「カマキリ夫人」や「伊東家の食卓」で知られる五月みどりさんですが、認知症の噂も話題です。
今回は五月みどりさんの家族(妹や弟)、若い頃の結婚歴と離婚歴、旦那4人や子供(娘と息子)、湯河原の自宅や熱海の店、現在を紹介します。
この記事の目次
- 五月みどりのプロフィール:伊東家の食卓の”お母さん”で知られる女優
- 五月みどりの家族① 父親と母親
- 五月みどりの家族② 妹・小松みどりのプロフィール
- 五月みどりの家族③ 弟・西城正明のプロフィール
- 五月みどりの若い頃の経歴① 1958年に歌手デビューするも売れなかった
- 五月みどりの若い頃の経歴② 「おひまなら来てね」が大ヒット
- 五月みどりの若い頃の経歴③ ポルノ映画「かまきり夫人の告白」で主演
- 五月みどりの若い頃の経歴④ クイズダービーの初代レギュラー
- 五月みどりの若い頃の経歴⑤ ドラマや映画で女優として活躍
- 五月みどりの若い頃の経歴⑥ 2020年頃までマルチな才能を発揮し続けた
- 五月みどりの若い頃の経歴⑦ 「伊東家の食卓」でお母さんとして出演
- 五月みどりの1回目の結婚&離婚① 旦那は芸能プロダクション社長
- 五月みどりの1回目の結婚&離婚② 西川幸男のプロフィール
- 五月みどりの2回目の結婚&離婚① 旦那はテレビディレクター・面高昌義
- 五月みどりの2回目の結婚&離婚② 面高昌義のプロフィール
- 五月みどりの3回目の結婚&離婚① 旦那は20歳年下の歌手・立花淳一
- 五月みどりの3回目の結婚&離婚② 立花淳一のプロフィール
- 五月みどりは現在結婚はしていない:マネージャー兼事務所社長と事実婚
- 五月みどりの子供は2人
- 五月みどりの娘は元歌手・丸山千恵さん
- 五月みどりの息子・西川哲のプロフィール
- 五月みどりの自宅:神奈川県の湯河原で暮らしている
- 五月みどりは湯河原・熱海・代官山でギフトショップも経営している
- 五月みどりの現在① 新型コロナウイルスを機に芸能界と距離を置く
- 五月みどりの現在② 「伊東家の食卓」に出なかった理由は認知症?
- まとめ
五月みどりのプロフィール:伊東家の食卓の”お母さん”で知られる女優
生年月日:1939年10月21日
出身地:東京都
所属事務所:ノーリーズン
五月みどりさんの本名は「大野フサ子」で、歌手や役者、タレント、画家としても活躍しました。
また、かつて世に様々なブームを巻き起こした、日本テレビ系列の大人気情報バラエティ番組「伊東家の食卓」に”お母さん”として出演していたことでも有名です。
歌手としての代表曲には1961年の「おひまなら来てね」、役者としての代表作には1975年公開の主演ポルノ映画「五月みどりのかまきり夫人の告白」が挙げられます。
五月みどりの家族① 父親と母親
五月みどりさんは8人兄弟の長女として誕生し、4人の弟と3人の妹がいます。
父親は精肉店を経営していましたが、終戦を機に仲間と芝居小屋を立ち上げ、役者としても活動していました。
五月みどりさんも6歳の頃から日本舞踊を始め、8歳で初舞台を踏んだといいます。
父親は芝居にうるさく、”セリフが入っていなければ学校に行かせてもらえない”といった世間一般の親とは真逆の対応だったそうです。
実家は下町の精肉店。父親は大の芸事好きの厳しい人で、「学業よりもまず芸」という少女時代を過ごしたという。学校に行く前の芝居や歌の稽古が日課で、台詞を覚えないと学校にも行かせてもらえなかったほど。商売人の父は、自分の叶えられなかった夢を彼女に託したのだった。
引用:五月みどりさん
五月 父はもともと俳優になりたくて、歌舞伎座へ入ったらしいんです。だけど結局、下足番しかやれなかったんですって。だから芝居が好きな仲間の6人ぐらいで一座を組んだわけです。私は6歳から踊りを習わされていました。
一方の母親は芝居小屋のことなど知らず、お客さんから「旦那さん、夜はきれいな女形ですごいですね」と言われ、初めて芝居をしていることを知ったのだとか。
