1980年12月8日にジョンレノンを殺害した犯人として知られるマークチャップマンが話題です。
ここでは、マークチャップマンの生い立ちや経歴をはじめ、ジョンレノンを殺害した動機や、真相として語られる陰謀論、現在の様子などについてまとめました。
この記事の目次
マークチャップマン(ジョンレノン殺害の犯人)とは
マークチャップマン(Mark David Chapman)は、おそらく当時、世界でもっとも有名なロックスターであった、「ビートルズ」のジョンレノンを殺害した犯人です。
マークチャップマンは、世界一のジョンレノンファンだと自称しており、当時の報道でも「犯人は狂信的ジョンレノンのファン」だと報じられていました。
マークチャップマンはなぜジョンレノンを殺害したのか、その殺害の動機や真相については未だ多くの謎が残されています。ここでは、ジョンレノン殺害の犯人・マークチャップマンに焦点を当てます。
マークチャップマンの生い立ちや経歴
マークチャップマンは1955年5月10日、アメリカ・テキサス州のフォートワースで生まれました。
父親は空軍に所属する軍人でしたが、チャップマンが生まれてすぐに除隊し、石油会社「アメリカン・オイル」で働いていました。母親は看護婦(看護士)でした。
父親は「YMCA(キリスト教系の慈善団体)」で子供達にギターを教えたりする人物で、子供時代のマークチャップマンにもギターを教える姿が目撃されるなど、周囲からは幸せな一家のように見られていましたが、マークチャップマンが言うには父親は母親に暴力を振るい、自分に対しての愛情も持っていなかったと言う事でした。
子供時代のマークチャップマンは、暴力を振るう父親に怯え、いつの頃からか、自分は寝室の壁の中に住む小人たちの王であるという空想を抱くようになります。
マークチャップマンのIQは121もあり、運動は苦手ながら、周囲からはごく普通の子供として見られていました。マークチャップマンはこの頃から(当時の子供たちの多くがそうであったように)「ビートルズ」のファンだったようです。
しかし、ジョージア州ディケーターの高校に進学した14歳の頃から、マークチャップマンは両親に反抗するようになり、夜遊びをしてドラッグにも手を出すようになっています。
16歳の頃、マークチャップマンは長老派(キリスト教プロテスタントの教派)の伝道師の説教会に行ったのを契機にして人が変わったようになり、不良行為をやめてクリスチャンとして生きる道を選んでいます。
この頃に、マークチャップマンはYMCAのサマーキャンプの指導員を務め、子供たちからも人気を集め優秀指導員賞を授与されたと言います。この頃に、J・Dサリンジャーの世界的に有名な小説「ライ麦畑でつかまえて」にのめり込み、同小説の主人公、ホールデン・コールフィールドのキャラクターに傾倒して行くようになります。
高校を卒業したマークチャップマンはYMCAで働くようになり、かなり評判が良く子供達からの人気を集めたようです。
それからほどなくして、マークチャップマンは婚約者とともに長老派系の大学に通ったものの、学業がうまくいかず、そんな中で婚約者以外の女性に浮気してしまいます。その罪悪感に苛まれたマークチャップマンは自殺願望を芽生えさせ、大学も中退し、婚約者とも破局。次第にマークチャップマンの人生は傾き始めていったようです。
その後、マークチャップマンは故郷に戻り警備員として働き始めましたが、自殺願望は収まらず、1977年に自殺する目的でハワイへと旅立っています。一度はハワイの楽園で過ごした事で生きる希望を見出し、故郷に戻りますが、そこで両親と争い再びハワイへと向かって自殺を試みています。
ハワイの浜辺で排ガス自殺を図ったマークチャップマンでしたが、それを地元の漁師に発見されて救われています。マークチャップマンはこれを神に救われたと感じ、その後は現地のガソリンスタンドで働きながら、自分が自殺未遂後に入院していた精神科病院でのボランティア活動などもしています。
