第二次世界大戦終結後もフィリピンの山奥で潜伏し続けた小野田寛郎さんは、慰安婦発言や横井庄一さんとの違いも話題です。
今回は小野田寛郎さんの帰国までの経緯や心霊写真、結婚した嫁や子供、名言集、海外の反応や現在をまとめました。
この記事の目次
- 小野田寛郎は戦後29年間もフィリピンで潜伏していた兵士
- 小野田寛郎の帰国までの経緯① 生い立ち
- 小野田寛郎の帰国までの経緯② フィリピンに派遣される
- 小野田寛郎の帰国までの経緯③ 早々に壊滅状態になり、山に逃げ込む
- 小野田寛郎の帰国までの経緯④ 日本は敗戦を迎えたものの取り残される
- 小野田寛郎の帰国までの経緯⑤ 不安定なフィリピン政府との戦い
- 小野田寛郎の帰国までの経緯⑥ 冒険家・鈴木紀夫の説得
- 小野田寛郎の帰国までの経緯⑦ 元上官・谷口義美から任務解除の命令が下る
- 小野田寛郎の心霊写真の噂は本当?
- 小野田寛郎の帰国後① 常にマスコミに取り囲まれていた
- 小野田寛郎の帰国後② ブラジルへの移住
- 小野田寛郎の帰国後③ 小野田自然塾を設立
- 小野田寛郎の帰国後④ 作家をしながら講演活動
- 小野田寛郎の帰国後⑤ 保守系の活動家として慰安婦問題を否定
- 小野田寛郎の結婚した嫁と子供
- 小野田寛郎の名言集
- 小野田寛郎と横井庄一の違い
- 小野田寛郎の晩年から死去
- 小野田寛郎の死去に関する海外の反応
- 小野田寛郎は現在もなお注目を集め続けている
- まとめ
小野田寛郎は戦後29年間もフィリピンで潜伏していた兵士
小野田寛郎のプロフィール
出典:https://www.jiji.com/j
小野田寛郎(おのだ ひろお)
生年月日: 1922年3月19日
没年月日: 2014年1月16日(91歳没)
出身地: 和歌山県
第二次世界大戦が終わってから29年間、フィリピンのルバング島ジャングル内で潜伏している陸軍兵士がいる、というニュースが日本中を騒がせたのは1972年のこと。
その人物こそが小野田寛郎さんで、紆余曲折を経て、1974年3月に帰国しました。
その後、兄がいるブラジルと日本を行き来しながら、本を出版したり講演したり、さらに独自の視点で国防論や慰安婦問題を論じ、オピニオンリーダーの役割も果たしました。
2014年1月16日に享年91歳で死去した際、その訃報はテレビやネットのニュースを駆け巡り、日本だけではなくブラジルでも死を悼むコメントが多数寄せられました。
小野田寛郎の帰国までの経緯① 生い立ち
29年間もフィリピンのジャングルで、潜伏し続けるという壮絶な人生を送ることになった小野田寛郎さん。
これには当時、現在では到底考えられないような思想が一般兵士にも根付いていたことも関係しています。
ここからは、小野田寛郎さんの生い立ち、出兵してから敗戦するまでの経緯、当時の社会情勢や思想についても振り返ってみましょう。
生い立ち
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小野田寛郎さんは、1922年に和歌山県海草郡亀川村(現在の海南市)で小野田家の4男として誕生しました。
父親は県議会議員で、母親は教師だったそうです。
また、長兄は東京帝国大学(現:東京大学)医学部を卒業後に陸軍将校、次兄も東京帝国大学を経て陸軍主計大尉になっており、かなりエリート揃いの家族だったことがうかがえます。
小野田寛郎さんは地元の旧制海南中学校に進学し、剣道選手として活躍。中学校を卒業すると貿易会社に就職し、中国武漢市で勤務して中国語や英語を習得しました。
小野田寛郎の帰国までの経緯② フィリピンに派遣される
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小野田寛郎さんが陸軍に入ったのは1942年のこと。満20歳になり、徴兵検査を受けて地元の和歌山歩兵第61連隊に陸軍二等兵として入営します。
ただ、入営してもすぐに前線に送られたわけではなく、陸軍予備士官学校で遊撃戦の基礎となる諜報、諜略、防諜、偽装などの特殊任務部隊としてのスキルを徹底して学んだそうです。
その後、フィリピン防衛線を担う情報部付けとなった小野田寛郎さんは、現地に向かう際、母親から「捕虜になる恐れがある時は立派な最期を遂げてください」と短剣を渡されたといいます。
母親から「あぶなくなったら死んでね」と短剣を渡されるなんて、愛国精神や自己犠牲の精神が今では想像できないほど日本の隅々にまで浸透していたという証拠でしょう。
小野田寛郎の帰国までの経緯③ 早々に壊滅状態になり、山に逃げ込む
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若い頃の小野田寛郎
フィリピンのルンバグ村に着任した小野田寛郎さんでしたが、早々に日本軍はアメリカ海軍の艦砲射撃に撃破されてしまい、あっさり壊滅状態に。
