日本史上最悪の贈収賄事件とも言われる「リクルート事件」で一躍有名になった江副浩正ですが、彼の名言や晩年も話題です。
今回は江副浩正の経歴やリクルート事件の概要、名言、嫁や子供(息子と娘)、自宅、晩年や死因を調べました。
この記事の目次
江副浩正のプロフィールと経歴
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江副浩正
生年月日:1936年6月12日
没年月日:2013年2月8日
出身:大阪府大阪市
学歴:東京大学教育学部
所属:株式会社リクルート
職業:実業家
江副浩正は、リクルートを創業した人物です。また、日本史上最悪の贈収賄事件であるリクルート事件の主要人物でもあります。
生い立ちから学生時代
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江副浩正は1936年、江副良之・マス子の長男として愛媛県で生まれました。父親は学校の教師で、母親のマス子は父親である良之の教え子でした。
父親の良之は大阪の学校に赴任し、母親は江副浩正が3歳になるまで実家のある愛媛県で育て、それから大阪に出てきました。
しかし、当時の良之は愛人と同棲状態にあり、マス子を捨てて離婚、長男の江副浩正だけを引き取る(母親から奪う)という最低の行動に出ました。
江副浩正は父親と一緒に暮らし始めますが、戦災で家を失い、大阪府豊中市の借家に引っ越します。
その後、江副浩正は甲南中学・高校に進学します。名門の甲南中学・高校はいわゆるセレブの子息が通う学校であり、教師の息子である江副浩正は浮いた存在でした。
そのような中、江副浩正は東京大学に合格します。しかも、英語よりもドイツ語で受験した方が合格しやすいとして、ドイツ語で受験するという柔軟でユニークな考えの持ち主でした。
リクルートを創業
東京大学に進学した江副浩正は、在学中から東大ブランドに目を向け、企業向けの営業を行います。そして卒業後は就職せずに、リクルートの前身企業である株式会社大学広告を設立します。
その後、リクルートを創業。求人広告をメインに取り扱い、高度経済成長期・バブル期という波に乗り、どんどん会社を大きくしていったのです。
さらに求人広告業だけでなく、不動産やリゾート開発などにも事業を拡大しています。
江副浩正が関わったリクルート事件とは?
次に、江副浩正を語る上で避けては通れないリクルート事件について見ていきましょう。
リクルート事件は、1988年に発覚した日本史上最悪の贈収賄事件であり、日本の政治の闇が露見した事件でもありました。
リクルート事件が起こった背景
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まずは、リクルート事件が起こる原因となったバックグラウンドから説明します。
江副浩正が創業したリクルートは、高度経済成長期・バブル期の波に乗って、ぐんぐん成長していきました。
ただ、企業規模としては大企業並みになっても、新しい企業(現在で言うベンチャー企業)だったために、歴史ある大企業からは一線を置かれていて、財界では孤立した存在でした。
そんなリクルートが、財政界など様々な分野への影響力を強めたい、財政界へもっと食い込みたいとの野心で起こしたのが、リクルート事件なんです。
リクルート事件とは?
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リクルート事件は1988年に発覚した事件で、リクルートの子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を、有力政治家や官僚・通信業界有力者に譲渡した事件です。
株が公開されると、株の価値は一気に跳ね上がります。そのタイミングで、その株を売却すると、未公開株を持っていた人は大きな利益を得ることができるというわけです。
このリクルート事件はリクルートの創業者であり、当時のリクルート会長だった江副浩正が指示しています。
未公開株を譲渡した相手は、国会議員・秘書・文部省や労働省の官僚、NTT会長・取締役などで、売却時の合計利益額は総額6億円にも上ると言われています。
リクルート事件が発覚した経緯
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リクルート事件が発覚したのは、朝日新聞のスクープがきっかけです。
神奈川県川崎市の助役にリクルート・コスモスの未公開株が譲渡されたことが明らかになり、各マスコミがこぞって報道を始め、自民党の有力政治家や官僚にも未公開株の譲渡が発覚します。
そしてそのような中、決定的な証拠がスクープされました。
リクルート事件の発覚時、リクルート・コスモス社はなんとか事態の収束を図ろうとします。
リクルート・コスモス社を国会で追及する予定だった野党の社民連の楢崎弥之助氏を、リクルート・コスモスは買収して追及させないようにしようとしたんです。
楢崎弥之助氏は、買収を持ちかけられたことをマスコミに相談し、マスコミと協力して、リクルート・コスモスから楢崎氏が買収を持ちかけられているところを隠し撮りしたんです。
この隠し撮りで、リクルート・コスモスが楢崎弥之助氏に現金が入った紙袋を渡そうした現場がキャッチされ、テレビで放送されることになりました。
