世界で絶大な評価を得た指揮者の小澤征爾さんが88歳で亡くなりました。
この記事では小澤征爾さんの身長や若い頃の経歴や画像、家系図や2度の結婚と嫁、息子の小澤征悦さんと娘の小澤征良さんや孫、自宅の大豪邸や病気と車椅子姿、現在や死因についてまとめました。
この記事の目次
- 小澤征爾のプロフィール
- 小澤征爾の身長
- 小澤征爾の若い頃① 生い立ち
- 小澤征爾の若い頃② 齋藤秀雄に師事し指揮者の道へ
- 小澤征爾の若い頃③ 単身渡仏し2大巨匠カラヤンとバーンスタインに学ぶ
- 小澤征爾の若い頃④ 「N響事件」を経て欧米で絶大な評価を獲得
- 小澤征爾の若い頃⑤ ボストン交響楽団音楽監督に就任
- 小澤征爾の家系図
- 小澤征爾の1度目の結婚は1962年で嫁はピアニストの江戸京子
- 小澤征爾の2度目の結婚は1968年で嫁はハーフモデルの入江美樹
- 小澤征爾の息子は俳優の小澤征悦
- 小澤征爾の娘はエッセイストの小澤征良
- 小澤征爾の孫は娘の小澤征良の息子1人
- 小澤征爾の自宅は東京都世田谷区成城の大豪邸
- 小澤征爾は食道がんなどの病気で晩年は長く闘病していた
- 小澤征爾の車椅子姿も話題に
- 小澤征爾の現在…2024年2月6日に88歳で死去
- 小澤征爾の死因は心不全とのみ発表
- まとめ
小澤征爾のプロフィール
小澤征爾のプロフィール
生年月日:1935年9月1日
没年月日:2024年2月6日(88歳没)
出身地 :満洲国奉天省奉天市(現在の中国遼寧省瀋陽)
推定身長:160cmあるかないか
血液型 :B型
小澤征爾(おざわ・せいじ)さんは、戦後の時代から世界を舞台に活躍した指揮者で、2024年2月6日に88歳に死去した際にはその訃報を世界中のメディアが速報で伝えました。
小澤征爾さんはオーケストラ先進国の聴衆からの高い評価を受け、アメリカ5大オーケストラの1つに数えられる「ボストン交響楽団」の音楽監督を1973年から2002年にかけて29年にわたって務め、2002年から2010年にかけては世界で最も権威のある歌劇場の1つとされる「ウィーン国立歌劇場」の音楽監督(楽長)を務めるなどし、その偉業から日本国内では“世界のオザワ”とも称されています。
小澤征爾の身長
小澤征爾さんは身長は公表されていません。
ただ、実際に小澤征爾さんをコンサートなどで見た事がある人の証言によれば、身長は「160cmあるかないか」という印象だったという事で男性としては小柄な方だったようです。
上の画像は小澤征爾さんと家族が一緒に写った写真ですが、正面から見て左端が息子で俳優の小澤征悦さん、小澤征爾さんの左隣に立っているのが嫁で元モデルの入江美樹さんです。
小澤征悦さんの公称身長は183cm、入江美樹さんの公称身長は165cmです。2人との見た目の身長差から推測しても小澤征爾さんの身長は160cm前後という見立ては当たっていそうな印象です。
小澤征爾の若い頃① 生い立ち
小澤征爾さんは、歯科医で政治活動家であった父・小澤開作と母・さくらの間に三男として1935年9月1日に満洲国奉天省奉天市で生まれました。
翌1936年に家族で中国北京(当時は関東軍によって傀儡の親日政権が樹立されていた)へと移っています。母親のさくらさんは、北京で毎週日曜日に息子たちを教会学校へ連れて行き、そこでの讃美歌との出会いが小澤征爾さんが音楽の道へと進む最初のきっかけとなったようです。
1941年3月、小澤征爾さんは母親や兄弟らと日本へと戻り(父親の開作も1943年に帰国)、立川の若草幼稚園を経て、1942年3月から柴崎小学校(当時は国民学校)へと入学しています。
小学生時代の小澤征爾さんは母親に与えられたアコーディオンで楽器演奏を始め、1946年1月からはピアノの練習も始めています。その秋には学校の学芸会で「エリーゼのために」を演奏するまでに上達。これが小澤征爾さんの始めての人前での演奏でした。
1948年4月、小澤征爾さんは成城学園中学校に入学。中学時代にはラグビー部に所属しながら、当時日本を代表するピアニストの1人だった豊増昇に師事し本格的にピアノを学んでいます。
小澤征爾さんは中学時代にはピアノとラグビーに熱心に取り組む一方で学級委員や全校委員も務めています。
小澤征爾の若い頃② 齋藤秀雄に師事し指揮者の道へ
