チューヤンさんは「進ぬ!電波少年」で相方と過酷なヒッチハイクをしたことで有名ですが、現在の年収がすごいと話題です。
今回はチューヤンさんのプロフィール、電波少年での相方や旅記録、帰国後の年収や結婚など現在を紹介します。
この記事の目次
チューヤンのプロフィール~進ぬ!電波少年でブレイク
出典:https://middle-edge.jp
チューヤンさんは、日本テレビの人気バラエティ番組「進ぬ!電波少年」のヒッチハイクシリーズ企画で、290日に渡る過酷な旅を行い、日本中の注目を集めました。
日本において芸能活動をした経験もなく、日本語を一切話すことができないチューヤンさんのポジティブなキャラクターは、日を追うごとに受け入れられて人気者の道を歩み始めたのです。
チューヤンのプロフィール
出典:https://middle-edge.jp/
チューヤン(ちゅーやん)
本明: 謝昭仁
生年月日: 1972年8月4日
出身地: 香港
香港出身のチューヤンさんは、地元でラジオのDJとして活動し、「無字頭七八九」という番組のレギュラーとして司会やインタビューを担当していました。
「進ぬ!電波少年」において、アフリカからヨーロッパ大陸縦断の約1年に渡るヒッチハイクの旅に挑戦したのは、1998年のことでした。
日本語が全く話せなかった
オーディションが行われ、「自分の人生を変えたいんです」と語ったチューヤンの熱意が決め手となって、相方となった伊藤高史さんと旅をする権利を手に入れました。
全く日本語が話せないまま旅に送り込まれ、「日本のテレビはひどいなあ」と苦笑いで空港に向かう様子が映されています。
アフリカで初対面の伊藤高史さんと合流して、道中のコンビ名を「朋友(パンタオ)」に決定しました。いよいよチューヤンさんの旅が始まったのです。
チューヤンの相方・伊藤高史のプロフィール
出典:http://25musical-ryu.ikemen.ch/
伊藤高史さんは、数多くのプロ野球選手を輩出した東北福祉大学の野球部監督を務めた伊藤義博さんの三男として青森県で生まれ、小学生の頃からは宮城県仙台市にて育っています。
高校時代から地元のローカルテレビでリポーターなどを行っていましたが、上京して劇団「ジンギスファーム」に所属していました。
チューヤンが出演していた「進ぬ!電波少年」とは?
出典:https://himatsubu-yomimono.site
「進ぬ!電波少年」は、1992年から2003年にかけて日本テレビで放送されたバラエティ番組です。
アポなしのロケ、ヒッチハイクの横断旅行、懸賞生活など、様々な企画が立てられて無名のお笑い芸人が起用されてきました。
番組名称は、放送開始当初「進め!電波少年」でしたが、その後、「進ぬ!電波少年」「電波少年に毛が生えた 最後の聖戦」と度々変更しています。
一貫して22時放送の枠でしたが、深夜枠のような突飛な企画や体当たりネタが多かったことが特徴です。
平均視聴率は20%超えで、最高視聴率が30.4%を記録したことでバラエティ番組としては上々であると評価されていました。
番組司会を任されていた松本明子さんと松村邦洋さんも、当時は芸人として目立たない存在でしたが、番組を通してメジャーになりました。
「猿岩石」として出演していた有吉弘行さんも、無理だと思われたヒッチハイクを見事成功させ、東京凱旋後にCDを発売してミリオンセールスを達成しています。
当時のプロデューサーである土屋敏男プロデューサーは、人気の秘密について「怒ったり、泣いたり、喜んだりという人間の素の部分が見えたことが支持された、と語っています。