生き残った兵士数十名は投降したものの、小野田寛郎さん、赤津勇一さん、島田庄一さん、小塚金七さんの4人を含む兵士40人以上が山奥に逃げ込み、潜伏して味方の援護を待ちました。
自決や投降をしなかったのは、事前に上官から「必ず迎えに行く。兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使って頑張ってくれ」と言い渡されていたからでした。
ただ、山に逃げ込んだ兵士40人超は、広い山にバラバラに入っていったため、小さなグループがいくつもできていたようです。
小野田寛郎の帰国までの経緯④ 日本は敗戦を迎えたものの取り残される
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1945年8月15日に日本は終戦を迎えましたが、小野田寛郎さんのグループ4人には情報が入ってこず、山で潜伏生活を送り続けました。
終戦から2ヶ月を過ぎた頃、アメリカ軍は山に立てこもる40人以上の日本軍兵士に向け、投降勧告のビラをバラまいています。
しかし、小野田寛郎さんをはじめ4人は「敵の謀略に違いない」と考えて投降を拒否。
1946年2月になり、再び日本語での投降勧告が流れ、これを聞いた兵士約40人が続々と投降し、残った日本軍は小野田寛郎さんグループのみになりました。
しかし、終戦から丸4年後の1949年9月、夜間行動中にはぐれた赤津勇一さんが、フィリピン警察に投降し、1951年3月に帰国を果たしています。
赤津勇一さんが投降したことで、山に残されていた小野田寛郎さんが日本に帰国するきっかけになるのですが、それが実現するのはもっと先のことになります。
小野田寛郎の帰国までの経緯⑤ 不安定なフィリピン政府との戦い
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フィリピンに日本人兵士がまだ残っていることは、帰国した赤津勇一さんが家族や政府に明かしますが、当時のフィリピンは政情が不安定で、日本政府は3人の救出は叶いませんでした。
ようやく1952年に日本とフィリピン間の交渉がスタートすると、小野田寛郎さん、島田庄一さん、小塚金七さんの家族が書いた手紙や写真が大量に山奥にまかれて、投降を訴えたのです。
この時、小野田寛郎さんらは手紙や写真を山でちゃんと受け取っていましたが、またもや「情報戦の一環である」と疑った3人は、投降の呼びかけを無視していました。
そんな小野田寛郎さんたちは、フィリピンの山奥で生活するにあたり、現地の島民から略奪を繰り返していました。
これを重く見たフィリピン軍は、レンジャー隊を送りこみ、掃討戦を開始。
小競り合いが何度も起こり、1954年5月にフィリピン部隊からの発砲を受けた際には、島田庄一さんが眉間を撃ち抜かれて死亡しています。
さらに、1972年10月にはフィリピン警察との銃撃戦で小塚金七さんが死亡。
島田庄一さんも小塚金七さんも、日本政府が派遣した捜索隊によって遺体が発見されています。
仲間が3人とも消えてしまい、独りぼっちになった小野田寛郎さんですが、地元島民やレンジャー隊との掃討戦を何度も潜り抜けながら、ひたすら潜伏生活を送り続けました。
小野田寛郎の帰国までの経緯⑥ 冒険家・鈴木紀夫の説得
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日本兵救出のために、定期的に現地に入ってはビラをまいたり、拡声器で説得を試みてきた日本政府でしたが、小野田寛郎さんの姿を確認することはできませんでした。
しかし、その膠着状態を打ち破ったのは、冒険家の鈴木紀夫さんと、戦時中の上官だった谷口義美さんの活躍にあります。
まずは、鈴木紀夫さんとの関わりを見ていきましょう。
冒険家・鈴木紀夫の単独接触
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長年にわたって国費を使い、延べ1万人以上の捜査員を送り込んできた日本政府でしたが、1973年4月に、これ以上の捜査は難しいという理由で探索が打ち切られます。
しかし、日本政府の捜索打ち切りが決定した約半年後の1974年2月、当時24歳だった冒険家の鈴木紀夫さんがフィリピンの山へ単独で乗り込みました。
日の丸の国旗を掲げたテントを設置し、現地で寝泊まりをしていた鈴木紀夫さんを先に発見したのは小野田寛郎さんの方でした。
最初は敵国のスパイだと警戒していた小野田寛郎さんは、夜中まで待ち、鈴木紀夫さんに近づいて背後から銃を突き付けて「おい!」と声をかけました。
慌てた鈴木紀夫さんは「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と両手を上げたといいます。
