志村けんさんが新型コロナの影響で亡くなりました。そんな志村さんが所属した伝説のコントグループ「ドリフターズ」のリーダー・いかりや長介さんにも注目が集まっています。
今回は、いかりや長介さんの身長などのプロフィール、若い頃の活躍、名言や3人の嫁や息子、死因や最期の様子や葬儀についてまとめました。
この記事の目次
いかりや長介のプロフィール〜身長や出身地、生い立ちは?
いかりや長介のプロフィール
本名 :碇矢長一(いかりやちょういち)
生年月日:1931年11月1日
没年月日:2004年3月20日(72歳没)
出身地 :東京府東京市本所区中之郷横川町
身長 :175.2cm
血液型 :A型
いかりや長介さんは、国民的コントグループ「ザ・ドリフターズ」をリーダーとして率いた伝説的コメディアンです。
いかりや長介さんの身長は「175.2cm」とドリフターズメンバーの中では一番の高身長で、その鬼瓦のような迫力のある顔立ちも相まって、ドリフコントでは主に権力を振りかざすような「嫌われ役」を演じました。
ドリフのコントは、加藤茶さん、志村けんさん、高木ブーさん、仲本工事さんという天才的なボケ役4人に対して、この「嫌われ役」のいかりや長介さん1人が的確なツッコミ役に回る事で絶妙なリズムを生み、その心地よい笑いによって絶大な人気を獲得するに至りました。
そんなドリフターズのコント番組、「8時だョ!全員集合」や「ドリフの大爆笑」は、常時20パーセント台、最大で50パーセント超えという規格外の高視聴率を連発し「お化け番組」「怪物番組」とまで評されましたが、番組で放送されるコントネタは、そのほとんどをいかりや長介さんが中心になって考えていたといいます。
いかりや長介さんはまさに、1970年代から1980年代にかけてのコントの黄金時代を一手に築き上げたと言っても過言ではない存在でした。
後半生は俳優としても活躍し、大人気刑事ドラマの「踊る大捜査線」シリーズや月曜ミステリー劇場の「弁護士猪狩文助」シリーズ、火曜サスペンス劇場の「取調室」シリーズなどで、渋く味わいのある演技で新たな境地を切り開き、老若男女問わず絶大な人気を集めました。
いかりや長介の生い立ち
いかりや長介さんは、1931年11月1日に、東京府東京市本所区中之郷横川町(現在の東京都墨田区東駒形)で誕生しました。
父親は、いかりや長介さんが自伝「だめだこりゃ」の中で「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語る碇矢一郎さんで、築地の魚河岸で運搬の仕事をしていました。母親のよねさんは、いかりや長介さんが4歳の頃に肺結核のために病死しています。
1944年、太平洋戦争の戦況悪化により本土への空襲が激化したため、いかりや長介さんは静岡県吉原市(現在の静岡県富士市)に疎開し、吉原市立第三中学校へと入学。その翌年に同地で終戦を迎えています。
吉原市立第三中学校を卒業したいかりや長介さんは、静岡県立吉原高等学校で1950年4月に設置されたばかりの定時制課程吉永分校(現在は廃校)へと進学しますが途中で退学し、その後は静岡県内の「春日製紙」という製紙工場で働きました。
この春日製紙時代に、いかりや長介さんは「女にモテたいから」という理由で楽器を始めます。(当初はスティールギターでのちにベース)そして、同僚とハワイアンバンドを組み、ダンスホールなどで演奏していました。
これ事をきっかけにして、いかりや長介さんはプロのミュージシャンを志すようになります。
次の見出しからは、ザ・ドリフターズのリーダーとして国民的スターに上り詰めるまでの、若い頃のいかりや長介さんの経歴を見ていきたいと思います。
いかりや長介の若い頃① 元々はミュージシャンとして活躍していた
1959年、27歳の頃に、いかりや長介さんはプロのミュージシャンになるため上京。静岡県時代から交際していた女性と結婚し、新宿二丁目にアパートを借りて暮らしはじめました。
いかりや長介さんは、のちに俳優として人気を集める事になるロックシンガーのミッキー・カーチスさんが結成したロカビリーバンド「クレイジーウエスト」へとベーシストとして参加。
その後は、「エレキギターの神様」とも称される伝説のギタリスト・寺内タケシさんも参加していたカントリーウエスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にもベーシストとして参加しています。