芸事が大嫌いだった母親は父親と別れたいと思っていたものの、生活面の問題から我慢していたといいます。
五月みどりの家族② 妹・小松みどりのプロフィール
生年月日:1949年9月5日
出身地:東京都
所属事務所:小松企画
五月みどりさんの妹・小松みどりさんは歌手ですが、役者・経営者でもありました。
姉・五月みどりさんが芸能界でブレイクしたのちに、1967年に「ポチャポチャ小唄」で歌手としてデビュー。
役者としてドラマ・舞台などにも出演し、1985年には五月みどりさんにならうかのように、日活ロマンポルノ作品「小松みどりの好きぼくろ」で主演を務め、世間の注目を集めました。
また、東京・赤坂で会員制高級クラブ「小松みどりの部屋」を36年間経営していましたが、2011年に閉店。
2012年にデビュー45周年を迎え、記念として新曲「ゆきずり」を発売しました。
五月みどりの家族③ 弟・西城正明のプロフィール
生年月日:1945年10月29日
出身地:東京都
所属:不明
五月みどりさんの弟・西城正明さんは、元プロボウラーで、プロボウラーになる前は歌手として活動していたそうです。
1971年、25歳の時に「日本プロボウリング協会」の8期生としてプロ入り。通算獲得賞金については、男子プロトーナメントにおいて歴代2位となる131,793,000円を得ています。
年上女子プロボウラー・須田開代子さんと結婚し、長男が誕生するも離婚。
1977年には「第11回全日本プロボウリング選手権大会」で優勝し、初となる全日本タイトルを獲得しました。
さらに、1996年にアメリカで開催された「PBA Senior Invitational」で優勝。日本人初の快挙を成し遂げています。
2009年に神奈川県横浜市に家庭料理店「おひまなら来てネ」をオープンするものの、不整脈を発症したことから閉店を余儀なくされ、借金を抱えることに。
翌年には社団法人日本プロボウリング協会に退会届を提出し、プロライセンスを返上しています。
五月みどりの若い頃の経歴① 1958年に歌手デビューするも売れなかった
五月みどりさんは8歳で初舞台を踏んでいますが、歌うことも好きで、ラジオの「のど自慢大会」にも出場していたといいます。
その時は結果こそ振るいませんでしたが、1956年にニッポン放送で放送された「ものまねのどじまん」で優勝。
同番組で審査員を務めていた作曲家・宮城秀雄さんにスカウトされ、師事します。
そして同年、若干16歳でキャバレーで歌手として初舞台を踏むやいなや”天才少女”と大きな話題を呼び、芸名を「五月みどり」と改めました。
しかし、1958年に「お座敷ロック」でレコードデビューを果たすもなかなか売れず、実に3年ほどの下積み期間があったという五月みどりさん。
15歳の頃からは舞台で歌っていましたが、レコード歌手としてデビューするのは並大抵ではなかったです。数々のオーディションにノミネートされるものの、最終結果は決まって2位。プロ歌手になれるのが非常に狭き門の時代、父の夢を叶えて歌手デビューが出来たのは19歳の頃でした。芸事を一番に考える父でしたが、デビュー以来仕事には一切口出しはしませんでした
引用:五月みどりさん
そんなある日、会社の廊下で作曲家・遠藤実さんから「君に合いそうな曲ができた」と聞かされた曲にビビッときて思わず「私に歌わせてください」とその場で伝えたのだとか。
それが、1961年に発売されたレコード「おひまなら来てね」でした。
デビュー4年目の頃、まだ無名だった私が事務所の廊下でお会いした遠藤先生に、土下座さながらにお願いし頂いた曲が『おひまなら来てね』なんです。遠藤先生が車窓からフランス映画のタイトル『今晩おひま』という看板を目にし、あの曲が閃いたと言います。この曲はB面にもかかわらず大阪から火がつき大ヒット。実感もないままにスターになっていた感じでしたね
引用:五月みどりさん
五月みどりの若い頃の経歴② 「おひまなら来てね」が大ヒット
五月みどりさんが「おひまなら来てね」で披露した”ちりめんビブラート“、そして当時の歌手には珍しかった愛らしいルックスがさらに話題を呼び、同曲は大ヒット。
