1989年に起きた比叡山女子大生殺人事件では女子大生が犠牲になり、犯人・大田正雄の動機やその後の行動にも注目が集まっています。
今回は比叡山女子大生殺人事件の経緯と被害者・犯人の情報など詳細、犯人の動機と判決、現在をまとめました。
この記事の目次
比叡山女子大生殺人事件とは
比叡山女子大生殺人事件とは、1989年8月31日、比叡山の中で25歳の女子大生がホームレスの男性に殺害された事件です。
被害者の女子大生は千葉県から京都に旅行に来ていて、比叡山延暦寺の横川中堂秘宝館に行った後、行方が分からなくなりました。
・9月2日:被害者実家に身代金要求の電話が入る
・9月9日:比叡山延暦寺近くで被害者のリュックを発見
・9月10日:被害者の遺体を発見
・9月13日:犯人を逮捕
被害者の女子大生は比叡山の山中で犯人に襲われ、裸にされて強姦された後、殺害されたと見られています。
比叡山女子大生殺人事件の詳細①:被害者について
比叡山女子大生殺人事件の詳細、まずは被害者について詳しく見ていきます。
・年齢:25歳(事件当時)
・所属:早稲田大学第二文学部
まじめな性格
被害者は父親は大学教授、母親は元教師という真面目な家庭で育ちました。本人も、真面目で一本気な性格だったことで知られています。
無遅刻・無欠席、きちんと挨拶・お礼をするといった基本は当然。
掃除や雪かきを率先してしたり、母親がケガをした際には家事を一人でこなすなど、
「女丈夫」というイメージとはまた違った一面が見られる。
また、京都では毎日親に電話をし、手紙を書いていたという。
真面目過ぎて、男性からは近寄りがたいと思われたことはあったようですが、上記エピソードから、真面目なだけでなく優しくて気遣いができる女性だったことがわかります。
空手をやっているスポーツウーマン
被害者は身長163cmで、スポーツをしていたこともあり、がっしりとした体形をしていました。肌も日焼けをしていて、健康的なタイプでした。
中学生の頃は陸上部で長距離と砲丸投げの種目に取り組み、高校に入ってからは校内の男女一緒のマラソン大会で4位に入ったことがあり、運動神経には自信があったようです。
大学は体育系大学を志望していたという情報もあるほどです。
また、高校3年生の時に痴漢に遭ったことをきっかけに空手を習い始め、1年後には初段になり、24歳の時(事件の前年)には二段に昇格するほどの実力者でした。
仏教を専攻
高校生の時は体育系大学を志望していましたが、受験に失敗して、日本大学文理学部中国文学科に入学します。そして卒業後には、早稲田大学第二文学部美術科の3年次に学士入学しました。
このころから、被害者は仏教・仏像に魅せられるようになり、将来も仏教・仏像にかかわる仕事に就こうと、仏師を志すようになりました。
事件の時に比叡山に行ったのも卒業研究の為だったと言います。
また、この比叡山に行く直前には、京都市内で仏師の工房や京都国立博物館に行き、就職先があるか探していたようですが、断られています。
中国から京都へ
被害者は卒業論文制作のために、1989年6月に中国に行きました。
上海から西安・洛陽・大同・北京など仏教遺産がある場所を巡り、各寺院を巡る予定でした。
しかし、上海についてすぐの6月4日に天安門事件が起こったのです。そのため、予定していたスケジュールを中止して、すぐに日本に帰るしかありませんでした。
被害者は卒業研究が進まなかったために、予定を変更して、1989年8月26日から京都市内に旅行に行き、卒業研究を進めることにしたのです。
比叡山女子大生殺人事件の詳細②:被害者の事件前の足取り
比叡山女子大生殺人事件の被害者は、先述の通り、卒業研究のために8月26日から京都市内を巡っていました。
・8月27日:永観堂や南禅寺、東山動物園、六波羅蜜寺などをめぐる
・8月28日:空手道場で知り合った友人女性と仏具屋を訪ねる
・8月29日:仏師工房や京都国立博物館の美術院国宝修理所で就職を訪ねる
・8月30日:東寺や六波羅蜜寺を見学。仏具店で買い物をする
・8月31日:ホテルをチェックアウトして比叡山に向かう
