鈴木宗男さんは「鈴木宗男事件」と呼ばれる一連の収賄や汚職事件で実刑を受けた政治家ですが、その後や現在が気になりますよね。
今回は鈴木宗男さんについて、事件詳細やその後、嫁と息子や娘など家族、現在をまとめました。
この記事の目次
鈴木宗男のプロフィール
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鈴木 宗男(すずき むねお)
生年月日: 1948年1月31日
出身地: 北海道足寄郡
北海道で育った鈴木宗男さんは、大学を出ると「北海道のヒグマ」の愛称で知られる中川一郎さんの政治家秘書を務めて頭角を現しました。
次からは、鈴木宗男さんの生い立ちや、政治家になるまでの経緯など若い頃を振り返ってみましょう。
鈴木宗男の若い頃 【生い立ち~政治家デビューまで】
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鈴木宗男さんの父親は宮城県出身で、鈴木宗男さんが誕生すると仙台の藩主として知られる伊達政宗から一文字取って命名しています。
両親は農家で生計を立てていましたが、朝から晩まで働き続けているのに少しも生活が楽ではないことに、鈴木宗男さんは子供ながら疑問を感じて育ちました。
根本的に国の施策や制度に問題があると感じ、中学校1年生の国語の授業での作文では、夢について「将来は政治家になる」と書いた鈴木宗男さん。
高校卒業後は大学に進学するも、やはり生活が苦しく馬を売却して学費に充てていたのだとか。
中川一郎の下で政治家秘書を務めた
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大学を卒業後は、衆議院議員の中川一郎さんの秘書を務めました。
中川一郎さんからかなりの信頼を勝ち取っていたようで、代理で立会演説会に登壇したり、周囲からは「中川の金庫番」という異名がありました。
その後の1983年1月、札幌パークホテルの室内で中川一郎さんが自殺を遂げたというニュースが駆け巡り、北海道5区のポジション争いが起こります。
鈴木宗男さんによると、中川一郎さんの死が人生で一番辛かったと語られています。
中川一郎先生(元農林水産相)が亡くなった際、先生の奥さんが流した情報で、自殺の原因は鈴木宗男だといわれたことです。
当時、私は永田町で1番、2番の秘書といわれたけれど、仕えていた代議士が亡くなったら何も裏付けはない。本来ならあそこで私は終わっていました。
引用:宗男氏「初当選から苦労を共にした人は人生の宝」- 産経ニュース https://www.sankei.com/
中川昭一と選挙骨肉の争い
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その後、中川一郎さんの息子である中川昭一さんと第37回衆議院議員総選挙で争う形で立候補した鈴木宗男さん。
自民党からの公認を得られずに、無所属のハンデを背負った苦しい戦いになりました。
この選挙には、大物人物からの圧力があったらしいと言われています。魚住昭さんが出版した「渡邉恒雄メディアと権力」に、そのような記述がなされています。
本文によると、読売グループの渡邉オーナーから、中川昭一さんがいるので立候補は辞めて欲しいと頼まれた鈴木宗男さんでしたが、「先生は世襲に否定的でした」とキッパリと断ったそう。
すると、マスコミに批判の記事が掲載されたと書かれています。
そんな激闘を潜り抜けて初当選した鈴木宗男さんは、「奇跡の当選」と称えられました。
鈴木宗男の政治家としての特徴2つ
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当選後は北海道・沖縄開発庁長官、内閣官房副長官を歴任するなど政界の中心を担う存在となりました。
ここでは、政治家としてどのような特徴を持っていたのかを見てみましょう。
三大野次将軍の1人と言われた
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鈴木宗男さんは、元から激情的な性分で、国会において野次を飛ばす場面が多かった浜田幸一さん、松田九郎さんと共に「自民党の三大野次将軍」という呼ばれ方をしていました。
鈴木宗男さんによると、野次というのは、ただ怒鳴り散らすものではなく、機転と放つ場面を選ぶことが大事であるとインタビューで語っています。
近年の野次についても、「単にうるさいだけで迫力もない」と苦言を呈していました。
人脈を作るのが上手い
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1996年からスタートした小選挙区制度を機に、これまで北海道5区で戦ってきましたが、政治的な思惑で13区の釧路支庁・根室支庁に国替えを行いました。
これまでは縁の無かった釧路市に居を構えたのですが、元々の住人からは嫌悪の目で見られたこともあったのだとか。
国替え後、釧路を拠点に政治活動をしてきた北村直人さんと選挙で戦うことになりました。
ライバルの北村直人さんは、酪農業を営む地元民の支持を受けていました。
これに対抗するために、鈴木宗男さんは漁業関連の関係者に取り入って人脈を作り上げていき、人の懐に入ることが上手な政治家として知られています。
鈴木宗男の性格が分かるエピソード3つ
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鈴木宗男さんは、政治家として独特のパフォーマンスが知られていますが、これまでに数々の意外な一面が垣間見えるエピソードがあります。
高円宮憲仁親王を罵倒?