それまでの『電波』の海外を舞台にした企画で、おカネがないからヒッチハイクという移動手段がよく使われていたんだけど、言葉の通じない中で出演者が四苦八苦する姿が面白かったんですよ。それで、ヒッチハイクだけで番組を作れないかなと考えていた。
引用:伝説の極悪P(土屋敏男元プロデューサー)が語る『電波少年』秘話とテレビの未来-講談社web https://gendai.ismedia.jp/
なぜヒッチハイクを番組の企画として取り入れたかという理由については、土屋敏男プロデューサーが若い頃から沢木耕太郎さんの「深夜特急」が大好きだったという理由もあるそうです。
チューヤンの「進ぬ!電波少年」での過酷な旅路まとめ
出典:https://imatabi.jp/
アフリカからスタートしたヒッチハイクの旅の総距離は2万kmを超えました。
灼熱の太陽や、北極地点の刺すような寒さを2人がどのように乗り越えたのでしょうか。少しだけ旅を振り返ってみましょう。
ポジティブなチューヤンが人気を呼ぶ
出典:https://kondoux.com/
予算が限られたヒッチハイクの旅は、チューヤンさんにとっては過酷な旅となりました。
香港でお坊ちゃま育ちをしていたことで、何事においても楽観的な性格でした。
出費を抑えようと野宿を提案する相方の伊藤高史さんと、何かと体を休めたいと主張するチューヤンさんは、時には口論になることもありました。
旅を始めた時点では一切日本語ができなかったチューヤンさんですが、伊藤高史さんに日本語を教えて欲しいと依頼して、少しずつ日本語の単語を覚えていきました。
広東なまりの片言の日本語で「ナンダヨー」とツッコミを入れる面白さは、チューヤンさんの魅力を高めて人気を呼んでいました。
たどたどしい話し方が、その後の芸能生活においてチューヤンさんの個性という、大きな武器になったのです。
想像よりもヒッチハイクは過酷だった
片言の日本語を話すチューヤンさんは、香港出身であることから英語が堪能でした。現地の人とヒッチハイクや宿泊の交渉を担っていました。
そんな朋友の2人は、時には何日も車が止まらず落ち込む姿や、炎天下の中で寝不足が祟り消耗する様子を見せて視聴者の心配を集めていました。
また、目的地が内戦で入国を阻まれたこともあり、厳しい世界情勢が垣間見えていました。
度重なる危機に直面しても、持ち前の明るさで乗り切ってきたチューヤンさんでしたが、2ヶ月を超えた時には涙を流して「家族に会いたい、ギブアップしたい」と訴えました。
しかし、チューヤンさんは「もしも家族にリタイアしたいと相談したらきっと諦めてはならないと言われるだろう。だから旅を続けようと思う」と決意し、2人の絆が深くなりました。
何度も無一文になりながらも、国境付近でチューヤンさんが絵を描いたり、安くパンを仕入れてスタジアムで売るなど、生きるための様々な知恵を捻り出して困難を乗り越え続けました。
一度は全てを失ったチューヤン
チューヤンさんは公園で野宿した際、お金だけでなく眼鏡や商売道具の画材、父親からの激励の手紙、旅の思い出など宝物が詰まったバックパックを盗まれ、珍しく落ち込んでいました。
「ヤッパリムズカシイネ」と、片言の日本語で旅の厳しさを表現していました。
被害届を提出するも警察官からは、「恐らく見つけられないだろうと」という言葉を返されて、2人は肩を落とした様子を見せました。
それでもチューヤンさんは、同じ公園で今夜も野宿をしようと提案します。そして、また盗みにくるかもしれないから、寝たふりをして現行犯で捕まえてやると意気込んでいました。
相方の伊藤高史さんは、チューヤンさんが元気になった様子を安心したように見ていました。
先輩芸人に見守られてゴール!