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1950年小澤征爾さんは母方の親戚で指揮者でチェリストである齋藤秀雄を単身で訪ねて弟子入りを直談判しています。1951年、成城学園中学卒業後、小澤征爾さんは成城学園高校へ進学するも、すぐに齋藤秀雄さんがその年に新たに設立した桐朋学園女子高校音楽科に入学し直しています。(女子高校の名称だが音楽科のみ男女共学)
小澤征爾さんはこの齋藤秀雄さんの下で、指揮者としての勉強を本格的に始めました。この時代に小澤征爾さんは指揮者としての基礎を徹底的に叩き込まれたとされています。齋藤秀雄さんの指導は大変厳しかったと言われており、そのストレスから小澤征爾さんは自宅の本箱のガラス扉を思わず殴りつけてしまい、右手に大怪我を負った事もあったと明かされています。
小澤征爾さんの高校卒業後の1955年には新たに桐朋学園短期大学音楽科が設立され、齋藤秀雄さんがその教授に就任しました。小澤征爾さんは同校の第1期生となり、齋藤秀雄さんのアシスタントとして、日比谷公会堂で開催された桐朋学園短期大学設置記念特別講演では、齋藤秀雄さんと共に東京交響楽団を指揮しています。
1957年夏、小澤征爾さんは桐朋学園短期大学を卒業(肺炎のため卒業試験が受けられず卒業が数ヶ月遅れた)。
短大卒業後も小澤征爾さんは齋藤秀雄のアシスタントを続け、桐朋学園の演奏会で指揮棒を振るっています。
その一方でプロの指揮者としても仕事を依頼されるようになり、群馬交響楽団の北海道演奏旅行の指揮者を務め、1956年に文化放送によって創設されたばかりだった日本フィルハーモニー交響楽団が1957年12月に開催した第5回定期演奏会でのラヴェルのオペラ「子供と魔法」では副指揮者を担当しています。
1958年には、文化放送のラジオ番組「東急ゴールデン・コンサート」の日本フィルの公開録音にも何度も登場し小澤征爾さんは始めて公の場で日本フィルの指揮の指揮をしています。
小澤征爾の若い頃③ 単身渡仏し2大巨匠カラヤンとバーンスタインに学ぶ
1958年、小澤征爾さんは本場の音楽に触れたいとの思いからヨーロッパ留学の決意を固め、フランス政府の留学生試験を受けるも惜しくも不合格となります。
それでも小澤征爾さんは諦めず、独力で資金を集めて渡欧する事を目指し、三井不動産の社長であった江戸英雄さんの紹介で三井船舶の貨物船に乗せてもらえる事になります。江戸英雄さんは、桐朋学園時代の同級生で小澤征爾さんの1度目の結婚の嫁となる江戸京子さんの父親でした。
そして、小澤征爾さんはフジテレビ初代社長である水野成夫ら桐朋学園父兄会から1200ドル(当時のレートで約45万円)の資金援助を得て、富士重工から借り受けた125ccの小型バイク(ラビット・ジュニア)に乗りギターを担いで単身フランスへと渡りました。
1959年4月にフランスパリについて小澤征爾さんはそこを拠点としています。同年6月、すでにパリに留学していた高校時代の同級生であるピアニストの江戸京子さんからフランス東部のブザンソンで指揮者コンクール「第9回ブザンソン国際指揮者コンクール」がある事を知らされてこれに応募。
応募者は54人で日本人は小澤征爾さん1人だけでした。小澤征爾さんはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」とJ・シュトラウス2世の「春の声」、そしてウジェーヌ・ビゴーがコンクールのために書き下ろした新曲を指揮し、見事第1位に選ばれています。
小澤征爾さんはコンクール後のパーティで、そこに来ていた大物指揮者のシャルル・ミュンシュに弟子入りを申し出て、ミュンシュから「私は弟子を取らないが、夏にバークシャー音楽祭に来ればそこで教える」と言ってもらいます。
そして1960年夏、小澤征爾さんはアメリカへと渡り、ボストン郊外で開催された「バークシャー音楽祭(現在のタングルウッド音楽祭)」に参加しました。
小澤征爾さんはシャルル・ミュンシュのレッスンを受けるようになり、5週にわたって「バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラ」の演奏会を指揮し、音楽祭の終わり、最も優れた指揮者に贈られるクーセヴィツキー大賞を受賞しています。
バークシャー音楽祭終了後、再びパリへ戻った小澤征爾さんは、ドイツベルリンで開かれた大物指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を決めるコンクールを受験し、合格者3人の1人に選ばれています。
さらにその9月には、滞在していたベルリンで、当時ニューヨークフィルの音楽監督を務めていたレナード・バーンスタインとパーティで出会い親交を深めています。