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立場上目下に当たる人や、官公庁に勤務する一般職員に対して、厳しい態度を取ると知られている鈴木宗男さん。
ある時、外務省が管轄する独立法人「国際交流基金」に電話をかけたところ、電話の対応をした男性に対して何らか思うことがあったのか電話口で怒鳴りつけました。
後から判明したのは、鈴木宗男さんの電話対応をした男性は、嘱託の職員として働く高円宮憲仁親王だったのです。
相手が殿下だと知って青ざめた鈴木宗男さんは、慌てて「直接謝罪させて頂きたい」と申し出たのですが、丁重に断られてしまったのだとか。
黒澤明を知らなかった
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映画界の巨匠と言われる黒澤明さんが亡くなったのは、1998年9月6日のことでした。
日本で初めてアカデミー賞を受賞し後世に残る作品を残した、偉大な名監督である黒澤明さんの訃報をどのメディアも大きく取りあげたのです。
黒澤明さんを知らなかった鈴木宗男さんは、秘書から過去の功績について聞くや否や、当時の首相を務める小渕恵三さんに電話をかけました。
それまで名前すら知らなかった黒澤明さんについて、「国民栄誉賞を受賞するに相応しい人物です。どうかご検討を」とアドバイスしたんだとか。
それが功を奏したのかは分かりませんが黒澤明さんは、国民栄誉賞を受賞しています。
ホリエモンと刑務所トークで花を咲かせる
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鈴木宗男さんとホリエモンこと堀江貴文さんとの間の共通点は、逮捕されて実刑判決を受け服役した経験を持つという点です。
堀江貴文さんは、2005年にライブドア事件で懲役2年6ヶ月、鈴木宗男さんは汚職事件で懲役2年を求刑されて罪を償いました。
2013年に衆議院第一議員会館の講演会に登壇した鈴木宗男さんと堀江貴文さんは、獄中生活の話で大盛り上がりしたそうです。
刑務所では、普段麦飯が出るのですがお正月だけは白米になるのだとか。
堀江貴文さんによると「めったに白米を炊かないからか水加減が下手くそ。水が多くてベチャベチャで不味いんだよね」と不満を述べました。
鈴木宗男さんは、幼い頃は極貧の生活を送っていたのですが、家では麦や雑穀の比率が高いご飯を食べることに慣れていました。
刑務所のご飯が一年中美味しいと感じていたと発言し、驚かれていました。
その他には、刑務所によっては食事のコンテナが自動で来るらしいという、経験がないと分からないような「獄中トーク」は会場も興味深々の様子でした。
鈴木宗男の汚職事件とは
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2019年12月25日、秋元司衆議院議員が収賄の容疑で逮捕されました。その際、現役の国会議員が逮捕されたのは17年ぶりであると報道されました。
奇しくも、17年前に逮捕されたのが鈴木宗男さんだったのです。
当時、中央政権で辣腕を振るっていたにも関わらず、鈴木宗男さんに何が起きていたのでしょうか。事件の一連の流れを追ってみましょう。
事件の概要
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2002年に鈴木宗男さんに、贈収賄の疑惑が持ち上がりました。かつて北海道開発庁長官を務めた時代に、公共工事の受注を確約する代わりに賄賂を受け取っていたという内容でした。
このため、国後島に建築された施設は「ムネオハウス」と呼ばれている疑惑まで持ち上がり、国会は大混乱に。
鈴木宗男さんは疑惑を真っ向から否定したものの、衆議院運営委員長辞任に追い込まれました。
さらに追い打ちをかけるかのように、複数の業者からのあっせん収賄罪で起訴されて、7国会において証人喚問が開かれました。
辻本清美議員から厳しい糾弾を受けた
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証人喚問においては、島田建設、モザンビーク事件に関与し、偽証もした、と議院証言法違反、政治資金規正法違反の容疑も追加されて更なる起訴が追加。
国土交通副大臣を務めた辻元清美さんからは、「あなたは疑惑の総合商社と呼ばれています」と厳しい糾弾を受ける場面もありました。
各種の汚職事件は、世間を震撼させるビッグニュースとして鈴木宗男さんは、一躍有名になりましたが、議員辞職はしませんでした。
ただ、2003年9月に行われる衆議院議員総選挙に立候補すべく保釈申請したのですが、却下されています。
