「初代ジャニーズ」であり昭和の時代を代表する歌手、俳優であるあおい輝彦さんが話題です。
この記事ではあおい輝彦さんの若い頃の初代ジャニーズ時代などの活躍や画像、数々のヒット曲、西郷輝彦さんとの関係、結婚と嫁や子供、芸能活動もしていた息子と娘、現在や死因のデマなどについてまとめました。
この記事の目次
あおい輝彦のプロフィール
あおい輝彦のプロフィール
本名 :青井輝彦(読み同じ)
生年月日:1948年1月10日
出身地 :東京都杉並区
身長 :170cm
血液型 :A型
あおい輝彦さんは、1960年代から活躍を続ける歌手であり俳優です。
少年時代にジャニー喜多川と知り合って「初代ジャニーズ」を結成し活動後、1964年に「君だけを」で歌手デビューを果たすと、次々とヒット曲を生み出し国民的なスターになりました。
歌手活動と並行して俳優としても才能を発揮し、特にテレビ時代劇で人気を博しました。主演を務めた「どてらい男」や「江戸を斬る」シリーズの遠山金四郎役は、あおい輝彦さんの代表作として多くの人々の記憶に残っています。
あおい輝彦の若い頃① ジャニー喜多川と出会い「初代ジャニーズ」を結成
あおい輝彦さんの若い頃の経歴について詳しく紹介していきます。
恵まれた生い立ちとジャニー喜多川との運命的な出会い

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あおい輝彦さんは1948年1月10日、東京都杉並区に生まれました。あおい輝彦さんの父親は、高校野球で甲子園に出場し、早稲田大学野球部でも活躍、後にホーマー製菓社長や文化放送取締役などを歴任した青井英隆さんという著名な実業家でした。
幼い頃から恵まれた環境で育ち、すでに子供モデルとして雑誌の表紙を飾るなど、その端正な顔立ちは早くから注目を集めていました。
そんなあおい輝彦さんがエンターテインメントの世界に足を踏み入れるきっかけは、あまりにも有名です。当時、在日米軍施設「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)のグラウンドで行われていた少年野球チームの練習を、少年だったあおい輝彦さんが金網越しに眺めていました。
そのチームの監督こそが、ジャニー喜多川でした。彼に「野球やりたいの?」と声をかけられたことが、すべての始まりだったのです。
あおい輝彦は「ジャニーズ」の名付け親

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ジャニー喜多川が率いるその野球チームは、当初「オール・ヘターズ」や「オール・エラーズ」といった名前で呼ばれていました。しかし、この名前を「格好悪い」と感じたのが、あおい輝彦さんでした。あおい輝彦さんは「ジャニーさんが監督なんだし、ジャニーズでいいじゃん」と提案。他のメンバーもそれに賛同したことで、チーム名は「ジャニーズ」に変更されたのです。
後に帝国とまで呼ばれる巨大な芸能事務所の名前は、当時10代のあおい輝彦さんの、何気ない一言から誕生したのでした。
初代「ジャニーズ」結成と熱狂

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そして、野球チームとして活動していた、あおい輝彦さん、飯野おさみさん、真家ひろみさん、中谷良さんの4人は、1962年にアイドルグループ「ジャニーズ」を結成。当時としては画期的な、“歌って踊れる少年たち”というコンセプトは、テレビ時代の到来とともに爆発的な人気を獲得します。
1964年11月5日に「若い涙」でレコードデビューを果たすと、「ジャニーズ」の人気は社会現象となりました。最年少メンバーで甘いルックスを持つあおいは、特に抜群の人気を誇りました。1965年には『NHK紅白歌合戦』に初出場するなど、瞬く間にトップアイドルの座に駆け上がります。
しかし、「ジャニーズ」のメンバーらの目標は単なるアイドルではありませんでした。本場アメリカのエンターテインメントを学ぶため、1966年にはグループ活動を休止し、4ヶ月半にわたるアメリカ留学を敢行。歌やダンスのレッスン、ミュージカル鑑賞に明け暮れ、現地でアルバムのレコーディングまで行いました。
この経験は、後のあおい輝彦さんの俳優活動や音楽活動に大きな影響を与えることになります。
しかし、「ジャニーズ」のメンバー達が日本に戻ったとき、芸能界の勢力図は大きく変わっていました。彼らの不在の間にグループ・サウンズ(GS)がブームとなり、人気は低迷。アメリカでの経験から、メンバーそれぞれが将来について考えた結果、1967年12月31日をもって、一時代を築いた初代「ジャニーズ」は解散の道を選びました。あおい輝彦さん自身は、この頃から「芝居」への道を強く志すようになります。
あおい輝彦の若い頃② ソロシンガーとして数々のヒット曲を生み出す
ジャニーズ解散後、あおい輝彦さんは新たな表現の道を模索し始めます。それは、甘いマスクのアイドルから、大人の魅力を持つ実力派シンガーへの華麗なる転身でした。
ソロデビューと俳優業との両立
グループ解散後、あおい輝彦さんは俳優への道を志し、劇団四季の研究生となります。その一方でソロ歌手としても活動を続け、1968年には初のソロシングル「僕の秘密」をリリースし、歌手としてのキャリアを再スタートさせます。
あおい輝彦さんの歌手としての地位を確立したのが、1971年に自身が主演したドラマ『二人の世界』(TBS系)の主題歌「二人の世界」でした。この曲は俳優としての彼のイメージと見事にシンクロし、大ヒット曲となります。優しく語りかけるような歌声は、アイドル時代とは一味違う、大人の男性の包容力を感じさせ、幅広い層から支持されました。
「あなただけを」がミリオンセラーの大ヒット曲に

