2004年11月に起こった「奈良小1女児殺害事件」の犯人・小林薫 死刑囚ですが、壮絶な生い立ちや前科が話題です。
今回は奈良小1女児殺害事件詳細、小林薫死刑囚の生い立ちと家族、裁判の様子、被害者家族の現在を紹介します。
この記事の目次
死刑囚・小林薫が起こした誘拐殺人事件「奈良小1女児殺害事件」とは
小林薫 死刑囚が起こした「奈良小1女児殺害事件」は、2004年11月17日、奈良県奈良市で帰宅途中の小学1年生の有山楓ちゃんが誘拐された後、殺害・遺棄された凶悪な誘拐殺人事件です。
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犯人の小林薫は、過去に何度も児童を対象にした強制わいせつ事件を起こしており、「奈良小1女児殺害事件」の裁判では死刑判決が下されました。
小林薫 死刑囚の死刑は2013年に既に執行されていますが、この事件で大切な娘を失ったご家族や関係者の心の傷や悲しみは、約15年経った現在でも癒えることはありません。
また、この事件をきっかけに、性犯罪者を登録し監視することで性犯罪前科者から子供を守るアメリカの法律「ミーガン法」が、日本でも注目され、導入が議論されることになりました。
まずは、小林薫 死刑囚がどのような手口で、少女を誘拐し、殺害したのか?さらに逮捕の経緯までを簡単にご紹介しましょう。
「奈良小1女児殺害事件」は2004年11月17日に発生
「奈良小1女児殺害事件」は、2004年11月17日の夜に、有山楓ちゃんの携帯から母親に届いた「娘はもらった」という内容の画像付きメールから始まりました。
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添付された画像には、被害者・有山楓ちゃんが写っていました。
この携帯電話にはGPS機能が付いていましたが、小林薫 死刑囚はメール送信後、携帯電話の電源を切っているか、GPS機能をオフに設定したのか、所在は掴めませんでした。
被害者・有山楓ちゃんが直後に水死体で発見される
このメールを見た家族は直ちに警察に相談したことで、誘拐事件として捜査が開始されます。
ですが…翌11月18日の午前0時過ぎには、平群町菊美台の宅地造成地の道路側溝で被害者・有山楓ちゃんの遺体が発見されています。
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司法解剖の結果、水死と判明するのですが、肺に溜まっていた水が上水だったことから、水道水を張った風呂場か洗面器に顔を押し付けて、水死させられたものと判断されました。
また、殺害時には被害者は裸で、殺害後に服を着せた痕跡があり、歯が数本抜かれていました。
さらに、遺体には別人の体毛が付着しており、有山楓ちゃんとは異なるB型の血液が検出されています。
メールの通信履歴から犯人が特定され小林薫が逮捕される
その後、警察の懸命な捜査でも一向に手がかりが掴めなかった「奈良小1女児殺害事件」。
ですが、約1ヶ月後の12月14日、有山楓ちゃんの母親に再び届いた「次は妹を狙う」という、新たな誘拐を示唆するメールによって事態が急展開を見せます。
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と言うのも、有山楓ちゃんの携帯電話から、小林薫の携帯電話にメールが発信されていたことが通信記録から判明したからなんですよね。
奈良県警察本部は、12月30日、同県三郷町に住む新聞販売店員、小林薫の自宅を家宅捜索したところ、有山楓ちゃんの携帯電話とランドセル、ジャンパーなどを発見!
