イラク戦争は2003年に行われたイラクへの武力行使を指し、アメリカの侵略戦争とも言われています。
今回はイラク戦争の原因や死者数、間違いや責任、残酷エピソード、日本の対応や株価への影響、現在をわかりやすく解説します。
この記事の目次
- イラク戦争をわかりやすく解説
- イラク戦争の定義と名称について
- イラク戦争の原因① イラクのクウェート侵攻
- イラク戦争の原因② 同時多発テロとイラクの大量破壊兵器の保持疑惑
- イラク戦争のその後
- イラク戦争の死者数は?
- イラク戦争はアメリカの間違いだった?責任は誰にある?
- イラク戦争の責任をアメリカに追及できない理由とは?
- イラク戦争の残酷なエピソード① 数々の人権侵害行為があった
- イラク戦争の残酷なエピソード② 多くの女性が性的暴行された
- イラク戦争の残酷なエピソード③ 戦後に先天性障害を持った子供が多数生まれた
- イラク戦争の真相:アメリカの侵略説① イラクを親米国家にしようとした
- イラク戦争の真相:アメリカの侵略説② イラクの石油利権を狙った?
- イラク戦争の日本の対応
- イラク戦争の株価への影響とは?
- イラク戦争の現在
- まとめ
イラク戦争をわかりやすく解説
イラク戦争とは、アメリカやイギリスなどの連合軍が当時のイラクの政権を握っていたサダム=フセイン政権を打倒するために武力侵攻した戦争です。
有志連合には、オーストラリア、ポーランド、ペシュメルガ(イラク領クルディスタン自治政府が保有する軍事組織)も含まれます。
有志連合とは、アメリカが主張する「テロとの戦い」に賛同し、イラク戦争に参戦したアメリカとイギリスを中心とする国々のことです。
連合軍の開戦の名目は「イラクが大量破壊兵器を所持している」というもので、2003年3月20日にイラク戦争は開戦しました。
アメリカ軍がイラクの首都バクダットに空爆を仕掛け、イギリス軍の陸上部隊も導入されて、イラク国内の主だった都市への空爆が開始。
これにより、約20日後の4月9日には首都バグダッドが制圧され、アメリカ軍が牽引して国内の反フセイン勢力とともにサダム=フセイン大統領の銅像が倒されました。
そして5月1日、当時のアメリカ大統領だったブッシュが勝利宣言をしています。
同年12月にはフセイン大統領が捕縛されました(2006年12月に処刑)。
イラク戦争はおよそ50日間程度と期間としてはそれほど長くありませんでしたが、アメリカとイギリス軍による空爆で多くの市民が犠牲となりました。
日本の対応としては、当時の小泉純一郎首相がアメリカ主導によるイラク戦争を支持。
2004年には、自衛隊を非戦闘地域に派遣するための「イラク特別措置法」が可決され、人道支援を名目にイラクに自衛隊が派遣されました。
イラク戦争の定義と名称について
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「イラク戦争」と一般的に呼ばれる一方で、「第二次湾岸戦争」と称されることもあり、その詳しい定義については以下の説明を引用します。
戦争の名称は、戦争の場となった国名・地名を付けることが多く、(バルカン戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、この慣例から「イラク戦争」の名称が一般的である。ただし、イラク戦争という名称はアメリカの立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。
大規模戦闘終結宣言はブッシュ米大統領が2003年5月に一方的に行っているが、改めてオバマ米大統領が2010年8月に終結宣言を出しており、さらには同大統領により2011年のアメリカ軍のイラクからの完全撤退に際してイラク戦争終結宣言が出されており、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。
Wikipediaの英語版では「2003 invasion of Iraq = 2003年イラク侵攻」としており、イラク戦争終結宣言以降の戦闘行為、米英の完全撤退までを合わせて「イラク戦争」と総称しています。
イラク戦争の原因① イラクのクウェート侵攻
イラク戦争の引き金となった原因は、1990年のイラクによるクウェート侵攻、つまり湾岸戦争まで遡ります。
1990年8月2日、イラクは石油輸出国である隣国のクウェートに侵攻、8月8日にクウェート併合を宣言しました。
国連の度重なる撤退勧告をイラクは無視し続けたため、1991年1月、多国籍軍はイラクに空爆を開始し、イラク国内では多数の犠牲者が出ました。
1か月後には地上戦も開始され、100時間後にはイラクはクウェートから撤退を余儀なくされ、3月3日、イラクとクウェートの間で停戦協定が結ばれます。
