事件発生から30年が経過する「天安門事件」ですが、現在も中国共産党が真相を隠蔽しているとも言われ、中国では事件そのものがタブー視されています。
今回は天安門事件について、経緯や真相、死者数などわかりやすくまとめました。
この記事の目次
天安門事件とは~中国が必死で無かったことにする大虐殺事件【戦車男】
「天安門事件」を象徴する“タンクマン(戦車男)”
白いシャツと黒いズボン姿で買い物袋を持った、ごく普通の男性が、先頭の戦車の前に突如立ちふさがり、戦車が迂回しようとする度に自分も横に動いてその進路を阻んだ有名なシーンです。
いつしかこの男性は世界中で“タンクマン”、“戦車の男”などと呼ばれ、「天安門事件」を象徴する存在となりました。
中国共産党による専制的な抑圧に対して、まさに“丸腰”の状態で果敢に立ち向かった民主化運動家たち。そんな「天安門事件」の図式を、見事なまでに浮き彫りにした映像だと言えます。
ちなみにこの“タンクマン”は、この時は撃たれることもなく、ひき殺されることもありませんでした。
しかしこの直後、はがいじめにされる形で強制的に戦車の前から排除され、この男性がその後どうなったのかについては、未だに明らかになっていないようです。
「天安門事件」って要するにどんな事件だったの?
天安門事件とは、1989年6月4日に中国で起きた国家権力による自国民に対する大虐殺事件です。
元々は、中国の改革開放路線を推し進め、多くの国民から愛された名政治家・胡耀邦元総書記の死去に伴って、学生らによって北京の天安門広場で開かれた追悼集会から始まりました。
ただ、この追悼集会は、胡耀邦氏を解任した最高指導者・鄧小平氏への抗議活動の意味合いも含んでいました。
そして、その規模が大きくなるに従って、中国独裁体制を否定し、民主化を求めるデモへと形を変えていきました。
出典:https://this.kiji.is/
この動きに危機感を募らせた中国共産党は、戒厳令を布き、デモ鎮圧のために警察ではなく人民解放軍を動員し、天安門広場に集まった若者達に対し、武力による強引な鎮圧を図ったのです。
その死者数は新聞によってまちまちですが、数千人から1万人以上に及ぶとも言われています。
もちろん、この「天安門事件」は世界中から猛烈な批判を浴びることになりました。
そして、現在もなお中国共産党は、「天安門事件」に関するあらゆる検閲を行っており、中国国内ではこの件についてインターネットで調べることすらできない状態なのだとか。
出典:https://www.travel.co.jp/
今回は、この「天安門事件」起こった経緯や背景を振り、その真相に迫るとともに、中国共産党による隠蔽工作について、できる限りわかりやすくまとめてみました。
天安門事件の経緯をわかりやすく① きっかけは胡耀邦の追悼集会
中国の改革開放路線を推し進めていた胡耀邦が失脚
「天安門事件」は、1980年代中盤から後半にかけて中国の改革開放路線を推進していた中国共産党中央委員会総書記・胡耀邦氏の失脚から始まりました。
この胡耀邦氏は、中国共産党のチベット政策を批判して、チベット語教育の解禁や信教の自由まで認めるほどのリベラル派でした。
現在の中国からは考えられませんが、中国国内での言論の自由化にまで着手したと言われる名政治家でした。
そんな胡耀邦氏の登場により、1986年12月頃には、中国の各都市で民主化を求める学生たちによるデモが頻発するなど、民主化に対する中国国民の気運が高まって行きました。
そんな国内状況に危機感を募らせた中国共産党は、鄧小平氏ら保守派による工作により、1987年1月、胡耀邦氏は総書記の座を追われることに…。
北京市内の自宅で軟禁状態となった胡耀邦氏は、以降は政治の表舞台に立つことはなく、1989年4月8日に心筋梗塞で倒れ、同月15日に無念の死を遂げられました。
出典:https://www.epochweekly.com/
胡耀邦の後継者、趙紫陽が民主化運動家に理解を示しつつ沈静化を図る
そんな胡耀邦氏の後を継ぐ形で、1987年11月に中国共産党中央委員会総書記の座についた趙紫陽氏もまた、胡耀邦氏同様に改革開放路線の政治家でした。
そんなこともあり、胡耀邦氏の死後に激化した学生たちの民主化運動に対しても深い理解を示していた趙紫陽氏は、共産党との間に入って事を穏便に治めようと奔走しました。
事件の発端となった胡氏の死去は1989年4月15日。この一報を聞いた北京市内の大学生らは「胡耀邦追悼」を掲げて、翌日には北京市内をデモし、市内中心部の天安門広場の人民英雄記念日などを占拠する騒ぎとなった。
鮑氏によると、事態を重く見た党指導部は18日、党中央政治局常務委員会を開催し、胡氏の葬儀について、「全国各政府機関と海外大使館で半旗を掲げ、10万人規模の告別式を行う。告別式の司会者は楊尚昆国家主席で、趙紫陽総書記は弔辞を読み上げる。トウ小平氏も告別式に出席する。弔辞で胡耀邦を高く評価する文言を盛り込む」などと細かく決定された。
さらに、会議では20日に『胡耀邦同志の死去について』との声明文を発表することで一致した。この声明文を通じて、学生らの怒りの沈静化を図る狙いがあったという。
引用:天安門事件 実態は趙紫陽失脚を狙ったトウ小平の陰謀との説 https://www.news-postseven.com/
