1985年に起きた大惨事「日本航空123便墜落事故」ですが、墜落原因や真相、生存者の現在が注目を集めています。
今回は「日航機墜落事故」による犠牲者と事故原因と真相、公開された機長らの音声テープ、生存者の現在をまとめました。
この記事の目次
「日航機墜落事故」とは~520名もの犠牲者が出た航空史に残る大惨事
「日航機墜落事故」は、東京・羽田発の大阪・伊丹行きの日本航空のジャンボジェット機が、群馬県多野郡上野村の高天原山尾根に墜落した航空事故です。
多くの報道では「御巣鷹山に墜落」と伝えられたことから、“御巣鷹山”という名称が広く知られることになりましたが、正確には「高天原山に属する尾根」でした。
しかしその後、JAL123便の墜落地点である“高天原山の尾根”は、当時の上野村村長だった黒沢丈夫氏により“御巣鷹の尾根”と命名されています。
「日航機墜落事故」が航空史上最悪と言われている理由
「日航機墜落事故」で墜落した日本航空123便は、お盆の帰省ラッシュに加えて夕方のラッシュ時が重なり、満席の状態でした。
出典:http://tetsu-log.com/
その後の運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書の発表によると、乗員乗客524名のうち、生存者はたったの4名で、残り520名全員の死亡が確認されています。
航空機の墜落事故による死者520名という数字は、日本国内で発生した航空機事故では2019年8月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多なのです。
出典:https://twitter.com/
また、歌手の坂本九さんや宝塚歌劇団の娘役・北原遥子さん、当時阪神タイガース球団社長の中埜肇さんなど、多くの芸能人や著名人が犠牲になった事故としても知られています。
「日航機墜落事故」の墜落現場はまさに地獄絵図と化してた…
今回この「日航機墜落事故」を調べるに当たり、何気なく画像検索をかけてみたのですが、この世のものとも思えないような無残な画像で溢れていました。
とてもここには掲載することはできないと判断したため、被害者のご遺体が写った画像は一切、掲載を自粛しています。
出典:https://dot.asahi.com/
墜落現場の様子を画像で見ただけでもトラウマレベルだと感じますが、実際この現場に入り、救出活動や事故原因の調査、そして報道に当たられた方は、どのように感じたのでしょうか?
事故発生直後に現場に駆けつけた、ジャーナリスト・米田憲司氏、カメラマン・松本逸也氏、事故調査官・藤原洋氏による生々しい証言が掲載された記事から、印象的なものを拾ってみます。
松本:現場ではどこにカメラを向けても遺体が写ってしまうような状況だったので、最初は生存者がいるなんて思いませんでした。
ところが、担架にのせられた比較的きれいな状態の女性に望遠レンズで照準を合わせると、指がピクリと動いたのです。驚いて消防団の団員に伝えると、「生きています」と。4人の生存者の一人、吉崎博子さんでした。ファインダー越しに動いた指は今もこの目に焼き付いています。
吉崎さんは痛さに呻き声をあげ、落合由美さんは血だらけで声も出せない様子で目の前を通りすぎて行きました。カメラマンは興奮して、みんな泣きながら写真を撮っている。私も知らぬ間にボロボロと涙を流していました。ああいう感情になったのは初めてです。
引用:1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代) https://gendai.ismedia.jp/
機体は、“御巣鷹の尾根”に激突した後、前部と後部に分断され、大破しながら谷底まで落ちていきました。尾根に生える大木をなぎ倒しながら…。
ですので、墜落現場はまるでゴミの山のようになっていたのだとか。
出典:https://mainichi.jp/
そして、機体の破片や荷物などが散乱していたのみならず、木々に巻き込まれて散り散りになった乗員乗客の遺体の一部が辺り一帯に飛び散っているような状況でした。
カメラをどこに向けてもそうした遺体が写り込んでしまうため、現場に急行したカメラマンたちは泣きながらシャッターを押していたそうです。
米田:松本さんが登った翌日14日に、御巣鷹の尾根に登りましたが、現場は足の踏み場がなかった。
松本:そうですね、どうしても残骸の上から足元の遺体を踏んでしまう。まるで布団の上を歩いているような、ふわふわとした感じでしたが、あの靴底の不気味な感触は絶対に忘れられません。
米田:上を見ると、内臓や皮膚が木の枝にまとわりついてひらひらとぶら下がっている。周囲の樹木全体がそうなんです。炭化した遺体の足や手も地面のあちこちから出ていて、私は遺体に目の焦点を合わせないように歩いていました。
松本:まさに地獄絵です。
引用:1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代) https://gendai.ismedia.jp/
アラブなどの激しい紛争地帯の取材を経験しているカメラマン・松本逸也氏ですら、「日航機墜落事故」の現場は、それらを遙かに超える凄惨さだったと語っています。
米田:現場に近づくと、機械油の臭いや焦げくさい臭いがしてくるんです。