さらに1か月後の4月3日には、イラク国内にある大量破壊兵器を全て破棄するという条文が盛り込まれた「国際連合安全保障理事会決議687」が国連で採択され、イラクは受諾しました。
イラク戦争の原因② 同時多発テロとイラクの大量破壊兵器の保持疑惑
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「国際連合安全保障理事会決議687」に基づいて、国際原子力機関(IAEA)がイラクに査察が入ろうとするも、イラクはこれを拒否します。
さらに、フセイン大統領は大量破壊兵器保持を匂わせ、査察への非協力・隠匿・妨害、また複数の違反が繰り返したため、国連はイラクが大量破壊兵器を隠していると疑惑を持ちました。
また1995年、フセイン大統領のいとこで兵器開発責任者だったフセイン・カメル中将がヨルダンに亡命し、イラクの生物兵器開発計画を暴露したため、欧米に兵器保持を確信させました。
イラクへの査察が難航する中、2001年9月11日、アメリカのニューヨークにあったワールドトレードセンターが標的にされた同時多発テロが発生します。
多くの犠牲者を出したアメリカは、同時多発テロの首謀者とされたテロ組織・アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンをかくまったアフガニスタンのタリバン政権を攻撃しました。
さらに、タリバン政権を崩壊させたアメリカ政府は、「アルカイダ」とイラク政府の繋がりに注目。
2002年には、当時のブッシュ大統領が「イラン、北朝鮮、イラクは悪の枢軸、テロ支援国家である」と演説で述べるなど、イラクへの敵視を露わにしました。
そして、イラクが核兵器など大量破壊兵器を所持しているとすればさらなる危険が及ぶとして、2003年に新たな国連決議としてイラクに大量破壊兵器の所持に関する情報開示を求めます。
フセイン大統領はこれに応じたため、国連により結成された査察団がイラクに入り、大量破壊兵器の保管場所を探しましたが、どれだけ探しても見つかりませんでした。
それでも疑いを払拭できなかったアメリカは、フセイン大統領とアルカイダが密接な関係にあると言いがかりをつけ、武力行使を用いてでもイラクに制裁を加えることを決定しました。
この時、国連安保理に属するドイツ、フランス、ロシア、中国はアメリカの軍事介入に反対しています。
しかし、アメリカは合意が得られないままイギリスと有志連合を結成し、2003年3月17日にフセイン大統領など政府幹部に対して即時の国外退去勧告しました。
フセイン大統領等がこれに応じなかったため、2003年3月20日についにアメリカ軍はバグダッドへの空爆を開始しました。
当時のアメリカでは、新保守主義と呼ばれるネオコンが政権の中枢を掌握し、武力によって反米勢力を一掃しようと画策していました。
ネオコンとは、自由主義や民主主義といったアメリカの価値観を重視し、アメリカの国益を守るためには他国に武力介入も辞さないという考え方を持つ人々のことです。
この当時のネオコンの代表的な人物が、 ラムズフェルド国防長官やボルトン国務次官でした。
なお、このボルトン国務次官はトランプ政権において大統領補佐官に任命された人物でもあります。
イラク戦争のその後
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イラク戦争の原因の章でも述べた通り、イラク戦争が開始された目的は、湾岸戦争後、大量破壊兵器を所持している疑いがあるフセイン政権を打倒して、テロを撲滅するためです。
2003年に国連による査察団がイラクに入ったものの、大量破壊兵器の存在を暴くことができず、イラク戦争終了後も発見できていません。
そのため、イラク戦争を起こした大義名分の1つだった「大量破壊兵器の所持」が間違いだったという指摘が噴出し、当時のイギリスの首相であったブレア首相が退陣に追い込まれました。
一方、ブッシュ大統領の勝利宣言後もイラク国内ではテロ行為や戦闘が続き、治安は回復しませんでした。
アメリカやイギリスの軍はイラク国内に軍を駐屯し続け、治安維持活動のために戦闘行為を続けたため、こうした戦闘により死者数は増えていきました。
2009年になると、イラク国内のテロ組織の動きも鈍化し、治安が回復傾向にあるとみてイギリス軍は撤退。
その翌2010年には、ブッシュの後に大統領となったバラク・オバマがイラク戦争の終結宣言をして、主要部隊のイラク国内からの撤退を開始、2011年中までに撤退を完了しています。
この時点でイラク戦争が完全に終結したように見えましたが、アメリカとイギリス軍が撤退してもイラクの治安は完全に回復しませんでした。
イスラム教のシーア派とスンニ派が対立を続けて戦闘行為を繰り返しており、過激派によるテロも頻発するようになり内戦状態が続いたのです。
イラク戦争の死者数は?
