「お猿の学校」で一世を風靡した日光猿軍団ですが、校長だった間中敏雄さんは息子が事故死するなど波乱万丈の人生を送っています。
今回は日光猿軍団の校長・間中敏雄さんの経歴や嫁、2人の息子、現在の活動などをまとめました。
この記事の目次
日光猿軍団とは
日光猿軍団は、間中敏雄さんが運営していた栃木県日光市にあった猿まわし団体&テーマパークのことです。
株式会社間中屋が、1992年1月に「お猿の劇場」を兼ねたテーマパーク「日光猿軍団」をオープンさせました。
猿まわしは少なくとも江戸時代には日本で行われていた大道芸の一種で、昭和30年代に一時途絶えたものの、1978年には「周防猿まわしの会」によって復活しました。
そんな古来からある大道芸の猿まわしの中でも、日光猿軍団は群を抜いて人気になります。
日光猿軍団が人気になった理由は、従来の「人間と猿の1対1」というマンツーマンの猿まわしではなく、「人間1人に対し猿が複数」という形にしたことが大きな理由です。
さらに、間中敏雄さんが校長、猿たちが生徒役で「学校」という猿まわしの形式を発明し、それが大ヒットしました。
日光猿軍団の1日の最高売り上げはなんと4000万円です。
しかし、猿の高齢化などを理由に、2013年に日光猿軍団は閉園しています。
日光猿軍団の校長・間中敏雄の経歴
世間を一世風靡した日光猿軍団の校長、間中敏雄さんの経歴を見ていきましょう。
実は、間中敏雄さんは波乱万丈な人生を送ってきた苦労人なんです。
貧しい家庭で苦労する
日光猿軍団の校長であり創設者である間中敏雄さんは、埼玉県で1948年6月9日に生まれます。
7人兄弟の中で育ち、9人家族が六畳一間に暮らすような貧しい家庭でした。
そのため、小学1年生の頃から新聞配達のアルバイトをして、家計を助けながら育ちます。
新聞配達は中学卒業まで続け、中学卒業後は郵便局員として働きながら、定時制の高校に通いました。
駆け落ちをして結婚
郵便局員の仕事は7年で退職し、間中敏雄さんはそこから職を転々としていました。
そのような中、間中敏雄さんが25歳の時に、18歳の清子さんという女性と出会い、恋に落ちます。
2人は結婚しようとしましたが、清子さんが未成年のため家族に反対され、駆け落ちします。しかし、すぐに見つかって連れ戻され、強制的に別れさせられました。
その半年後、偶然街中で会った2人はついに結婚します。運命的な結婚だったんですね。
結婚後も、すぐに日光猿軍団を創設したわけではなく、間中敏雄さんは職を次々に変えていきます。
・水商売の客引き
・タクシーの運転手
・観光案内
・電気屋
・下水道工事
・廃品回収
・八百屋
・保険のセールス
・マルチ商法まがい
これだけの仕事をしてきた間中敏雄さんは、34歳の時にようやく猿たちに出会います。
独学で猿回しを学ぶ
職を転々としてきた間中敏雄さんは、栃木県日光市にあるテーマパーク「日光江戸村」のオープンと同時にパーク内で甘栗やお土産販売の仕事をすることになりました。
そして、その時にたまたまテレビで「周防猿まわしの会」の猿まわしを見ます。そして、猿まわしをすることを決意したのです。
「カネ儲けするためじゃなくて、好きだから。猿を見てて、おめえら面白い顔してんなー!と思ったから」
このテレビを介しての猿まわしとの出会いが、間中敏雄さんの運命を大きく変えていくことになります。
間中敏雄さんはまずは3匹の猿を飼い、独学で猿まわしを学んでいきます。今までにない猿まわしを目指すために、弟子入りすることはなく、独学で学ぶことを決めたとのこと。
猿たちと生活を共にして、猿の心をつかんでいきました。
レオ様もファンになるほどの人気に
出典:cinemore.jp
1990年、日本モンキーセンターから13匹の猿をもらい受け、ついに日光猿軍団を結成します。
そして、間中敏雄さんの娘さんの「学校をやったら?」という一言で、「お猿の学校」のコンセプトが誕生します。
最初は日光江戸村でお猿たちの芸を披露し、お客さんからおひねりを貰うことだけが間中敏雄さんの唯一の収入でしたが、ひょんなことからテレビへの出演が決まり、人気に火が付きます。
「お猿の学校」と校長・間中敏雄の誕生です。
さらに、知り合いの建設会社の社長の協力を得て、日光猿軍団のテーマパークを1億8000万円かけて建設します。
建設費を返済できるかどうか不安もあったそうですが、日光猿軍団は大人気になり、たった2ヶ月で返済を完了。しかも、費用を出してくれた社長に何割かつけて返したそうです。
全国各地からイベントに呼ばれるようになった日光猿軍団と校長の間中敏雄さん。
移動を少しでも簡単にするために、3億円を出してヘリコプターを購入したこともあります。また、8億円かけて日光猿軍団御殿も建設しました。
あのハリウッドスターのレオナルド・ディカプリオさんも、日光猿軍団のファンだったほどです。
東日本大震災の影響で経営危機に
大人気になり一世を風靡した日光猿軍団と校長の間中敏雄さんですが、東日本大震災の煽りを受けています。
2011年の東日本大震災の時、校長の間中敏雄さんは隠居状態で、猿の調教は中国人や韓国人が担当していました。
