冬木弘道さんはヒールとして活躍したプロレスラーですが、嫁の冬木薫さんが結婚詐欺で逮捕されたことが話題です。
今回は冬木弘道さんの若い頃の経歴や入場曲、最期や死因の癌、結婚した嫁や子供(娘2人)についてまとめました。
この記事の目次
- 冬木弘道のプロフィール:「理不尽大王」の愛称で知られるプロレスラー
- 冬木弘道の若い頃の経歴① 国際プロレスから全日本プロレスへと移籍
- 冬木弘道の若い頃の経歴② SWS・WAR・冬木軍プロモーション時代
- 冬木弘道の若い頃の経歴③ WEW立ち上げ時期に病気を発症・無念の引退
- 冬木弘道の性格はヒールとは真逆だった
- 冬木弘道の最期:死因は癌性腹膜炎で享年42歳だった
- 冬木弘道の入場曲① フットルース/ケニー・ロギンス
- 冬木弘道の入場曲② シュート・イット/デイヴィッド・リー・ロス
- 冬木弘道の入場曲③ カムアウト・アンド・パーティ/オフスプリング
- 冬木弘道は三沢光晴とプライベートでも仲が良かった
- 冬木弘道はシングル「理不尽」でCDデビューも果たしている
- 冬木弘道が結婚した嫁は冬木薫① 未亡人から橋本信也の婚約者に
- 冬木弘道が結婚した嫁・冬木薫② 2017年に結婚詐欺の容疑で逮捕された
- 冬木弘道の子供:娘は2人・名前の「理」は「理不尽大王」が由来
- まとめ
冬木弘道のプロフィール:「理不尽大王」の愛称で知られるプロレスラー
生年月日:1960年5月11日
出身地:東京都
所属:国際プロレス、全日本プロレスほか
冬木弘道さんはプロレスラーで、プロレス団体「国際プロレス」や「全日本プロレス」で活躍されていました。
本名である「冬木弘道」のほか、「サムソン冬木」というリングネームでも活動しており、身長180cm、体重は128kgとプロレスラーらしい大柄な体型です。
また、「理不尽大王」「マッチョバディ」「革命の志士」などの愛称でも知られています。
冬木弘道の若い頃の経歴① 国際プロレスから全日本プロレスへと移籍
冬木弘道さんは横浜商科大学高等学校を卒業後、1974年にプロレス団体「国際プロレス」へと入門しました。
下積み時代を経て1980年5月にデビューして以降、国際プロレスにおいては高杉正彦さん・菅原伸義(現在のアポロ菅原)さんとともに活躍し、「若手三羽烏」として注目を集めます。
しかし翌年の1981年に国際プロレスが解散。冬木弘道さんはプロレス団体「全日本プロレス」へと移籍し、天龍源一郎さんの付き人となります。
1984年には、初となる海外への遠征を経験。アメリカでは川田利明さんとタッグを組み、「ジャパニーズ・フォース」として活動します。
ショーン・マイケルズさん・ポール・ダイヤモンドさんによる「アメリカン・フォース」との抗争を繰り広げました。
1985年に帰国すると、ジャイアント馬場さんによって命名された「サムソン冬木」へとリングネームを改名。
1987年になると再び海外へと遠征し、風貌が似ていた長州力さんにあやかり「リキ・チョーシュー」と名乗っていたそうです。
帰国後は、天龍源一郎さん率いる「天竜同盟」に参加。川田利明さんとの「フットルース」としても活動しましたが、徐々に川田利明さん&天龍源一郎さんのタッグが増えていきました。
冬木弘道の若い頃の経歴② SWS・WAR・冬木軍プロモーション時代
冬木弘道さんは1990年に、天龍源一郎さんらとともに全日本プロレスを離脱。
プロレス団体「SWS」の旗揚げに携わり、道場「REVOLUTION」のメンバーとしても活動していました。