イラク戦争で発生した死者数は、軍人と民間人を合わせておよそ50万人に及びました。
動員された兵士の数は、アメリカとイギリスによる有志連合軍及びフセイン政権に敵対していたイラク北部のクルド人兵士を合わせて30万人、そしてイラク軍は37万人と言われています。
なお、50万人の死者の内訳は、兵士など戦闘員が2万人弱と、圧倒的に死者の大半は関係のない民間人でした。
なお50万人の中には、戦争中の空爆やミサイルなど兵器によって亡くなった方以外にも、戦争後の混乱や病気、怪我、そして飢餓などで亡くなった方も含みます。
イラク戦争はアメリカの間違いだった?責任は誰にある?
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2003年3月20日、イラク戦争が勃発してからすでに約20年が経過しましたが、大量破壊兵器はイラク国内で見つかっておらず、判断ミスについての責任の所在は曖昧なままになっています。
イラク戦争は、国連安保理の許可を得ない武力行使であり、明らかに国連憲章違反であったし、その理由とする「大量破壊兵器」は存在しなかった。この誤った戦争により、イラクはあまりにも壊滅的な打撃を受け、人命を奪われた。
アメリカ、ジョンホプキンズ大学ブルームバーグ公共衛生大学院の研究では、2003年のイラク戦争の結果として約65万5千人のイラク人が死亡したと推定、WHOはイラクで2003年3月から2006年6月までに15万1千人が暴力によって死亡したと推定している。
米軍との戦闘で命を奪われた人だけではなく、占領後の宗派間対立の激化で多くの人が死亡したわけであるが、戦争が起きなければこれだけの犠牲がなかったことは明らかである。
しかし、これだけ人命を犠牲にしたのに、米国では誤った戦争に関する公的な謝罪や検証は全く行われていない。
これについて、アメリカはイラク戦争を起こした戦争責任について逃げ道を作っていました。
イラク戦争の責任をアメリカに追及できない理由とは?
アメリカには責任逃れができる法律がある
アメリカでは「米国連邦不法行為法」という法律が制定されており、 これには戦争行為で発生した被害について国家的賠償責任を免除するという規定が盛り込まれています。
つまり、アメリカが海外での戦闘行為で、国家や個人に対して被害を生じさせてもその賠償責任を負うことはないという、極めて一方的な身勝手な法律です。
そのため、イラクへの国家的賠償はもとより、多くの被害を被ったイラク国民に対する人道的な責任も負っておらず、アメリカは賠償をしてきませんでした。
オバマ政権が誕生した時に、この不当な国際法にメスを入れるかどうかが注目されましたが、結局、放置されたままになっています。
国連人権機関はこれまでも欧米の影響が強く、アメリカがお金で掌握していると指摘されていましたが、イラク戦争で多くの民間人を殺害したことも追及されず、その不当さが際立ちました。
また、「イラクの人権に関する特別報告者」というイラク戦争被害者を見守る制度がありましたが、これは2004年で打ち切られています。
その理由は、イラク戦争により甚大な被害が出たことに対する責任逃れするためであり、その見て見ぬふりにより、長らくイラクでは多くの人が犠牲になりました。
なお、アメリカはイラク戦争での戦争責任を放棄しながら、国連の場では他国の人権侵害を厳しく糾弾するという、自分のことを棚上げした態度を有識者は次のように批判しています。
今年3月、国連人権理事会が開催され、私も参加してきた。イラク戦争10周年の総括をすべき時でありながら、米国は、イラク戦争に対する責任を問うNGOや国連専門家の発言を無視して取り合わず、その一方で、シリア、マリ、スリランカ、北朝鮮などといった国において、民間人が殺害され、拷問が行われているので、責任者を処罰する強力な措置が必要だ、と声高に訴えており、自分のことを棚に上げたその姿勢に呆れた。当然、途上国等からは「自分の国のおかしたことを棚に上げて、他国を糾弾する米国のダブルスタンダード」が厳しく非難された。自分の国のことを棚に上げる米国の姿勢は、他の人権侵害国に言い訳の手段を与え、米国の人権に関する発言の道徳的権威を失わせ、結果的に国際的な人権保障メカニズムを著しく損なっていると感じる(その点、英国のほうが少しはましかもしれない)。
イラク戦争においてアメリカおよびイギリスの有志連合が、どれほど悲惨な行為、結果をもたらしたかというエピソードは次章で紹介していきましょう。
