狂言師の和泉元彌さんの過去のダブルブッキング事件が話題です。
ここでは和泉元彌さんの3度にわたるダブルブッキング事件の詳細、その原因や真相、この事件のその後の数々のトラブルや、突然のプロレス参戦などについてまとめました。
この記事の目次
和泉元彌のプロフィール
和泉元彌(いずみもとや)のプロフィール
本名 :山脇元彌(やまわきもとひさ)
生年月日:1974年6月4日
出生地 :岐阜県
出身地 :東京都板橋区
身長 :168cm
血液型 :A型
和泉元彌さんは、「能楽狂言方和泉流二十世宗家」を自称(能楽協会から認められていない)する狂言師です。
和泉元彌さんは、1998年から放送された「ネスカフェゴールドブレンド」のテレビCMに出演したをきっかけに一般での知名度が高まりタレントとしてブレイク。
2000年の紅白歌合戦の白組司会に抜擢され、2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」に、木村拓哉さん、中井貴一さん、竹野内豊さんといったそうそうたる候補を抑えて主演に抜擢されるなど一世を風靡しました。
このまま超一流芸能人の仲間入りを果たすかに思われた和泉元彌さんでしたが、その後、次から次へとトラブルを起こして芸能界の表舞台から姿を消していきました。
和泉元彌さんが起こしたトラブルの中でも特に世間からの注目を集めたのが、何度も繰り返された「ダブルブッキング事件」です。
今回は、和泉元彌さんの起こした「ダブルブッキング事件」を紹介します。
和泉元彌のダブルブッキング事件の詳細
和泉元彌さんのダブルブッキング事件の詳細についてみていきます。
2002年、年間200回以上も公演をするなど多忙を極めていた和泉元彌さんは、この年に3度のダブルブッキング事件を起こしています。
和泉元彌のダブルブッキング事件① 狂言公演とテレビ出演の仕事を同日に入れる
2002年2月の某日、和泉元彌さんは長野県で狂言を公演しましたが、その夜にソルトレイクオリンピック関連のテレビの仕事も入れており、長野県での公演の仕事を早退しヘリコプターをチャーターしてテレビ出演の現場へと向かってなんとかテレビ出演を間に合わせています。
これが和泉元彌さんの1度目のダブルブッキング事件でした。
和泉元彌のダブルブッキング事件② 岐阜〜東京間400キロを2時間で移動
2002年7月27日、和泉元彌さんは、岐阜県可児市での文化創造センターでの公演(午前9時知10分終了)と、東京・新宿コマ劇場での「天翔ける獅子ー義経と弁慶」の公演(午後12時30分開演)をダブルブッキングしていました。
つまり、和泉元彌さんは仕事に穴を開けないためには、岐阜東京間の400キロメートルを、わずか3時間ほどで移動しなくてはなりませんでした。
この時には2度目のダブルブッキング事件という事でマスコミから注目され、多くの報道陣がその日の和泉元彌さんの動きを追っていました。
そして、和泉元彌さんは驚きの方法でこの危機を乗り越えたのでした。
和泉元彌さんは岐阜での公演終了後すぐに車に飛び乗り、付近の駐車場へと向かいました。そこでチャーターしたヘリコプターに乗り換え、わずか15分ほどで名古屋空港(愛知県小牧市)に移動。
さらに、名古屋空港からセスナの小型ジェット機を使い、約1時間後の10時30分には羽田空港へと到着。飛行機を降りた和泉元彌さんはゲート外に待機させていた黒塗りのハイヤーに乗ってコマ劇場へと向かいました。
この時、羽田空港には、30台以上のマスコミの車やバイクが待ち受けており、コマ劇場へと向かう和泉元彌さんのハイヤーを、まるでアクション映画のカーチェイスのように追走しました。
そして、午前11時10分、和泉元彌さんはわずか2時間でコマ劇場へと到着。不可能と思われた岐阜〜東京間の短時間移動を成し遂げて見せたのでした。
和泉元彌のダブルブッキング事件③ 850キロを移動し3公演をこなす
2002年9月14日、和泉元彌さんはまたしてもダブルブッキング事件を起こしてしまいます。
その日、和泉元彌さんは岡山県での2件の公演と長野県での1件の公演をダブルブッキングし、今度は850キロの距離を移動して3件の公演をこなさなければなりませんでした。
しかしこの時も、和泉元彌さんはビジネスジェットなどをチャーターし、その日の全ての公演を無事に間に合わせています。
和泉元彌のダブルブッキング事件の原因や真相
3度にわたるダブルブッキング事件でワイドショーや週刊誌などを賑わせた和泉元彌さんですが、このように何度もダブルブッキング事件を起こした原因や真相はなんだったのでしょうか?
