藤城康孝は加古川7人殺害事件の犯人で2021年12月に死刑執行され、生い立ちや家族・親族との関係も話題です。
今回は藤城康孝の生い立ちと母親など家族、日生学園出身の噂、事件の動機や被害者との関係、判決と現在をまとめました。
この記事の目次
藤城康孝は「加古川7人殺害事件」の犯人
藤城康孝は「加古川(かこがわ)7人殺害事件」の犯人です。
「加古川7人殺害事件」とは、2004年(平成16年)8月2日、兵庫県加古川市西神吉町大国で発生した大量殺人事件。
当時無職だった47歳の藤城康孝は、両隣に住んでいた親族等男女8人を刃物で襲い、7人を殺害、1人に重傷を負わせました。
その後の裁判で死刑判決を受けた藤城康孝は、2021年12月21日に死刑が執行され、65歳でその生涯を閉じました。
藤城康孝の生い立ち① 小学生~中学生時代
「加古川7人殺害事件」の犯人である藤城康孝は、1956年(昭和31年)12月5日生まれで、3人兄弟(弟・妹が各1人)の長男でした。
藤城康孝の父親は大手製鋼会社に勤めており、母親は工場に勤務していました。
藤城康孝は小学生の頃から既に異常な凶暴性を見せていて、中学生時代は暴力事件は日常茶飯事で、嫌がらせをしてきた同級生を包丁で斬りつける傷害事件を起こしています。
藤城康孝の生い立ち② 高校は日生学園?
藤城康孝の暴力的な行動に我慢の限界となった両親は、藤城康孝を更生させるために三重県にある全寮制高校に入学させました。
しかし、高校時代にも藤城康孝は嫌がらせをしてきた同級生の腹部を刃物で刺すなど傷害事件を起こしています。
これらのエピソードから、藤城康孝は頭に血が上ると刃物を持ち出して暴れる習性があったようです。
なおネット上では、藤城康孝は日生学園に通っていたとの噂も浮上していますが、正確な情報ではなく、どこの全寮制学校に通っていたのかは明らかになってません。
加古川7人殺害事件の藤城康孝って日生学園卒かよwwwwwwww
— 李麺爆天皇 (@_A_HONDA_RA_) July 3, 2021
藤城康孝の生い立ち③ 高校卒業後は職を転々とするも上手くいかなかった
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高校卒業後、自宅に戻ってきた藤城康孝はしばらくは飲食店など転々として職を変えていましたが、生来の凶暴性から人間関係がうまくいかず、無職になり放蕩生活をするようになりました。
20代の頃、母親が料理の勉強のために留学費用を捻出してくれたことで、藤城康孝は海外に渡りましたが、1か月もせずに断念して帰国しています。
事件が発生する4年前には、藤城康孝は自宅横にプレハブ小屋を建ててパン作りを始め、そのパンを母親の勤務先の工場などで販売していました。
しかしこれも長くは続かず、2年も経たずに廃業すると、藤城康孝はさらに凶暴になっていきました。
藤城康孝と父親・母親など家族との関係とは?
