過激さが売りのパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」のMCとして長年活躍した三五十五さんは52歳の若さで死去しています。
この記事では、三五十五さんの経歴や結婚や離婚、2人の息子、病気公表から死去の経緯や死因などについてまとめました。
この記事の目次
三五十五(電撃ネットワーク)のプロフィール
三五十五のプロフィール
本名 :小林祐司(こばやし ゆうじ)
生年月日:1962年3月16日
没年月日:2015年3月3日(享年52歳)
出身地 :茨城県
血液型 :A型
三五十五(さんごじゅうご)さんは、メンバーが負傷するほどの過激な芸で知られ、国内外で人気の高いパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」で長年MC役を務められていた方です。
立て板に水のような絶妙な喋りの技術でステージを盛り上げ、電撃ネットワークのパフォーマンスに無くてはならない存在でした。
動物に造詣が深く、電撃ネットワークのステージで使用するサソリやスッポンなどを調達し、また、熱帯魚専門誌に連載をもつほど熱帯魚に詳しく、自ら熱帯魚を採取しにいくなど、熱帯魚マニアの間でもよく知られた存在でした。
その他にも、三五十五さんは、「P.T.A(パパとうちゃんおーるすたーず)」、「うんちはっけん!!」、「三五十五&エレファンツ」、「誰かのためなら生きられる」などのバンドでの音楽活動の他、八多太司さんとの漫才コンビ「御神酒徳利」でも活躍するなど、幅広い分野で活躍する才能に溢れた人物でした。
三五十五(電撃ネットワーク)の経歴
三五十五さんは、茨城県立松丘高等学校卒業後は芸人として活動し、ツッコミとして5組以上のコンビを結成したもののいずれも売れずに解散していました。
1990年に南部虎弾さん、ギュウゾウさん、ダンナ小柳さんらと超過激パフォーマンス集団「電撃ネットワーク」を結成しライブハウスなどを中心に活躍。同年には深夜番組オールナイトフジで電撃ネットワークとしてテレビデビューも果たしています。
1991年、「電撃ネットワーク」は、アメリカロサンゼルスの人気テレビ番組「ベスト・オブ・ザ・ワースト」に出演したのをきっかけに海外進出を果たし、「TOKYO SHOCK BOYS」の名前で海外で絶大な人気を獲得しました。
三五十五さんは電撃ネットワークでブレイクしてからは主にグループでの活動に力を入れていましたが、2002年からは熱帯魚専門雑誌「楽しい熱帯魚」のコラム記事の連載をスタートさせ、これは病気が発覚した2013年まで続いています。(病気が原因ではなく、楽しい熱帯魚休刊による連載終了)
また、その他にも三五十五さんは、2001年から2002年まで、「別冊ブブカ」で「三五十五の縦横無尽」、2003年から2007年までは、テレビゲーム情報誌「ファミ通」で「いまどきの子供」という連載を持つなど、コラムニストとしても活躍されていました。
2008年には、芸人の八多太司さんと漫才コンビ「御神酒徳」を結成するなど幅広く活躍されていました。
三五十五(電撃ネットワーク)は過去に結婚しているが離婚
出典:https://www.tv-ranking.com/
三五十五さんは、過去に結婚歴がありますが離婚されています。
三五十五さんの結婚や離婚の時期は不明なのですが、三五十五さんのオフィシャルブログの2011年12月更新の記事に以下の内容がありました。
もう三年以上も前になるだろうか?