そんな日々の中で、マークチャップマンは、東京やソウル、香港、シンガポール、ロンドンやパリなどを回る、6週間の世界一周旅行旅行に行き、その旅行会社の担当だった事で知り合った日系アメリカ人のグロリア・ヒロコ・アベと1979年6月に結婚しています。
再び精神を病みジョンレノン殺害を計画
グロリアとの結婚後、マークチャップマンは、精神科病院の印刷係の職を得ますが、再び精神が不安定になって周囲とトラブルを起こすようになり、妻・グロリアの上司との口論になって、グロリアを退職させ、自身も仕事を解雇されてしまいます。
夜間警備員として再び働き始めたマークチャップマンでしたが、精神はさらに異常をきたし、過度な飲酒をするようになり、現代アートにはまってダリやロックウェルなどの高額な絵画を次々と購入し借金を作ってしまします。
借金を返すために、厳しい倹約生活を送ってこの借金はなんとか返済していますが、この浮き沈みの激しい生活は、マークチャップマンの精神をさらに追いこんで行きました。
そんな頃にジョンレノンの伝記を読んだマークチャップマンは、その金満的な生活ぶりに異常なまでに激昂し、ジョンレノン殺害を計画するに至りました。
そして、1980年10月23日、25歳になっていたマークチャップマンは夜間警備の仕事を退職し、その4日後には銃を購入し、その3日後の30日にはジョンレノンの住むニューヨークへと旅立ちました。
マークチャップマンのジョンレノン殺害の経緯
ジョンレノン殺害を目的にニューヨークへ向かったマークチャップマンでしたが、1度目は弾薬の調達に失敗した事で計画を実行できずにハワイへと戻り、その後再びニューヨークへと向かったものの、その時は映画「普通の人々」を観た事で「悪魔を克服した」と思ってジョンレノン殺害か計画を取りやめています。
しかし、1980年12月6日、マークチャップマンは再びジョンレノンを殺害するためにニューヨークへと発ちました。
同年12月8日、マークチャップマンはその日の午前中から、ジョンレノンの自宅である高級集合住宅「ダコタハウス」の前の路上でジョンレノンを待っていました。この時、午後の早い時間にダコタハウスへとベビーシッター共に帰宅した、ジョンレノンの息子のショーンレノン(当時5歳)に声をかけ、手を触るなどしています。
その後、マークチャップマンは、ジョンレノンがオノヨーコと共にアパートから出てリムジンに向かうところに近づき、その年に発売されたばかりだったジョン・レノン&オノ・ヨーコ(ジョンレノンの妻)のアルバム「ダブル・ファンタジー」を無言で差し出しました。
ファンがジョンレノンを自宅外で待ってサインをねだる事は珍しい事ではなかったので、ジョンレノンはそのアルバムにすぐにサインをすると「Is this all you want?(君が欲しいのこれだけ?)」と尋ね、マークチャップマンIs this all you want?は笑顔を見せて無言で頷いています。
その後、ジョンレノンは、レコーディングスタジオ「レコード・プラント・スタジオ」で数時間を過ごし、12月8日22時50分頃に「ダコタハウス」へと戻りました。
マークチャップマンはダコタハウス路上でそれを待っており、ジョンレノンが「ダコタハウス」の玄関口へと入ろうとしたところを背後から「Mr. Lennon」と呼びかけ、リボルバー式拳銃を構えると、5発の銃弾を立て続けにジョンレノンに向けて放ちました。
1発目の銃弾はジョンレノンの頭部付近をかすめて外れ、続く2発がジョンレノンの背中左側に命中、さらに続けて2発が左肩を貫通し、ジョンレノンはおびただしく出血しながら、ダコタハウスフロントへの階段を5段ほど登ったところで倒れました。
元CIAエージェントという肩書を持つ「ダコタハウス」ドアマンのペルドモがマークチャップマンに駆け寄って銃を捨てさせると、マークチャップマンは帽子とコートを脱いで武器を持っていない事を示して歩道に腰掛けました。
警察が到着するまでの間、マークチャップマンはその場に残り続け、「ライ麦畑でつかまえて」のペーパーバックを読んだりしていました。マークチャップマンはそのまま駆けつけた警官隊に捕まっています。
ジョンレノンは、駆けつけたパトカーで病院に搬送されましたが、「出血性ショック」により23時過ぎに死亡が確認されました。