この決定的な証拠により、江副浩正はリクルート事件で言い逃れできない状況になったのです。
リクルート事件で江副浩正は有罪になる
リクルート事件が明るみに出た後、江副浩正は1988年7月26日に「抑うつ症状」で半蔵門病院に入院していますが、その後は国会の証人喚問に召喚され、リクルート会長を辞任しています。
そして1989年に贈賄容疑で逮捕され、東京地検での322回にも及ぶ公判が行われ、2003年に懲役3年執行猶予5年の有罪判決が言い渡されています。
東京地検での322回という公判は歴代1位であり、第1審の結審だけで約15年もかかっているのはかなり異例のことです。
第1審結審後は、検察側・弁護側共に控訴しなかったため刑が確定しています。
リクルート事件で内閣は総辞職に追い込まれる
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リクルート事件では、次のような有力政治家にも未公開株が譲渡されたことがわかっています。(役職は当時のもの)
・長谷川峻法相
・宮沢喜一蔵相
・小渕恵三官房長官
・小沢一郎官房副長官
・安倍晋太郎幹事長
・渡辺美智雄政調会長
・中曽根康弘元首相
・橋本龍太郎元運輸相
・梶山静六元自治相
・森喜朗元文相
・藤波孝生元官房長官
・鈴木宗男衆議院議員
自民党の有名政治家の名前がズラッと並んでいますよね。
総理大臣、大蔵大臣(現財務大臣)を始め、総理経験者や後の総理大臣など、日本国民なら1度は聞いたことがある名前ばかりです。日本の政治の中枢人物と言っても過言ではないでしょう。
そんな人物たちが、リクルート事件で未公開株を譲渡されたことが発覚したんです。
しかし、国会議員で逮捕されたのは藤波孝生元官房長官だけでした。他の国会議員は未公開株を譲渡されたことは判明しているのに、逮捕されなかったんです。
それはなぜか?リクルート事件のWikipediaには次のように記載されています。
未公開株の譲渡対象が広範で職務権限との関連性が薄かったため、検察当局は大物政治家の立件ができなかった。
この説明では、ちょっとわかりにくいですね。
簡単に言うと、「未公開株を譲渡したことは判明したものの、何の目的で譲渡したのかはわからなかったから、逮捕・立件できなかった」ということです。
つまり、江副浩正は国会議員に利益を与えたが、それがリクルート社や自分に対して融通を利かせてもらうことが目的だったのかは明らかにならず、逮捕・立件できなかったということです。
100%の善意で未公開株を譲渡した可能性を否定できなかった、ということかもしれません。
あまりにも政権の中枢に切り込む大きな事件だったため、検察側の忖度があった可能性もあります。
結局、秘書の逮捕はあったものの、大物政治家の逮捕には至りませんでした。
しかし、竹下内閣は総辞職することになり、リクルート事件後初の国政選挙である参議院議員選挙では自民党は戦後初の過半数割れを起こし、惨敗する結果となりました。
江副浩正はリクルート事件後、自宅に銃弾を撃ち込まれていた…
江副浩正の自宅は、東京都港区南麻布の超高級住宅地にありました。超高級住宅地に建つ立派な邸宅です。
当時のリクルート社はそのくらい勢いがある会社であり、江副浩正は大阪の借家の実家から出発して、都内の高級住宅街に邸宅を構えるまでに成功した実業家であるということです。
いわゆる「成り上がり」の実業家で、ITバブルが落ち着いた現在ではこれだけの成り上がれる可能性は低く、さすが高度成長期・バブル期の波に乗った才能ある実業家と言えるでしょう。
「時代の寵児」と言える人物かもしれません。
リクルート事件が発覚した後の1988年8月には、江副浩正の自宅玄関に銃弾が撃ち込まれるという事件がありました。
赤報隊(右翼テロ)から犯行声明が出されており、赤報隊事件の1つであることが判明しています。自宅に銃弾が撃ち込まれるのは相当怖いですよね。
江副浩正は南麻布の高級住宅地に自宅を持っていましたが、2005年には自宅を東新橋のタワーマンションに移したという情報があります。
このタワーマンションはリクルート本社に近いですし、セキュリティーの面でも安心だったのかもしれません。
江副浩正の名言まとめ
江副浩正はリクルート事件の印象が強く、「極悪人」というイメージがありますよね。
腹黒く、金で政治家を操ろうとした悪人です。これは確かですが、同時にやり手の実業家という一面も忘れてはいけません。
裸一貫から成り上がり、リクルートを創業、大企業に成長させたという実績はリクルート事件があろうとも消すことはできません。つまり、江副浩正は実業家としては一流なのです。
そんな一流の実業家である江副浩正は数々の名言を残しています。江副浩正の名言を一部紹介します。
・「脅威と思われる事態の中に隠された発展の機会がある」
・ 「当然だが一人では大きな事業はなし得ない。気力と体力のある若い人材を集め、目標を共有して事業を推進すること。」
・「人に平等に与えられたものは時間である。時間の有効な使い方を知らないと大きな成功は難しい。 仕事は受付順にするのではなく大事なことを優先することが重要である。」
・「起業家に求められるのは倫理観である。倫理観のない起業家は、いずれ破綻する可能性がある。」
・「一つものを二にも三にも拡大して活用できる経営資源は人的資源である。 起業家は人の能力を精一杯引き出す力を持たなければならない。」
江副浩正の嫁とは?子供(息子・娘)はいる?