翌1961年の年明け早々、小澤征爾さんはニューヨークフィルから副指揮者内定の通知を受け、同年3月にはパリを離れてアメリカニューヨークへと渡り、4月に正式にニューヨークフィル副指揮者に就任しています。
小澤征爾さんは、ニューヨークフィル副指揮者としてレナード・バーンスタインをサポートしてその薫陶を受けています。
この頃、小澤征爾さんは代役としてサンフランシスコ交響楽団の指揮をし、ウォー・メモリアル・オペラハウスの満員の聴衆からスタンディングオベーションを送られ、6度もカーテンコールで呼び出されるという大成功を収めています。
小澤征爾の若い頃④ 「N響事件」を経て欧米で絶大な評価を獲得
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1962年5月にニューヨークフィルを離れた小澤征爾さんは、同年6月に「NHK交響楽団(N響)」の客演指揮者に就任しています。
小澤征爾さんはその年の10月までのN響の23公演を指揮して高い評価を得ますが、突如出てきた若い指揮者への反発により11月の定期演奏会後、楽員代表からなる演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明し、12月の定期演奏会をボイコットする事態となりました。この事件は「N響事件」と呼ばれ、これをきっかけに小澤征爾さんは日本の音楽界と袂を分つ事になったとも言われています。
小澤征爾さんは1963年1月、日本を離れて再びアメリカへと渡り、北米のいくつものオーケストラの指揮者を務めています。中でもサンフランシスコ交響楽団やシカゴ交響楽団での指揮は絶大な評価を得ました。
1964年1月にはカナダを代表するオーケストラであるトロント交響楽団を指揮し、これも大きな反響を呼びました。小澤征爾さんはその後、デトロイト交響楽団、モントリオール交響楽団などでの指揮を経て、1964年から1965年にかけて休暇中のバーンスタインの代役として再びニューヨークフィルの副指揮者を務めました。1965年9月からはトロント交響楽団の音楽監督に就任しています。
小澤征爾さんは北米だけでなく欧州でも評価を上げ、1965年にはロンドン交響楽団、1966年8月にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮し、9月にはベルリン・フィルの定期演奏会も指揮しています。世界最高峰のオーケストラを続けて指揮し成功させた事は小澤征爾さんの欧州での評価を絶大なものとしました。
1970年には、タングルウッド音楽祭の音楽監督にも就任し、その秋には名門サンフランシスコ交響楽団の音楽監督にも就任しています。
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この頃、小澤征爾さんは日本フィルハーモニー交響楽団の主席指揮者も務めていましたが、1972年に突如としてフジサンケイグループからの支援を打ち切られて解散となりました。
そこで、小澤征爾さんは楽員らによる自主運営のオーケストラとして新たに「新日本フィルハーモニー交響楽団」を結成し、以後中心的な役割を果たしました。
小澤征爾の若い頃⑤ ボストン交響楽団音楽監督に就任
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1973年、小澤征爾さんはアメリカ5大オーケストラの1つ「ボストン交響楽団」の第13代音楽監督に就任しました。
小澤征爾さんはその後、2002年まで約30年間にわたってボストン交響楽団の音楽監督を務めています。小澤征爾さんはこの間、ボストン響を率いて何度も日本公演を実施し大成功させています。
1994年には、アメリカのタングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」が建てられるなど、世界から尊敬される指揮者となりました。
小澤征爾の家系図
小澤征爾さんの家系図です。
次の見出しからこの家系図にも記載されている小澤征爾さんの嫁や娘や息子について順番に見ていきます。
小澤征爾の1度目の結婚は1962年で嫁はピアニストの江戸京子
小澤征爾の1度目の結婚の嫁・江戸京子のプロフィール
生年月日:1937年2月27日
没年月日:2024年1月23日(86歳没)
出身地 :東京都