イラク戦争の残酷なエピソード① 数々の人権侵害行為があった
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前述の通り、アメリカはイラク戦争の責任逃れをしているため、現地で行った戦争犯罪に関する調査も行われていません。
問題が発覚して訴追されたのは末端の兵士のみで、戦争の意思決定に関わったトップのエリート達は戦争責任を回避しており、罪に問われず、現在までに逃げることに成功しています。
人権の観点から許せないのは、米軍・英軍が直接かかわった人権侵害行為の責任がほとんど問われていないことだ。
例えば、2004年4月と11月の米軍によるファルージャ総攻撃では、戦争犯罪に該当する「民間人攻撃」が行われたとされ、多数の民間人が殺害されたという。白リン弾や劣化ウラン弾等残虐兵器が民間人の居住地で、市民に対する危害を最小限に抑える手段を一切講ずることな大量に使われ、おびただしい死者が出た。
白リン弾使用については、イタリアのドキュメンタリーでその残虐性、極めて残酷で深刻な被害が暴露されている。アメリカ軍がアブグレイブやその他の刑務所で、拷問・非人道的取り扱いに該当する身体的虐待や侮辱などの行為をイラク人拘留者に対して行ったことは多くの証拠に裏付けられている。
世界の警察国家として君臨するアメリカが、不確かな情報により他国に侵攻し、罪のない人々を殺害しても責任に問われなかった事実は、戦争を肯定し、世界秩序を脅かしかねません。
イギリスでは、イラク戦争検証委員会が設置されて、戦争責任の所在が一応調査されてきましたが、こちらもうやむやにされ続け、結局最終報告は出ていません。
そのため、上の引用のような残虐兵器の使用や非人道的な拷問がイラク戦争で行われたことについても、闇へと葬られています。
イラク戦争の残酷なエピソード② 多くの女性が性的暴行された
あるイラク紙が報じたところによると、イラク戦争が始まって以降、アメリカ軍により全土に監獄や強制収容所が設けられ、大勢のイラク人女性が拘留されていたとされています。
そしてこれらの女性の大半が、政府の要人やアメリカ兵によって性的暴行を受け、その結果としてエイズが蔓延したといいます。
また、戒律の厳しいイスラム圏の国であるため、強姦被害を受けた被害者女性は一家の恥として家族に殺害されるケースもあり、その被害者数の全容は把握されないままになっています。
アメリカはイラクの抵抗勢力の戦意を削ぐため、イラク人女性に対し組織的に性的暴行や拷問、その他恥辱行為を加えていた、と民間組織「イラク政治捕虜・受刑者連合」が告発しています。
イラク戦争の残酷なエピソード③ 戦後に先天性障害を持った子供が多数生まれた
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イラク戦争での被害者は、爆弾やミサイル、その他非人道的な拷問や強姦だけではなく、当時はまだ生まれていなかった多くの子供達も現在まで苦しめられています。
アメリカ軍が使用した有害兵器により環境が汚染され、それによって長期的に子供達の健康と生命が脅かされてきました。
さらに、イラク国内の各地で先天的な障害を持った赤ちゃんが多く生まれており、戦争被害の根深さを物語っています。
英インディペンデント紙によると、「イラクの医者たちは、2005年以来深刻な先天的障害を負った乳幼児の数の著しい増加を訴えている。先天性障害は頭が先天的に二つの頭をもった赤ちゃんから、下肢の傷害を負った赤ちゃんまで多様な症例がある。彼らは、ファルージャでのアメリカ軍と反乱軍の間の戦い後、がんの発症率が以前よりもはるかに高くなったとも話している」と述べている。
ファルージャにあるファルージャ総合病院。その関わった調査・分析によれば2003年以来ファルージャで生まれた15%の乳幼児に先天的異常があるという。同病院のサミラ・アラーン医師は、「出生性障がいをもった乳幼児が急激に増加し、ファルージャの人々の健康を損なう結果となっている。生き残った子ども達に対する治療は限界に達している」そして、「これらの障がいは近代兵器に含まれている環境汚染物質の結果に起因する可能がある」と結論付けている。
こうした先天性障害の原因の1つとして考えられるのは劣化ウラン弾であり、放射能への被曝により奇形児や先天性疾患を持つ子供が多く生まれたと言われています。