翌年放送の「NHK紅白歌合戦」に初出場も果たしています。
ちりめんビブラートとは、振動幅が細かいビブラートのこと。
ゆったりしたビブラートがつけにくい場合だけでなく、
曲や歌の「疾走感」や「浮遊感」、「妖しさ・淫靡さ」を押し出したい時に、
敢えて使う人が多いという印象があります。
その後も、3回連続で紅白出場を果たした五月みどりさん。
さらに当時のテレビ番組として史上最高となる”視聴率81.4%”というとてつもない数字をたたき出し、1964年の回では歌唱中に”瞬間最高視聴率85.3%“も記録しました。
五月みどりの若い頃の経歴③ ポルノ映画「かまきり夫人の告白」で主演
五月みどりさんは1965年に結婚したことを機に芸能界を一時引退しますが、1971年に離婚したことをきっかけに芸能界へと復帰しました。
復帰の理由は芸能界への未練ではなく、「別れたから働かなくちゃいけなくなったんです」と語っています。
芸能界復帰後は歌手としてではなく、タレント・役者を中心に活動し、特に、1975年に主演を務めたポルノ映画「五月みどりのかまきり夫人の告白」は世間から大きな注目を集めました。
ロマン・ポルノ的な展開で魅了するエロティック作品。和製「エマニエル夫人」の趣も。夫の浮気が発覚してから次々に男たちと交歓を結び、次々と彼らの人生を破滅させていく魔性の女を、五月みどりが実名のヒロインで大胆にして奔放に演じている。隣の家の主人との行為の後、彼は家を売って愛人宅を買ったが、“かまきり夫人“はつれなく彼のもとを去っていく。さらに4人の男たちが次々と彼女との情事に溺れ……。
以降も、4本ものポルノ作品で次々と主演を務め、40歳を過ぎても活躍。
紅白出場歌手である五月みどりさんがポルノ映画に出演したことは世間に大きな衝撃を与えましたが、年齢についても当時の価値観においては革新的だったのだとか。
ヌード=若い女性という概念を打ち壊した、いわゆる“熟女”ジャンルのパイオニア的存在だったと言えるでしょう。
ちなみに五月みどりさんがポルノ映画に出演したきっかけは、金銭面や「話題を呼びたい」といった打算的なものではなく、「オファーをもらって面白そうだと思ったから」とのこと。
1983年公開のポルノ映画「ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き」ではタイトルも考案したといいます。
「83年の日活ロマンポルノ、『ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き』のタイトルは私が考えたんです。企画会議で口にしたら大ウケしちゃって。でも、エロチックな映画はこの年までにしました。女優としての仕事の幅を広げたいと思うようになったんです」
父親の反応こそ心配だったものの、当の父親は五月みどりさんのヌードポスターを自宅に飾っていたほど応援していたようです。
「セクシー熟女の代表といっていただけるのは本当に光栄です。世の男性が私に、お色気ムンムンというイメージを持つことには抵抗なかったですね。映画やレコードなどいろんなお仕事ができて楽しかった。やる以上は、一生懸命に男性の期待にお応えしようとがんばりました」
また、当時はラブホテルの経営にも乗り出しており、両親にも手伝ってもらっていたといいます。
一度、千駄ヶ谷の連れ込みホテルに入った時、部屋も布団もすごく汚らしかったんですね。良い思い出を作る場所なのに、悲しくなった。じゃあ、私がホテルを作ってみようと。大阪のラブホテル街にも行って研究しましたよ。『紅白』に出場した時の衣装を切って、布団の生地に使いました。もう着ないだろうと思ったから(笑い)
五月みどりの若い頃の経歴④ クイズダービーの初代レギュラー
五月みどりさんは歌手・役者として活躍しただけではなく、タレントとしてもブレイク。
1976年に放送が始まったTBS系列のクイズ番組「クイズダービー」の初代レギュラーとして出演。