マークチャップマンのジョンレノン殺害の動機とは
マークチャップマンは、ジョンレノン殺害の動機についてこれまでに「自分の名前を広めるために殺害した」「ジョンレノンを殺害する事で、自分が何者かになれるはずだと思った」などと語っています。そして、ジョンレノンはその殺害リストのトップだっただけであり、殺害リストにはエリザベステイラーやジョニーカーソンの名前もあった事なども告白しています。
また、マークチャップマンは、近年放送されたドキュメンタリー番組の中で「ジョンレノン殺害は自分の人格を見出す上で、止められないミッションだった」、「自分は人格を持たない人間だったが、ジョンレノンは世界を鎖に繋ぐことに成功した人間だった」、「ジョンレノンを殺害する事で、自分のアイデンティティが発見できると考えた」などと殺害の動機を語りました。
こうした発言から、マークチャップマンは、その生い立ちや経歴からも推測できるように、自己肯定感が極めて低く、誰か有名人を殺害する事で自分に注目を集めたかったというのが、ジョンレノン殺害の動機だったという見方が有力になっています。
マークチャップマンのジョンレノン殺害の真相
出典:https://historicnewsclippings.com/
マークチャップマンのジョンレノン殺害の真相として、数々の陰謀論的説がささやかれています。
その中でも根強く真相と言われているのが「暗殺説」です。これは、当時世界中の若者に絶大な影響力を持っていたジョンレノンが、アメリカ政府に危険視されて暗殺されたという説でした。
ジョンレノンは反戦主義、平和主義者であり、当時ソビエト連邦と冷戦状態にあったアメリカ政府にとっては反戦運動の大きな波を起こして政権を転覆させかねない警戒すべき存在として、CIAやFBIなどの情報機関にマークさせていたという噂も存在します。
そして、ジョンレノンは殺害された翌年の1981年にアメリカ国籍を正式取得する申請が行える事になっていました。
つまり、ジョンレノンにアメリカ国籍を取得され、よりアメリカ国民への政治的影響力を強めてしまう前に、アメリカ政府の手によってジョンレノンが暗殺されたというのが真相ではないか?という陰謀論が囁かれているのです。
マークチャップマンの現在
ジョンレノン殺害の犯人、マークチャップマンは現在も存命しており、2020年7月時点の現在は65歳になっています。
マークチャップマンは、ジョンレノン殺害で告発され、1981年に禁錮20年ないし終身の無期刑の判決が下され、現在もニューヨーク州のウェンデ刑務所に収容されています。
法律上、マークチャップマンには仮釈放が許可される可能性があるため、現在までにマークチャップマンは合計10回の仮釈放申請を出していますが、全て却下されています。
最後の申請から2年後に再び仮釈放申請が可能となるため、2020年の8月にマークチャップマンは再び仮釈放申請を出すと見られています。
しかし、ジョンレノンの妻のオノヨーコや、世界中のジョンレノンのファンはマークチャップマンの仮釈放には強く反対しているため、マークチャップマンの仮釈放が許可される可能性は極めて低いと見られています。
まとめ
今回は、1980年12月8日にジョンレノンを殺害した犯人として知られるアメリカ人・マークチャップマンについてまとめてみました。
マークチャップマンは10代の頃から精神を病むようになり、妄想を膨らませて25歳の頃にジョンレノンを殺害したとみられています。殺害の動機は「自分の功名心」のためという見方が有力ですが、ジョンレノンの政治的影響力の強さから、アメリカ政府による陰謀説が真相との噂も存在しています。
マークチャップマンは現在も存命中であり、アメリカ・ニューヨーク州のウェンデ刑務所に収容されています。
マークチャップマンは2年ごと、これまでに10回仮釈放申請を出していますが、ジョンレノンの妻のオノヨーコらの強い反対により、全て却下されています。次回の仮釈放申請は2020年8月に出されると見られていますが、これも却下される可能性が高いでしょう。