2004年11月に東京地裁で行われた判決において受託収賄、あっせん収賄など合計4件で懲役2年の実刑決が下されました。
懲りずに控訴
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懲役2年の判決を受けた鈴木宗男さんは、これを不服として疑惑の事件への関与を全て否定し控訴。
残念ながら、2008年に東京最高裁判所において行われた裁判で棄却されましたが、懲りることなく、その日の内に最高裁判所へと上告しています。
2010年9月には、最高裁判所で鈴木宗男さんの上告棄却を決定しています。
これにより、長い間争われた裁判は幕を閉じ、鈴木宗男さんは懲役に服することが決定したのです。
収監先は喜連川社会復帰センターになりました。1年後に仮釈放されて、2012年4月で刑期満了を迎えました。
鈴木宗男事件のその後① 刑務所で再起を決意
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鈴木宗男さんが収監された刑務所は、栃木県にある喜連川社会復帰促進センターは、東日本においては初の民間企業が運営に参加する型式の刑務所です。
ここで刑を償った日々や、政治家として再スタートに至った経緯について振り返ってみましょう。
過去の栄光とのギャップに苦しむ
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刑務所では、何らかの役割を担い仕事を任されます。鈴木宗男さんは衛生係として、食事の配膳や共用部の掃除、洗濯物を取り込むなどの作業を担当。
朝は平日の場合6時50分、土日祝日は7時30分に起床し、夕食を取った後は午後9時に就寝という規則正しい日々を送りました。
かつて政治家として活動していた日々は寝る間も惜しみ、夜遅くまで政治家との会合を重ね、羽振りの良い生活。
刑務所では、権力を持たず日々決められたことだけをして過ごす日々で、生活のギャップをなかなか受け入れることができず苦しんだのだとか。
世界から取り残されたような気持ちを抱えて、もう立ち直れないのではないかと絶望に襲われることも多かったそうです。
東日本大震災で気持ちを吹っ切った
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過去の栄光に縛られ、現実を受け入れられず苦しむ日々を送ってい鈴木宗男さんでしたが、2011年3月に東日本大震災が起こり、刑務所でもラジオが流されて震災の概要を知ったそうです。
さらにテレビ映像も流れると、それを見た鈴木宗男さんは不意に、「自分だけが安全な場所にいてはいけない。一日でも早く復帰して社会貢献をしなければ」と使命感が湧いたんだとか。
せめてできることから、と健康管理を徹底したそうで、まずは運動に充てられた30分間を有効活用するために、ノートに運動プログラムを書き出し、ハードな筋肉トレーニングを開始。
腕立て伏せ200回に腹筋200回を行い、ランニングをノルマとして行う生活へとスイッチしたのです。
鈴木宗男事件のその後② 復帰への道のり
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2012年に仮釈放された鈴木宗男さんは、社会貢献と震災復興へ貢献することを誓い、政治家として再スタートを宣言しました。
しかし、公民権停止の壁に阻まれて再スタートはかなり苦戦することになりました。
公民権停止でも諦めなかった
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鈴木宗男さんは、まだ汚職事件の結論が出ていなかった2005年に国政政党「新党台地」を新たに立ち上げていました。
しかし、「刑期満了から5年間は、立候補も選挙への投票もしてはならない」という公民権停止の期間があるため、仮釈放後も新党台地からは立候補できず、選挙活動もできませんでした。
ただ、公の選挙活動ができない状態でも腐ることなくコツコツと地道に人脈の構築、政治活動の課題に対して向き合う研究を行った鈴木宗男さん。
北海道出身の鈴木宗男さんは、ロシア情勢や北方領土問題に以前から知識が深く、勉強会を開くなど、情熱を持ってそれらの問題に取り組んできたのです。
やがて、安倍晋三首相からロシア問題について意見交換を行いたい、と声を掛けられるまでになり、再度政治家としてスタートラインに立ちました。
鈴木宗男の家族(嫁・娘・息子)とは
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鈴木宗男さんには、子供が息子が2人と娘が1人いることが判明しています。家庭人として、鈴木宗男さんはどのような顔を持っていたのでしょうか。