レギュラー卒業後もゲスト回答者として何度も登場していました。
五月みどりの若い頃の経歴⑤ ドラマや映画で女優として活躍
出典:https://www.amazon.co.jp/
五月みどりさんは、1984年に放送された日本テレビ系列のドラマ「昨日、悲別で」で見せた演技が好評を呼び、”お色気”から”演技派”へと一転。
以降、脱ぐような役柄は演じておらず、1995年放送の大河ドラマ「代将軍吉宗」にも出演しています。
さらに2時間ドラマを中心に活躍し、映画でも1987年公開の「男はつらいよ 寅次郎物語」、1990年公開の「釣りバカ日誌3」などに出演しました。
五月みどりの若い頃の経歴⑥ 2020年頃までマルチな才能を発揮し続けた
五月みどりさんは画家としても活動しており、1989年に開催された「二科展」に入選。過去には個展も開催しています。
「二科展」は「公益社団法人 二科会」「一般社団法人 二科会デザイン部」「一般社団法人 二科会写真部」によって毎年開催されている公募展です。
現在は、絵画部・彫刻部・デザイン部・写真部の4部門で開催され、芸能人などもしばしば入選することで話題になることもあります。
引用:作品ギャラリー
また、ミツカンのCM「追いがつおつゆ」では、当時長男の嫁だった役者・菊池桃子さんと共演。”嫁姑共演”が話題となりました。
その後も着物のデザイン・ティッシュボックスの製作などクリエイティブな活動を続けつつ、芸能界でも第一線で活躍し続けます。
五月みどりの若い頃の経歴⑦ 「伊東家の食卓」でお母さんとして出演
五月みどりさんが、1997年に放送をスタートした日本テレビ系列の情報バラエティ番組「伊東家の食卓」に”お母さん”として出演していたことは有名です。
同番組をきっかけに、五月みどりさんの全盛期を知らない若い層からも認知度を高めました。
97年に放送開始した同番組は、伊東四朗(86)の冠番組で、日々の生活に役立つ裏わざ情報を紹介する情報番組だ。最高視聴率28.8%を記録し、紹介された情報をまとめた書籍は大ベストセラーになるなど、“伝説のバラエティ番組”として、復活を求める声が少なくなかった。
しかし、2020年に新型コロナウィルスが猛威を振るい始めたことを機に、芸能活動を自粛されています。
五月みどりの1回目の結婚&離婚① 旦那は芸能プロダクション社長
生年月日:1925年7月15日
出身地:千葉県
所属:新栄プロダクション
五月みどりさんはこれまでに3度の結婚と離婚、そして4度目の事実婚をされています。
しかし、どの旦那とも「恋愛はしていない」と衝撃の発言も飛び出し話題になりました。
最初の旦那は当時、芸能事務所「新栄プロダクション」の社長だった西川幸男さん。五月みどりさんの14歳年上で、のちに同事務所の会長となりました。
五月 彼とも恋愛から始まったわけではなくて。村田英雄さんたちと一緒に飛行機に乗っていた時、機体がものすごく揺れたんです。私が怖くてワンワン泣いていたら、後ろの座席にいた西川さんが「大丈夫だから。そんなに心配しないで」って慰めてくれたんです。そのことが私の中にすごく残って。でも御飯を食べたことすらないわけ。
「私は違う事務所でしたし、顔見知り程度の間柄でした。複数の歌手の方と地方興行に行った時、旅館の部屋に呼ばれたんです。部屋の障子を開けると、いきなり頭を下げて『結婚してくれ』って……。お父さんにすごく反対されました。でも、ずっと敷かれたレールを歩いてきたから、言いなりになりたくない自分がいたんですね」
子供は一男一女に恵まれるも、1971年に離婚。
西川幸男さんが五月みどりさんとは再婚で、前妻との間に息子がいたこと、価値観の違い、五月みどりさんが”社長夫人”という肩書に耐えられなくなったことなどが離婚理由だそうです。
また、歳の差夫婦だったこともあってか、西川幸男さんは五月みどりさんにとても厳しく、次第にDVにまで発展したとのこと。
離婚も親権を手放すことを条件とされ、「子供が恋しくて夜も眠れず、家の近くまで行って泣いていた」と語っています。
