1974年から1978年のアメリカで多数の若い女性を次々と強姦して殺害したシリアルキラー、テッド・バンディが注目されています。
ここでは、テッド・バンディの連続殺人事件と生い立ち、娘のローズ、2019年に公開された実話をもとにした映画「テッド・バンディ」についてなどをネタバレを含めまとめました。
この記事の目次
テッド・バンディは全米を震撼させた史上最悪のシリアルキラー
テッド・バンディはおそらく世界で最も有名な大量殺人鬼(シリアルキラー)です。
テッド・バンディは1970年代にアメリカの7つの州(ワシントン州、オレゴン州、ユタ州、アイダホ州、コロラド州、フロリダ州)を中心に次々と若い女性を殺害したと見られており、1974年から1978年にかけて、これまでにわかっているだけで少なくとも30人の若い女性を殺害しています。
判明していない殺人を含めるとテッド・バンディが殺害した人数は100人を超えるとも言われていますが、その犯行の全貌にはいまだ多くの謎が残されています。
「シリアルキラー」の代名詞とも言うべき殺人鬼・テッド・バンディですが、そもそも「シリアルキラー」という単語は、元FBI捜査官のロバート・K・レスラーが、テッド・バンディを表すために考案した単語だと言われています。
テッド・バンディが起こした大量殺人事件
テッド・バンディの起こした大量殺人事件のうちで本人自供と、警察による裏付けによって判明しているのは、1974年から1978年にかけて起きた30件の殺人事件です。
ここでは、テッド・バンディが起こしたと言われている2つの連続殺人事件を時系列順に見ていきます。
1974年2月〜7月にかけてワシントン州とオレゴン州で起きた連続殺人事件
テッド・バンディが起こした事件として認定されているものの中で最も古いものは、1974年1月の傷害事件です。
当時、テッド・バンディはピュージェットサウンド大学ロースクールの学生で、ワシントン州シアトルに住んでいました。
1974年1月4日の深夜0時過ぎ頃、テッド・バンディは、ワシントン大学の学生でダンサーの仕事もしていた当時18歳の女性、カレン・スパークスの地下のアパートの部屋に侵入し、彼女のベッドフレームから鉄の棒を外し、眠っている彼女を意識が無くなるまで殴打して、意識不明の重体に追い込みました。
一説によればテッド・バンディは彼女の膣内にこの鉄の棒を押し込んだそうです。この被害者は一命を取り止めましたが重い後遺症が残っています。
同年2月1日早朝、テッド・バンディは同じくワシントン大学の学生のリンダ・アン・ヒーリーの部屋に押し入り、暴行して気絶させ部屋から連れ去っています。(これは後にテッド本人が話したため詳細が判明している)
同年3月12日、シアトル南西100kmに位置する都市オリンピアで、エヴァーグリーン州立大学の学生で当時19歳のドナ・ゲイル・マンソンが、大学で開かれるジャズコンサートを観るために寮を出たまま行方不明になります。
同年4月17日にはワシントン州エレンバーグ、セントラル・ワシントン州立カレッジの新入生、スーザン・ランコートが、新入生オリエンテーションから寮に戻る途中に失踪。
同年5月6日の夜には、オレゴン州コーバリスのオレゴン州立大学の女子学生ロバータ・キャスリーン・パークスが寮から散歩に出たまま行方不明。
同年6月1日の午前2時頃、当時22歳のブレンダ・キャロル・ボールが、ワシントン州シアトル・タコマ国際空港近くの町ベリアンのレストランから行方不明になります。この時、ブレンダが、腕を怪我した様子でシリングで吊ったブロンドの髪の男と店の駐車場で話していたとの目撃情報がありました。
同年6月11日にワシントン大学女子学生ジョーガン・ホーキンズが行方不明になっています。
そして7月14日、ワシントンのサマミュシュ湖の湖畔で、当時23歳のジャニス・オットが行方不明になります。ジャニス・オットは「テッド」と名乗る、片腕をしリングで吊った男に「ヨットを車に積むのを手伝ってくれないか?」と頼まれ、ビーチから出ていくところが目撃されています。
さらにその4時間後、当時19歳のデニス・マリー・ナスランドがトイレに行ったきり行方不明になります。
同年9月7日に、サマニッシュ湖から数km離れた場所でオットとナスランドの白骨化した遺体が発見されます。この時、この場所で身元不明のもう1人分の骨も見つかっています。