小澤征爾さんは生涯2度の結婚をされています。小澤征爾さんの1度目の結婚は1962年で、嫁は桐朋女子高校音楽科時代の同級生だったピアニストの江戸京子さんでした。
小澤征爾さんは高校時代から江戸京子さんと親しく、自宅に入り浸りだったそうですが、距離を縮めたのは1959年に小澤征爾さんがヨーロッパに渡った際に、すでにフランスパリに留学していた江戸京子さんと再会した事がきっかけだったようです。
小澤征爾さんの最初の結婚の嫁である江戸京子さんは、当時の三井不動産社長江戸英雄の娘で、この江戸英雄さんは、小澤征爾さんがヨーロッパ留学する際にも大きく援助してくれた支援者でした。
ただ、江戸英雄さんは娘の江戸京子さんが「強い性格で個性が強烈だから」と言って、当初は結婚に反対したそうです。
結局、小澤征爾さんと江戸京子さんは1966年に離婚しています。離婚の理由について、江戸京子さんはお互いに音楽をやっているため、どちらかが練習をしている時にどちらかが練習できない事や、小澤征爾さんが海外を拠点に活動していたためほとんど別居のような生活だった事などを挙げています。
ただ、離婚後に小澤征爾さんと江戸京子さんは良き友人関係に戻れたようです。
小澤征爾さんと1度目の結婚の嫁である江戸京子さんとの間には子供はいませんでした。
小澤征爾さんの最初の結婚の嫁である江戸京子さんは2024年1月23日に86歳で死去しています。死因は老衰と発表されています。小澤征爾さんが亡くなったのは江戸京子さんが死去してからわずか2週間後でした。
小澤征爾の2度目の結婚は1968年で嫁はハーフモデルの入江美樹
小澤征爾の2度目の結婚の嫁・入江美樹のプロフィール
本名 :小澤ヴェラ
生年月日:1944年8月13日
出身地 :神奈川県横浜市
身長 :165cm
小澤征爾さんの2度目の結婚は1968年で、嫁はファッションモデルの入江美樹さんでした。
入江美樹さんは父親がロシア人のハーフで、1958年13歳の時にファッション誌「装苑」のオーディションで2000人の中から1位に選ばれてモデルとしてデビューしました。
高校に進学するも、テレビに出演し始めたことを学校側から注意されて2年で中退。その後、1963年から64年にかけて日本テレビのバラエティ「夢をそだてよう」に出演しました。
その後、1964年4月にアメリカのラスベガスデザートインで開催された1回インターナショナル・ファッション・フェスティバルで森英恵さんのモデルとして出場し、世界中から集まったモデルの中から1位に選ばれて「世界一美しいモデル」と称されました。
その後は、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」のマスコットガールや、1965年のNHK紅白の審査委員の他、1966年映画「他人の顔」への出演など女優としても活動しています。
この頃に日本でも指揮者として知名度を上げていた小澤征爾さんと知り合い、1968年に結婚。小澤征爾さんとの結婚後はモデルは引退しデザイナーとして活動されています。
また、小澤征爾さんと嫁の入江美樹さんの間には息子と娘の2人の子供が生まれています。小澤征爾さんの息子は俳優の小澤征悦さんで、娘はエッセイストの小澤征良さんです。小澤征爾さんの息子の小澤征悦さんと娘の小澤征良さんについては次の見出しから紹介します。
小澤征爾の息子は俳優の小澤征悦
小澤征爾の息子・小澤征悦のプロフィール
生年月日:1974年6月6日
出身地 :アメリカカリフォルニア州サンフランシスコ
身長 :183cm
血液型 :O型
小澤征爾さんの息子は、1974年6月6日に誕生した小澤征悦(おざわ・ゆきよし)さんです。
小澤征悦さんは、当時小澤征爾さんが拠点を置いていたアメリカのカリフォルニア州サンフランシスコで誕生し幼少期はそこで育っています。
1978年に家族で日本に帰国し、成城学園初等学校、成城学園中学校高校を経て、成城大学に進学し大学時代にボストン大学演劇科に1年留学して演技を学び、大学卒業後の1998年にNHK大河ドラマ「徳川慶喜」の沖田総司役で俳優デビューしました。
その後、2001年公開映画「ホタル」で朝鮮半島出身の特攻隊員役を好演して俳優としての評価を上げ、2002年のNHK連続テレビ小説「さくら」での桂木慶介役で人気俳優となりました。
以降、2002年映画「釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!」、2005年にはNHK大河「義経」の源義仲役、2008年にはNHK大河「篤姫」の西郷隆盛役などに出演。