小林薫も誘拐を認めたため、その場で逮捕に至りました。
小林薫はその後、2005年1月19日に、殺人と死体遺棄容疑で再逮捕されています。
小林薫 死刑囚の自宅からは小児性愛者を窺わせる証拠品が多数押収される
家宅捜索の際には、小林薫の自宅から100本近い幼児ポルノのビデオや雑誌、さらに盗んだものと見られる女児の下着や衣類、水着など約80点などが押収されています。
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ちなみに…小林薫は逮捕後に行われた鑑定の結果、“ペドロフィリア(小児性愛者)”との診断が下されていますが、詳しくは後述します。
死刑囚・小林薫の壮絶な生い立ちと家族について
このような歪んだ性癖や人格により残虐な事件を起こしてしまう犯人には、生い立ちに何らかの原因がある場合が多いと言われており、小林薫もかなり過酷な幼少期を送っていたようです。
次に、小林薫の生い立ちについてまとめてみました。
幼少期から父親に暴力を受けていた
小林薫は、大阪市住吉区の燃料店を経営する両親の長男として誕生するのですが、家庭は非常に貧しく、小林薫が小学生の頃から新聞配達のアルバイトをして家計を助けていたようです。
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また、父親はとても厳しい人で、小林薫は幼少期から父親にたびたび暴力を振るわれていたとも言われています。
幼少期の唯一の味方だった母親を弟の誕生とともに失う
そんな小林薫にとって、唯一の味方が母親で、父親の度重なる暴力をいつも身をもって制止してくれていたそうです。
しかし、小林薫が10歳の時に誕生した弟が難産で、母親は結局そのことが原因で亡くなってしまうんですよね。
こうして唯一の味方を失った小林薫の悲しみと絶望感は、察するに余り有るものがあります。
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また、母親の出産の際、医師から「母親を取るか、子供を取るか」との2択を迫られた父親が子供を選んだと言われており、その点でも小林薫の父親への憎しみは加速したでしょう。
さらには、誕生した弟ですら、愛する母親の命を奪った憎い存在となっていったのかも知れません。
その後、難産の末に誕生した弟には脳性まひの障害が残ってしまったため、子供の面倒を見ていた祖母や父親は弟につきっきりとなり、小林薫はほとんど構ってもらえなかったようです。
幼稚園の頃からいじめを受けていた小林薫
実は、小林薫の左目は生まれつき視力が低かったことから、幼稚園時代からいじめを受けており、中学生時代にはいじめはエスカレートしていたと言います。
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家庭では父親に暴力を振るわれ、家の外ではいじめに遭っていたという…小林薫は幼少期から少年時代にかけて、相当辛い日々を送っていたようですね。
小林薫の最初の逮捕は高2の夏!女児への悪戯だった…
小林薫は、大阪府内の私立高校に入学しました。
そして高校2年生の夏、クラブの合宿で鳥取県に訪れた際、宿泊していた旅館近くのマンションの踊り場で、偶然見かけた小学生の女児2人にいたずらをして逮捕されています。
これが小林薫の最初の逮捕だと言われています。
1987年3月に高校を卒業した小林薫は、大阪市の飲食店に就職しますが長続きせず、小学生の頃にアルバイト経験があった新聞配達の仕事へ転職しました。
しかし、そこでも勤務態度は非常に悪く、時には新聞契約を捏造したり、販売店のお金を持ち逃げして解雇されるなど、奈良県や滋賀県の販売店を転々としていたそうです。
その後も女児へのわいせつ行為などを繰り返し、遂には殺人未遂事件まで発展
1989年12月、5歳の女の子2人に服を脱がせてわいせつな行為をし、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けています。当時、小林薫は20歳でした。
さらに、1991年10月には、団地で5歳の女の子にわいせつ行為をしようとして抵抗され、幼女の首を絞めたとして、殺人未遂容疑で逮捕され、遂に懲役3年の実刑判決を受けています。