テッド・バンディは後にノンフィクション作家のスティーブン・ミショーのインタビューを受けた際に、オットとナスランドを殺害した時の事を明かし、近くで発見されたもう1人の骨は6月11日に自分が誘拐したワシントン大学の女子学生、ジョーガン・ホーキンズのものだと語っています。
その6ヶ月後、テッド・バンディが当時よくハイキングに出かけていたテイラー山で、行方不明になっていたヒーリー、ランコート、パークス、ボールの4人の白骨化した遺体が発見されています。なお、残る1人マンソンの遺体は現在まで発見されていません。
1974年8月〜1975年6月にアイダホ州ユタ州コロラド州で発生した連続殺人事件
テッド・バンディは、1974年7月にユタ大学のロースクールに入学するため、シアトルからソルトレイクシティに移住しています。
そして、この年の9月からテッド・バンディは新たな連続殺人をはじめたと見られています。この連続殺人については、テッド・バンディ本人がその内容を語っており、ある程度事件の詳細が判明しています。
テッド・バンディが逮捕後に語った事によると、同年9月2日にアイダホ州で、ヒッチハイカーを強姦して殺害し、遺体を川に流しています。このヒッチハイカーの身元は現在も不明で遺体も発見されていません。
同年10月2日、テッド・バンディは、ソルトレークシティ近郊の町ホラディで、当時16歳のナンシー・ウィルコックスを無理やり拉致して強姦して絞殺しています。バンディはナンシーの遺体をキャピトル・リーフ国立公園近くに埋めたと供述していますが、彼女の遺体は未だ発見されていません。
10月18日、ユタ州ミッドベールで、警察署長の娘で当時17歳のメリッサ・アン・スミスが行方不明になり、9日後の27日にソルトレイクシティの山中で全裸遺体となって発見されています。
10月31日、ユタ州リーハイで当時17歳のローラ・アン・エイミーが行方不明になり、11月17日にアメリカンフォークキャニオンで全裸遺体となって発見されます。
メリッサとローラの遺体はともに暴行や強姦の痕跡が残され、ナイロンストッキングで絞殺されていました。この2人の殺害についてテッド・バンディは後に刑務所の中で詳細に語っています。
11月8日の午後、ユタ州マリのショッピングモールで、テレホンオペレーターをしていた当時18歳のキャロル・ダロンチが、テッド・バンディから声をかけられています。
バンディはこの時、マリ警察署の警察官を名乗って近づいてきて、何者かがあなたの車を盗もうとしていたと話かけています。バンディはキャロルに、被害届を出すために一緒に警察署に来て欲しいと行って車に乗せますが、途中、キャロルが怪しみ始めると、バンディは路肩に車を停めてキャロルの頭を殴りつけ、無理やり手錠をかけようとしました。しかし、キャロルはからくも車から脱出し、反対車線に通りかかった車に助けを求め危機を脱しています。バンディはそのまま逃げ去っています。
同じ8日の夜、マリから北方30kmほどにあるビューモント高校で、当時17歳の高校生デブラ・ジーン・ケントが、学校から出て弟を迎えに行ったきり行方不明になっています。ケントの遺体は未だに発見されていません。
年が明けた1975年1月12日、当時23歳のナース、キャリン・アイリーン・キャンベルが、ソルトレークシティ南東640kmにある町スノーマスビレッジのホテルで行方不明になり、2月17日にその近郊で全裸遺体となって発見されます。遺体は頭を鈍器で殴られた跡があり、身体には刃物による深い傷がつけられていました。
同年3月15日、スノーマスビレッジ北東160kmに位置する町ヴェイルで、当時26歳のスキーインストラクター、ジュリー・カニンガムが友達に会うためにアパートを出たまま行方不明になります。
後にテッド・バンディは松葉杖をついた怪我人のふりをしてジュリーに近づき、「スキー靴を車に運ぶのを手伝って欲しい」と嘘をついて連れ出した後に彼女を棒で殴りつけてから手錠をかけて拘束し、140km西の町ライフル近辺に拉致して強姦後に絞殺した事を供述していますが、彼女の遺体は発見されていません。
同年4月6日、当時26歳のデニス・リン・オリバーソンがコロラド州グランドジャンクション近郊で行方不明になっています。彼女の遺体も未だに発見されていません。
4月15日にはコロラド州ネダーランドでメラニー・クーリーが行方不明になり、4月23日に約10km離れた場所で撲殺遺体となって発見されます。