ノルウェーが最後の舞台として設定されていました。
北極圏に入ると一気に寒さが厳しくなり、外で野宿をしていると現地の警察官が見るに見かねて警察署に保護されたこともあったほどでした。
現地で宿代も無く、寒さに震えながら歩いていると、夕食をもてなすことを快諾してくれる一般の家族とも巡り合いました。
その夜は民家の暖かい布団で眠り、現地の優しさが身に染みている様子でした。
ゴール時には、ゲストとして猿岩石とドロンズがスタジオに駆け付けて、みんなに見守られる中、2人は無事ゴールしています。
帰国後は本を出版
出典:https://middle-edge.jp/
帰国した2人は、朋友の名義で「朋友日記」を出版しました。この書籍の売上は22万部以上を記録して、スターとして世間から認められています。
この本とは別に、チューヤンさんが単独で日本を旅するという趣旨の紀行本である「チューヤン日本旅行日記 朋友チューヤンJAPAN TOUR」も出版しています。
電波少年の司会へ就任
出典:https://anohito-genzai.com/
ヒッチハイクで人気を博したチューヤンさんは、帰国後に「進ぬ!電波少年」の総合司会を務めるようになりました。
同時に「チューヤン・ジャパンツアー」を行っていたことから、東京と地方を行き来する多忙な姿を見せていました。
1999年4月にはツアーを終えて、「電波少年的80日間世界一周の旅」に女優の真中瞳さんと共に参加しています。サンフランシスコを旅のスタート地点とし、東京がゴールでした。
ルートの取り方は、視聴者から提供される情報を頼りとして旅を続けるというルールに沿って東京を目指し、大晦日の年越し番組放送中にゴールしました。
この日は、ヒッチハイクの旅で朋友として相方を務めた伊藤高史さんが祝福のためにスタジオに駆け付けています。
2000年にアンコール・ワットへ
出典:https://ja.wikipedia.org/
電波少年の番組企画で、「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」という企画に参加しています。
この企画は、カンボジアからアンコール・ワットの間の道を1km舗装すると1万円分の生活費が支給されるという趣旨です。
参加メンバーは12人で、芸人や引きこもり、元プロボクサーなど境遇は様々でした。この中には、髭男爵の山田ルイ53世さんや、Wエンジンのチャンカワイさんが参加していました。
本来チューヤンさんは、1ヶ月間という期間限定のメンバーとして登場しましたが、自身の希望もあって2ヶ月間のロケに延長されています。
喧嘩などのトラブルがあったものの、道の舗装が完了したこの企画の視聴率は好調で、撮影終了後にメンバーの1人・荒井伸元さんが、再度カンボジアに渡り小学校の建築に携わっています。
プロデュースも始めた
出典:http://www.tokyoseikatsu.com/
チューヤンさんは、番組の企画として「雷波少年系 後ろ楽しいガーデン」という後楽園ゆうえんちのプロデュースを任されています。
本来は「後楽園ゆうえんち」と読む所を、チューヤンさんの読み間違えで「後ろ楽しいガーデン」と発音していたことから、そのまま企画のタイトルとして使われました。
大成功を受けて、第2弾として日光江戸村に「ミラクルラブアンドホラー」という企画が立ち上がりました。
チューヤンの現在① 2005年に日本の芸能界を引退
出典:http://sky-budget.com/
電波少年は2003年に放送を終了しています。その後のチューヤンさんは、2004年にドラマに1本出演している以外にメディアで見かけることが少なくなっていきました。
そして、2005年に日本の芸能界を引退しています。引退理由として、喘息を患っている父親の調子が芳しくないことから近くに居たいと考えた結果であるようです。
チューヤンさんの家族思いな性格は、ヒッチハイク旅でも度々垣間見れ、家族を想いホームシックになったり、ムービーレターで「元気だから大丈夫」と家族にメッセージを送っていました。
香港に戻る際には、名物リポーターの梨本勝さんに突撃取材を受けて、「勉強になったし、楽しかった」と語り、日本を後にしています。
チューヤンの現在② 2009年に結婚していた