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そして1976年6月25日、あおい輝彦さんの歌手人生における最大のヒット曲「あなただけを」が生まれます。作詞を元ガロの大野真澄、作曲を元猫の常富喜雄が手がけたこの楽曲は、切なくも情熱的な愛を歌い上げたフォーク調のラブソングでした。
「♪今年も南の風に誘われてきたよ」という歌い出しから始まるこの曲は、あおいの持つ甘く、そしてどこか哀愁を帯びた声質と完璧に融合しました。シンプルながらも心に響くメロディと、一途な想いを綴った歌詞は、カラオケの普及という時代背景も後押しし、瞬く間に日本中に浸透。
オリコンチャートで長時間にわたり上位をキープし、ミリオンセラーを記録する空前の大ヒット曲となりました。この曲で、あおい輝彦さんは歌手として不動の地位を築き、その年の音楽賞を多数受賞しています。
その他にも多くのヒット曲を発表

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あおい輝彦さんのヒット曲としては、「二人の世界」、「あなただけを」の他にも多数あります。
代表的なヒット曲としては、1977年の「センチメンタル・カーニバル」や「Hi-Hi-Hi」、1968年の「三人家族」などが挙げられます。
あおい輝彦さんは特定のジャンルに固執することなく、歌謡曲、フォーク、ポップスと幅広い楽曲を歌いこなし、その音楽性の高さを証明しました。
あおい輝彦の若い頃③ 「矢吹丈」や「助さん」を演じ人気俳優に

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歌手としての成功と並行し、あおい輝彦さんは俳優として、さらにその才能を開花させていきます。あおい輝彦さんの俳優としてのキャリアを語る上で欠かせないのが、国民的キャラクターとなった“助さん”と、伝説的アニメの主人公“矢吹丈”を演じた事でした。
『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈役で声優としてデビュー

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1970年、あおい輝彦さんに大きな転機が訪れます。アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈役の声優のオファーでした。 あおい輝彦さんは少年時代からボクシングファンで、原作漫画の愛読者でした。しかし、当初は「声優と俳優は違う」という理由から、このオファーを固辞したといいます。
それでも制作側の熱意に押され、引き受けることを決意。あおい輝彦さんは後に「ジョーの声を作ろうとは思わなかった。自分の声、芝居でやろうと思った」と語っています。その結果、あおい輝彦さんのハスキーで、どこか刹那的な響きを持つ声は、矢吹丈というキャラクターの苦悩、怒り、そして燃え尽きるほどの情熱を見事に表現し評判を呼びました。
丹下段平の名セリフ「立て!立つんだジョー!」に応える魂の演技は、アニメ史に残る名シーンとして現在も語り継がれています。
映画界での飛躍となった『犬神家の一族』での怪演

俳優としてのあおい輝彦さんの評価を決定づけた作品の1つが、1976年に公開された市川崑監督の映画『犬神家の一族』でした。あおい輝彦さんはこの作品で、白いゴムマスクを被った不気味な青年・犬神佐清(すけきよ)と、その佐清になりすます復員兵・青沼静馬の一人二役という難役に挑みました。
マスクの下の素顔が見えないという制約の中で、彼は声のトーンや佇まいだけで、2人の人物の複雑な内面を巧みに演じ分けました。そのミステリアスで繊細な演技は、作品に強烈なインパクトとサスペンスをもたらし、映画の大ヒットに大きく貢献。俳優・あおい輝彦さんの俳優としての確かな実力を映画界に知らしめました。
『水戸黄門』三代目・佐々木助三郎(助さん)