1992年に勃発したSWS内の対立においても、冬木弘道さんは天龍源一郎さん側につき、SWS崩壊後に天龍源一郎さんが設立したプロレス団体「WAR」にも参加しています。
冬木弘道さんはWAR時代に、リングネームを「サムソン冬木」から本名である「冬木弘道」へと再改名。
1994年頃からは邪道さん・外道さんとともにWAR正規軍と敵対する反対勢力「冬木軍」として活躍しました。
1996年にWARを離脱すると、冬木軍としてともに活動していた邪道さん・外道さんと「冬木軍プロモーション」を立ち上げ。
当初はプロレス団体「東京プロレス」をメインとして立ち上がるはずだった独立系団体による統一機構「FFF」への参加を予定していましたが、FFF自体が資金の関係によって計画がとん挫。
その後は他団体への参戦も模索しつつ、1997年に独立後初となる試合を開催。
同年にはライオネス飛鳥さんと、日本プロレス界初となる男子VS女子のシングルマッチを行い、話題となりました。
冬木弘道の若い頃の経歴③ WEW立ち上げ時期に病気を発症・無念の引退
冬木弘道さんはその後、再びFMWへと戻りました。
ミスター雁之助さん・金村キンタローさんといった面々と「TNR」を結成し、FMW創始者である大仁田厚さんを追放しています。
その後も金村キンタローさん・邪道さん・外道さん・ミスター雁之助さん・BADBOY非道さんらとユニット「ブリーフブラザーズ」を結成。
真っ白なバスローブに真っ白なブリーフ姿でコントを披露したり、下品な発言を繰り返したりと、賛否両論ありながらも人気を博しました。
TNR解散後は、井上京子さん・チョコボール向井さんたちとともに「ECW JAPAN」軍として活躍し、FMWのコミッショナーにも就任。
リング内外で団体を牛耳るその姿から、「新世代のヒールスタイル」とも評されました。
2002年にFMWが経営破綻すると、同年にプロレス団体「WEW」を設立。
同年、実に15年ぶりとなる三沢光晴さんとのシングルマッチで会場を沸かせましたが、その2日後に大腸癌を理由に引退を表明しています。
そんな状況を知ったプロレス団体「ノア」取締役の仲田龍さんが、まだ立ち上げ段階にあったWEWに代わり、引退試合をセッティング。
引退表明からわずか6日間で、興行の手はずを整えたというから驚きです。
冬木弘道さんはそんなノアの厚意と迅速な対応によって、旧友でもある三沢光晴さんらとの引退試合に臨み、22年間の現役生活を終えました。
また、ノアは引退試合において黄色の紙テープを持参するようにファンに呼び掛け、試合前の冬木弘道コールののち、会場はファンが投げた無数の黄色の紙テープで埋め尽くされたのです。
さらに、引退試合で得た収益はすべて冬木弘道へさんと贈られたほか、当日は数多くのプロレスラーが来場。冬木弘道さんの人徳が垣間見えました。
冬木弘道の性格はヒールとは真逆だった
出典:http://memory-jp.com/
冬木弘道さんの愛称である「理不尽大王」は自称によるもので、ヒールながらリング上でコントを披露するなど、愛嬌も持ち合わせたキャラクターでした。
また、実際の冬木弘道さんは理不尽とは程遠く、面倒見がよい優しい性格だったそう。
人情味あふれ、義理堅かったこともあり、多くの人から慕われていたといいます。
冬木弘道の最期:死因は癌性腹膜炎で享年42歳だった
冬木弘道さんは引退試合を終えると、入院し緊急手術に挑みました。