当時、和泉元彌さんのスケジュールを管理していたのは、母の和泉節子さんでした。和泉元彌さんのダブルブッキングの原因はこの和泉節子さんのずさんな管理方法にあったと言われています。
年間で200公演以上の過密スケジュールをこなすほど多忙だった和泉元彌さんですが、和泉節子さんはその膨大なスケジュールを紙に走り書きしたメモだけで、かなり適当に管理しており、それが度重なるダブルブッキングの原因の真相だと言われています。
和泉元彌さんのダブルブッキングの原因になったと言われる母の和泉節子さんは、歯に衣着せぬ物言いで毒を吐くかなり強烈なキャラクターで、一時はそれが注目を集めて、セッチーの愛称でバラエティ番組にもよく出演していました。
しかし、ダブルブッキング事件でもわかるように、和泉節子さんはかなりのトラブルメーカーで、和泉元彌さんの父で夫の和泉元秀さんが逝去された時、勝手に息子の和泉元彌さんに「和泉流二十世宗家」を名乗らせて能楽協会ともめ、最終的に和泉元彌さんは能楽協会から退会処分にされてしまいました。
和泉元彌さんは一時は絶大な人気を誇ったものの、ダブルブッキング事件をはじめとする数々のトラブルでその人気を失い、現在では芸能界からほぼ姿を消しています。そうしたトラブルの原因や真相はほぼ全て母の和泉節子さんにあるとの見方もあるようです。
和泉元彌のダブルブッキング事件のその後① トラブルを次々と起こす
和泉元彌さんはダブルブッキング事件で世間を賑わせてからその後、次々とトラブルを起こし、結局それが原因で、現在は芸能界から干されたような状態になっています。
和泉元彌さんは、2005年11月に道路交通法違反で警視庁に逮捕されています。なんと和泉元彌さんは2年半の間に6回も駐車違反をしており、警察からの出頭要請に応じなかったためついに逮捕されてしまったという事でした。
その後の2006年には、和泉元彌さんの公演などの事業運営会社「株式会社和泉宗家」が、東京国税局から、2003年度までの過去5年間で2億円以上の申告漏れを指摘され、そのうちの1億5千万円を簿外口座に隠していたと報じられました。
さらに、2006年にはバイクの高校生と接触事故を起こして書類送検されています。
その後の2007年には、マンションやアパートや駐車場、イベント会場費などが未納状態になっていると報じられています。
さらにその後の2008年、四川大震災のチャリティーのための狂言を「和泉流宗家」が主催し、一般から募金を集めたのですが、その後いつまで経っても公式な募金額の発表がされない事などから、金銭の扱いの曖昧さやルーズさに批判が集まり、和泉元彌さんの公式ブログが炎上する騒動になりました。
このほか、2008年には信号無視で交通違反切符を切られるなどもニュースになっています。
このように、和泉元彌さんはダブルブッキング事件のその後は、ありえないほど次々とトラブルを起こし、それが原因となって、徐々に表立った芸能活動の場から姿を消してしまいました。
和泉元彌のダブルブッキング事件のその後② 2005年にプロレス参戦
和泉元彌さんはダブルブッキング事件のその後の2005年に突如、プロレス興業「ハッスル」に参戦し話題を集めました。
この時、和泉元彌さんは、狂言風の口上で「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」と叫びながら、ヘリコプターの効果音と共に縄梯子につかまり上から降りてくるというド派手な演出でリングに登場。
横浜アリーナの1万4千人の観客は大盛り上がりになり、試合では必殺技「空中元彌チョップ」を繰り出して見事勝利し、試合後には「元彌コール」が巻き起こりました。
数々のありえないトラブルを起こしてきた和泉元彌さんでしたが、エンターテイナーとしては超一流である事をこのプロレス参戦によって証明したとも言えます。
まとめ
今回は、2000年代のはじめに一世を風靡したものの数々のトラブルで芸能界から姿を消した狂言師の和泉元彌さんについてまとめてみました。
和泉元彌さんは、1998年にネスカフェゴールドブレンドのテレビCMをきっかけにブレイクし、紅白歌合戦の司会やNHK大河ドラマの主演に抜擢されるなど一世を風靡しましたが、2002年に3度ものダブルブッキング事件を起こし、その後も次々とありえないトラブルを繰り返し、それが原因となって芸能界の表舞台から姿を消してしまいました。
現在も和泉元彌さんは現役の狂言師として活躍を続けられています。当時はトラブルで世間を騒がせた和泉元彌さんですが、そのエンターテイメント性はとても魅力的です。今後の活躍も応援して行きたいと思います。