この時代の音楽バンドは、駐留しているアメリカ軍のキャンプを回って演奏する仕事が多く、いかりや長介さんも上記のバンドのメンバーとして立川や横須賀、横田といった関東各地の米軍キャンプで演奏して回りました。
いかりや長介の若い頃② ドリフターズに加入しリーダーに
1962年まで、いかりや長介さんはカントリーウエスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に所属していましたが、巡業中に起こした交通事故や、演奏の合間のお笑いネタに熱を入れすぎ、バンド内で孤立していました。
音楽バンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」の2代目リーダー・桜井輝夫さんは、バンドのコミック色を強化したいという思惑からそんないかりや長介さんに目をつけ、ヘッドハンティングしてベーシストとしてバンドに招集します。
このバンドこそが伝説的コントグループ「ザ・ドリフターズ」の前身です。同時期には、ドラマーとして加藤茶さんも加入しています。
1964年、リーダーの桜井輝夫さんが引退したため、いかりや長介さんが後を継いでリーダーに就任し、バンド名を「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に改めます。
リーダーとなったいかりや長介さんは、ワンマンぶりを発揮して練習の鬼となり、音楽の練習だけでなくコントの練習にも力を入れはじめます。しかし、このいかりや長介さんのワンマン体制にメンバーの、小野ヤスシさん、ジャイアント吉田さん、飯塚文雄さんらが反発して脱退してしまいます。
事の成り行きとしては、コントの練習に力の入らないメンバーらにいかりや長介さんが「お前らなんか辞めちまえ!」と怒り、それに対して既に水面下で独立の動きをはじめていた小野ヤスシさんらは「わかりました辞めます」といってあっさりと辞めてしまったのだそうです。
いかりや長介さんはこれには焦ったようで、彼らに「俺が辞めるからドリフに残ってくれ」と頼み込む事までしています。結局彼らはそのまま脱退してしまい、残ったのはいかりや長介さんと、ドラムの加藤茶さんの2人だけとなり、ドリフターズは解散の危機を迎えます。
いかりや長介の若い頃③ おなじみのドリフメンバーを集結させる
しかし、いかりや長介さんはすぐに補充要員の確保に動き、同年9月にギタリストとして高木ブーさんをスカウトして加入させ。それからすぐにピアニストとして荒井注さんをスカウト、さらに1965年1月には高木ブーさんの紹介という形でギタリストとして仲本工事さんが加入し、なんとか新生ドリフターズのスタートにこぎつけます。
そしてこれによって、のちにドリフターズがコントグループとしての色を濃くしてから加入する事になる志村けんさんを除いた、おなじみのドリフメンバー全員が顔を揃える事になりました。
ほどなくして「ザ・ドリフターズ」は、芸能事務所「渡辺プロダクション」に所属する事となり、同事務所所属の人気ジャズバンドだった「ハナ肇とクレージーキャッツ」の後輩として本格的に売りだされる事になります。
そして、1966年6月30日、当時世界的大スター出会ったロックバンド「ビートルズ」の来日武道館公演の前座を「ザ・ドリフターズ」が務める事になります。わずか1分15秒ほどの出演時間ながら、これによってドリフターズの知名度は一躍急上昇します。
いかりや長介さんがリーダーになってからのドリフターズはコントに力を入れはじめ、徐々にコントグループとしての色を濃くしていくのですが、伝説のコント番組「8時だョ!全員集合」が放送開始された1969年前後までは本来の音楽活動にも力を入れており、1969年に発売したシングル曲「ドリフのズンドコ節」はオリコンチャート最高2位、115万枚を売り上げる大ヒットを記録し、1970年には「第12回日本レコード大賞」の「大衆賞」も受賞しています。
いかりや長介の若い頃④ ドリフターズを国民的コントグループにのし上げる
1969年10月4日、コント番組「8時だョ!全員集合」がついにスタートします。いかりや長介さんはこの番組を作っていくにあたって、冷静に「自分たちのお笑い能力は低い」と分析し、台本を作り込み一切アドリブなしのネタの練習を重ねるという方法を徹底しました。