しかし、東日本大震災で福島第一原子力発電所の事故が起こったことで、外国人の調教師たちは放射能汚染による被ばくを心配して、みんな母国に帰ってしまったんです。
また、福島第一原子力発電所の事故の風評被害で、日光猿軍団の観客も一気に減ってしまい、日光猿軍団は経営危機に陥ってしまったのです。
日光猿軍団の校長・間中敏雄の嫁とは
日光猿軍団の校長の間中敏雄さんの嫁は、7歳年下の清子さんです。
清子さんが18歳の時に校長・間中敏雄さんと運命的な出会いをして、一度は駆け落ちをします。駆け落ちをした時は連れ戻されてしまいますが、偶然再会して、2人は結婚しました。
間中敏雄さんが猿を飼った時は、次のように冷たい態度を取ります。
「悪いけど、猿は嫌いだからね」
確かに、いきなり自分の夫が「猿まわしをするから猿を飼う」と言い出したら、誰だってこんな風に言いますよね。
でも、清子さんは結局は間中敏雄さんを手伝って、赤ちゃん猿の世話をするようになったんです。ステキな奥様ですよね。
そんな間中敏雄さんと清子さんは、息子を2人・娘を1人もうけています。
日光猿軍団の校長・間中敏雄の息子(長男)は事故死していた…
出典:youtube.com
日光猿軍団の校長・間中敏雄さんの長男の和彦さんは、なんと1995年に事故死しています。
長男の和彦さんは中学卒業後、猿の調教師になることを希望します。
両親からは「高校は出なさい」と説得され、高校に進学したものの、3日で退学を決意して、調教師の道を進みます。調教師として経験を積み、校長を目指すほどになっていました。
日光猿軍団の期待の星だった和彦さんですが、20歳だった1995年11月の深夜、友達を乗せて車を運転していた時に、交差点で横から来た車と接触し、和彦さんは事故死してしまいました。
校長の間中敏雄さんと嫁の清子さんは長男の事故死にすっかり憔悴し、仕事が手に付かないほどの落ち込みようでした。
日光猿軍団の校長・間中敏雄の息子(次男)は間中利美
日光猿軍団の校長である間中敏雄さんの次男は、間中利美さんです。
間中利美さんは1996年までは芸能界で活動していましたが、1997年からストリートパフォーマンスを学ぶためにオーストラリアやアメリカに留学しました。
そして、2000年からは父親が校長を務める日光猿軍団に戻り、日本猿の調教を学びます。
2004年には日光猿軍団を飛び出して、神戸モンキーズ劇場に所属し、沢山のステージ・イベントに出演し、さらにメディアにも進出していきます。
2011年「モンキーエンタテイメント」を立ち上げ、モンキーセラピーなどの活動も行ってきました。
間中利美さんと猿たちは次のような出演歴があります。
・NHK 真田丸
・行列のできる法律相談所
ほかにも多くのメディアに紹介され、たくさんのイベントに出演してきました。
そんな間中利美さんのすごいところは、日光猿軍団・校長の息子だと公表していなかったことです。
ネームバリューがある「日光猿軍団の校長の息子」であることを公表せずに、自分の力だけで活動してきました。
そして、2020年2月に放送された日本テレビの「衝撃のアノ人に会ってみた!」の中で、初めて校長・間中敏雄さんの息子だと明かしました。
日光猿軍団を校長・間中敏雄が閉園した理由
出典:asahi.com
日光猿軍団の校長である間中敏雄さんは、2013年に日光猿軍団を閉園しています。
閉園した理由は、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故の影響もありましたが、自分が高齢になったこと、さらに相棒の猿たちも高齢になったことでした。
間中敏雄さんは自分の跡を息子に継いでほしいと思っていましたが、長男は事故死してしまい、次男も一度は日光猿軍団に戻ってきたものの、2004年に外に出てしまいました。
そのため後継ぎがいなくなり、調教師も韓国や中国に帰ってしまい、自分も還暦を過ぎて体力的に厳しくなったというのが閉園の理由でしょう。
2人の息子はどちらも猿まわしの調教師の道を選んだのに、1人は事故死、1人は日光猿軍団に残らなかったというのは、とても悲しいことですね。
日光猿軍団の校長・間中敏雄の現在
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日光猿軍団の校長・間中敏雄さんは2013年に日光猿軍団を閉園しましたが、2015年、同じ猿まわし師の村﨑太郎氏が日光猿軍団の土地建物を買収し、「日光さる軍団」として復活しました。
その後、中国などアジア進出や「日本猿芸協会」設立の話が出ていましたが、立ち消えになっているようです。
日光猿軍団の校長である間中敏雄さんは現在、神山温泉オートキャンプ場を「日光まなかの森」に改称して、キャンプ場の経営を行っています。
特に露天風呂が人気で、なかなかの高評価を得ているようです。
日光猿軍団の校長・間中敏雄のまとめ
日光猿軍団の校長だった間中敏雄さんの経歴や嫁・2人の息子の情報、現在の活動をまとめました。
一世を風靡した日光猿軍団。猿まわし師が校長で、猿が生徒役の「お猿の学校」は画期的でした。
でも、2人の息子が猿まわしの調教師の目指しながらも、後継者にならなかったのはちょっと寂しいですね。