藤城康孝の父親は家を出ていった
藤城康孝は、母親に大きな苦労をかけている父親に対して、深い怒りの念を持っていたようで、たびたび些細なことで父親に殴りかかったり、包丁を投げつけるなどしていました。
藤城康孝の凶暴性が増すにつれて生命の危険を感じた父親は、勤めていた製鉄会社を退職すると「息子に殺される」と言葉を残して家を出ていったようです。
1988年頃には弟と妹も自立したため、藤城康孝は母親と2人で暮らすようになりました。
藤城康孝は母親と兄弟に対しては優しさを見せていましたが、それ以外の人間に対しては異常な凶暴性を見せていたました。
藤城康孝が起こした「加古川7人殺害事件」とは? 【被害者の殺害方法も紹介】
犯人: 藤城康孝(当時47歳)
犯行種別: 大量殺人事件
犯行日: 2004年8月2日
場所: 兵庫県加古川市西神吉町大国
被害者数: 7人死亡、1人重傷
判決: 死刑:2021年12月21日執行(65歳没)
動機: 親類への長年の恨み
「加古川7人殺害事件」の現場となったのは、兵庫県加古川市西神吉町大国の静かな田園地帯で、 藤城康孝の自宅の両隣にある親族宅でした。
1件目は、藤城とし子さん(事件当時80歳)宅で、とし子さんとその息子である勝則さん(同55歳)・義久さん(同46歳)と合わせて3人が殺害されました。
2件目は、藤城利彦さん(同64歳)宅で、妻の澄子さん(同64歳)と息子の伸一さん(同27歳)、娘の緑さん(同26歳)の4人が殺害されています。
ここからは、事件の経緯を見ていきましょう。
藤城康孝が藤城とし子さん一家を殺害
2004年8月2日午前3時半頃、藤城康孝は自宅から包丁と金槌を持ち出して、自宅の東隣にあった藤城とし子さんの自宅に脚立を使って2階から侵入しました。
そして初めに、就寝中だった次男の義久さんの部屋に侵入し、義久さんが目を覚ますと金槌で頭を殴りました。
義久さんは必死で命乞いをしましたが、藤城康孝は容赦なく包丁で刺して殺害しました。
その後、藤城康孝は1階に降り、騒動を聞きつけて起きてきた藤城とし子さんの頭を金槌で殴打しています。
藤城とし子さんは倒れて動かなくなったため、藤城康孝は死んだと思って家を出ました。
藤城康孝が藤城利彦さん一家を殺害
藤城康孝は犯行直後、自宅にいる実の妹に電話をして、藤城とし子さん一家を殺害したことを伝えました。
そして、新しい包丁を自宅から持ち出し、藤城康孝は自宅から少し西に行ったところにある藤城利彦さんの自宅に向かい、玄関横の窓が少し開いていたため、そこから侵入しました。
藤城康孝は就寝中だった藤城利彦さんを包丁で刺して殺害すると、奥の部屋に移動し、物音を聞きつけて起きてきた妻の澄子さんも刺殺。
藤城康孝は次に離れに向かい、就寝中だった長男の伸一さんをわざわざ起こして包丁で刺して殺害しています。
母屋で寝起きしていた長女の緑さんを殺すために戻ると、緑さんは気がついて自室のドアを手で塞いで抵抗しましたが、藤城康孝は体当たりをして部屋に侵入、包丁で刺して殺害しました。
藤城康孝は助けを求めていた藤城とし子さんを殺害
藤城康孝はその後自宅に戻りましたが、外から助けを求める藤城とし子さんの声が聞こえたため、再びとし子さんの自宅に侵入しました。
すると騒動を聞きつけて起きてきた長男の勝則さんと遭遇したため、藤城康孝は出会い頭に包丁で刺して殺害。
勝則さんの妻とも遭遇し、藤城康孝は包丁で複数回刺しましたが、この妻は分家の自分達を馬鹿にしたことはなかったため、とどめはささずに放置しました。
藤城康孝は1階に戻ると、殺害したと思っていたとし子さんが立っていたため、命を奪おうと追いかけました。
とし子さんは必死に門扉の所まで逃げましたが、結局そこで藤城康孝に追いつかれて包丁で刺され、死亡しています。
藤城康孝は犯行後に自殺を試みた
藤城康孝による一連の凶行は、わずか40分の間に行われました。
藤城康孝は7人を殺害した後に自宅に戻ると、畳や布団などにガソリンをまいてライターで火をつけました。
同居していた当時73歳の母親は、火災に気づいて逃げたため無事でしたが、自宅は全焼。
実は藤城康孝は、この後も恨みを持つ相手への殺害計画がありましたが、7人を殺害したことで心身ともに疲弊し、どうでもよくなって諦めたと言われています。
藤城康孝は自宅を放火した後、軽自動車に乗って4km離れた弟の家に向かいました。
「人をたくさん殺した。母親のことを頼む。わしは死ぬ」と弟に告げると、藤城康孝はその場でガソリンをかぶって火をつけ自殺しようとしました。
しかし、弟に止められたため自殺を思いとどまって立ち去りました。
藤城康孝は重度のやけどで入院、その後逮捕