藤原:現場に着くと遺体の臭いが酷かったですね。
米田:事故から2~3日後、山を降りたところにある取材拠点でハエや蚊を見なくなったんです。地元の人に聞くと、「臭いを求めて山に上がった」と。私は東京に戻っても、腐臭を感じました。実際はそんな臭いはしないのですが、鼻孔にこびりついていたのかもしれません。気にならなくなるまで1ヵ月かかりました。
(中略)
米田:体育館の中は線香の匂いで充満していました。最初は完全遺体の方が多かったのですが、だんだん部分遺体が増えていきました。部分遺体は山の上で何日も経っているので、虫がたくさん湧いている。見たこともない大きなウジ虫です。関係者の方が体育館の裏で洗い流していました。
引用:1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代) https://gendai.ismedia.jp/
出典:https://mainichi.jp/
出典:https://mainichi.jp/
「日航機墜落事故」の原因と真相について
事故調は7年前の“しりもち事故”の修理ミスと推定
「日航機墜落事故」の原因は、約7年前に起こった“ある事故”の際に生じていたと言われています。
「日航機墜落事故」を起こした機体は、1978年6月2日に羽田発伊丹行き115便として伊丹空港に着陸の際、機体底部が滑走路に接触する“日本航空115便しりもち事故”を起こしていました。
出典:https://www.tripadvisor.jp/
この“しりもち事故”による機体の修理はボーイング社が行いましたが、後部圧力隔壁の修理の際に人為的ミスがあったことが判明しています。
しかも、その“しりもち事故”から「日航機墜落事故」までの7年間に、同機体では28件もの客室後部のドアの不具合が指摘されていたと言います。
これらの不具合は、7年前の“しりもち事故”によって生じた機体の歪みによるものと考えられており、ボーイング社の完全な修理がされないまま同機が使用され続けていたことを意味します。
そして、1985年8月12日、日本航空123便は遂に致命的故障を起こし、それはそのまま大惨事へと直結してしまうことに…。
出典:http://co-smart.net/
公式に発表された「日航機墜落事故」の原因としては、1987年6月19日に運輸省事故調査委員会が公表した事故調査報告書の中で、本事故の推定原因を発表しています。
その要旨は以下の通りです。
① 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
② 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定される。
③ この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なものであったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
引用:日本航空123便墜落事故 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
実際、日航機事故で現場調査の責任者を務めた藤原洋氏も、次のように証言されています。
調査初日に胴体の中にしかない断熱材が尾翼の中にたくさん入っているのを見つけました。圧力隔壁が破れないと、断熱材は尾翼には入りません。隔壁が破れたことが事故の引き金になったということを、その時点で確信しました。
引用:1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/5) https://gendai.ismedia.jp/
垂直尾翼が破損し脱落した日本航空123便の目撃証言
この記事ではあえて触れませんが、実は、後部圧力隔壁の損傷が事故原因とする説以外に、自衛隊のミサイル誤射説、アメリカ空軍による陰謀説などもまことしやかに囁かれているようです。
しかし、いずれにしても日本航空123便の垂直尾翼が破損していたことは間違いなさそうなんですよね。
事故当日、東京都西多摩郡奥多摩町で、123便の不可思議な機影に疑問を感じた人が、思わずシャッターを押した写真がこちら。
出典:http://hemitotsy.blog.fc2.com/
この写真によって日本航空123便が垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが、後日初めて明らかになりました。
日本航空123便の異常な機影は、他にも各所で目撃されています。
出典:https://mononoke-report.blogspot.com/
出典:http://inspecaoequipto.blogspot.com/
「日航機墜落事故」で命取りとなったのは油圧システムの致命的な損傷
ただ、垂直尾翼が脱落したことが、その後の日本航空123便の墜落に繋がったわけではないようです。
出典:http://electronic-journal.seesaa.net/
上図を見ていただければ分かりますが(クリックすると大画像で見ることができます)、垂直尾翼が脱落したということは、方向舵を喪失することになるので、方向の制御は難しくなります。