五月みどりの1回目の結婚&離婚② 西川幸男のプロフィール
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西川幸男さんは1945年、20歳の時に浪曲の興行会社「西川興行社」を創業。演歌歌手・村田英雄さんや浪曲家の木村力衛さん・玉川次郎さんらを育てました。
その後、同社を前身として現在の「新栄プロダクション」を設立。演歌歌手・北島三郎さんや細川たかしさんなどといったそうそうたる面々のマネージメントを担いました。
1985年に社長の座を息子へと譲り、会長に就任。
2012年に死去しており、死因は間質性肺炎とのこと。享年87歳でした。
五月みどりの2回目の結婚&離婚① 旦那はテレビディレクター・面高昌義
生年月日:1940年1月2日
出身地:東京都
所属:日本テレビ→モンド
五月みどりさんは離婚から5年後の1976年、当時日本テレビのディレクターだった面高昌義さんと再婚。
きっかけは1970年代に放送されていた日本テレビ系列のバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」に五月みどりさんがレギュラー出演したことだそう。
同番組で面高昌義さんはディレクターを務めていました。
お互いが何度となく浮気を告白しているという変わった形の夫婦で、1984年に離婚した際も離婚会見で5度もキスをかわしていたといいます。
そんな2人の離婚理由はお金でした。なんと、面高昌義さんが五月みどりさんの財産を無断で使い込み、アメリカに所有していた自宅も手放すことになったのだとか。
お金以外は円満だったとはいえ、勝手に財産を無断で使われたにもかかわらず、離婚会見でキス…というのは一般人には理解しがたいものがありますね。
五月みどりの2回目の結婚&離婚② 面高昌義のプロフィール
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面高昌義さんは早稲田大学を卒業し、1963年に日本テレビへと入社。バラエティ番組を中心にディレクターとして活躍し、1980年に同社退社しています。
退社後は渡米し、フリーのディレクター&レポータとして活動。帰国後もテレビ制作に携わり、テレビ番組制作会社「モンド」代表取締役社長に就任しています。
- また、五月みどりさんと離婚後に古巣である日本テレビのプロデューサー・面高直子さんと再婚。
2006年に死去しており、死因は胸腹部大動脈瘤破裂とのこと。享年65歳でした。
五月みどりの3回目の結婚&離婚① 旦那は20歳年下の歌手・立花淳一
生年月日:1959年(月日不明)
出身地:不明
所属事務所:ホリデージャパン
五月 そうですね。純粋な、けがれのない男の子だと思った。だけど女性が大好きで、手帳にみっちり女性の連絡先が書いてあったり、家の中に女性を入れてみたり‥‥。それをうちの娘が見ているんですね。
テリー えっ?
五月 娘が帰った時、ちょうど女性がいたんですって。
五月みどりの3回目の結婚&離婚② 立花淳一のプロフィール
出典:https://www.amazon.co.jp/
五月みどりは現在結婚はしていない:マネージャー兼事務所社長と事実婚
マネージャーとタレントの交際は、タブーとされている点を指摘すると、 「彼と付き合い出したのは2年半前の離婚直後なの。さすがに事務所からは半年くらい友達でいなさい、と言われましたけど。ウフフ」 と、恥ずかしそうに笑った。その仕草のキュートさに、取材した記者も一瞬で彼女の魅力に引き込まれたという。
テリー その離婚会見の時にいてくれたのが、今の事実婚のご主人ということですか。
五月 そう。当時、私のマネージャーになったばっかりだったんです。記者会見が終わって、ホテルに帰ってきた時に「私、ほんとに誰もいなくなっちゃったわ」と漏らしたら、「僕がいます」と。それはマネージャーとしての言葉だったらしいんですけど(笑)。