弟と別れた後、藤城康孝は事件現場から700メートルほど離れた加古川バイパス西インター付近を車で走行していたようです。
そして、赤信号で停車していたところ、後続車にパトカーが来たため、自殺を図るために車を急発進させて壁に激突させました。
そして助手席にライターで火をつけましたが、ガソリンに引火して爆発的に炎が広がったため、藤城康孝は驚いて車外に飛び出し、その場で警察官に拘束されています。
藤城康孝は炎に巻かれて両腕に重度の火傷を負い、神戸大学医学部附属病院に入院しましたが、8月31日に退院と同時に逮捕されました。
藤城康孝が「加古川7人殺害事件」で被害者を殺害した動機とは
藤城康孝の母親は、この土地に嫁いで来た時から見下され、いじめられていたと言われています。
藤城康孝は、自分の母親を苦しめていた元凶を作ったのは本家の藤城とし子さんだと考えていたようです。
また、藤城康孝が本家の人間に対して憎悪の念を抱くきっかけの1つとして、相続問題がありました。
土地や資産などを巡って、本家と分家で相続に大きな格差があり、それが恨みに繋がっていたといいます。
さらに、藤城康孝は自分のことを、本家や周辺の人間から疎まれている邪魔な存在だと少年時代から感じており、おりのように積もり積もったその感情は深い恨みとなっていました。
また、パン屋の経営に失敗して無職になった時、本家の人間から馬鹿にされている、邪魔者扱いされていると被害妄想的に憎しみを抱いたようです。
そして、見下してくる本家の人間たちと度々トラブルを起こすようになりました。
以上のことから、「加古川7人殺害事件」の犯人・藤城康孝の犯行動機は、田舎の土地の一族間での陰湿な関係と、藤城康孝の強い憎悪だったと言えます。
藤城康孝は「加古川7人殺害事件」で死刑判決
藤城康孝の初公判は、2005年1月28日に神戸地方裁判所で開かれました。
事件の内容が尋常ではなかったため、裁判では藤城康孝の責任能力が争われることになりました。
1審と2審では藤城康孝に対して死刑が言い渡されましたが、藤城康孝の弁護人は上告し、犯行当時に心神こう弱状態にあったとして減刑を求めています。
その後の2015年、藤城康孝は長年被害者等とトラブルを起こし、激しい憎悪の中で周到に殺害計画を練っていたことや、責任能力が認められたことから、最高裁で死刑が確定しました。
藤城康孝の現在…すでに死刑が執行されている
2021年12月に藤城康孝の死刑が執行された
2021年12月21日、藤城康孝は「加古川7人殺害事件」において7人を殺害した罪により、他の死刑囚2名とともに死刑が執行されています。
死刑の執行は2019年12月以来であり、岸田内閣発足からわずか1ヶ月でした。
藤城康孝の死刑執行に対して、被害者の遺族や弁護人などがコメントを出しました。
【被害者の遺族は】。
藤城死刑囚の死刑執行について、殺害された一家の遺族の1人は弁護士を通じて、「死刑判決確定から6年半。この日が来ることを待っていました。加害者が死刑執行の時、何を思ったのかは分かりませんが、亡くなった被害者のことを少しでも思い出し、反省していたと願いたいです」とするコメントを出しました。
【主任弁護人は】。
藤城死刑囚の主任弁護人だった明石博隆弁護士は「裁判では、精神科医による3つの鑑定の結論がすべて心神耗弱だったのに、判決はすべて完全責任能力があると判断しました。判決自体が到底受け入れられるものではなく、死刑にされるべきではありませんでした」と話しています。
藤城康孝の死刑について周辺住民の反応は?
藤城康孝が起こした「加古川7人殺害事件」について、事件現場周辺の住民はインタビューで以下のように答えています。
事件発生から17年が経過し、現場周辺には当時を知る住民も少なくなったという。現場の近くに住む70代の女性は藤城死刑囚の死刑執行の知らせに「本当に怖かった。今でも思い出すと震えが止まらない。あんな悲惨な事件は二度と起きてほしくない」と話した。
藤城康孝の死刑が執行されたことで再び故郷に戻ってくることはないとはいえ、周辺住民に植え付けられたトラウマは生涯消えることがないのかもしれません。
まとめ
2004年に7人を殺害した「加古川7人殺害事件」を起こし、2021年12月21日に死刑執行された藤城康孝の生い立ちや家族、裁判や判決、現在までについてまとめてきました。
藤城康孝が抱えていた凶暴性は、母親が親戚にいじめられていても守ってやらなかった父親の責任が大きいのかもしれません。
そこに本家と分家という昔の家制度問題が絡んだため、悲惨な事件が起きてしまいました。
亡くなった7名のご冥福を心よりお祈り申し上げます。