現在も俳優として活躍しており、近年の代表作としては、2018年ドラマ「もみ消して冬〜わが家の問題なかったことに〜」、2019年ドラマ「ハケン占い師アタル」、2019年NHK大河「いだてん〜東京オリムピック噺〜」、2020年ドラマ「パパがも一度恋をした」、2020年映画「水上のフライト」などがあります。
プライベートでは、2021年9月にNHKアナウンサーの桑子真帆さんとの結婚を発表しています。
小澤征爾の娘はエッセイストの小澤征良
小澤征爾の娘・小澤征良のプロフィール
生年月日:1971年12月29日
出身地 :アメリカカリフォルニア州サンフランシスコ
推定身長:170cm超
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小澤征爾さんの娘は、1971年12月29日にアメリカカリフォルニア州サンフランシスコで生まれた小澤征良(おざわ・せいら)さんです。
小澤征爾さんの娘の小澤征良さんは、小澤征爾さんにとって待望の初めての子供で、出産にも立ち会われています。
小澤征爾さんの娘の小澤征良さんは6歳の時に母親と弟の小澤征悦さんと日本に帰国し、成城学園初等科、成城学園中学校・高等学校を経て成城大学へと進学していますが、成城大学は中退して上智大学比較文化学部を卒業されています。
小澤征爾さんの娘の小澤征良さんは小学生時代には児童合唱団に所属し、1983年に小澤征爾さんが新日本フィルのバッハの「マタイ受難曲」を指揮した際には、小澤征良さんも合唱に参加し、小澤征爾さんにとって夢だったという親子共演が実現しています。
そんな小澤征良さんは、大学卒業後はアメリカニューヨークマンハッタンのメトロポリタン歌劇場の主席演出家だったデイヴィッド・ニース氏に師事し、アシスタントをしながらオペラ演出を学ばれています。
日本に戻った後は、テレビ番組の司会や雑誌でエッセイストとして活動するようになり、2002年に発表したエッセイ集「おわらない夏」がベストセラーになり、以降、エッセイ集「思い出のむこうへ」、「そら いろいろ」、「言葉のミルフィーユ」、小説「蒼いみち」、「しずかの朝」などの作品を発表しています。
小澤征良さんは娘として晩年の小澤征爾さんをサポートし、現在もオーケストラやオペラの世界で影響力があり、現在は公益財団法人サイトウ・キネン・オーケストラ代表理事、小澤国際室内楽アカデミー理事を務められています。
小澤征爾の孫は娘の小澤征良の息子1人
出典:https://www.news-postseven.com/
小澤征爾さんの孫は、娘の小澤征良さんの息子さんが1人います。小澤征爾さんが病気で体調を崩された後は、小澤征良さんは小澤征爾さんの自宅の同じ敷地内に住んで献身的にサポートされていたため、小澤征爾さんは孫とも長い時間を一緒に暮らす事ができたようです。
当時、小澤征爾さんが孫を溺愛しているとの情報が流れた事もありました。
なお、小澤征爾さんの息子の小澤征悦さんはNHKアナウンサーの桑子真帆さんと2021年に結婚されましたが、一部週刊誌は桑子真帆さんが子供を産みたがっているとの内容を書いていて、桑子真帆さんが子供を出産した場合には小澤征爾さんにとっては2人目の孫という事になります。
桑子アナは、2021年9月に再婚した世界的指揮者小澤征爾氏の息子で俳優の小澤征悦との間に、子供を作りたがっています。
小澤征爾の自宅は東京都世田谷区成城の大豪邸
出典:https://presidenthouse.net/
小澤征爾さんの自宅は東京都世田谷区成城にある大豪邸です。
小澤征爾さんの自宅は約750平方メートルもの広大な土地に建てられていて、土地だけで約10億円の資産価値があると一部メディアが報じています。
小澤征爾さんは晩年はこの自宅で過ごされており、亡くなられたのも自宅だったという事です。
また、小澤征爾さんはこの自宅の他に、世界各地に別荘を保有しているとの情報も明かされています。
成城の一等地に、広大な敷地を所有する小澤家の資産は莫大だ。「約750平方メートルの土地だけでも10億円の資産価値がある。かつて征悦さんもバラエティー番組で明かしていたが、征爾さんはハワイやロサンゼルス、パリやスイスなど、世界各地に最大6軒の別荘を所有していました。それらを少なく見積もっても、全盛期の資産は30億円をくだらないはずです」
小澤征爾は食道がんなどの病気で晩年は長く闘病していた
小澤征爾さんは晩年は病気で長く闘病されていました。