また、退院後はWEWのプロデューサーとして活躍するも、癌が肝臓などへと転移していたといいます。
そして、2003年3月19日に横浜市民病院で逝去。享年42歳で、死因は癌性腹膜炎でした。
がん性腹膜炎とは、おなかの中にがん細胞が転移した状態を指します。胃がんをはじめとした消化器がんや卵巣がんなど、さまざまながんに関連して発症する可能性があります。がん性腹膜炎を発症すると、食欲低下や吐き気、嘔吐、息苦しさ、体重減少などの症状が見られます。食事や呼吸に多大なる障害がもたらされる可能性があり、短い期間のうちに死に至ることも懸念される状態です。
引用:がん性腹膜炎について
葬儀には数多くのプロレスラーが参列し、入場コスチューム姿での納棺となったそうです。
冬木弘道さんは同年5月に一夜限りのプロレスラー復帰を予定しており、プロレス団体「ZERO-ONE」の橋本真也さんと電流爆破マッチを行うとされていました。
冬木弘道さん自ら、橋本真也さんへと申し込んだという同試合では、橋本真也さんは冬木弘道さんの遺骨を抱え、試合前の約束を守るかのように自ら電流爆破に向かっていったといいます。
2018年には、世界最大と言われるアメリカプロレス団体「WWE」のスーパースター、クリス・ジェリコさんが「IWGP US王座選手権試合」で冬木弘道さんの決めポーズも披露し話題に。
ジェリコさんはインタビューで、冬木弘道さんについて以下のように振り返りました。
ジェリコは「冬木さんこそが真の日本の戦士だと思っている。彼こそが天才で、さまざまなことを気にせず、自分自身のことをやり遂げた人」と話し、「彼を尊敬しているという思いから(ポーズを)出した」と明かした。
冬木弘道の入場曲① フットルース/ケニー・ロギンス
1980年代に川田利明さんと組んでいた「フットルース」。
その名の通り、1984年公開の映画「フットルース」のメインテーマとなっていた、ケニー・ロギンスさんの同名曲が入場曲として採用されていました。
冬木弘道の入場曲② シュート・イット/デイヴィッド・リー・ロス
SWS以降は、デイヴィッド・リー・ロスの「シュート・イット」が入場曲に。
「理不尽大王」と名乗り始めてからはこの入場曲となっているため、強く印象に残っている人も多いのではないでしょうか。
冬木弘道の入場曲③ カムアウト・アンド・パーティ/オフスプリング
正確には入場曲ではないものの、金村キンタローさんらと結成したユニット「ブリーフブラザーズ」のテーマ曲として採用されていた、オフスプリングのカムアウト・アンド・パーティです。
同ユニットは、リング上で曲に合わせてファンの手拍子を煽っており、その中で行われた「ぶりブラダンス」が定番のパフォーマンスとなっていました。
冬木弘道は三沢光晴とプライベートでも仲が良かった
冬木弘道さんは、三沢光晴さんと全日本プロレス時代から仲が良く、下積み時代には一緒に海へ行ったこともあるのだとか。
また、小川良成さんを含めた若手で、天龍源一郎さんの娘の面倒をよく見ていたといいます。天龍源一郎さんは当時について、以下のように語りました。
俺はすっかり忘れていたんだが、冬木や小川が言うには「天龍さんにはよく『娘を風呂に入れてくれ』と言われた」そうだ。子守も後輩任せだったか(笑)。それから、娘が小さい時は、夏になると庭にプールを広げて遊ばせるくらいかな。俺も日焼けできるしね。プールのあるホテルにもよく行ったね。娘は浮輪で浮かんで、同行している三沢や冬木がその浮輪を押して泳ぐ係だ(笑)。みんな、かわいがってくれたね!