事件当日の8月31日は比叡山延暦寺を訪問した後、愛知県名古屋市に行く予定で、名古屋市内のホテルを予約していました。
そして、9月2日には実家の千葉県野田市に戻る予定でした。
比叡山女子大生殺人事件の詳細②:犯人の大田正雄について
比叡山女子大生殺人事件の犯人の詳細を見ていきます。事件の犯人は大田正雄です。
・身長:175cm
・年齢:48歳(事件当時)
・体型:やせ形で白髪混じり
転々として定職に就かない生活
比叡山女子大生殺人事件の犯人・大田正雄は、和歌山県有田郡出身です。
父親は太平洋戦争で戦死、母親とは一緒に住んでいなかったようで、祖母に育てられています。子供のころはおとなしい性格だったという情報があります。
中学卒業後は、滋賀県や和歌山県、大阪府などの各地を転々としていて、定職に就くようなことはありませんでした。
酒好きで、働くのは好きではないタイプで、窃盗をしたこともありました。
また、1986年にはレストランに侵入してビールや日本酒を飲み荒らし、窃盗の現行犯で逮捕されていますが、この時は起訴猶予処分になっています。
比叡山でテント暮らし
犯人の大田正雄は、比叡山でテント暮らしをしていました。
ただ、現在の高性能なテントでのアウトドア生活ではなく、ビニールシートや布で覆っただけであり、アウトドア生活というよりも、ホームレス生活といった方がしっくりくる生活です。
夏の期間の7~9月は比叡山でテント暮らしをして、お金が無くなると山を下りて、住み込みの期間工などをしていたようです。
テント生活での明かりはろうそくで、カップ麺に水を入れてふやかして食べたり、山菜・木の実などを食べるなど、サバイバルのような毎日を送っていました。
昼間は山の中を歩き回っていたため、48歳の瘦せ型体型ながら、体力はかなりあったようです。
比叡山女子大生殺人事件の詳細③:遭遇から殺害まで
比叡山女子大生殺人事件は、1989年8月31日に起こりました。
話しかけて森の奥へ
1989年8月31日、京都市内のホテルをチェックアウトした被害者は、バスやケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで、比叡山延暦寺にやってきました。
そして、横川中堂へ行く途中、被害者は犯人に声をかけられます。
犯人はこの時、所持金が1万円ほどしかなく、誰か一人旅の女性を襲い、レイプをして金品を奪うことを計画していました。
犯人は被害者に地元民を装って話しかけ、旅行の目的や今後の予定などを聞き出します。
被害者が横川中堂や秘宝館に行くことを知ると、それ以上は付きまとわず、被害者が帰り道に通ると思われるところで、ビールを飲みながら待ち伏せしていました。
被害者は秘宝館を30分くらいかけて見学し、午後2時過ぎに秘宝館を後にします。
秘宝館の職員は被害者が出ていくときに「ありがとう」と声をかけ、その後に違う職員が横川中堂方向に戻っていく被害者を目撃しています。
これが、最後の被害者の生前の目撃情報となりました。午後2時49発の最終バスには被害者は乗っていませんでした。
被害者は待ち伏せしていた犯人に声をかけられた、犯人に「三千院への近道はないか?」と尋ねます。
犯人は「チャンス到来!」と、道案内をするふりをして、比叡山の山奥へ連れていきました。
失神させて強姦
犯人の大田正雄は被害者に写真撮影に良い場所を教えてあげると言いながら、けもの道を進み、被害者がカメラを構えているところを後ろから襲い掛かりました。
犯人は、背後から被害者の首に腕を巻き付け締め上げました。そして、被害者は気絶してしまいます。
この時、被害者はTシャツに長袖シャツ、トレパンを着用していました。
しかし、犯人によってすべて脱がされて、靴下とスニーカーを履いただけの状態、つまり全裸にされて、強姦されています。
殺害+死体遺棄
強姦された後、犯人は持っていた包帯や被害者のリュックの紐を使って、被害者の首を絞めて殺害します。そして、そのまま遺体を遺棄しました。
犯人は被害者のリュックとウエストポーチを奪って、その場を離れます。
