそうです。
さらに、歳月が過ぎた今でも、次のように当時の状況を語っています。
「いまも田宮さんが自殺したとは思っていません。理由の1つは、田宮さんに自殺の兆候などまったく見られなかったこと。いろいろ取沙汰されていますが、私が見る限り、田宮さんが自殺するほど深く悩んでいる様子はありませんでした。それは当日も同様です」
ちなみに、付き人は、田宮夫人から付き人宛ての遺書だという手紙を手渡されています。
ごく普通の便箋に「僕のセーターで気に入ったものがあったら、持っていって使ってください。」と書かれていたそうです。
しかし、日付や田宮さんのサインもなく本人の筆跡かどうかも分からない、と言われています。
ただし、この他殺説は後に遺族が否定していますので、信憑性は低いと言えるでしょう。
田宮二郎さんの遺書を遺族が公開し話題に
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自殺をしたとされる田宮二郎さんの遺書について見てみましょう。
田宮さんの衝撃の死後、寝室の隣の書籍から遺書が見つかっています。そのこともあり、警察は自殺と断定しました。
遺書は8通あったとされており、妻・息子達・2児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・奈良岡朋子さん・鬼沢慶一さんへ宛られていたそうです。
遺書に記された本当の内容
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田宮二郎さんが亡くなって35年経ち、夫人が遺書の内容を明かしています。
遺書に記されていたのは、マスコミが騒いでいたような他殺説の真相ではなく、妻や子供たちに対する深い愛情と、先に逝く自分をひたすら詫びる内容であったということです。
遺書は以下のような書き出しで始まっています。
「富士山の光が目の前一杯に拡がってゆきます。生まれて初めて、胸が躍った僕の心を幸子は察してくれたのだろう。いくつかの難問をのり越えて、2人は神前に夫婦の絆を誓い合った。今も僕は倖せ一杯だ」
ちなみに、「幸子」とは、藤由紀子さんの本名です。そして次のように続きます。
「僕は結婚以来、がむしゃらに働いた。経済的に誰にも不安を与えたくなかったから。本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに、それを知りながら、働くことしか生き甲斐を知らない人間になって行った」
と、遺書に胸の内を明かした田宮さんに切なさを覚えます。
特に、妻への遺書には感謝の言葉が綴られており、生きることの苦しみと死への恐怖も書かれていました。また、「病気で倒れたと思って諦めて欲しい」と書かれていたそうです。
また、田宮さんは生前、 次男の田宮五郎さんへ「俳優になるなら人間を知ってから」と、当時から俳優を志していた彼に言い遺していました。
その言葉を心にしっかりと留め、多くの職業を経験し見事俳優として活躍していた次男の五郎さんでしたが、前述の通り、父親同様40代という働き盛りで亡くなっています。
天国で、俳優談義に花を咲かせているかもしれませんね。
自殺場所となった田宮さんの自宅は、後に解体されています。現在その跡地には、妻の藤由紀子さんがオーナー経営する外国人向け賃貸住宅になっています。
まとめ
現在でも根強い人気の田宮二郎さんについて紹介しました。
人気絶頂だった田宮さんの死は、多くの人に衝撃をもたらしました。
そのルックスや人柄は、たくさんの作品の中で生きており、田宮二郎さんにしか出せない魅力で今も多くの人を魅了しています。
時代が変わっても、その作品は愛され続けることでしょう。ぜひ、日本人離れしたクールでスマートな魅力を作品で感じてみて下さいね。