その方法は見事に当たり、「8時だョ!全員集合」はすぐに爆発的に人気を上昇させました。視聴率は常に20パーセント越え、1973年4月には驚異の「50.5パーセント」という数値を叩き出しています。
出典:https://www.chunichi.co.jp/
そして、この「8時だョ!全員集合」の大ヒットによって、ドリフターズは国民的コントグループの座へと一気に駆け上がる事になったのです。
いかりや長介さんのコントに対する厳しい姿勢はワンマンとも言われ、度々他のメンバーとのぶつかり合いにも発展しましたが、ドリフターズの大成功の最大の要因は、このいかりやさんの自分にも周囲にも厳しいストイックな姿勢にあったと言っても過言ではないでしょう。
いかりや長介は「8時だョ!全員集合」終了後、俳優として人気に
視聴率50パーセント超えの快挙を成し遂げ、バケモノ番組とまで言われた「8時だョ!全員集合」でしたが、1985年についに番組終了を迎えました。
それまでは、グループ外で個人の活動はしないという方針でやってきたドリフターズでしたが、この番組終了を機に「これからはみんな好きな事をやろう」と決めたのだそうです。
いかりや長介さんも、これを契機にして俳優としての活動を開始し、1987年の大ヒット大河ドラマ「独眼竜政宗」で伊達政宗の猛将・鬼庭左月斎役が高く評価された事で俳優としてもブレイクを果たします。
2時間サスペンスの主演としても絶大な人気を集め、火曜サスペンス劇場の「取調室」シリーズ、月曜ミステリー劇場「弁護士猪狩文助」シリーズの魅力的な主人公を長年にわたって好演しています。
そして、俳優としてのいかりや長介さんの人気を爆発させたのは何と言っても、織田裕二さん主演の国民的人気刑事ドラマ「踊る大捜査線」への、ベテラン刑事・和久平八郎役での出演でした。
若者にも絶大な人気を誇った「踊る大捜査線」屈指の人気キャラクターであった和久平八郎役を熱演した事で「8時だョ!全員集合」をリアルタイムで観ていなかった若い年齢層からも絶大な支持を受け新たなファンを多数獲得したのでした。
1999年公開の映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」では、いかりや長介さんは、日本アカデミー賞の「最優秀助演男優賞」を受賞されています。
いかりや長介の名言
続いては、今ではコメディ界のレジェンドとも評されるいかりや長介さんの名言を紹介します。
私(いかりや)という強い『権力者』がいて、残り4人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑いだ。嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだかワカンナイ仲本。メンバー5人のこの位置関係を作り上げたら、あとのネタ作りは楽になった
これは、いかりや長介さんの自伝「だめだこりゃ」からの名言です。志村けんさんが入る前のドリフの5人の位置関係を的確に表しています。
自分の思いついたギャグを、笑ってもらえる完成品にするには、大変な努力と練習を要する。ひとつタイミングがずれただけで、笑えるはずのものが笑えなくなってしまう。
こちらも自伝「だめだこりゃ」からの名言です。この言葉通り、いかりや長介さんは、自分たちのひとつひとつのコントに一切妥協せずに徹底的にこだわりぬき、努力と練習を重ね、世に送り出していました。
芸能界で世話になったのだから、芸能界に恩返ししなさい
こちらは、大人気だったお笑いトリオ「B21スペシャル」の元メンバー・デビット伊東さんが、芸能界から一時的に引退しラーメン屋を経営していた時に、ふらりと店を訪れたいかりや長介さんにかけられた名言です。
この言葉にデビット伊東さんは感動し、いかりや長介さんの付き人になるような形で芸能界復帰を決断しています。以来、デビット伊東さんはいかりや長介さんを師として敬愛しており、その最期もドリフターズメンバーと共に看取ったそうです。
いかりや長介は結婚歴3回!3人の嫁とは
いかりや長介さんは結婚を3回経験されています。
1人目の嫁は静岡時代に知り合ったホステス
1人目の嫁は、いかりや長介さんが上京する前、静岡県で知り合って交際したホステスだった女性です。結婚後に夫婦で上京し、新宿二丁目のアパートで暮らし始めています。