離婚して何年も過ぎたある日。
週一で俺の所に泊まりに来ていた息子たち。
このブログの内容から三五十五さんが遅くとも2008年の時点から見て何年も前に離婚していた事が読み取れます。
また、三五十五さんには結婚していた嫁との間に子供が2人おり、2人とも息子さんである事がわかっています。
結婚の時期については、次男が2008年前後の時点で小学生だったという事と、2018年の時点で長男が20歳という事がわかっているので、三五十五さんが結婚したのは遅くとも1998年頃だと推測できそうです。
また、三五十五さんが52歳で亡くなった時に、この離婚した前妻が最期を看取っていた事も明かされています。
肺がんのため3日深夜に52歳で亡くなったパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」の三五十五さんの最期を、離婚した前妻が看取っていたことが5日までに分かった。
三五十五(電撃ネットワーク)には息子が2人
出典:https://contents.oricon.co.jp/
その後、2018年に三五十五さんを偲ぶライブ「電撃クレイジーナイト スペシャルライブ! 三五十五ゆかりの芸人達大集合」が都内で開催され、ゲストとして三五十五さんの息子(長男)の小林大志郎さん(上の画像)が登場していました。
三五十五さんの長男・小林大志郎(20)も登場。自身もインディーズバンドで歌手活動をしており、ステージでは堂々とした歌唱っぷりを披露した。メンバーたちから「ロックがダメになったら(電撃ネットワークに)来なよ」とラブコールを受けると、「ちょっと考えておきますね」と笑っていた。
また、結婚のところでも触れたように、三五十五さんには次男もいて、2008年頃は小学生だった事がわかっています。
三五十五(電撃ネットワーク)は52歳に病気で死去
電撃ネットワークの活躍を名MCとして、長年支えてきた三五十五さんでしたが、2015年3月3日に52歳という若さで死去しています。
三五十五さんの早すぎる死去に、ネット上でも多くの悲しみの声が上がりました。
電撃ネットワーク 三五十五さん死去、、、。
— もと@ヲタ活テンションMAX (@momomomokl) March 5, 2015
これは悲しいなあ、、、。
三五十五さん、亡くなるなんて・・・
— 月夜 (@tukiyo_zero) March 4, 2015
三五十五死去のニュースは地味にショック
— 大丘邦亮 (@housukeo) March 5, 2015
三五十五(電撃ネットワーク)の死因は肺がん
三五十五さんの死因は「肺がん」と発表されています。
電撃ネットワークの三五十五(さんご・じゅうご)さん(本名・小林祐司=こばやし・ゆうじ)が3日夜、肺がんのため死去した。52歳だった。一昨年7月に肺がんで余命1週間と宣告され、抗がん剤治療を受けていた。
三五十五さんの死因となった病気は正確には肺がんの1つである肺腺がんでした。
三五十五さんは2013年7月に体調不良を訴えて検査入院したところ肺がんと診断され、この時点で既に末期で全身に転移しており医師からは余命1週間と宣告されていました。
しかし、そこから三五十五さんは奇跡的な回復を見せ、病気発覚から約1年半にわたって闘病し、一時は車椅子で電撃ネットワークのステージに姿を見せるなどしていました。
しかし、死去の少し前から体調を崩し酸素吸入機をつけて家族以外面会謝絶の状態になっていたそうです。亡くなったのは2015年3月3日の23時頃で、病室で看病をしていた母親が息を引き取っている事に気がついたそうです。
苦しまずに静かに亡くなられたようで、亡くなってから約2時間後に対面した、電撃ネットワークのリーダの南部虎弾さんは「顔は穏やかで笑みを浮かべていた。今にも起きてきそうな感じで冗談なのかと思った。」と話されていました。
三五十五(電撃ネットワーク)は病気公表後も最期まで復帰を諦めていなかった
三五十五さんは、病気発覚の後、2013年7月24日に電撃ネットワークの公式サイトを通じて、ファンや関係者に向けて自身の病気を公表し、治療に専念するために当面休養に入る事を発表されていました。
パフォーマンス集団「電撃ネットワーク」のMC・三五十五(さんごじゅうご、51)が肺がんのため治療に専念、当面のスケジュールをキャンセルすることになった。24日、電撃ネットワークの公式サイトで発表された。
三五十五さんはこの病気発表時には、「必ず治して戻ってきます」と復帰に向けての強い気持ちも表明されていました。
この時、医師からは余命1週間という宣告を受けていた三五十五さんでしたが、奇跡的な回復を見せ、2014年12月21日に都内で開催された電撃ネットワークのステージに駆けつけ、車椅子姿でステージにも上がっています。
この時、三五十五さんはファンに向けて、「これまでにたくさんの激励やお見舞いを頂いた。なんとお礼をしたらいいかわからないが、必ず恩返しをします。」と感謝の気持ちと、復活への意思を示されていました。
三五十五さんは既にがんが脳に転移して、目もよく見えず、手足も痺れた状態だったそうですが、ステージ後の会見では「足だけでも良くなれば立ち上がれる。完全復帰できるように頑張ります。」と話されていました。
昨年12月21日、都内で上演された舞台「電撃クレージーナイト 忘年会ダァー!」に病院の許可を得て駆けつけ、ステージに上がった。車椅子姿で、脳にがんが転移したため、目は光を感じるだけで、手足はしびれたままだった。それでも会見で「足だけでもよくなれば立ち上がれる。完全復帰できるように頑張ります」と話していた。
まとめ
今回は「電撃ネットワーク」のMC役として長年活躍し、2015年3月に52歳という若さで死去した三五十五さんについてまとめてみました。
三五十五さんは、高校卒業後にお笑い芸人として活動し、5組以上のコンビを結成していますが芽が出ず、1990年に電撃ネットワークとしてデビューした事でブレイクを果たした経歴を持ちます。
三五十五さんは1990年代に結婚されていますが、その後離婚されています。前妻との間には息子が2人います。
三五十五さんは、2013年に病気を公表し闘病していましたが2015年に52歳で死去されています。死因は「肺がん」でした。