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1995年11月9日に仮出所した小林薫は、しばらくは真面目に暮らしていたようですが、2004年初め頃からまた問題を起こすようになります。
勤務先の大阪市東住吉区の新聞販売所で、集金した新聞代を持ち逃げしたり、朝刊を配達する未明の時間帯に民家の物干しなどから女児の下着や体操服を盗んでいたことが判明しています。
同年7月、「奈良小1女児殺害事件」の犯行現場に近い、河合町の新聞販売所で働き始めた小林薫は、9月26日に北葛城郡内で当時6歳の女児への強制わいせつ罪で起訴されています。
そして、なんとその約2ヶ月後に起こってしまったのが、「奈良小1女児殺害事件」だったのです。
死刑囚・小林薫の「奈良小1女児殺害事件」裁判での様子
2005年4月18日、奈良地裁で「奈良小1女児殺害事件」の初公判が開かれました。
小林薫は殺人に加え、強制わいせつ致死、脅迫、誘拐の他、同年9月の別の女児への強制わいせつ罪、新聞配達の勤務中に行った下着などの窃盗罪など、起訴された罪は8件にも及びました。
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初公判で検察官は、小林薫被告の次のような供述を朗読しました。
「反省の気持ちも更生する自信もない。早く死刑判決を受け、第二の宮﨑勤(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の元死刑囚)か宅間守(附属池田小事件の元死刑囚)として世間に名を残したい」
引用:奈良小1女児殺害事件 https://ja.wikipedia.org/
ちなみに、当時宅間守は既に死刑執行済みでしたが、上告中だった宮崎勤は、月刊『創』2006年1月号の中で「精神鑑定も受けずに『第二の宮﨑勤』は名乗らせません」と批判しています。
犯罪を繰り返す「反社会性人格障害」との鑑定結果
2006年2月14日には、小林薫の情状鑑定書が提出されました。注目の鑑定結果は、犯罪などを繰り返す「反社会性人格障害」及び「ペドフィリア」との診断が下れました。
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反社会性パーソナリティー障害の人は善悪のルールやほかの人々の気持ちを常に無視。厳しく、衝動的で、暴力的にもなることもあるとわかっています。最悪なのは、自分のひどい行動に反省できないこと。
引用:あなたの身近にいるかも?「反社会性パーソナリティー障害」の性格特性13 | MYLOHAS https://www.mylohas.net/
ペドフィリア(英: pedophilia)とは、幼児・小児(一般に10歳以下)を対象とした性愛・性的嗜好のこと。 略して俗にペドと呼ばれる。 類義語には小児性愛(しょうにせいあい)・小児愛(しょうにあい)・児童性愛(じどうせいあい)がある。
引用:ペドフィリア – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
死刑を覚悟していた小林薫は死刑判決にガッツポーズ
2006年6月5日に行われた論告求刑公判で、検察側は…
「自己の性欲、支配欲、自己顕示欲を満たすための計画的な犯行で、卑劣かつ極悪、残虐極まりない。被害児童の両親の処罰感情も峻烈。被告人は真摯な反省や謝罪の態度を示していない上、更正意欲が欠如しており、矯正はもはや不可能」
引用:奈良県女児誘拐殺人事件の現場を歩いて https://blogs.yahoo.co.jp/
と指摘し、小林薫被告に死刑を求刑しました。
出典:https://twitter.com/
そして、2006年9月26日、奈良地裁の奥田哲也裁判長は「生命をもって罪を償わせるほかない」と求刑通り、死刑を言い渡します。
「被害女児へのわいせつ行為に着手する前には強姦(ごうかん)した後に殺害することを決意していた。自己の異常な性欲を満たすための犯行であり、その動機は身勝手極まりなく酌量の余地はない。反省しておらず、矯正の可能性もない」
引用:奈良女児誘拐殺害、小林被告に死刑 地裁判決 https://news.goo.ne.jp/