5月6日、テッド・バンディは、アイダホ州ポカテッロで、当時12歳の中学生リネット・ドーン・カリバーを誘拐して滞在していたホテルに連れ込み、溺死させて遺体を犯した後、そこから北を流れる川に遺体を棄てたと供述していますが、彼女の遺体は未だに発見されていません。
6月28日、ブリガムヤング大学で開催されたユースカンファレンスに参加していた高校生のスーザン・カーティスが行方不明になっています。テッド・バンディは、死刑の直前にスーザンを殺害を供述していますが、彼女の遺体は未だに発見されていません。
テッド・バンディの最初の逮捕と裁判
1975年8月16日の早朝、テッド・バンディは白のフォルクスワーゲンでユタ州の住宅街を走っているところを、ハイウェイパトロールに出ていた警察車両に停められ、車の中を調べられています。車の中からはバールや手錠、ゴミ袋、ロープ、アイスピック、目出し帽など怪しいものが次々と見つかり、警察は当初強盗ではないかと疑ったようです。
その後、テッド・バンディの自宅も警察に家宅捜索されますが、逮捕に直結する証拠品は発見されませんでした。
しかし、この出来事以降、警察はテッド・バンディを24時間監視態勢におきます。
テッド・バンディは9月にこの時の白のフォルクスワーゲンを売却しますが、この車両が警察に押収され、車内からはキャリン・キャンベル、メリッサ・アン・スミス、キャロル・ダロンシュの3人の被害者の毛髪と一致する毛髪がそれぞれ発見されます。
その後、目撃者の証言などもあってテッド・バンディは逮捕され、まずは、1974年11月にバンディに車に連れ込まれた上暴行を受けた末にからくも逃げ出したキャロル・ダロンチに対する、誘拐および暴行未遂の容疑で起訴され、1976年2月に最初の裁判を受けています。
この裁判で、バンディは暴行による有罪判決を受け、1年以上15年以下の懲役刑が科されています。
そして、1976年10月末、テッド・バンディは、1975年1月に殺害されたキャリン・アイリーン・キャンベル殺害の容疑で追起訴されます。
裁判所から脱走し6日間の逃亡劇を演じる
テッド・バンディは裁判で自ら自分を弁護する事を望みました。
1977年6月7日、裁判の予備審問のために、ガーフィールド郡刑務所からコロラド州アスペン市のピトキン郡裁判所へと移送されます。
テッド・バンディは自ら弁護士の立場で法廷に立った事から、手錠と足かせ装着を免除されていました。審問の休憩時間、バンディは判例を研究したいと申し出、郡庁舎の法律図書館へ行く事を許可されます。
なんとバンディはこの図書館の2階の窓から飛び降りて逃走します。2階から着地した時に足を捻挫したバンディでしたがそのまま逃亡。
バンディは負傷した足で南方にあるアスペン山に登り、頂上付近の猟師小屋に押し入ってライフルと衣服、食料を盗んで逃亡を続け、6月10日にはアスペン市から南方16キロにあるマルーン湖に到達。停めてあったキャンピングカーに侵入し食料とスキー用上着を盗みます。
ここで、バンディはなんと追跡の目を欺くために再び北へと逃亡方向を変え、6月13日にアスペンゴルフ場で盗んだ車に乗り、再びアスペン市方向へ向かいましたが、極度の疲労と睡眠不足、捻挫した足の痛みから車を蛇行させてしまった事から警察官に発見され再び捕縛されています。
刑務所から脱獄し再び連続殺人事件を起こす
刑務所に戻されたテッド・バンディでしたが、彼は周りの囚人達から刑務所の平面図とノコギリの刃を入手し、看守の目を盗んで監房の天井30cm四方の穴を開け脱獄の準備をしました。1977年12月30日、刑務所職員のほとんどがクリスマス休暇を取っている隙をつき、バンディはその穴を通り抜け2度目の脱獄を果たします。
テッド・バンディは車を盗み、車が故障するとヒッチハイクやバスを利用してシカゴにまでたどり着きました。バンディが脱獄した事が知れたのは17時間後、12月31日になってからでした。
テッド・バンディはその後、フロリダ州タラハシーへ移動し、偽名を使ってフロリダ州立大学近くのアパートに部屋を借ります。
驚くべきことに、テッド・バンディはそれからすぐに再び連続殺人事件を起こしはじめました。
1978年1月15日午前2時45分頃、バンディはフロリダ大学の女子寮に侵入し、部屋で眠っていた当時21歳の学生マーガレット・ボウマンを薪で殴りつけた後絞殺。続けて、20歳のリサ・レヴィの部屋に侵入し、同じように絞殺しています。テッドはこの時、さらに2人の女子学生を襲って後遺症が残るほどの重傷を負わせました。この4人に対する犯行はわずか15分ほどの間に行われました。