嫁は一般人で、個人情報に繋がる情報が公開されていません。
娘は政治家の鈴木貴子
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鈴木 貴子(すずき たかこ)
生年月日: 1986年1月5日
出身地: 北海道帯広市
最終学歴: トレント大学卒業
3人兄弟の末っ子である娘の鈴木貴子さんは、北海道で生まれ育ち、カナダにあるトレント大学卒業後はNHKを就職先として選びました。
NHK長野法則局に配置されて、ディレクターとして勤務していました。
その後、父親の鈴木宗男さんが2012年に仮釈放された際に、選挙に立てない父親の代わりとして立候補を決意。
NHKを退社して、新党大地公認として46回衆議院総選挙に北海道7区から出馬しています。残念ながら落選し、比例北海道ブロックにおいても名乗りを上げるもこちらも落選でした。
しかし2013年5月、比例北海道ブロックで当選した石川知祐さんが辞職を表明。これに伴い、鈴木貴子さんは繰り上げ当選という形で当選が確定したのです。
当時、最年少衆議院議員として大きな話題を呼びました。
息子は政治家秘書
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鈴木宗男さんの2人の息子の1人である次男・行二(こうじ)さんは、父親の秘書を務めていることが分かっています。
また、2006年に結婚して息子が生まれていますが、嫁や息子の具体的な情報は非公開のようです。
長男に関しては氏名、年齢、職業など個人を特定する情報が入っていません。一般人として意図して隠されているのかもしれませんね。
鈴木宗男の現在① 最後の出馬
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2017年4月に公民権が回復すると、早速選挙活動に力を入れた鈴木宗男さんの戦いを見てみましょう。
「箱乗り」と呼ばれる選挙カーから身を乗り出して市民に声を掛ける独特のスタイルが、「変わらず健在」とSNSで話題になりました。
2019年に国政復帰
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公民権が復帰したのは2017年4月で、早くも10月の衆議院総選挙に立候補しましたが、この時は落選しています。
2019年6月には、日本維持の会から参議院選挙への出馬を表明。
街頭演説で「生涯政治家ですが、選挙はこれが最後です」と力強く声を発し、応援として同郷の友である歌手の松山千春さんが駆けつけました。
最後に「私は北方領土問題を解決したい、鈴木宗男は負けません、勝ち抜きます」と挨拶を締めくくった鈴木宗男さん。
事務所で結果を待っていると、NHKから当選確実を伝えられ、事務所の関係者は、歓喜に沸きましたが、当の鈴木宗男さんは至って冷静な表情で、感謝の言葉をカメラに伝えていました。
鈴木宗男の現在② 食道がんとの闘い
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2019年に選挙に立候補することを決めた鈴木宗男さんは、人間ドックで食道がんが見つかりました。
医師から告知を受けると暗澹とした気持ちになったそうですが、向き合うしかないと覚悟を決めて手術を受けたそうです。
4時間かけて手術を行い、暫く安静にして欲しいという医師からの制止を振り切り、党のセミナーに参加して元気であることをアピール。
この姿に対して、「病気も政治のために利用するのは逆に逞しい」と却って感心されていたようです。
まとめ
出典:https://mainichi.jp/
鈴木宗男さんは北海道に生まれ、決して裕福とは言えない環境で育ちましたが、学校を卒業後は議員の秘書として頭角を現しました。
1983年に行われた衆議院議員総選挙では、無所属で立候補しながらも奇跡の当選を果たし、その後の鈴木宗男さんは政界の中核を担う存在として辣腕を発揮しています。
しかし、2002年に数々の汚職事件への関与疑惑が浮上し、起訴。その後は長い期間裁判で争いが続きました。結果的に敗訴した鈴木宗男さんは、懲役2年の実刑で収監されています。
保釈後に公民権が回復すると早くも選挙に出馬し、2017年に落選するも2019年の第25回参議院議員通常選挙で当選を果たし政界復帰。
食道がんが発覚しましたが、手術後も元気な姿を見せるなど、現在も議員として精力的に活動しています。
まだまだ辣腕を振るう鈴木宗男さんの今後の活躍を応援しましょう。