イラク戦争の真相:アメリカの侵略説① イラクを親米国家にしようとした
アメリカのブッシュ大統領が高らかに「テロとの戦い」と称して始めたイラク戦争ですが、このブッシュ大統領は湾岸戦争開戦時のブッシュ大統領(パパ・ブッシュ)の息子です。
大統領に就任した年に同時多発テロが発生し、テロとの戦いを標榜して対テロ戦争やアフガニスタン侵攻などを実行しました。
このイラク戦争では、ブッシュ政権内のネオコン(新保守主義者)が、フセイン政権を打倒することでイラクを民主化し、親米国家に作り変えようと画策していたといいます。
また、アメリカの同盟国として有志連合の代表国・イギリスは、当時のブレア首相が外交面で対米協調路線をとっており、アメリカのイラク戦争開戦を支持して実戦部隊3万を派兵しました。
ソ連崩壊により大国のパワーバランスが崩れたことから、イラク戦争の開戦へとつながったとも言われています。
イラク戦争の真相:アメリカの侵略説② イラクの石油利権を狙った?
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アメリカはイラク戦争をしたかった理由として、イラクの豊富な石油利権を狙ったという説があります。
イラクはサウジアラビアやロシアに次ぐ、世界3位の石油埋蔵量を誇る国です。
そのため、この豊富な天然資源を狙って、反米勢力であるフセイン政権を打倒して親米政権を樹立し、石油利権を手に入れようとした可能性が根強く囁かれています。
アメリカが、是が非でも石油採掘権を確保することが必要だった事情は、次の三つの事柄から推察することができます。
先ず最初に、アメリカの人口は全世界の4%に過ぎませんが、アメリカの石油消費量は全世界の25.5%、すなわち世界全体の約4分の1を占めています。
また、一人当たり電力消費量で見ると、アメリカはカナダに次いで世界第二位で、日本、ドイツの約2倍の電力を消費しています。
カナダは豊富な水力で発電量の約6割をまかなっているのですが、これに対して、発電の約2割を石油と天然ガスに依存しているアメリカは、電力消費量の多さがそのまま石油消費量の多さを反映していると見てよいでしょう。
また、電力の総消費量で見ても、アメリカはずば抜けて多く、それは世界第2位の中国の3倍ちかくです。
さらに注目すべきは、この電力消費量が1989年から1999年までの10年間で、約1.3倍に増大していることです。
つまり、産業構造の転換が図られない限り、アメリカは今後も、ますます多くの石油を必要とし続けるのです。
アメリカが人道支援のために戦争をするのではなく、あくまで戦争はビジネスツールだったと見られているのです。
イラク戦争の日本の対応
日本からは自衛隊をイラクに派遣
日本が自衛隊をイラクに派遣したのは、イラク戦争初期である2003年12月から2009年2月まででした。
派遣されたのは陸上自衛隊約550人と、海上自衛隊約330人、航空自衛隊約200人です。
イラク特措法と呼ばれる「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」に基づいての派兵でした。
その活動の中心は人道復興支援活動と安全確保支援活動で、非戦闘地域に限定されており、戦闘行為には参加していません。
しかし、自衛隊創設以来初めて戦闘地域と考えられる地区にも陸上部隊が派遣されたため、物議を呼びました。
陸上自衛隊は、現地の治安が比較的安定したことを受けて2006年7月に撤収。航空自衛隊は陸上自衛隊撤収後も輸送活動を続け、2008年12月に輸送活動を終了して帰国しました。
海上自衛隊はインド洋での補給活動に従事していました。
イラク戦争での自衛隊員の死亡者数
イラク戦争に派遣された自衛隊からは戦死者は1人も出ていない、と報告されています。
しかし、イラクを含む海外派遣任務に就いた19,700人の自衛官のうち、35人が何らかの理由により殉職したとされています。
その内訳は、海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、その死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されています。
この在職中というのには帰国以降も含まれており、イラク国内で殉職した自衛隊員の正確な数字はわかっていません。
イラク戦争の株価への影響とは?
