キューティー鈴木さんと言えば、80年代末から90年代にかけて女子プロレス業界に新たな旋風を巻き起こしたアイドルプロレスラーです。
今回はキューティー鈴木さんの若い頃、旦那との馴れ初めや結婚、子供、自宅や現在を紹介します。
この記事の目次
キューティー鈴木は絶大な人気を集めた女子プロレスラー
本名: 原嶋 由美(はらしま ゆみ)
リングネーム: キューティー鈴木
身長: 155cm
体重: 55kg
誕生日: 1969年10月22日
出身地: 埼玉県
スポーツ歴: 柔道、ハンドボール
トレーナー: 山本小鉄
デビュー: 1986年9月19日 対プラム麻里子戦
引退: 1998年12月27日
キューティー鈴木さんは、女子プロレスラー界において最も美人だと評されるなど絶大な人気を集め、グラビアアイドルや、女優、歌手としても活動した元祖アイドルレスラー。
そのキューティー鈴木さんの若い頃の活躍、結婚歴や家族、現在を紹介していきましょう。
キューティー鈴木の若い頃の経歴① 学生時代から女子プロレスのファン
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キューティー鈴木さんは1969年10月22日、埼玉県川口市に生まれました。兄弟には3つ上の兄と4つ下の弟がおり、男っ気の強い環境で育ったようです。
小学生の時に、当時全盛期を築いていた女子プロレスラーのタッグチーム「ビューティペア」の試合を見て大ファンになり、女子プロレスラーへの憧れを持ち始めました。
中学3年生の頃には「クラッシュギャルズ」がクラス中でブームで、当時のキューティー鈴木さんは大森ゆかりさんのファンだったそうです。
そして、友達と一緒に女子プロレスラーを生で観戦しに行った際、「クラッシュギャルズ」の試合を見て女子プロレスラーになることを決意しました。
その後、キューティー鈴木さんはしばしば周囲に女子プロレスラーになると言って回っていたようですが、誰も本気にしなかったようです。
キューティー鈴木の若い頃の経歴② 不合格の連続だった
キューティー鈴木さんは、高校受験直前となる1985年1月15日に、フジテレビのスタジオで行われた全日本女子プロレスが主催したオーディションを受けました。
応募条件として身長160cm以上とありましたが、キューティー鈴木さんは155cmしかなく、体重も足りていませんでしたが、どちらもサバをも読んで履歴書に書いたそう。
また、体を大きく見せるために肩にタオルを入れて撮影した写真を履歴書に貼ったり、身長を伸ばそうと専用の機材を通信販売で購入したりなど、涙ぐましい努力をしたようです。
ただ、身長は全く伸びなかったんだとか。
この入団テストの受験者は2000人ほどで、第1次審査は前転と後転、そして平均台など簡単なものだったそうですが、キューティー鈴木さんは落選。
キューティー鈴木さんは落ち込み、あまりに悔しかったため、全日本女子プロレスの事務所に抗議の電話やいたずら電話などをしたと後に語っています。
2度目も落選
中学卒業後に日本女子プロレスへの入団が叶わなかったキューティー鈴木さんは、1985年4月に川口市立川口女子高等学校に入学。
高校では中学校時代からやっていたハンドボール部に入部したものの、夏休みの合宿後に顧問の先生と喧嘩をしてしまったため退部したそうです。
女子プロレスラーを目指して体作りをしようと柔道を始めましたが、柔道はほとんど役に立たなかったと後に語っています。
同じクラスには、同じく女子プロレスラーを目指していた同級生・ムーン章子さんがいました。
2人で一緒に全日本女子プロレスに応募しましたが、今度は書類審査で落とされてしまったようです。
「中学3年の時、友達と初めて生で女子プロレスを観に行ったら感動して、『もう、これしかない!』と思ったんです。そこからプロレスラーを目指して、中学卒業前の85年1月15日、当時は成人の日で休みだった日にフジテレビまで行って、全女(全日本女子プロレス)のオーディションを受けたんですよ。その時は落ちたんですけど、受験者が思ったよりも多くなかったので、『これなら来年、合格できるかも』と思ったんです。それで高校に進学して、翌年もう一度受けようとしたんですけど、応募者が一気に増えて、書類で落とされてしまったんですよ。あの時は焦りましたね」
女子プロレスの人気が爆発していた頃で、キューティー鈴木さんのようにプロレスラーになりたいと憧れる女子も急増していたことがうかがえますね。
キューティー鈴木の若い頃の経歴③ ライバル・尾崎魔弓とジャパン女子プロレスに入団