鈴木紀夫さんはさらに「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」と説得を試みたのです。
この説得に対して「任務解除の命令がない限り、ここを動くわけにはいかんのだ」と断った小野田寛郎さん。
また、「スパイでは?」と警戒していましたが、「小銃の弾はあと何発残っているんですか?」など、軍人の機密事項を構わず質問してくる鈴木紀夫さんに、疑念が消えていったようです。
夜通し鈴木紀夫と語りあう
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鈴木紀夫さんがスパイではなく、物好きな変わり者の青年だと理解した小野田寛郎さんは、次第に落ち着きを取り戻し、銃を置いて日本の話を聞いてきたそうです。
時間はたっぷりあったため、2人はテントに入らず、大地にあぐらをかいて語り合ったそうです。
鈴木紀夫さんは「飲みましょう」とジンと紙コップを差し出したのですが、あいにく小野田寛郎さんは下戸でした。
鈴木紀夫さんは「残念だなあ。小野田さんは甘党ですか?」と言いながら、豆の缶詰を開けて渡し、お酒と豆で乾杯という不思議な飲み会に。
そして、日本は高度成長期に入り、大きく発展していることなどを伝えると、小野田寛郎さんは「上官の命令があれば山を下りる」と約束したといいます。
小野田寛郎さんと写真撮影をした鈴木紀夫さんは、発見を報告するために日本に戻っていきました。
小野田寛郎の帰国までの経緯⑦ 元上官・谷口義美から任務解除の命令が下る
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日本に戻った鈴木紀夫さんが、テレビ局に小野田寛郎さんの写真を提供し、これを情報番組やニュースが一斉に報道したことで、小野田寛郎さんの名前が一気に日本中を駆け巡りました。
1974年3月9日には、小野田寛郎さんの家族と鈴木紀夫さん、そして元上官だった元上官谷口義美さんが現地に渡って、小野田寛郎さんと面会を果たしています。
元上官の谷口義美さんが任務解除の命令を伝達すると、やっと投降することを了承した小野田寛郎さん。
翌3月10日夜にはフィリピン軍レーダー基地に移動し、ホセ・ランクード司令官を前に投降式を行いました。この時、小野田寛郎さんが神妙に軍刀を掲げる様子が今も写真に残されています。
これにより、小野田寛郎さんの中で続いていた長い戦争が終わりを告げ、日本航空の特別機に搭乗し、日本への帰国を果たしたのです。
小野田寛郎の心霊写真の噂は本当?
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ネットで小野田寛郎さんについて検索すると「心霊写真」、「閲覧注意」というワードが散見されます。
写真が新聞や雑誌に掲載された当時、背後に「とんでもないものが映っている」と、蜂の巣を突いたような大騒ぎになりました。どのような写真なのでしょうか。
該当の写真は新聞に掲載された
出典:http://ww5.tiki.ne.jp/
東京新聞に掲載された心霊写真疑惑
心霊写真の噂が出た画像は、1974年3月に小野田寛郎さんが帰国する直前に撮影されたものです。
小野田寛郎さんの背後には、軍服を着た英霊が複数映っていると新聞が一面に掲載し、話題を呼びました。
令和になった現在も、5ちゃんねる、知恵袋などの大手掲示板サイトで注目を集めています。
スレッドを見ると「みんなが守ってくれたんだね」、「合掌」などたくさんの書き込みがされています。
小野田寛郎の帰国後① 常にマスコミに取り囲まれていた
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上官命令によって軍刀を掲げて投降した小野田寛郎さんは、日本に帰国するとテレビや新聞、雑誌のメディア関係者に追われる日々が始まりました。
小野田寛郎さんが帰国する数日前から、日本ではメディアの報道合戦が過熱し、帰国の様子をキャッチしようと、マニラまで報道陣が競うように押しかけました。
各キー局では報道特集が組まれ、NHKの番組は視聴率45.4%という衝撃の数値を記録。
そして、帰国後に健康診断で入院した際も、病院の周囲をマスコミが取り囲み、実家にも同じように記者が殺到しました。
連日カメラやマイクを持ったマスコミ陣に追いかけられる生活が続き、さらに戦後大きく変わった日本の生活に戸惑った小野田寛郎さんは、孤独を深めていったといいます。
また、おおむね「戦争の犠牲者」と庇う報道がされた一方、現地民からの略奪など非人道的行為に対する非難の声も挙がり、このことも小野田寛郎さんの心をえぐっていきました。
小野田寛郎の帰国後② ブラジルへの移住
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小野田寛郎さんにとって日本での新生活が苦痛となっていたのは、ヘリコプターの音も理由のひとつだったといいます。