江副浩正の嫁や子供(息子・娘)の情報を調べました。
江副浩正の嫁
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江副浩正の嫁は、江副碧さんです。
江副碧さんは大阪出身で、実家はボルトやナットなどを製造する大阪螺子製作所を経営していました。
父親の西田巳喜蔵さんは、茨木市商工会議所の会頭も務めたことがあり、いわゆる「地元の名士」でした。つまり、良いところのお嬢さんですね。
江副碧さんは、ただ単に「江副浩正」の嫁というわけではなく、ご自身でも会社を経営されています。2019年の時点で82歳ですが、82歳でも経営者として現役とのことです。
パワフルな実業家の嫁は、やっぱりパワフルなタイプが多いのかもしれませんね。
江副浩正の子供(息子・娘)
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江副浩正の子供(息子や娘)については詳しい情報はありません。ただ、いろいろな情報を合わせてみると、娘さんは最低2人はいることがわかります。
下の娘さんは、江副浩正がリクルート事件で逮捕され、保釈された後に「お父さんは必ず社会復帰できる」とたびたび励ましたくれたとのことです。
また、2人の娘のうちどちらなのかは分かりませんが、江副浩正の死後に実の母親(江副碧さん)を訴えて、自宅を差し押さえたことが報道されたこともあります。
江副浩正のリクルート事件のその後と晩年
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江副浩正はリクルート事件で逮捕され、2003年に懲役3年執行猶予5年の判決を受けています。執行猶予付きの判決ですから、刑務所に収監されることはありませんでした。
リクルート事件により、リクルート会長の職を辞任しています。しかし、実業家を引退したわけではありませんでした。
オペラの興行団体「株式会社ラ ヴォーチェ」を立ち上げたり、新国立劇場東京オペラシティの支援も行っています。
また、奨学金財団の「江副育英会」を立ち上げ、若者の支援にも積極的に取り組んでいました。
また、リクルート事件に対しては、最後まで無実を訴えていて、2009年には『リクルート事件・江副浩正の真実』という手記を出版しています。
江副浩正の死因とは?
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江副浩正は2013年に亡くなっています。
2013年1月31日に安比高原スキー場でスキーを楽しんだ後、新幹線で東京駅に着いて改札口に向かう途中、江副浩正は突然後ろ向きに転倒して、後頭部を思いっきり地面にぶつけました。
この時の転倒で外傷性くも膜下出血と硬膜下血腫ができて、日本大学病院(当時の駿河台日本大学病院)に救急搬送されます。
すぐに救命処置が施されましたが、意識が戻ることはなく、入院中に肺炎を併発して、2013年2月8日に76歳で亡くなっています。
直接の死因は肺炎ですが、肺炎を発症する原因となったのは転倒によるクモ膜下出血と硬膜下血腫と言えます。
なぜ、東京駅構内で後ろ向きに転倒したのかは不明ですが、江副浩正はスキーを楽しんでいたものの、足腰はかなり弱ってきていたとのことです。
まとめ
江副浩正のプロフィールや経歴、リクルート事件の概要、自宅の場所や事件、実業家としての名言、嫁・子供(息子や娘)、晩年や死因についてまとめました。
・リクルート事件で逮捕され、リクルートの会長を辞任した
・江副浩正は実業家としては一流で、多くの名言を残した
・嫁は自身でも会社を経営していて、子供の詳細な情報はない
・晩年は奨学金財団など慈善事業などにも力を入れていた
・転倒して頭を打ち、それから肺炎を併発して亡くなった