「イラク戦争」は株価を押し上げた
これまでの国際戦争と株価の推移を観察すると、戦争が始まる前の相場は調整され、開戦後に反発して上がるパターンが多いようです。
イラク戦争当時のアメリカの経済状況は、1990年代の株価上昇から2000年には株価が下落に転じており、2001年頃から失業率が上昇したため、それは実体経済にも波及しました。
株式市場は9・11テロで大きく下落しましたが、2002年の前半までは反発トレンドが続きました。これは米国において住宅市況の活況が続いたことや、自動車メーカーがテロで落ち込んだ消費マインドを押し上げるために積極的な販売奨励策をとったためと考えられます。
しかし、株価は2002年後半から失速しています。背景として、2001年12月2日に巨額の不正会計問題を起こしたエネルギー大手のエンロンが破綻したこと、2002年7月に長距離通信大手ワールドコムが粉飾決算の発覚をきっかけに破綻したことなどで、投資家の間で企業会計に対する不信感がありました。失業率の上昇(2001年末5.7%→2002年末6.0%)も投資家マインドを冷やしたと考えられます。
その後、ダウ・ジョーンズ工業株価平均は米英などがイラク侵攻を始めた2003年3月が底となりました。侵攻前から戦闘は数カ月の短期決戦となることが予想されており、戦闘により将来のテロ発生が抑止されることへの期待や、防衛予算の拡大によるGDP押し上げ期待などがありました。
さらにブッシュ大統領は2003年1月に減税政策として2001年に決定した減税措置の前倒しと配当・キャピタルゲイン税率の引き下げなど、減税策を明らかにしたことも株価上昇の追い風となったものと考えられます。
イラク戦争開始の2003年3月に株価が底を打ってから反発した理由は、イラク戦争によるテロ抑止効果、軍事費アップで軍需産業が潤う期待があったようです。
その他、ブッシュ大統領が減税対策を打ち出したことも株価上昇につながり、うまくイラク戦争を使ってアメリカの経済を回復させたという見方ができます。
イラク戦争の現在
イラク戦争がバイデン政権で完全に終結
出典:https://www3.nhk.or.jp/
イラク戦争後、アメリカは兵約2500人をイラクに駐屯させ、「イラク軍を支援してイスラム国(IS)に対処できるように」という名目で活動してきたとしています。
そして、バイデン大統領は2021年1月26日、ホワイトハウスにてイラクのムスタファ・アル・カディミ首相と会談し、2021年末までにイラクでの戦闘任務終了を表明しました。
その一方で、イラク軍に対する訓練やアドバイスなどは継続すると確約しています。
バイデン氏はホワイトハウスでの演説で、「ISに対処するために訓練や援助、支援を提供し続けることが、イラクでの我々の役目」としつつ、「年末までに戦闘任務に就くことはないだろう」と述べた。
「我々の対テロ協力は、この新たな段階に移行しても継続する」
これに対し、イラクのカディミ首相は、「両国の関係は現在、かつてないほど強固なものになっている。お互いの協力は、経済や環境、健康、教育、文化など多岐にわたっている」と述べた。同首相は、イラク国内に外国の戦闘部隊は必要ないと主張している。
イラク戦争による現在までの難民の推移
イラク戦争前、イラクでの難民は1985年に30万人ほどに膨れ上がりましたが、1990年代からはさらに増加して1991年には130万人を突破しました。
1993年から2005年までにかけて減少を続けてきましたが、2006年から2007年にかけては再び急増し、230万人以上となっていました。
それから、5年ほどかけて元の水準まで戻りましたが、2013年から現在までにかけては増えたり減ったりで横ばいを続けています。
まとめ
イラクのクウェート侵攻を発端に、2003年にフセイン政権を打倒する目的で、アメリカとイギリスなどの有志連合が開戦したイラク戦争についてまとめてきました。
アメリカは都合のいいようにイラク戦争の責任逃れができる法律を策定し、イラクで行った非道行為について見て見ぬふりを続けています。
国連もアメリカによって牛耳られてきたため、アメリカの戦争責任の追及をすることはなく、このままの状況が続けば、戦争責任や現在も残る被害は完全に闇に葬られることになるでしょう。
現在もイラク戦争の爪痕により苦しんでいる人たちがいるのは事実であり、今のウクライナ侵攻で似たような侵略戦争が行われていることに非常に心が痛みます。