フィリピンでゲリラ戦を繰り広げていた時の敵軍航空機の音を思い起こされ、何度もフラッシュバックに襲われていたのです。
心身共に疲弊し、仕事も見つけることができなかった小野田寛郎さんが悩んでいると、ブラジルに移住した兄から連絡が来て「牧場をやらないか」と誘われます。
フィリピンで熱帯気候の生活には慣れていましたし、牧場で牛や自然が相手であれば、人間関係のしがらみがないと考えた小野田寛郎さんは、兄の誘いを受けることにしたのです。
こうして、小野田寛郎さんがブラジルの「バルゼア・アレグレ移住地」に渡ったのは、帰国してからわずか1年後のことでした。
朝から晩までブルドーザーを走らせて、1200ヘクタールという広大な土地を耕して牧場を整備し、7年間は無収入でしたが、10年目にやっと経営が成功ラインに達したそうです。
小野田寛郎の帰国後③ 小野田自然塾を設立
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長い年月を経て、ようやく牧場経営が軌道に乗り、安定した生活ができるようになった頃、あるニュースを見て小野田寛郎さんは愕然としたといいます。
そのニュースとは、川崎市の浪人生が就寝中の両親をバットで殴り殺す、という無残な事件でした。
小野田寛郎さんは「日本の子供たちは追いつめられている。このままでは日本がダメになる」と考え、1984年に帰国。
富士山の麓の地で子供達に向けたキャンプ場を開き、さらに健全な人間形成・自然と人間社会の共存を目的としたサバイバル塾「小野田自然塾」を開校しました。
これまでに毎年1000人の子供達がこの小野田自然塾の生徒となっています。
小野田寛郎さんによると、ブラジルの牧場の経営は順調かつスタッフにも恵まれていて、小野田寛郎さんが現地にいなくても問題はなく、安心して塾に没頭できたといいます。
1989年には私財を投じて「財団法人小野田自然塾」を設立し、現在は「小野田自然財団」という名前に変更されています。
小野田寛郎の帰国後④ 作家をしながら講演活動
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小野田自然塾を立ち上げた後の生活は、年に3ヶ月をブラジルで過ごし、それ以外は日本で子供の指導に力を注いでいた小野田寛郎さんは、執筆活動や講演活動も並行して行っていました。
フィリピンでの生活を綴った本を13冊出版し、戦争を体験した生の声を届ける講演活動などが評価され、2004年にはサントス・ドゥモン功労勲章、2005年には藍綬褒章を受賞しています。
小野田寛郎の帰国後⑤ 保守系の活動家として慰安婦問題を否定
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帰国後の小野田寛郎さんは、保守系の活動家としての顔も持ち、日本を守る国民会議、日本会議の代表委員等を歴任してきました。
その中で国防論を述べたり、論文を発表したりしているのですが、慰安婦問題については日本の責任を否定する立場を一貫して取っています。
ネットで検索すると「私が見た従軍慰安婦の正体」というタイトルで寄稿した論文を閲覧することが可能で、慰安婦問題について以下のように述べていました。
大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。
野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
引用:証言「私が見た従軍慰安婦の正体」 – 正論 http://www4.airnet.ne.jp/
慰安婦の存在は認めつつも、日本を蔑む目的で作られた言葉であると考えているようです。
小野田寛郎の結婚した嫁と子供
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ここからは、小野田寛郎さんのプライベートについて紹介します。
ブラジルに渡った翌年の1976年に結婚し、嫁は小野田町枝さんです。
嫁は小野田町枝
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嫁の小野田町枝と小野田寛郎
嫁の小野田町枝さんは、1937年に茨城県で誕生しました。
高校を卒業すると、ブリジストンで事務員として勤務した後、保険代理店を立ち上げて起業。
その後、自身の財産を全て処分してブラジルに渡り、ブラジルの地で生け花や日本語を教えて、生計を立てていたといいます。
1976年5月に小野田寛郎さんと結婚した時は、小野田寛郎さんは54歳、町枝さんは38歳でした。
2人の馴れ初めは一切語られていないのですが、小野田寛郎さんは「私は、長い空白の期間を経て、やっと人生の戦友をつかまえた」と著書内で綴っています。
子供はいるの?