財布には39,000円とトラベラーズチェック(現金10万円だったという情報もあり)、カメラのみが金目のもので、そのほかはスケッチブックやクレヨンなどが入っていました。
犯人は金目のもの以外とリュックは比叡山の山の中に捨て、ウエストポーチと金目の物だけを持って、自分のテントに戻りました。
比叡山女子大生殺人事件の詳細④:身代金要求
被害者を殺害した後も、犯人はテント暮らしを続けていました。しかし、9月2日に犯人はとあるいたずらを思いつきます。
そのいたずらとは、被害者の実家に身代金要求の電話をかけることです。
犯人は9月2日午前8時ごろに、奪ったウエストポーチの中にあった被害者の実家の電話番号に、「京都まで身代金1000万円を持ってこい。誘拐だよ誘拐」と電話を掛けました。
しかも、すぐに用件だけを言って電話を切るのではなく、電話に出た被害者の母親と3分近くも話していました。
そのため、母親は関西なまりの犯人の声をしっかりと記憶することになりました。
犯人は、別に被害者の両親から身代金を奪おうと思って電話したわけではないようです。
被害者が仮死状態から蘇生し、実家に逃げ帰っていないか?ということを確認するために、電話を掛けたとされています。
母親はこの電話のあと、警察に通報していますが、この時は誘拐と見られていましたので、公開捜査は行われず、秘密裏に捜査が進められていました。
比叡山女子大生殺人事件の詳細⑤:遺体発見
被害者の母親の通報から、警察は被害者の捜索を始めますが、被害者の実家には9月2日以降犯人からの接触はなかったため、9月8日には公開捜査に切り替えています。
比叡山での目撃情報が寄せられたことで、周辺を捜索したところ、被害者のリュックが発見され、9月10日には250人体制で捜索した結果、午後4時ごろに被害者の遺体が発見されました。
遺体が遺棄されていた場所は、人がほとんど通らない場所でした。遺体の横には脱がされた衣服やスケッチブックなどが散乱していてました。
遺体発見後には、被害者の父親が次のような声明を出しています。
「取り乱しており、気持ちの整理がつきません」
と断ったうえで、父親は用意したメモを読み上げた。
「警察から、遺体が娘だと聞きました。でもやはり、信じられない。心当たりがありません。現地にいつ行くかは、これから皆と話し合って決めたいと思います。
皆さんのこれまでのご配慮に心から感謝しています」
比叡山女子大生殺人事件の詳細⑥:犯人の逮捕
住み込みで働く
犯人は、身代金要求の電話以降も比叡山で生活をしますが、警察の捜索を恐れたのか、9月4日には山を下りて、大阪市平野区にあるプラスチック製品の工場で住み込みで働き始めました。
会社側によると、犯人は手際よく働いていて、おとなしい性格だったとのことです。
ただ、同僚には「警察に追われている」と話していたそうで、昼間はラジオをよく聞いていたとのことです。
ラジオを聞くことで、捜査の進展状況を探ろうとしていたのではないかと言われています。
自ら警察に電話
遺体が発見された後、警察の捜査によって、事件当時比叡山でテント生活をしていた男(犯人の大田正雄)が容疑者として浮上します。
自分に疑いの目が向くことを恐れた犯人は、9月12日に自ら警察に電話をしました。犯人が警察に伝えた情報は以下のようなものです。
・被害者からウエストポーチを貰った
犯人の大田正雄は以前に窃盗容疑で逮捕された時に顔見知りになった刑事が、滋賀県警の大津署にいたため、ウエストポーチを持って大津署に出向いたのです。
逮捕される
大津署に出頭した犯人は、別に殺人を告白したわけではありません。あくまで「捜査に協力している善良な市民」を装うことで、自分を容疑者から外そうとしたのだと言われています。
しかし、日本の警察はそんなに甘いものではありません。度重なる刑事からの追及に、犯人の大田正雄の供述は二転三転しました。
そして、ウソ発見器にもかけられ、ウソの供述をしていることもバレてしまいます。
そして、9月13日に犯人は被害者の強姦と殺害を自供し、逮捕されました。
被害者の母親が覚えていた身代金要求の電話の声と犯人の声が酷似していることも、逮捕の決め手の1つとなっています。
比叡山女子大生殺人事件の犯人の動機とは?