鄧小平の陰謀により胡耀邦の告別式や声明文発表が白紙に…
そういった学生達による胡耀邦氏の追悼活動に対して、趙紫陽氏は「われわれも耀邦さんを悼んでいるのに、学生の追悼活動を禁止する理由はない」と述べたと言います。
しかし、この決定に危機感を募らせたのが…鄧小平氏なんですよね。
と言うのも、そもそも胡耀邦氏の失脚は鄧小平氏の暗躍によることは誰の目にも明らかでした。
失脚によって失意のうちに亡くなった胡耀邦氏の追悼を容認したりすれば、自分への批判に繋がりかねない…鄧小平氏がそう危惧したわけです。
結果、民主化運動家を沈静化するためにと、一度は決定した胡耀邦氏を讃えるための10万人規模の告別式の開催や、胡耀邦氏を評価する声明文の発表が、一転して白紙になってしまいます。
そして、こんなある意味強引な決定ができたのは、保守派の重鎮たる鄧小平氏の他にはいないと言われてます。
鄧小平による「四・二六社説」により民主化運動が爆発的に広がる
鄧小平氏は1989年4月26日、北朝鮮を訪問中の趙紫陽氏の留守を狙うかのように、党機関紙「人民日報」の社説に「旗幟鮮明(きしせんめい)に動乱に反対せよ」との記事を掲載します。
出典:https://www3.nhk.or.jp/
民主化デモを“暴動”と一喝したこの記事は、後に通称「四・二六社説」と呼ばれ、中国共産党と民主化運動家との対立を決定的にしたと言われています。
社説は北朝鮮訪問前に趙紫陽総書記が示した「3項目意見」(※)は全く反映されず、胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけ、「断固として反対しなければならない」と呼びかけた。
引用:旗幟鮮明に動乱に反対せよ https://ja.wikipedia.org/
※「3項目意見」とは
1.告別式後に、学生らが学校に戻るよう説得すること。
2.学生が暴徒化しない限り、武力鎮圧をしないこと。
3.「民主化、反腐敗」など学生らの要求に対して、対話を通じて解決していくこと。
しかし、実はこの「四・二六社説」が掲載された4月25日時点では、大半の学生は学校に戻っていたため、その実態は“暴動”というものとはほど遠かったと言われています。
それでも、鄧小平氏が“暴動”と決めつけたのは、民主化を求める学生と共産党当局との対立を煽った上で、その混乱の責任を趙紫陽氏に押し付け、趙氏を失脚させるカードに使おうとしたからなんですよね。
そんな鄧小平氏の目論見通り、「四・二六社説」に北京の大学生が激怒します。
一時は沈静化に向かっていた抗議デモが再燃すると、5月3日には多くの北京市民も加わり、主要大通りから天安門広場に向かう10万人規模のデモ行進に膨れ上がりました。
出典:https://www.epochtimes.jp/
天安門事件の経緯をわかりやすく② 人民解放軍による武力鎮圧
趙紫陽はあくまで民主化運動家たちとの対話路線維持を主張
この時点で既に、北京市内は非常事態に陥っていたと言えますが、民主化運動家たちのデモの目的は、あくまで「四・二六社説」の撤回でした。
そのため、趙紫陽氏ら改革開放派の政治家たちは、民主化運動家たちとの対話路線を堅持していました。
出典:https://twitter.com/
特に民主化運動家たちに同情的だった趙紫陽さんは、「あの『四・二六社説』を修正しさえすれば事態を収束できるはず」と考えて動いていたようです。
ですが、鄧小平氏率いる保守派の政治家たちの反発にあい、実現できませんでした。
鄧小平ら保守派により、北京市内に戒厳令を布告することが決定される
1989年5月17日になると、中国共産党は鄧小平氏ら保守派政治家たち主導の下、北京市内に戒厳令を布告することが決定されます。
出典:https://twitter.com/
5月17日、鄧小平の自宅で開催された中央政治局常務委員会の会議で、他の常務委員は趙紫陽に対して批判を行った。
同会議において、鄧小平は、学生らの抗議を迅速に沈静化しなければ、内戦または2回目の「文化大革命」が起きる可能性があると強い口調で話した。鄧は、北京市内が非常事態に陥り、戒厳令を敷くことを宣言し、軍による武力鎮圧を命令した。
引用:天安門事件から29年、「学生運動を利用した鄧のクーデター」=趙紫陽元秘書 https://www.epochtimes.jp/
これに対し、もちろん趙紫陽氏は頑なに戒厳令の発動を拒否したため、鄧小平氏は李鵬氏ら3人の腹心を戒厳令実施の責任者に任命し、趙紫陽氏をレームダック化したと言われています。
天安門事件の経緯をわかりやすく③ 天安門事件の発生
「命を粗末にしてはいけない」趙紫陽が最後の説得を試みるも…
1989年5月19日には、趙紫陽氏は学生たちの元へ出向き、「命を粗末にしてはいけない」と最後の説得を試みるも、学生たちを説き伏せることは叶いませんでした。
出典:https://www.epochtimes.jp/
しかし、最後まで民主化運動に理解を示した趙紫陽氏の演説は、学生たちに歓迎され、拍手は止まなかったと言います。
1989年6月、天安門広場に人民解放軍の部隊が集結
1989年6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結し始めました。