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嫁の町枝さんと牧場を作り上げるなどブラジルで苦楽を共にし、夫婦仲は良好だったようでしたが、残念ながら子供は誕生していません。
そのため、牧場の経営は順調で生活に余裕はあったものの、将来の跡継ぎ問題が立ちはだかったこともあったそうです。
しかし、町枝さんの妹に息子が誕生したので、養子縁組をしてブラジルに迎え、無事牧場は危機を乗り越えたようです。
このため、小野田寛郎さんの実子はいませんが、戸籍上の息子が1人いるということになります。
小野田寛郎の名言集
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小野田寛郎さんは、たくさんの著書を出版し、さらに様々な場所で講演をしてきました。
これまでに紡いできた言葉は、説得力があって勇気に繋がる名言が多いと言われています。
ここでは、そんな小野田寛郎さんの名言をピックアップしてみました。
新しいことに挑戦したい時に
夢や希望を語るのは思っているだけ。それを目的に変えなければ達成できない。「したいと思います」から「やります」に変えるべきだ
今日は食べられなくても明日も食べられなくても、明後日には何とかなる。死にはしない
恐怖の大半は「自分」が作り出している
生きるか、死ぬかというギリギリのラインに立ち続けてきたからこその言葉です。
失敗を恐れていてはいけない、という小野田寛郎さんの声が聞こえてきそうですね。
子育てに悩んだら
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叱りすぎてもだめ、褒めすぎてもダメ。叱りすぎると叱った人が慢心し、褒めすぎると誉められた人が増長する。それでも、子供たちは叱るより誉めてやりたい。
親の顔が見たいと思う時はまだ救われる。親の顔を見たくなくなったらおしまい。親を見れば子が分かる。子を見れば親が分かる。親子は鏡
長年、小野田自然塾でたくさんの子供と接してきた小野田寛郎さん。
生徒の親子関係を見てきましたし、小野田寛郎さんは養子を迎えているので、子育ての難しさを違った視点で見ていたのかもしれません。
小野田寛郎と横井庄一の違い
出典:https://yomidr.yomiuri.co.jp/
グアムで長年ジャングル生活を送った横井庄一
残留日本兵として小野田寛郎さんとよく比較されるのが、横井庄一さんです。
戦争終結後もグアム島で28年間に渡るジャングル潜伏生活を送っていた横井庄一さんと、小野田寛郎さんとの違いを見ていきます。
横井庄一のプロフィール
出典:http://memory-jp.com/
横井 庄一(よこい しょういち)
生年月日: 1915年3月31日
没年月日: 1997年9月22日
出身地: 愛知県
横井庄一さんは1939年8月に中国の満州に召集され、1944年から陸軍軍曹としてグアム島に赴任します。
米軍との戦いで、日本軍は壊滅的なダメージを負いますが、命からがらジャングルに逃げ込んだ横井庄一さんは、1人でゲリラ戦を展開し続け、1945年の終戦を知りませんでした。
残留日本兵へ投降を呼びかける放送を耳にしていたものの、情報戦の1つだろうと考え、投降するという発想を持たないまま年月が経過。
グアムに派遣されてから28年後の1972年1月のある日、エビと鰻を獲るための罠を仕掛けに行ったところを地元民に発見されました。
こうして1972年2月2日、満57歳で帰国を果たし、記者会見での「恥ずかしながら帰って参りました」が流行語になっています。
帰国した1972年はオイルショックが起こり、小松左京さんの小説『日本沈没』が大ヒットするなど、国内では有事に対する意識が高まり、横井庄一さんに講演依頼が殺到。
晩年は陶芸家として活動したり、テレビ番組「ザ・サバイバル」に出演したりと、忙しくされていたようです。
その後の1997年9月22日、心臓発作で死去。享年84歳でした。
2人の違いは帰国後の生活にあった
横井庄一さんと小野田寛郎さんの共通点は、30年近くに渡り、海外のジャングルで潜伏生活を送り、帰国後は本を出版したり、講演の講師を務めたりしたことです。
最も違うのは、帰国後の日本における生活ではないでしょうか。