三沢光晴のプロフィール
生年月日:1962年6月18日
出身地:北海道
職業:プロレスラー
所属:全日本プロレス→プロレスリング・ノア
三沢光晴さんは伝説のプロレスラーで、本名は「三澤光晴」。
高校を卒業した1981年に全日本プロレスへと入門。同年、越中史郎さんとの試合でデビューを果たしました。
入門からわずか5か月でのデビューとなり、全日本プロレスにおいて史上最速のデビューとされています。
1984年には「2代目タイガーマスク」に任命され、ラ・フィエラさんとの試合でデビュー。
三沢光晴さんは当時、初代タイガーマスクが得意としていた華麗な空中技を求められがちで、自身が目指していたプロレスのスタイルとのギャップに悩んでいたそう。
また、空中技を多用したことから左膝前十字靱帯断裂を引き起こしてしまい、長期欠場することになってしまいました。
1990年に入ると、天龍源一郎さんらがSWSへと移籍。
全日本プロレスの危機に、マスクマンとしての限界を感じていた三沢光晴さんは、試合中にマスクを観客席へと投げ入れ、その2日後よりリングネームを「三沢光晴」へと戻しました。
三沢光晴さんは、以降も全日本プロレスの中心選手として活躍し、1998年には全日本プロレスの社長に就任。
しかし、株主であり前社長だった故・ジャイアント馬場さんの嫁からの異常なまでの干渉によって思うような経営ができなかったばかりか、2000年にはついに社長を解任されてしまいます。
そして同年、プロレス団体「プロレスリング・ノア」を設立。
当初の予想に反して、全日本プロレス所属のプロレスラーの大多数がノア入りを希望し、予期せぬ人数の多さから資金繰りに苦労したといいます。
また、三沢光晴さんはこれまでの激しい試合の代償で、視神経や脳神経にダメージを負った状態で試合を続けていたそうです。
そして、2009年の試合中に受けたバックドロップで意識不明・心肺停止となり、搬送先で亡くなりました。享年46歳でした。
死因はバックドロップによって頭部を強打したことが要因の頸髄離断とされていますが、プロレスラーからは異論も巻き起こっており、各々異なる意見を述べています。
冬木弘道はシングル「理不尽」でCDデビューも果たしている
冬木弘道さんは1994年にシングル「理不尽」を発売。歌手デビューを果たしました。
同CDには邪道さん・外道さんとともに歌唱した「理不尽音頭」のほか、それぞれのテーマ曲を収録されています。
冬木弘道が結婚した嫁は冬木薫① 未亡人から橋本信也の婚約者に
冬木弘道さんは、1989年に嫁・冬木薫さんと結婚しています。
2人の娘が誕生するも、2003年に冬木弘道さんが亡くなり、冬木薫さんは未亡人となってしまいました。
さらに橋本信也さんも同年7月に急逝。そんな橋本信也さんの最期をみとったのも冬木薫さんでした。
橋本信也のプロフィール
生年月日:1965年7月3日
出身地:岐阜県
職業:プロレスラー
所属:新日本プロレス→プロレスリングZERO-ONE
橋本信也さんはプロレスラーで、「破壊王」の愛称で知られています。
1984年に新日本プロレスに入門し、同年に後藤達俊さんとの試合でデビュー。
その後、海外修行を経て武藤啓二さん・蝶野正洋さんとともに「闘魂三銃士」として活躍していました。
1993年に「第14代IWGP」でヘビー級王者となると、1995年には「プロレス大賞」でMVPを獲得しています。
以降も小川直也さんと激戦を繰り広げるなど人気を博しましたが、2000年に引退。
その後復帰し、プロレス団体「新日本プロレスリングZERO」を立ち上げようとするも長州力さんらの反対にあい、さらに新日本プロレスを解雇されてしまいます。
橋本信也さんは解雇直後にプロレス団体「ZERO-ONE」を設立。全日本プロレスとの全面抗争や長州力さんとの激闘などを経て、2004年には「ハッスル」に参戦しました。
しかし同年、団体内部で確執が生じてしまい、同団体は崩壊。関連負債は橋本信也さんがすべて請け負う形となりました。
フリーとなった橋本信也さんは、復帰に向けて痛めていた肩を治療していましたが、2005年に逝去。享年40歳で、死因は脳幹出血だったそうです。