死刑囚となった小林薫は、自席に戻りながら傍聴席に視線を向け、着席するとニヤリと笑い小さくガッツポーズをし、目を閉じて何度か頷いたといいます。
死刑判決後、弁護側は判決を不服として大阪高等裁判所に控訴しましたが、10月10日に小林薫死刑囚自らが控訴を取り下げ、死刑が確定しました。
死刑囚・小林薫の最期と被害者家族の現在
2013年2月21日、小林薫 死刑囚の死刑が執行される
小林薫 死刑囚の死刑は、2013年2月21日、大阪拘置所で執行されました。
裁判中は、投げやりな態度で死刑を望んでいるようにも見えた小林薫 死刑囚ですが、刑務所の中では生きることへ執着を見せていたとも言われています。
出典:http://livedoor.blogimg.jp/
ある情報では、小林薫 死刑囚の最期の言葉として「ふ、ふ、風呂とちゃうんか?…」という言葉を遺したと言われています。
2014年、被害者の父親が手記を発表
小林薫 死刑囚の死刑が執行された翌年である2014年、被害者・有山楓ちゃんの父親が次のような手記を公表しています。
今年で楓が被害にあったあの日から10年が経(た)ちました。10年は長くも感じますが変わることのない悲しみや苦しみはあの日のままです。
あの明るい笑顔や仲の良かった姉妹、事件がなければ今はどんな毎日を送っていたのだろうと考えてしまいます。家族を守れなかった後悔はこれからも消えることは決してないと思います。普通に過ごす毎日がどんなに幸せか、何気ない会話がどれだけ楽しいか、奪われた命が私たちにとってどれだけ大きく大切であったかを痛感する毎日です。
(中略)
小林元死刑囚の死刑執行から1年9カ月が経とうとしています。裁判は私たちが求めたものとなりました。しかし、小林元死刑囚が真摯(しんし)に罪を受け止め8年余りを過ごしたのか、楓の無念を少しでも晴らしてやれたかは今も分かりません。
引用:「悲しみや苦しみ あの日のまま」 奈良・小1女児殺害から10年 有山楓ちゃんの父が手記 https://www.sankei.com/
たとえ小林薫 死刑囚が心から反省していたとしても、ご遺族の心の傷が癒えることは決してありません。
しかし、やはり罪を悔いた上で逝ったのであって欲しい…との、被害者遺族のささやかな願いが伝わってくるように感じました。
2016年、小林薫 死刑囚が遺族に宛てた手紙が公開される
また、2016年には裁判中だった2006年10月30日に小林薫 死刑囚が遺族に宛てた、便箋2枚の手紙が公開されています。
出典:https://www.youtube.com/
この手紙の中には、次のような小林薫 死刑囚の心の内がしたためられていました。
「人として最低な行為で大切なお嬢さんの命を奪ってしまいました」
「(両親の)意見陳述を聞いて涙が出ていたが、公判中に謝罪の気持ちを表したくてもできなかった」
「お嬢さんが生き返るはずもなく、私への怒りは収まらないでしょうが、刑の執行をもって罪を償うしかない」
11月17日、奈良女児殺害事件12年、小林薫死刑囚の直筆の手紙を公開する – BLOGOS https://t.co/lIeZ1UvlE3 #死 #殺害 pic.twitter.com/gmrQ5xTFeo
— 死亡譚 (@shiboutan) 2016年11月28日
この手紙は、小林薫 死刑囚が弁護士から県警の担当者を通じて、遺族の元に届けようとしたものです。
しかし、遺族側が受け取りを拒否したため、10年以上の歳月が経過した後に公開されるという形になったようです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「奈良小1女児殺害事件」の詳細と、この事件を引き起こした犯人・小林薫 死刑囚の生い立ちと家族、裁判中の小林薫の様子と死刑執行後の被害者家族の現在についてまとめてみました。
小林薫 死刑囚が「奈良小1女児殺害事件」を起こすまでに、女児を対象とした度重なるわいせつ事件等を起こしており、中には殺人未遂にまで至っていたこともあったんですよね。
そんな小林薫の前科を目の当たりにして、彼がこの「奈良小1女児殺害事件」を引き起こした必然性を感じるとともに、なぜそんな人間を野放しにしていたのか…と思わずにはいられません。
最後に、有山楓ちゃんのご冥福を心からお祈りして、この記事の結びとさせていただきます。