横井庄一さんと小野田寛郎さんが立て続けに帰国したことで、日本では「軍人ブーム」が巻き起こり、軍人バーが相次いで開店し、軍に関するイベントが多数開催されました。
横井庄一さんは浦島太郎っぷりで脚光を浴び、イベントやテレビ番組に引っ張りだこで人気になるなど、すぐに日本での生活に馴染むことができたんです。
一方の小野田寛郎さんは、どうしても日本に馴染めず、さらに父親とも不仲になるなど人間関係に悩み、帰国からわずか1年で日本を脱出しています。
もともとの性格や置かれた環境によって、2人のその後に違いが出たのかもしれませんね。
小野田寛郎の晩年から死去
出典:https://www.dailyshincho.jp/
晩年の小野田寛郎
小野田寛郎さんは晩年も、それまでと変わらず日本とブラジルを行き来する生活を送っていました。
2004年、ブラジル空軍から民間最高勲章「メリット・サントス・ドモント」を授与され、同年、マット・グロッソ州名誉州民に選ばれています。
日本では、東京都中央区佃に拠点を置き、愛知県議員の森高康行さんをはじめとした政治家との繋がりを持ち、嫁の町枝さんも2006年に日本女性の会の会長に就任。
2009年には、「小野田寛郎の日本への遺言」というタイトルで2時間に渡る講演の講師を務めるなど、その後も多忙な生活を送っていたことが判明しています。
しかし2013年12月、ブラジルから帰国後に体調を崩し、年明け6日から入院。
病床では「3月に講演の予定があるので、準備をしないと」と前向きな様子だったそうですが、肺炎が悪化し、2014年1月16日に死去。享年91歳でした。
小野田寛郎の死去に関する海外の反応
出典:https://www.pal-shop.jp/
小野田寛郎さんが死去すると、そのニュースは日本のみならず、世界中を駆け抜けました。
米紙ニューヨーク・タイムズでは、投降の印として軍刀をフィリピン大統領に手渡している写真とともに「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容しています。
ワシントン・ポストでは「多くの軍人は処刑への恐怖から潜伏生活を続けたが、小野田さんは任務に忠実であり続けたがゆえに多くの人の心を揺さぶった」と絶賛。
海外のネットユーザーからは「彼は英雄の中の英雄!私は元アメリカ兵だけど、彼を心から尊敬している」、「非常に悲しい話ね。戦争はみんなを不幸にするのね」などの声が挙がりました。
どうやら海外でも、長年任務に就き続けた小野田寛郎さんの忍耐力や忠実さは、尊敬されているようですね。
小野田寛郎は現在もなお注目を集め続けている
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2022年現在、小野田寛郎さんが亡くなって8年が経過しました。今も、その波乱万丈な人生は注目を集めています。
2021年には、小野田寛郎さんの人生が映画化され、タイトルは「ONODA 一万夜を越えて」で、撮影はカンボジアで行われました。
この映画は、2022年2月に「第47回セザール賞」の作品賞、監督賞など4部門にノミネートされており、最終的には脚本賞を受賞しています。
さらに、第74回カンヌ国際映画祭のオープニング作品に選ばれ、上映後15分に渡りスタンディングオベーションが鳴り止みませんでした。
小野田寛郎さんがフィリピンで発見されてから約50年が経過していますが、今でもなお小野田寛郎さんは世界中から注目を集め続けています。
まとめ
小野田寛郎さんは、第二次世界大戦でフィリピン島に赴任しましたが、終戦を信じず、上官の命令に従って29年間ジャングルで潜伏し続けた元日本兵です。
1974年にようやく帰国するも、日本に馴染めず、兄がいるブラジルに渡り、牧場経営者に転身。その後、町枝さんという日本人女性と結婚し、夫婦二人三脚で牧場を経営をしていました。
子供には恵まれませんでしたが、嫁の甥を養子に迎えています。
牧場は10年かけて経営が軌道に乗りましたが、日本の子供の未来を憂いて「小野田自然塾」を開塾。
サバイバル手法や自然との関わり方などを教える講師や、戦争体験の講演、本の出版などを行い、ブラジルと日本を行き来する生活を送ってきましたが、2014年1月に肺炎で死去。
世界中に訃報が配信されると、海外の反応は尊敬に満ち溢れたものでした。
小野田寛郎さんの体験が2021年に映画化され、今もなお注目を集めています。小野田寛郎さんのご冥福をお祈りします。