しかし、「日航機墜落事故」において致命傷となったのは、ハイドロプレッシャー(油圧操作)システムの致命的なトラブルだと言われています。
そして、そのハイドロプレッシャー(油圧操作)システムを制御している「油圧制御装置」は、破損した後部圧力隔壁のすぐ近くに存在しているんですよね。
圧力隔壁の破損により、この油圧制御装置が直接損傷を受けたか、あるいはこの制御装置に繋がる4系統ある油圧パイプが全て破損されたことが考えられます。
これにより、操縦システムに必要な作動油が流出し、昇降舵や補助翼の操舵が不可能になり、日本航空123便の操縦機能はほとんど喪失していたと言われています。
「日航機墜落事故」直前の機長の音声が公表され話題に【動画あり】
「日航機墜落事故」機長の「これはだめかも分からんね」が話題に…
回収されたボイスレコーダーには、高濱雅巳機長と佐々木副操縦士、福田博航空機関士の最後まで諦めなかった様子が録音されていました。
プロフィール
機長:高濱雅己(49歳)
生誕:昭和11年1月2日
居住:千葉県
日航入社:昭和41年12月1日
飛行時間:12,423時間41分
同型式機飛行時間」:4,842時間22分
プロフィール
副操縦士:佐々木祐(39歳)
生誕:昭和21年
居住:千葉県
日航入社:昭和45年4月18日
総飛行時間:3,963時間34分
同型式機飛行時間:2,665時間30分
プロフィール
航空機関士:福田博
生誕:昭和14年
居住:千葉県
日航入社:昭和32年4月1日
総飛行時間:9,831時間03分
同型式機飛行時間:3,846時間31分
ボイスレコーダーの音声記録は、事故後15年が経過した時点で報道向けに公開されましたが、会話内容等は、事故当時新聞などに掲載されたものとほぼ一致しています。
また、異常発生から墜落までの約30分の音声を短くまとめた上で、具体的な日本航空123便の飛行ルートや、専門用語の解説なども重ねて表示した動画をYouTubeで見つけたので紹介します。
突然の爆発音とともに、「まずい、何か爆発したぞ!」という切迫した機長の言葉から始まるこの動画。
機体の操縦機能をほぼ喪失するという絶望的な状況の中、524名の命を守ろうと、狭いコックピットの中で、最後のその瞬間まで懸命に格闘した3人の記録です。
出典:https://lovely-lovely.net/
様々な警報音が鳴り響く中、やがて機長は誰に言うでもなくつぶやきました。
「これはだめかもわからんね」
この機長の言葉は当時大変な話題になり、一部に強い批判も巻き起こったようです。
しかし、ボイスレコーダーが公開され、コックピットの3名が最期の最期まで決して諦めず、全力を尽くしていたことが判明すると、批判の声を口にする者は一切いなくなったと言います。
ちなみに、「日航機墜落事故」と同じ状況をシミュレーションで再現したところ、日本航空123便と同じだけの飛行時間を続けられたパイロットはいなかったそうです。
出典:http://www.asahi.com/
「日航機墜落事故」の機長に対するネットの声
最後に、このボイスレコーダーの動画に寄せられた様々なコメントのうち、特に印象に残ったものを拾ってみました。
かなり早い段階で垂直尾翼吹っ飛んでるし、「ハイドロプレッシャーオールロス」言ってるからこの段階でほぼ通常操縦は不可能なんだよな……。で、とりあえず機内の急減圧を抑えるための措置としてフラップ降ろして高度下げて、殆ど操縦できないわけだから機体が大きく右旋回している状況を見ると方角的には羽田に向かうのが吉。つか、「なんか爆発したぞ」から墜落まで30分近くパワーと空気抵抗だけで飛ばしてんだから物凄いよな……。不謹慎だけどコクピットクルーの方々がかっこ良すぎる。
最後の一瞬まで諦めなかった3人は本当にすごいと思う 機長は最後まで指示を出し続けて副操縦士を励まして副操縦士は力のかぎり操縦しようとして 機関士は絶望的な状況を打開しようと案をだして、、、 このこの事故があったからこそ助かった事故もある 世界中の空が安全でありますように
墜落3秒前の11:24に「もう、だめだ」と機長が発してますね。最期の言葉に機長の思いが詰まっているのを感じました。目を閉じて神に祈るのではなく、墜落直前まで可能な限りの全ての操作を試みたが叶わなかった、そして、墜落直前死を意識した悟りの言葉だったのだろうと思います。 機長の役割を全うした立派な方だったと認識致しました。 黙祷
こんな頑張ったのに、最後には歯しか残らなかった機長たち、世間には人殺しと呼ばれる始末。 なんて言えばいいのかね、本当に理不尽というか。
引用:日航ジャンボ機 – JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー) – YouTube https://www.youtube.com/
「日航機墜落事故」の生存者4人が助かった理由とは
「日航機墜落事故」で救助された4人は、ヘリコプターで上野村にあった対策本部に次々と運ばれました。
出典:http://hemitotsy.blog.fc2.com/
当初、生存者は7人とも8人とも言われていたようですが、実際に対策本部に運ばれてきたのは4人だけでした。
「日航機墜落事故」の生存者が助かった理由とは?