比叡山女子大生殺人事件の犯人・大田正雄の動機について見ていきましょう。
金とレイプ目的
比叡山女子大生殺人事件の犯人は、最初に犯行を自供した時は「強姦目的」と殺害の動機を話していました。
また、金品を奪っていることや犯人の生活状況・事件前の所持金を考えると、強盗目的もあったことは間違いありません。
つまり、比叡山女子大生殺人事件の犯人の動機は、金とレイプ目的だったと言えます。
強姦目的はのちに否定
しかし、犯人は強姦目的であることをのちに否定しています。強盗目的で殺害したけれど、強姦はしていないという供述に変更しているのです。
実は、被害者のご遺体が司法解剖された時に、強姦されたかどうかは判別できませんでした。
着衣については、上半身の衣服はたくし上げられ、下半身の衣服は脱がされて
遺体の下に敷かれた状態だった。
生殖器も調べられたが、犯されたという物的証拠は最終的に確認できなかった。
これは、遺体の腐乱が進んでいたために、判別できなかったのではないかと見られています。
8月31日に殺害されて、遺体が発見されたのは9月10日です。真夏に10日間も遺体が遺棄されていたら、腐敗はかなり進んでいたでしょう。
ただ、上半身の服はたくし上げられ、下半身の衣服ははぎとられていた状態で、「強姦目的ではない」というのは、さすがに無理があるように感じます。
犯人はレイプと強盗が殺人の動機でしたが、レイプ+強盗だと罪が重くなるため、少しでも罪を軽くするために、強姦目的を否定したのかもしれません。
しかし、最終的に犯人の大田正雄は京都地検から強盗殺人罪で起訴されています。
「強盗強姦殺人罪」ではなく、「強盗殺人罪」ということは、犯人のレイプの事実は認められなかったということになります。
比叡山女子大生殺人事件の裁判と判決とは?
比叡山女子大生殺人事件の裁判では、犯人は起訴事実をほぼ認めていますが、次のようにも主張しています。
・女性が勝手についてきた
・電話は遺体の早期発見を願ってのこと
・警察への出頭は自首にあたる
検察は無期懲役を求刑し、裁判所は「人を疑うことを知らない被害者を裏切った責任は大きい」として、1990年3月に求刑通り無期懲役の判決を言い渡しました。
比叡山女子大生殺人事件の犯人・大田正雄の現在
1990年に無期懲役の刑を言い渡された犯人は、その後は刑務所に収監されています。
期間工の仕事をしながら、テント生活をしていた犯人にとっては、刑務所に入ったことで、衣食住が保証されたという見方もできます。
526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/08(月) 18:50:32 ID:???
ホームレスが女子大生を犯して殺したら、国が衣食住を保証してくれたでござるの巻
犯人の大田正雄の現在はわかっていません。2021年時点で大田正雄は80歳になっているはずですから、すでに死亡している可能性も十分にあります。
また、無期懲役ということで、1990年に収監されてからすでに30年以上たっているため、仮釈放されているのでは?という意見もあります。
無期懲役は終身刑とは違いますので、仮釈放される可能性があります。
また、第一審の裁判員裁判で下された死刑判決が破棄され、無期懲役となった。ちなみに日本の無期懲役は、終身刑と異なり、一生刑務所ではなく、出所してくるのが通例。なんの為の裁判員裁判か。裁判員裁判の法改正をして、もっと裁判員裁判が尊重される制度に改めるべきだ。 https://t.co/bFUHzVJb63
— 吉村洋文(大阪府知事) (@hiroyoshimura) December 5, 2019
大阪府知事も「一生刑務所ではなく出所してくるのが通例」と述べています。
以前は無期懲役でも15年程度で仮出所になることがあったようですが、現在は15年で仮出所はなく、最低でも30年経たないと仮出所はないようです。
ただ、仮出所になるケースは「更生が見込まれる」ケースのみですので、犯人の大田正雄は当てはまらず、今後仮出所となる可能性は極めて低いでしょう。
30年近く社会から隔離され、逮捕前もホームレスに近い生活で財産もなく、家族や支援者もいない高齢者が仮出所したら、生活できずに再犯するのは火を見るよりも明らかですから。
そのため、犯人の大田正雄は現在は死亡している、もしくはまだ刑務所にいると見ていいでしょう。
比叡山女子大生殺人事件のまとめ
比叡山女子大生殺人事件の経緯と被害者・犯人など詳細、犯人の動機や判決、犯人の現在をまとめました。
この事件のあと、比叡山では「女性の一人歩きは危険」という看板がたくさん立てられ、パンフレットにも注意書きが載せられるようになりました。
被害者の女性のご冥福をお祈りします。