小澤征爾さんは2010年1月に食道がんが見つかり、治療に専念するとして同年6月までの活動を全てキャンセルしています。小澤征爾さんはこの時、いくつかの仕事をキャンセルした事を詫びた上で、「兄もがんに罹ったがいまはぴんぴんしているので、がんが怖い病気と思ったことはない」ともコメントされています。
その後、小澤征爾さんは食道全摘出手術を受けて8月に復帰されましたが、以降は休止と活動再開を繰り返しました。
小澤征爾の車椅子姿も話題に
2010年に病気で休止した後、小澤征爾さんは活動再開と休止を繰り返されましたが、腰の手術を受けた事もあって車椅子での生活になりました。当時は、成城の自宅近くで娘の小澤征良さんが小澤征爾さんの車椅子を押してよく散歩しているのが目撃されていました。
小澤征爾さんはそれでも精力的に聴衆の前に姿を見せ、自身の名を冠したセイジ・オザワ 松本フェスティバルのカーテンコールにも車椅子姿で登場し観衆の喝采を浴びていました。
最後、車椅子で小澤征爾がステージに上がった所で号泣…😭 https://t.co/2ZARKnjktf
— elf4070 (@mentai4070) November 12, 2023
小澤征爾の現在…2024年2月6日に88歳で死去
出典:https://news.tv-asahi.co.jp/
病気で闘病を続けながらも車椅子姿で人々の前に姿を見せていた小澤征爾さんでしたが、2024年2月6日に88歳で死去されました。
世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引(けんいん)した指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去した。88歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を検討しているという。
小澤征爾の死因は心不全とのみ発表
小澤征爾さんの死因は「心不全」とのみ発表されています。
【訃報】小澤征爾 逝去について 指揮者小澤征爾は、2月6日都内自宅にて安らかに永眠いたしました。享年88歳。死因は心不全でした。
— 小澤征爾 Seiji Ozawa (@seijiozawa_info) February 9, 2024
故人の意思により、葬儀は近親者のみで執り行いました。
故人が生前賜りましたご厚情に深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせいたします。
VEROZA Japan pic.twitter.com/KLKVTlnZNZ
小澤征爾さんの「心不全」の原因となった病気が具体的になんだったのか(本当の意味での死因)は発表されておらず不明です。
まとめ
今回は、世界的指揮者として戦後の時代から活躍された小澤征爾さんについてまとめてみました。
小澤征爾さんの身長は公表されていませんが、その姿を生で目にした人の証言によれば160cmあるかないかの男性としては小柄な身長だったそうです。
小澤征爾さんは若い頃から音楽を志し、桐朋学園女子高校音楽科に進学して齋藤秀雄さんに師事して指揮者の道へと進みました。
そして22歳の若さで単身渡仏し、現地で開催された指揮者コンクールで優勝したのを皮切りに、世界的指揮者であるカラヤンとバーンスタインの下で学び、欧米で高い評価を得るようになりました。
そして、30代半ばにしてアメリカ5大オーケストラの1つ「ボストン交響楽団」の第13代音楽監督に就任し、およそ30年間にわたって務め、“世界のオザワ”とも称されました。
小澤征爾さんは生涯で2度結婚されていて、1度目の結婚の嫁は高校時代の同級生でフランスのパリで再開を果たしたピアニストの江戸京子さんでしたが、4年ほどの結婚生活ののち離婚。その後、モデルの入江美樹さんと2度目の結婚をしています。
嫁の入江美樹さんとの間には息子と娘が生まれており、息子は俳優の小澤征悦さん、娘はエッセイストの小澤征良さんです。小澤征良さんには息子が1人生まれていて、小澤征爾さんにとっては孫にあたります。
小澤征爾さんの自宅は東京都世田谷区成城の大豪邸で、他に世界各地に別荘を所有されているという事です。
小澤征爾さんは2010年に食道がんを患い、以降は病気で活動休止と再開を繰り返しました。この頃は車椅子生活でしたが、車椅子の姿で度々聴衆の前に姿を見せて喝采を浴びていました。
小澤征爾さんの現在は、2024年2月6日に88歳で死去されています。死因は「心不全」とのみ発表されています。