2度目の落選を経験しても諦めなかったキューティー鈴木さんは、高校1年生だった1986年3月、ジャパン女子プロレスが旗揚げ上げするという情報を得て、オーディションを受けました。
実技試験で腕立て伏せや腹筋、スクワットなどをこなし、ジャッキー佐藤さんとの面接を経て見事合格しています。
両親からは高校卒業してから入団するように言われたようですが、キューティー鈴木さんは待つことはできないと反対を押し切って入団。
ただ、高校を中退することは先生からも反対されたため、しばらくは放課後だけ練習場に向かい、1学年が終了するとともに高校を中退しています。
そんな中、同じ川口から後にライバルとなる尾崎魔弓さんも通っていました。
夢に邁進したキューティー鈴木さんでしたが、期待しかないというわけでもなかったようで、寮生活を始めるにあたり、後には引けない不安から電車で尾崎魔弓さんと2人で泣いたそうです。
キューティー鈴木の若い頃の経歴④ アイドルレスラーとしてブレイク
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ジャパン女子プロレスはどんぶり勘定で経営されていたため、旗揚げ1年で潰れると言われていました。
それを救ったのが、キューティー鈴木さんのアイドルレスラーとしてのブレイクでした。
「デビュー3年目くらいに、フィリピンのエルニドで初めてプロモーションビデオを撮ったんですよ。その宣伝の写真をいろんな媒体に載せてもらったのがきっかけで、芸能の仕事が増えたって聞きました。その後、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に出させてもらって、そのあたりから急に忙しくなりましたね」
引用:webSportiva – ほぼノーギャラ、他選手から嫉妬…。キューティー鈴木「好きで芸能の仕事をしてたんじゃない」
当時、男性向け週刊誌などで技をかけられて悶絶しているキューティー鈴木さんのエロティックな写真がよく掲載されていたようで、それがさらに女子プロレス人気を呼び込んだようです。
「最初の頃はそれがすごく嫌だったんですよ。でも、だんだん開き直って『それでもいっか』ぐらいになっていきましたね。やっぱり、お客さんがまったく入ってなかった頃を経験してきたので、きっかけはどうあれ、ジャパン女子プロレスに興味を持ってくれたらそれでいいって」
引用:webSportiva – ほぼノーギャラ、他選手から嫉妬…。キューティー鈴木「好きで芸能の仕事をしてたんじゃない」
しかし、当のキューティー鈴木さんは自分を可愛いとは思っていなかったため、アイドルとして持ち上げられることに困惑し、周囲の期待に合わせなければいけないのかと苦悩していました。
キューティー鈴木のリングネームは秋元康が名付け親
キューティー鈴木さんのアイドル路線により、ジャパン女子プロレスは当時「プロレス版おニャン子クラブ」と呼ばれており、さらに新人のリングネームを秋元康さんが付けていたんです。
「はい。秋元さんがみんなの本名と写真を見て、ポンポンと5分くらいで決めたと聞きました(笑)。だから最初、『キューティー鈴木』って聞いた時に『えーっ!』と思ったんです。私はもっと強そうな名前がよかったんですよ。でも他の候補も『アップル鈴木』『キウイ鈴木』とか果物ばかりで。『嫌だ』と言える立場でもなかったので、つけていただいた名前をありがたくいただく感じでしたね」
秋元康さんはジャンルを越えてアイドルに関わっていたようですね。
この一見ダサいリングネームも、今ではキューティ鈴木さんにすっかりなじんでいますよね。
キューティー鈴木の若い頃の経歴⑤ あまりの人気に嫉妬攻撃を受けていたことも
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キューティー鈴木さんはその持ち前の美貌とプロポーションで、グラビアアイドルとしても人気を博しました。
しかし、他の女子プロレスラーはキューティー鈴木さんの活躍が面白くなく、激しい嫉妬も受けていたようです。
試合でわざと顔を蹴飛ばされたこともあり、顔が腫れ上がってしまったこともありました。
さらに、それを見たフロントから「大事な写真集の撮影の前になんてことするんだ」と相手が叱責されたことで、キューティー鈴木さんはますます団体内で孤立していったといいます。
また、芸能活動が忙しくなりすぎて、試合に出ることも嫌になった時期があったようです。
「でも、芸能の仕事が忙しすぎて、プロレスをするのも嫌になった時期があったんですよ。当時はVシネマがすごく流行ってて、朝まで撮影して家に帰ってちょっと仮眠をとって、それから試合に行くっていうような日々が続いたりして。