乗客乗員524名のうち、520名が死亡した「日航機墜落事故」の生存者4名は、機体最後部の座席に集中していたようです。
出典:http://dokujyoch.net/
日本航空123便の墜落の瞬間、“御巣鷹の尾根”に右主翼が接触し、空中分解するように機体前部と後部が寸断されています。
そして機体前部は山の斜面と並行になるように胴体着陸し、谷底まで大破しながら滑り落ちていきました。
一方、その直前に寸断された機体後部は、直接の衝突を回避しただけでなく、うっそうと茂る木々がクッションになり徐々に落下したため衝撃が少なかったようです。
しかも、燃料タンクとも分断されたため、火災が発生しなかったのも大きな要因だと言われています。
「日航機墜落事故」の生存者4人の現在
世界的にみても最悪の死者数を出した「日航機墜落事故」で奇跡的に生き残った4人には、多くの激励する声が寄せられたと同時に、心無い人間の好奇の目にも晒されることになりました。
出典:https://www.buyjapon.com/
事故後、4人の生存者には、事故の真相を探るべくストーカーまがいの行為を繰り返す人間がいたり、中には迷惑電話などをかける不届き者が後を絶たなかったそうです。
また、死も覚悟した想像を絶する事故を経験したことで、重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、フラッシュバックやパニック発作を繰り返すようになった人もいたようです。
出典:https://twitter.com/
「日航機墜落事故」の生存者① 川上慶子さんのその後と現在
事故当時12歳だった川上慶子さんは、北海道への家族旅行の帰りに日本航空123便に搭乗していました。つまり、川上慶子さんは「日航機墜落事故」によって家族を失ってしまったのです。
まだ幼い川上慶子さんが、御巣鷹山の事故現場からヘリコプターで吊り上げられて救助っされるシーンは、まさに日本中が注目した感動シーンですね。
出典:https://tachikawa.tamaliver.jp/
その後、川上慶子さんは、保健師をしていた母の遺志を引き継いで看護師の職に就きました。
そして、1995年に発生した阪神淡路大震災では、現地ボランティアとして多くのけが人の救護に当たるなど、大活躍したことでも知られています。
また、事故後しばらくはPTSDにより飛行機に乗れなかったようですが、その後克服してアメリカに渡り、現在はアメリカ人男性と国際結婚をして、3人の子供にも恵まれたそうです。
「日航機墜落事故」の生存者② 落合由美さんのその後と現在
日本航空の客室乗務員をしていた落合由美さんは、事故当日は客室乗務員としてではなく、たまたまプライベートで日本航空123便に乗り合わせていました。
後に、落合由美さんの証言により、事故直後には多くの生存者がいたことが判明しています。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
引用:生存者の一人・落合由美さんの証言 http://www.link-21.com/
そんな落合由美さんは、その後も日本航空事故関連の仕事を任されていたそうですが、その後、日本航空を定年退職されています。
現在は、大阪市内で主婦として暮らす傍ら、「日航機墜落事故」を経験した立場として、安全教育セミナーなどを開いているそうです。
「日航機墜落事故」の生存者③ 吉崎博子さんのその後と現在
当時34歳だった吉崎博子さんは、5人家族全員で日本航空123便に搭乗していました。
残念ながら、「日航機墜落事故」によって夫と子供2人を亡くしてしまいましたが、娘の吉崎美紀子さんが助かっており、現在は東京都内の母方の実家で一緒に暮らしているそうです。
「日航機墜落事故」の生存者④ 吉崎美紀子さんのその後と現在
吉崎博子さんの娘さんである吉崎美紀子さんは、事故当時8歳で、生存者の中で最年少でした。
出典:https://twitter.com/
事故による骨折などの重傷を負ったものの、後遺症もなく順調に回復し、前述したように現在は、東京都内で母親の吉崎博子さんと一緒に暮らしているそうです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
1985年のお盆休みの真っ最中に起き、520名もの犠牲者を出した、航空史に残る大惨事「日航機墜落事故」の原因と真相に迫るとともに、生存者のその後と現在についてまとめてみました。
この悲惨な事故が起きて以降、日本のエアラインでは職員も含めて、ただの1人の犠牲者も出していないそうです。
この事故の教訓が様々な形で生かされているからに違いない…犠牲者のためにも、そう思いたいですね。
ちなみに、高濱機長の娘・高濱洋子さんは、現在、日本航空の客室乗務員として働かれているそうです。
最後に、「日航機墜落事故」により亡くなられた520名の犠牲者のご冥福を、心よりお祈り致します。