そして1988年、あおい輝彦さんはお茶の間の顔となります。国民的時代劇『水戸黄門』(TBS系)の三代目・佐々木助三郎、通称“助さん”役に抜擢されたのです。
初代の杉良太郎さん、二代目の里見浩太朗さんという偉大な先達の後を継ぐプレッシャーは計り知れないものでしたが、あおい輝彦さんは彼ならではの“助さん”像を創り上げました。
普段は少しキザで女性好き、しかし1度剣を握れば超一流の腕前を見せるというキャラクターを、スマートかつ颯爽と演じました。相棒である伊吹吾郎さん演じる“格さん”との息の合ったコンビネーションも人気を博し、2人の立ち回りは番組の大きな魅力となりました。
この役を2000年までの12年間にわたって務め上げ、あおい輝彦さんは世代を超えて愛される国民的俳優としての地位を不動のものにしたのです。『水戸黄門』最終回スペシャル(2011年)にもゲスト出演し、往年のファンを喜ばせました。
あおい輝彦と西郷輝彦の関係

あおい輝彦さんについて語られる際に、しばしば名前が挙がるのが、同じ「輝彦」の名を持つスター、西郷輝彦さんです。
あおい輝彦と西郷輝彦は混同されがちな理由
あおい輝彦さんと西郷輝彦さんに血縁関係は一切なく、兄弟でも親戚でもありません。しかし、2人が混同されたり、兄弟ではないかと噂されたりしたのには、いくつかの理由があります。
単純に2人の顔立ちや雰囲気が似ている事に加えて、「輝彦(てるひこ)」という同じ名前を持つことは、最大の要因です。
そして、西郷輝彦さんは橋幸夫さん、舟木一夫さんと共に「御三家」として1960年代に絶大な人気を誇り、あおい輝彦さんも初代ジャニーズとして同じく60年代に一世を風靡しました。共に歌と演技で活躍するスターであったため、イメージが重なる部分もあるようです。
さらに、あおい輝彦さんも西郷輝彦さんも時代劇に多く出演していた事や俳優と歌手の両方で活躍していた事などもあり、当時の雑誌やテレビでは、2人の名前が並べて紹介されることも少なくなく、世間の人々の間で混同が生まれやすい状況がありました。
あおい輝彦の結婚…嫁は元モデルの奏紀子

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あおい輝彦さんは私生活では、結婚しており嫁と2人の子供(息子と娘)がいます。
ここからはあおい輝彦さんの結婚や嫁、2人の子供についても詳しく紹介していきます。
あおい輝彦さんは1972年10月に結婚しています。
お相手は、元ファッションモデルの奏紀子さんです。あおい輝彦さんの嫁・奏紀子さんは、資生堂の広報誌『花椿』の表紙を飾るなど、モデルとして活躍していた方で、あおい輝彦さんの7歳年上です。2人は5年の交際期間を経ての結婚でした。

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結婚式は当時としては珍しく、ハワイのホノルルにある教会で挙げられました。結婚を機に奏紀子さんは芸能界を引退されたようで、以降は表舞台に出ることなく、夫であるあおい輝彦さんを支え続けています。
あおい輝彦の子供① 息子・青井一樹

あおい輝彦さんと嫁の奏紀子さんの間には子供が2人(息子と娘)が誕生しています。
あおい輝彦さんの子供のうち息子さんは、1976年12月19日生まれの青井一樹(あおい・かずき)さんです。
あおい輝彦さんの息子・青井一樹さんは父の背中を追い、一時期、プロダクション尾木に籍を置いて俳優として活動していました。しかし、俳優としては大きな役に恵まれることはなく、その後、芸能界からは引退しているようです。
また、この青井一樹さんが父も所属したジャニーズ事務所に在籍していた過去があるとの情報が、コアハウスが2001年に出版した「渋谷センター街・発 超アイドル㊙︎FILE」に記されています。真偽は不明ながら、ジャニーズJr.たちから「イッチャさん」もしくは「いっちゃん」と呼ばれ、兄貴的な存在として慕われていたとされています。
あおい輝彦の子供② 娘・青井英里奈