事実婚状態で20年近く連れ添った2人ですが、2020年前後に別れたと報じるメディアもあるようです。
五月みどりの子供は2人
五月みどりさんには、最初の旦那で芸能事務所「新栄プロダクション」の社長だった西川幸男さんとの間に2人の子供、長女・丸山千恵さん、長男・西川哲さんが誕生しています。
離婚の条件が親権を手放すことだったため、2人は父親である西川幸男さんの元で育てられます。
その後、五月みどりさんが子供たちとどれぐらいの頻度で面会していたかは不明ですが、千絵さんとは16歳の時から同居できるようになったそうです。
五月みどりの娘は元歌手・丸山千恵さん
五月みどりさんの長女・丸山千恵さんは「水沢絵里」名義で歌手として活動していました。
母子は姉妹のように仲が良く、2019年に放送されたテレビ朝日系列のトーク番組「徹子の部屋」で共演も果たしています。
五月は現在80歳で、今年2月にはひ孫が誕生。千愛さんの初孫になるが、2人の若々しい姿からは想像がつかない…。いつでも明るく優雅な五月だが、そのイメージとは異なり、離婚・再婚を繰り返し、2人の子どもを手放すなど波乱の人生だった。母親恋しさのあまり同居を希望したのは娘の千愛さんが16歳の時で、今では姉妹のように仲が良い。スタジオでは、最近2人で始めたぬり絵や、娘や孫がモデルの油絵も紹介する。
ちなみに、五月みどりさんが役者として”お色気”から”演技派”へと転向するきっかけとなった作品が、1984年に日本テレビ系列で放送されたドラマ「昨日、悲別で」。
この作品に出演するきっかけとなったのも「徹子の部屋」なのだとか。
当時「徹子の部屋」で語った子供たちと離れ離れになった時のエピソードを聞いて、ドラマの脚本を担当していた倉本聰さんが、「主人公の母親役に」とオファーしたといいます。
五月みどりの息子・西川哲のプロフィール
生年月日:1968年5月2日
出身地:東京都
所属:フィールズ株式会社
五月みどりさんの息子・西川哲さんはプロゴルファーです。
12歳からゴルフをはじめ、高校卒業後にゴルフ場の研修をしつつ1年でプロテストに合格。
1991年の「マルマンオープン」で初優勝を果たし、同年の「日本オープン」では3位タイに躍り出ました。
その後、1995年開催の「日経カップ 中村寅吉メモリアル」で自己ベストとなる72H最少スコア269(19アンダー)を記録。21,831,546円もの賞金を獲得しました。
1999年に153,225円と一時獲得賞金が落ち込むものの、2001年頃までは400万円~1300万円ほどの賞金を獲得しています。
しかし、2002年以降は予選を通過する回数が減少。2004年には獲得賞金244,000円、2005~2006年、2008年以降は予選が通過できずに獲得賞金は0円に。
そのため、プロゴルファー契約はしているものの、ツアープロゴルファーとしてはセミリタイア状態とされています。
その一方で、2006年頃からはティーチングプロとしても活動。
また、父親の代から続く競走馬繁殖&育成牧場を、異母兄弟である20歳年上の兄・山田太郎さんと継ぎ、競走馬ファンド販売会社「東京サラブレッドクラブ」の代表取締役に就任。
2009年には同社が現物出資した競走馬・レッドディザイアが秋華賞で優勝しています。
プライベートでは1995年に役者の菊池桃子さんと結婚。一男一女が誕生するも、2012年に離婚しました。
五月みどりの自宅:神奈川県の湯河原で暮らしている
五月みどりさんは1997年より前に自宅を神奈川県の湯河原へと移したそう。自宅には母屋とアトリエだけではなく、趣味の部屋などもあるといいます。
2017年に出演した「徹子の部屋」では、そんな自宅の様子も公開されていました。
五月さんが都心にあった自宅を湯河原に移して20年以上。番組出演の度に自宅からの絶景を写真で紹介してくれたが、今回はいよいよ自宅にカメラが潜入! きれいな映像を紹介する。母屋とアトリエ、趣味の部屋や広い庭、加えて愛犬・愛猫など。特に「我が家の自慢」という映像では黒柳もビックリたまげるエピソードが飛び出す!