好きで芸能の仕事をしてるわけではないのに、他の選手からは『なんでアイツだけ特別扱いなの?』みたいに思われたりもして。みんな私の陰口を言っていたり、試合中も、巧妙な嫌がらせを受けて。髪を引っ張られたり、えげつない攻撃をされたり。でも、プロレスは闘いだし、『私が我慢すればいいんだ』と思ってやっていました」
引用:webSportiva – ほぼノーギャラ、他選手から嫉妬…。キューティー鈴木「好きで芸能の仕事をしてたんじゃない」
なお、キューティー鈴木さんは入団してしばらくは新人という理由で、ほとんど給与をもらっていなかったそうです。
キューティー鈴木さん自身もそういうものだと思っていたため、文句を言わずに働いていたといいます。
しかしある時、仕事だからギャラをもらって当然という話を耳にしたキューティー鈴木さんは、ジャパン女子プロレス本部に直接掛け合い、ようやくギャラをもらえるようになったそうです。
キューティー鈴木が結婚した旦那は元ホスト
キューティー鈴木はホスト通いの末にゴールイン
鈴木さんは30歳の頃、新宿のホストクラブで7年連続ナンバーワンホストだった原嶋秀行さんと出会い、5年間通い詰めて結婚にこぎつけたと言われています。
そんな原嶋秀行さんは、ホストクラブや格闘技ジム「シュートボクセ・アカデミージャパン」の経営など、やり手な実業家でもありました。
2人は2005年5月5日に結婚し、同年7月10日に都内で結婚式を挙げています。
キューティー鈴木の子供は息子2人
キューティー鈴木さんと旦那の原嶋秀行さんの間に生まれた長男は、2006年7月25日に緊急帝王切開で誕生したことが分かっています。
そして、2011年7月21日には不妊治療の末に次男を出産しています。
子供達にとって母親であるキューティー鈴木さんは「弱い」イメージのようで、試合動画を見せると不安がっていたようです。
「長男が幼稚園児のとき、YouTubeを見ていたら偶然、私の試合にたどり着いたらしくて『ママ弱いからやられちゃう』って泣いてました。今はもう私のことなんて関心ないですけど(笑い)」
キューティー鈴木さんの長男が受験を迎えた年には、母親として手続きに苦労するエピソードも語られました。
「長男は『ママは優しいよ』って言ってくれますが、息子の同級生は私のことをネットで見ているのか『その笑顔が怖い』って言ってました(笑い)。子供たちには好きなことをやらせていて、2人ともサッカーをやっています。今どきの子なのでたまに子供たちを見ていると、そんな文句言ってるより、練習しろって思っちゃうときはありますね(笑い)。それより初めての受験で、ネットで学校説明会の予約をしなきゃいけないし、受験の申込書類が複雑で私も苦戦していますね。長男は食べることが好きなので、ごはんだけはしっかり作ってあげています」
キューティー鈴木さんのこうしたインタビューからは、長男や次男はとても母親思いの子供に育っているように思います。
そんな子供達がプロレスに興味を持っているかどうかは不明です。
キューティー鈴木の現在
主婦をしながらプロレスにも貢献
キューティー鈴木さんは現在、主婦をしながらもテレビ番組やイベント出演などの依頼があれば出演しており、格闘技興行のゼネラルマネジャーも務めているようです。
また、プロレス愛は相変わらずのようで、プロレス業界を盛り上げるために尽力しています。
「プロレスって生で見るとほんとに面白いから、足を運んでもらいたいですね。今はBSとかネット系でプロレスチャンネルはありますが、また地上波で見られるときが来たらいいのになぁって思います」
キューティー鈴木さんは現役時代にはほとんど怪我もなく、さらに意中の人とも結婚して幸せな家庭を築き、現在までに仕事も合わせて順風満帆のようですね。
現在の自宅の場所は不明ですが、結婚当時は都内にある3階建て3LDKに住んでいたようですので、そのままずっと住み続けている可能性もあります。
これからも、プロレス業界を盛り上げていってくれることでしょう。
まとめ
1980年代後半から1990年代にかけて活躍した、アイドル級の人気を誇った女子プロレスラーのキューティー鈴木さんについてまとめてきました。
近年では、アイドル顔負けの可愛い女子プロレスラーは増えましたが、キューティー鈴木さんはその走りとして一時代を築いたと言えるでしょう。
現在もパワフルに子育てをしながら、格闘技界にも携わっており、その知名度とプロレス愛を生かして活動しています。
キューティー鈴木さんの子供達が、今後プロレス業界に関わるかどうかも注目ですね。