2月8日、バンディはレイクシティへと向かい、当時12歳のレイクシティ中学校の生徒キンバリー・ダイアン・リーチを殺害したと見られています。リーチは教室から生活指導室に向かう間に行方不明になり、数週間後にスワニーリバー州立公園の近くにある豚舎の中から、彼女の遺体の一部がミイラ化した状態で発見されました。
2月15日、テッド・バンディは盗難した車で走っているところを職務質問を受け、逃亡を図ったため、警官に追跡され格闘の末に逮捕されました。バンディが乗っていた盗難者の中からは、フロリダ州立大学の女子学生3人分の身分証と盗んだクレジットカード21枚が見つかっています。
フロリダ州の殺人だけで3度の死刑判決を受ける
1979年6月、フロリダ州立大学女子寮での殺人と暴行で起訴されたバンディは、1979年7月24日の裁判で、2人の殺人と3件の殺人未遂、住居侵入の罪で死刑判決が下されました。
その6ヶ月後には、レイクシティでのキンバリー・リーチ誘拐と殺人でも死刑判決を受け、さらに1980年2月にも別の件で裁判を受け3度目の死刑判決を受けています。
死刑が確定したテッド・バンディは、死刑囚として複数のノンフィクション作家からのインタビューを受け、自分がこれまでに犯した殺人のうちいくつかの内容を詳細に告白しています。
テッド・バンディの死刑執行は1989年1月24日、電気椅子によってでした。享年は42歳でした。
テッド・バンディの生い立ち
シリアルキラー、テッド・バンディの生い立ちを見ていきます。
テッド・バンディの生い立ち① 婚外子として生まれる
テッド・バンディは、1946年11月24日、バーモント州バーリントンで未婚の女性、エレノア・ルイーズ・カウエルの子供として生まれました。父親は判明していません。誕生時に名付けられた名前は「セオドア・ロバート・カウエル」でした。
テッド・バンディは3歳まで、フィラデルフィアの祖父の家で生活し、婚外子である事を隠すために、祖父を父、祖母を母、実の母のルイーズを姉として育てられました。バンディ自身も、1969年頃までその秘密に気づかずに成長したと言われています。
テッド・バンディの生い立ち② 母の再婚で養子として育てられる
1951年、母親のルイーズはジョニー・カルペッパー・バンディという調理師の男と結婚しました。バンディは正式にジョニーの養子になり、ワシントン州タコマで暮らしました。
ルイーズとジョニーの間に後にできた4人の子供と分け隔てなく実の子供のように育てられましたが、バンディは後に恋人に、養父のジョニーについて「気が利かず、稼ぎも悪い」と不満を口にしています。
テッド・バンディの生い立ち③ 少年時から女性の裸や性犯罪に興味を持っていた
バンディは自身の少年時代について、近所をうろついてゴミ箱をあさり女性のヌード写真を探していたと語り、性犯罪を題材にした雑誌や小説、犯罪ルポが好きで、それに載っている死体や四肢が欠損したようなグロテスクな挿絵などに強い興味を持っていたと話しています。
また、酒を飲んで深夜街を徘徊し、カーテンのかかっていない女性の着替えがのぞける窓を探し回っていたとも語っています。
テッド・バンディの生い立ち④ 高校から大学卒業後
テッド・バンディはワシントン州タコマのウッドロー・ウィルソン高校へと入学しています。バンディは思春期の頃の自分について「人と関係を持つ事を拒み、あえて1人でいた」と話しています。
しかし、当時のバンディの高校の同級生らは、「人気があり有名だった」、「池で例えるならば中くらいの大きさの魚だった」と、バンディの印象を証言しています。
テッド・バンディは1965年からピュージェットサウンド大学に1年間在籍した後、1966年からワシントン大学へ転入し、1967年からステファニー・ブルックスという同級生と交際を始めています。
バンディは1968年にワシントン大学を中退し、その後は最低賃金の仕事を転々としています。交際していたステファニーはバンディの幼稚な性格と向上心のなさが嫌になったとして彼のもとを去っています。何人かの精神科医は、このステファニーとの破局が、彼が後に大量殺人犯となる最初原因になったと指摘しています。
1969年にバンディは、エリザベス・クレプファーという女性と交際を始めました。2人の交際はバンディが1976年に最初に有罪判決を受けてもなお続いていました。