脳幹出血とは、呼吸や血圧を保つなどの生命活動の基本になる脳幹部位に生じる出血のことを指します。発症の基盤には高血圧があることが多く、食生活の乱れや喫煙習慣なども関連します。発症すると、頭痛や吐き気などの症状が現れ、出血量が多い場合には意識消失などが起こることもあります。脳の組織内に生じる脳出血のなかでも、脳幹出血は重篤な経過をたどることが強く懸念されます。
引用:脳幹出血について
冬木弘道が結婚した嫁・冬木薫② 2017年に結婚詐欺の容疑で逮捕された
冬木弘道さんの嫁・冬木薫さんは、2016年に結婚詐欺容疑で逮捕されており、大きな話題となりました。
神奈川県在住の50代男性・S氏。S氏が、「実刑に行ってもらいたい」と告発した相手は、中村薫容疑者(52)。中村容疑者は今年2月25日、神奈川県警に、男性から約160万円を騙し取ったとして、詐欺容疑で逮捕されていた。そして、拘留期限いっぱいの3月17日、今後、起訴の可能性を含む処分保留で保釈されている。
逮捕時には名前が中村薫となっていたそうですが、メディアによるとこの女性が冬木薫さんとのこと。
冬木薫さんは、被害男性から約160万円をだまし取ったとして詐欺容疑で逮捕されていました。
冬木薫さんと被害者の男性は2014年に居酒屋で出会ったといい、男性はほどなくして冬木薫さんから著書2冊を渡されたことで、橋本信也の婚約者だったことを知ったといいます。
すぐに冬木薫さんに好意を抱いた男性は、実家の家族にも紹介。その際、冬木薫さん自身も「大学生の娘が卒業し、落ち着いたら結婚するつもり」だと述べていたそう。
しかし、男性が入院することになっても冬木薫さんは一度も見舞いに来ず、その理由について「ICUに入った娘の看病につきっきりのため」としていたが、実際には毎日職場へ出勤していたといいます。
はたから見れば単純な男女のいざこざにも思えますが、男性は冬木薫さんへ家賃などの名目で800万円近くのお金を貸していたとのだとか。
男性が神奈川県警に被害届を提出し、捜査が始まると冬木薫さんの嘘が次々と判明したといいます。
例えば、被害額の中には、父親の葬儀代や遺産相続にかかわる費用なども含まれていましたが、そもそも冬木薫さんの父親はまだ存命と判明しました。
遺産相続に関しては、彼女の父親が亡くなり、後妻の子どもにも相続権があるが、ある程度の額を現金で支払えば相続放棄するというので、その後妻の子どもに払うお金を出してほしいと、お願いされました。遺産相続すれば、数千万円はする土地がもらえるので、それでお金を返済すると説明されていたんですが、そもそも父親が亡くなっていなかった
冬木弘道の子供:娘は2人・名前の「理」は「理不尽大王」が由来
冬木弘道さんには2人の娘がおり、いずれの名前も「理」から始まっているそう。
というのも、友人から「女の子は結婚し姓が変わる」「自分の娘だという証拠を残せ」と言われたのだとか。
一般的にはそこで自分の名前から漢字をとるところですが、冬木弘道さんは自身の愛称である「理不尽大王」から「理」を取り、名付けたといいます。
娘の小学校で講演会を行ったこともあるそうで、その際には「体育と給食が嫌いだった」などと子供時代の思い出を語っています。
また、当時はヒールだったため、たくさんのファンに囲まれる機会がなかったそうですが、講演会当日はたくさんの児童に囲まれて、「大仁田になった気分」とも発言していました。
まとめ
冬木弘道さんは国際プロレスを経て、全日本プロレスやSWS・WAR・冬木軍プロモーション・WEWなど多くのプロレス団体に在籍。
ヒールとして活躍していましたが、2003年に大腸癌を患い、現役を引退してしまいました。
その後、癌性腹膜炎によって42歳の若さで亡くなっています。
冬木弘道さんの死後、嫁の冬木薫さんが冬木弘道さんの立ち上げた団体の社長を務めていましたが、冬木薫さんは2017年に結婚詐欺の罪で逮捕されています。
その後の判決など、詳細についてはあまり報じられていませんが、冬木弘道さんと被害男性との間に、今は亡き橋本信也さんと婚約していたことにも驚きですね。