あおい輝彦さんの子供のうち娘さんは青井英里奈(あおい・えりな)さんという方です。
あおい輝彦さんの娘・青井英里奈さんも芸能界で活動していましたが、その舞台は日本ではなく、タイでした。
大学在学中にタイへ語学留学した英里奈さんは、現地の大学院に進学。その後、現地でスカウトされ、「ERINA + THE AFRO BROS.」名義で歌手デビューを果たしています。

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2003年にリリースしたデビュー曲は「タイ・フード・フェスティバル」の公式テーマソングに選ばれるなど、ヒップホップアーティストとして活躍しました。
あおい輝彦さんは、子供たちの自主性を尊重する教育方針を持っていたとされています。芸能界という特殊な環境に身を置きながらも、家庭では普通の父親として、子供たちの成長を温かく見守ってきたようです。好きなことを仕事にすることの大切さを、自らの生き様を通して伝えてきたのかもしれません。
あおい輝彦の「死因」はデマで現在も健在

インターネットの検索エンジンに「あおい輝彦」と入力すると、候補として「死因」というキーワードが表示されることがあります。
あおい輝彦さんは現在も健在であり死去したという事実はないため、「死因」というワードが関連づけられている理由は不明です。
あおい輝彦さんがすでに亡くなっているのでは?と考えた方が検索をした可能性もありますが、現在も精力的に芸能活動をされており、「死亡」や「死因」といった情報は完全なデマです。
では、なぜ「死因」のようなデマが存在するのか考えられる要因はいくつかあります。
1つは、昭和を代表するスターたちが次々と亡くなるニュースが報じられる中で、名前が似ていたり、同じ時代に活躍したりした他の有名人と混同されてしまった可能性が考えられます。特に前述の西郷輝彦さんが2022年に亡くなった際、一部で情報が錯綜した可能性も考えられます。
また、あおい輝彦さんは全盛期に比べるとテレビなどへの露出が減ったことから、「最近見かけないけれど、どうしているのだろう?」という心配が、「病気」や「死亡」、「死因」といったネガティブなネット検索に繋がってしまう事も考えられます。
悪質な例として、注目を集めるために、事実無根の「死亡説」、「死因」などを発信するウェブサイトや動画が存在することも、デマ拡散の一因となっている可能性があります。
繰り返しになりますが、これらはすべて根拠のない噂に過ぎません。あおい輝彦さんは、年齢を重ねた現在も精力的に活動しています。
あおい輝彦の現在

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現在のあおい輝彦さんは、メディアへの露出は減ったものの、芸能活動を引退したわけではありません。
現在のあおい輝彦さんのライフワークの中心となっているのが、音楽活動です。全国各地でディナーショーやコンサートを精力的に開催し、往年のヒット曲からカバー曲まで、円熟味を増した歌声を披露しています。
また、意外な一面として、現在は趣味が高じて日本酒造りにまで取り組んでいるようです。新潟県で無農薬の米作りからこだわり、オリジナルの日本酒をプロデュースするなど、その探究心と情熱は衰えることを知りません。
このほか、時折テレビのトーク番組や歌番組にも出演し、元気な姿を見せてくれています。
まとめ
今回は、「初代ジャニーズ」のメンバーであり、昭和の時代から歌手や俳優として活躍を続けるあおい輝彦さんについてまとめてみました。
あおい輝彦さんの若い頃は、少年野球チームの中から生まれた、日本のアイドル第1号であり、甘い歌声でミリオンセラーを記録した実力派シンガー。そして、お茶の間のヒーロー“助さん”から、伝説のアニメの主人公まで演じ分けた国民的俳優でした。
あおい輝彦の歩んできた道は、日本のエンターテインメント史そのものを体現していると言っても過言ではありません。
あおい輝彦さんは、1つの成功に安住することなく、常に新しい挑戦を続け、それぞれの分野で確固たる実績を残してきました。その根底には、ジャニーズ時代にアメリカで本場のエンターテインメントに触れた経験と、何よりも彼自身の尽きることのない表現への情熱があったはずです。
私生活では7歳上のモデル・奏紀子さんとの結婚と、2人の子供の誕生など、良き夫、父親として家族を支えられています。息子は青井一樹さんという方で俳優として活動、娘の青井英里奈さんも歌手として芸能活動をされていました。
ネット上ではなぜかあおい輝彦さんと「死因」というワードが関連づけられていますが、おそらくしばしば混同されている西郷輝彦さんが2022年に死去した事による誤解が原因と考えられます。あおい輝彦さんは現在も健在であり、精力的に活動を続けられています。



