出典:http://www.thutmosev.com/
6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の完全武装した兵士が配置に着いたことが、西側の外交官やマスコミによって確認されています。
1989年6月4日未明、遂に人民解放軍による武力弾圧が開始される
そして1989年6月4日未明、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示により、2万5,000人とも言われる人民解放軍が天安門広場に突入しました。
民主化運動家たちも決死の抵抗を見せるも、完全武装した部隊や戦車まで投入した人民解放軍には為す術もなく鎮圧されてしまうことに…。
実は、これらの動画の続編「天安門事件 3/3」も存在します。
ですが、とても直視できる動画ではなく、年齢制限もあるので、テキストリンクだけ貼っておくことにします。それでも見ておきたい…って方のみ、自己責任でお進みください。
天安門事件の真相をわかりやすく① 鄧小平によるクーデターだった…
「天安門事件」当時、中国共産党の総書記は趙紫陽氏でしたが、党内の実権を握っていたのは、発言力の大きい鄧小平氏でした。
そして、当時の共産党内では、共産主義を徹底して行う鄧小平氏率いる保守派が、その対極にある改革開放路線を推進するリベラル派の排除を虎視眈々と狙っていたと言います。
出典:https://www3.nhk.or.jp/
趙紫陽氏を代表とする改革開放路線を推進するリベラル派は、共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、特に若者層に絶大な支持を集めていました。
しかし、中国の伝統的な共産主義を維持したい保守派にしてみれば、この上なく厄介な存在だったに違いありません。
そこで、鄧小平氏は当時盛んに行われていたデモを反社会的行動とみなし、人民解放軍による武力での鎮圧を推し進めます。
もちろん趙紫陽氏が武力弾圧に最後まで反対することを分かった上で…。
結果的に、鄧小平氏は自国民に対する大虐殺と引き替えに、“目の上のたんこぶ”だった趙紫陽氏を失脚させることに成功したわけです。
出典:https://www.ntdtv.com/
「天安門事件」は当時の最高実力者である鄧小平氏が共産党政権の存続のためにやむなく行った武力鎮圧という認識が一般的です。
ですが、実はその真相は、自身の政敵であった趙紫陽氏の失脚を狙った鄧小平氏のクーデターに過ぎなかった…とも言われています。
天安門事件の真相をわかりやすく② 中国共産党が隠蔽した本当の死者数とは
中国共産党が公式に発表した死者数はたったの319人だった
中国共産党の公式発表によると、「天安門事件」による犠牲者は“319人”とされています。
出典:https://blogs.yahoo.co.jp/
しかし、そんな中国共産党の発表を信じる人は少なく、中国赤十字ですら2,700人~3,400人程度の犠牲者が出たとの見解を示しています。
また、日本での報道では、例えば読売新聞は3,000人以上、毎日新聞は2,600人以上、朝日新聞は死者2,000人以上と、死者数についての報道には各新聞紙でばらつきがありました。
そんな中にあって、旧ソ連が発表した「死者数3,000人」が、もっとも信頼できる数字ではないかと長らく言われていたのですが…。
英国の外交文書により「天安門事件」の死者数は1万人以上に上ることが明らかに
2017年12月に発表された英国の外交文書において、「天安門事件の死者数は1万人以上に達している」との、衝撃的な数字が記載されていることが公表されたんですよね。
英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになった。
「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」人物から入手した数字だと説明している。
引用:天安門事件の死者は「1万人」 英外交機密文書 https://www.bbc.com/
この公文書は、それまでロンドンの英国立公文書館で保管されていたものです。
2017年10月に機密指定が解除されたことを受け、香港のニュースサイトが「香港01」が閲覧し、報じたものなので信憑性はかなり高いようです。
出典:http://dametv2.cocolog-nifty.com/
まとめ
いかがでしたでしょうか。
事件発生から30年が経過し、経済的に豊かになった現在もなお、中国ではインターネットで検索できないようになっているという「天安門事件」。
中国共産党が隠蔽し、必死のパッチで無かったことにしようとしている、この「天安門事件」の経緯や真相、本当の死者数についてできる限りわかりやすくまとめてみました。
出典:https://www.businessinsider.jp/
そして…
現在の香港では、30年前の天安門と同じような光景が繰り広げられているんですよね。
出典:https://news.tv-asahi.co.jp/
出典:http://agora-web.jp/
出典:https://hongkong-bs.com/
またあのような惨劇が繰り返されることがないことを祈るばかりです。