出典:https://newsnachricht.net/
2009年に一般人の女性と結婚しています。
専門学校時代に知り合った女性であること以外、名前などを公開していません。子供も既に生まれているようです。
電波少年で一緒だった松本明子さんとは、芸能界引退後も交流が続いているようです。
嫁を連れてチューヤンさんが日本に来たエピソードが、2014年11月20日にアップされた松本明子さんのオフィシャルブログで紹介されています。
かつて『進め、電波少年』で、一緒にMCを勤めたチューヤンが、奥様と結婚記念日旅行で日本に来ました。折角の旅のお邪魔にならないよう、45分間のお茶でしたが、元気で幸せそうなチューヤンに再会出来て、良かったです。チューヤンと伊藤高史は、私にとってもパンヤオ(朋友)です。
引用:チューヤンと – 松本明子オフィシャルブログ https://ameblo.jp/
チューヤンの現在③ かなりの高年収が話題に
出典:https://blogs.yahoo.co.jp/
再会を果たしたチューヤンと松本明子
日本で人気を得たチューヤンさんは、ヒッチハイクの旅では25歳の青年でしたが、2019年現在は47歳になりました。
現在の様子について見てみましょう。
チューヤンは広告代理店に勤務している
出典:https://gaishishukatsu.com/
香港に戻ったチューヤンさんの職業は、広告代理店に就職してサラリーマンとしての人生を歩んでいます。ディレクターという部門を統括するポジションに就いているようです。
具体的な業務について質問されると、有名アーティストのCDジャケットの制作やイベントのプロモーションを手掛けていると語っていました。
チューヤンの年収はどのくらい?
出典:https://nanapi.jp/
日本テレビのバラエティー番組「有吉ゼミ」にVTR出演したチューヤンさんは、元気な姿を見せていました。
現在の広告代理店勤務に関しては、スタッフから質問を受けて「ちょっと良い感じに食べています」と、収入に困らない生活を送っていることを匂わせました。
さらにスタッフから、ツッコミで具体的な年収を明かすよう言われると本人の口から約950万円という報告がされています。
香港メディア「文匯報」によると、2016年における香港の年収平均を340万円であると発表していることから、かなりの高収入を得ていることが判明しています。
チューヤンの相方・伊藤高史の現在
出典:https://sirabee.com/
チューヤンさんの相方としてヒッチハイクの旅を終えた伊藤高史さんは現在、俳優活動を続けています。
2019年にはフジテレビで放送された「トレース~科捜研の男~」、2018年にはTBSで放送された「99.9-刑事専門弁護士-」に出演していました。
他にも、「劇団ウルトラマンション」の旗揚げや、劇作家として執筆活動を行っています。
また、福岡在住のアイドルグループ「トキヲイキル」、「ザ・フーパーズ」に脚本を提供した経歴を持っています。
チューヤンさんとは現在も交流があるようで、「チューヤンさんが日本に来た時に一緒に焼肉を食べる」と楽しそうに語っていました。
まとめ
出典:https://utaten.com/
チューヤンさんは、香港出身のタレントで1998年から2005年にかけて「進ぬ!電波少年」のヒッチハイク企画でブレイクし、片言の日本語が大いに個性を生み出し人気を博しました。
ヒッチハイクの道中では、堪能な英語や絵画で生活費を稼ぐなど過酷な旅路において大きな貢献をしていました。帰国後は、2005年に父親の具合を心配して、芸能界を引退しています。
香港に戻ってからは、広告代理店でディレクターの役職者として年収が950万円になると明かし、裕福な生活を送っていることがうかがえます。
プライベートでは2009年に結婚して、嫁と一緒に日本に遊びに来ることもあるそうです。
タレントから華麗にクリエイティブディレクターに転身して、地に足の着いた生活を送っているチューヤンさん。現在も、Youtubeなどで当時の活躍を振り返ることができます。
40歳を超えたチューヤンさんは、当時の人懐こい笑顔とポジティブさで周囲にいる人々を惹きつけています。
芸能界を引退してしまったのは残念ですが、幸せに暮らしているチューヤンさんに一安心ですね。