テッド・バンディは、1970年にワシントン大学に復学して心理学を専攻し、今度は成績も優秀で教授達からも高い評価を得ます。1972年にワシントン大学を卒業した後は、州知事の選挙戦の仕事に参加したのをきっかけに、当時の共和党ワシントン州支部長ロス・デイビスの秘書として働くようになっています。
1973年、バンディはステファニー・ブルックスとヨリを戻し、一時は婚約の話も進めますが、1974年になって突然バンディはステファニーとの連絡を一方的に断ち切っています。
後にバンディは、この事を「彼女と結婚する事もできると証明する事が重要だった」と説明しています。複数の心理学者が、この行動はバンディによるステファニーへの復讐だったと分析しており、その後の連続殺人にもステファニーへの屈折した感情が大きく関係しているとの見解も示されています。
事実、バンディの殺人の被害者のほとんどは、ステファニーと同じく、長い髪を真ん中で分けたヘアスタイルの女性でした。
そして、テッド・バンディは1974年から連続殺人に手を染めていますが、実際にはそれよりかなり以前から殺人を犯していたと見られています。
テッド・バンディには娘がいる
テッド・バンディは、死刑判決を受けた1979年7月24日以降に、彼に心酔していたキャロル・アン・ブーンという女性と獄中で結婚しています。そして、アンとバンディの間に1982年10月24日に娘が産まれています。
つまり、テッド・バンディは獄中でアンと性交渉をして子供作ったという事です。これは、看守に賄賂を渡して、2人きりの時間を作ってもらった事で実現した事だったようです。
テッド・バンディの娘はローズと名付けられており、2020年10月で38歳になっているはずです。
バンディの娘のローズ・バンディが現在どこで何をしているのかは一切何の情報もありません。
実は、バンディの死刑執行の3年前の1986年、キャロル・アンはテッドと離婚しており娘を連れて彼の元を去り、その後2度と会うことはなく電話で話すことも拒否したそうです。
ただ、バンディについて詳しいあるノンフィクション作家の1人は、バンディの娘のローズが現在は立派に成長していると著作の中で記しています。
テッド・バンディの実話映画「テッド・バンディ」が話題【ネタバレあり】
テッド・バンディの実話をもとにした映画「テッド・バンディ」が、2019年に公開され反響を呼びました。
この映画はバンディの恋人のエリザベス・クレプファー(映画での役名はエリザベス・ケンドールで、愛称はリズ)の視点で描かれています。
テッド・バンディは史上最悪の殺人鬼である一方で、次々と女性を魅了する底知れぬカリスマを持つという特異な人物でした。
映画「テッド・バンディ」では、史上最悪のシリアルキラーをテーマにしているにも関わらず、ギリギリのところで恋人のテッドを信じたいリズの心理に焦点を当て、まるで悲劇のラブストーリーのように描かれています。
この映画の中に登場する、テッド・バンディはほとんど全く異常な部分を見せる事はなく、徹底して素晴らしく魅力的な男性として描かれています。
映画を見る観客達は、これが殺人鬼の実話をもとにした映画である事をいつの間にか忘れ、主人公のリズに感情移入し、テッドを信じたいがもしかしたら本当に殺人鬼なのかも知れないという不安の中で感情が振り回されることになるのです。
ネタバレになってしまいますが、映画の最後の最後で、テッドはリズに、自分が犯したあまりにもおぞましい殺人について詳細に語り始めます。この時にリズが受ける衝撃と絶望を、この映画を観ている観客も同時に受ける事になるのです。
まとめ
今回は、1970年代に全米を震撼させ、現在も世界で最も有名なシリアルキラーとして知られる殺人鬼・テッド・バンディについてまとめてみました。
テッド・バンディは1974年から1978年にかけて、少なくとも30人以上の若い女性を強姦して殺害し、その後も死体を凌辱するという猟奇的な殺人を繰り返しました。
バンディは殺人鬼である一方で、IQ160とも言われる天才的頭脳と、人々を魅了する底知れぬカリスマを持ち、裁判の最中ですら彼を信じ応援する人々が数多くいました。
2019年には、バンディの実話をもとにして描かれた映画「テッド・バンディ」が公開され、大きな反響を呼んでいます。テッド・バンディを理解する事は極めて困難ですが、何故人々がここまで彼に魅了されたのかについてはこの映画が答えを示しているのではないかと思います。