五月みどりは湯河原・熱海・代官山でギフトショップも経営している
五月みどりさんはタレント業のかたわら、雑貨店「五月みどり 趣味のギフトショップ ヴィーナス」を経営してきました。
自宅近くの湯河原だけでなく、静岡県・熱海市に2店舗、代官山に1店舗と計4店舗を出店しています。
同店では、デコパージュ関連の商品や豪華なティッシュボックスが人気。HowTo本も出版されているようです。
とにかく私は、人を喜ばせる事が大好きなんです。喜んでくれるのなら…、という思いで、私しかやれないような企画も、楽しくこなしていますよ。代官山や熱海の『五月みどりの店・ビーナス』では、自分の目で見て素敵! と思ったギフト雑貨や洋服を安く紹介して、お客様に喜んでもらっています。そんなに安くていいの? なんて言われますが、経営というよりお客様の笑顔に出会えるのが何よりなんです
引用:五月みどり
2021年には大雨の影響で、熱海の2店舗の地下倉庫が浸水してしまうという被害もありました。
歌手で女優の五月みどり(81)は熱海市内で、趣味のギフトショップ「ヴィーナス」を経営している。「熱海店」と「熱海中央店」の2店舗があり、土石流が発生した伊豆山からは離れており影響はなかった。それでも大雨のため、ショップの地下の倉庫に雨水が流れ込んだ。五月の関係者は「それほどの水量ではないので大丈夫です。ただ雨はすごかった」と話した。
五月みどりの現在① 新型コロナウイルスを機に芸能界と距離を置く
五月みどりさんは、2010年代も歌手・役者・タレントとして精力的に活動。
歌手としては2017年に新曲「花満開」を発売し、役者としては2020年までテレビ朝日系列のドラマ「やすらぎの郷」シリーズに出演していました。
しかし、新型コロナウィルスが猛威を振るい始めた2020年頃より芸能活動を制限。
84歳と高齢であるほか、都内から少し離れた湯河原在住であることなども理由となっていそうです。
五月みどりの現在② 「伊東家の食卓」に出なかった理由は認知症?
五月みどりさんがかつて出演し人気を博していた、日本テレビ系列のバラエティ番組「伊東家の食卓」。
2023年の大晦日に同局で放送された特番「笑って年越し!THE笑(ワラ)晦日」内の目玉企画として一夜限りの復活が話題を集めましたが、五月みどりさんは出演しませんでした。
五月みどりさんが出演しない理由について、「重病なのか」「認知症なのでは」といった噂も飛び交いましたが、所属事務所は「普通に生活しています」と否定。
認知症の噂については、ドラマの撮影現場での台詞の覚え具合やバラエティ番組での受け答えの様子が根拠となっているようですが、実際は加齢によるところが大きいのかもしれません。
ただ、「年齢が年齢」とのことで、長時間におよぶ収録への心配や当日の体調などを考慮し、出演を辞退したといいます。
五月の所属事務所代表は取材に対し、出演を辞退したと説明。「年齢が年齢ですし、収録はそれなりに長時間になります。収録で迷惑をかけたり、収録当日に体調が悪くなってドタキャンになったりすると申し訳ないので、今回は…とお断りしました」番組側とは冒頭だけの短時間出演や電話出演も模索した上で、最終的に「プロデューサーさんと話して」見送った。心配される重病説には「普通に生活しています」と否定した。
『デイリー新潮』(’23年11月27日配信)によると、最近、五月が「認知症」や「施設に入っている」といった情報を流すメディアが現れたことで憶測情報が飛び交うことになったため、真相を問うべくマネージャーに取材。84歳と高齢ということもあり、実質引退状態だと語ったという。
また、芸能界引退も明確に否定しており、体調とオファーの内容次第によっては今後も引き受ける可能性があるそう。
歌手としても、生放送やライブは難しいものの収録なら…と述べています。
まとめ
五月みどりさんは歌手・役者・タレントとマルチに活躍し、2020年頃までは現役で活動されていましたが、近年は表舞台に登場せず、認知症ではないかとも噂されていました。
しかし、所属事務所によれば芸能界引退はしておらず、オファーの内容によっては今後も役者としても歌手としても仕事を引き受ける可能性があるとのことです。
紅白出場、ポルノ作品出演、3度の結婚と離婚、そして4度目の事実婚と波乱万丈な人生を送ってきた五月みどりさん。
ご高齢のためあまりお目にかかれないのが残念ですが、次なる出演に期待したいですね。