1963年、いかりや長介さんが33歳の時にこの嫁が長女の碇矢まゆみさんを出産し、1969年には長男の碇矢浩一さんを出産しています。
しかしこの嫁とは1978年、いかりや長介さんが46歳の頃に離婚しています。離婚の原因は、どんどん芸能界の人気者になっていく夫の姿に、嫁が自分を卑下して精神を病んでしまった事だったそうです。
2人目の嫁は「世話をしてくれるお姉さん」
いかりや長介さんの2人目の嫁は、前の妻と離婚する前から家に来てくれていたという「世話をしてくれるお姉さん」で、名前は恵津子さんという方でした。
前妻との離婚の翌年の1979年に結婚しています。しかし、1989年、この嫁・恵津子さんは「膠原病」を苦にしてうつ病を患い、自ら命を絶ってしまいます。
妻の遺体を最初に発見したのは、いかりや長介さんだったそうで、いかりやさんはそれから引きこもりがちになり、酒浸りの生活を送るようになります。
3人目の嫁は内縁の妻だった
いかりや長介さんの3人目の嫁は義子さんという女性で、1993年、いかりや長介さんが61歳の頃に結婚されています。2人は結婚式は挙げたものの、実は入籍はしていませんでした。
その理由は、この嫁の義子さんも再婚で子供もいたため、それぞれの以前までの家族との縁を尊重し、あえて籍を入れなかったという事でした。
いかりや長介の子供は2人!息子・碇矢浩一氏はドリフターズ事務所代表取締役社長
いかりや長介さんは、最初の嫁との間に、一男一女を儲けています。
1969年に生まれた息子の碇矢浩一さんは、明治大学の経営学部を卒業後に森永製菓に就職し、営業部で10年間勤務して実績をあげます。その功績が評価され、2003年に広告部に転属し、テレビCM制作など、父の活躍する芸能界に近い分野で活躍されたそうです。
2004年には、森永製菓に在職したまま「ドリフターズ事務所」の代表取締役に就任し、同年3月に父・いかりや長介さんが亡くなられた後の2006年には「いかりや浩一」の名義で、息子しか知らないいかりや長介さんの姿を綴った「親父の遺言」という書籍を発表されています。
2008年12月に森永製菓を退職し、同年にはエッセイ「いかりや長介という生き方」を発表。2020年4月の現在も「ドリフターズ事務所」の代表取締役を務め、教育の視点から「いかりや流人生哲学」を活かす啓蒙活動を展開されています。
いかりや長介の死因は「頸部リンパ節癌」最期の様子は?
いかりや長介さんは2004年3月20日に、72歳で亡くなっています。死因は「原発不明頸部リンパ節癌」でした。
いかりや長介の最期の日々
「原発不明がん」というのはがんが最初に発生した臓器が特定できない転移がんを指します。いかりや長介さんの頸部リンパ節に原発不明がんが発見されたのは2003年5月19日で、出演が決まっていて収録もスタートしたばかりだったドラマ「高原へいらっしゃい」からの降板を発表。同月28日には都内の病院に緊急入院しています。
出典:http://www.shikoku-np.co.jp/
いかりや長介さんは放射線治療を受けて2003年7月17日には退院し、同19日には「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」の舞台挨拶に出演し、主演の織田裕二さんに向けて「俺は150歳まで生きる。まだ折り返し地点だ」と笑って見せ、観客に向けては「粉骨砕身、わが身をかえりみず頑張ります」と元気な姿を見せて客席を沸かせていました。
8月6日には「SMAP×SMAP」へのゲスト出演の収録でテレビの仕事に復帰し、同20日には、ナレーションを担当していたテレビ朝日のドキュメンタリー番組「人生の楽園」に復帰しましたが、思うように声が出ず、「納得のいく仕事ができない」として、わずか5週の出演で再び降板を発表。同年10月スタートの連続ドラマ「あなたの隣に誰かいる」にも病を押して出演しますが、この作品がドラマ遺作となってしまいます。
いかりや長介さんは、2003年末からは仕事を完全に休業して療養生活に入り、温泉へ行ったり、軽い運動をしたりして過ごしていたそうです。いかりや長介さんは仕事への復帰を熱望していたそうですが、体調が完全に回復するのを待とうと事務所がストップをかけていたのだそうです。
そして、2004年3月15日、体調が急遽悪化し港区の東京慈恵会医科大学附属病院に緊急入院。3月20日15時30分に亡くなりました。その夜には、加藤茶さん、志村けんさん、高木ブーさんのドリフターズのメンバー3人が目黒区のいかりや長介さん宅に駆けつけました。(仲本工事さんは仕事で来られず)
高木ブーさんは、報道陣の「最後にどんな言葉を?」との質問に対し「ばかやろーと言ってやりましたよ」と涙をこらえながら絞り出していました。ドリフターズのメンバー達は「葬儀は盛大にやろう」と誓い合ったそうです。
いかりや長介の葬儀の参列者や加藤茶の感動的な弔辞
いかりや長介さんの葬儀は、東京・青山葬儀所にて、2004年3月23日に通夜が、翌24日に告別式が行われました。通夜にはドリフターズのメンバーをはじめ、「踊る大捜査線」シリーズで長年共演した、俳優の織田裕二さんや柳葉敏郎さん、女優の深津絵里さんや水野美紀さんら、関係者、一般の方合わせて3500人もの弔問客が訪れ、その死を悼みました。
いかりや長介さんを慕っていた織田裕二さんは「もう甘える相手がいない」と言って絶句した後、「寂しい」と絞り出すように呟いていました。高木ブーさんは葬儀の最中、「バカヤロー!」と叫びながら号泣していたといいます。
3月24日の告別式では、長男の碇矢浩一さんが喪主を務め、弔辞はドリフ加入時からいかりや長介さんとずっと一緒だった加藤茶さんが読みました。
加藤茶さんは弔辞にて2003年末に収録した「ドリフ大爆笑」のオープニングの撮り直しの際に顔を合わせ、40周年記念で「全員集合」と「ドリフ大爆笑」の2本をやろうとメンバー同士で約束していた事に触れ、「だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね」と寂しいそうに語りました。
そして、40年間、いかりや長介さんが本当に一生懸命に妥協を許さずにやってきた事に触れ、「本当にご苦労さん」と労いの言葉をかけ、「俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ」と続けました。
そして、「いきなりそっちから『全員集合!』って言われても俺たち4人は集まれないけどね」「多分そのうち本当に『全員集合』になるかも知れないけど」と加藤茶さんらしい洒落た言い回しで場を和ませ、「その時はやっぱりまた向こうでコントをやろう」と続けました。
加藤茶さんは、ずっと涙をこらえていましたが、最後の最後にいかりや長介さんの遺体が霊柩車で運ばれる際に、ついにこらえきれずに目頭を抑える姿を見せています。
まとめ
今回は、コントグループ「ドリフターズ」をリーダーとして率い、国民的人気グループにまで押し上げた伝説的コメディアン・いかりや長介さんについてまとめてみました。
いかりや長介さんは、音楽バンドとしての活動がメインだった「ザ・ドリフターズ」にベーシスウトとして加入し、その後リーダーに就任すると、ドリフターズのコミックバンドとしての色を強め、コントに力を入れる事で人気グループへと成長させました。
1969年10月に、コント番組「8時だョ!全員集合」がスタートすると、同番組は視聴率20パーセント超えは当たり前、最大では視聴率50.5パーセントも記録するという爆発的人気を獲得します。
そうして一躍国民的スターとなったドリフターズは、1985年の「8時だョ!全員集合」の終了後はそれぞれに活躍をはじめ、いかりや長介さんは俳優として活動を開始します。いかりや長介さんは、俳優としても人気を博し「踊る大捜査線」シリーズをはじめとする数々の作品でいぶし銀の演技を見せてくれました。
そんないかりや長介さんは、2003年に「原発不明頸部リンパ節癌」を患い入院。一時は退院して仕事復帰したものの、2004年に再入院し、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
葬儀にはドリフターズの面々や「踊る大捜査線」の共演陣など、大勢の人々が参列し、その死を悼みました。
2020年3月29日、新型コロナが原因の肺炎で、いかりや長介さんの愛弟子でもある志村けんさんが亡くなりました。ネットでは、今頃いかりや長介さんと天国で再会しているかな?といった声が溢れています。
いかりや長介さんも志村けんさんの2人は、これからもずっと人々の心の中に存在し続ける事でしょう。