大久保清はわずか40日の間に8人の若い女性を殺害し社会を震撼させた、昭和の時代を代表する連続殺人犯です。
今回は大久保清の犯罪歴をはじめ、その異常な生い立ちや最期、母親や子供、子孫について、その後の現在についてまとめました。
この記事の目次
大久保清は昭和の連続殺人犯
大久保清は、1971年(昭和46年)の3月31日から5月10日のわずか40日足らずの間に、群馬県を舞台に、8人もの女性を立て続けに強姦の上に殺害した昭和を代表する連続殺人犯です。
大久保清は、その犯罪の猟奇性や凄惨さに加え、異常な生い立ちや人間性によっても社会を震撼させました。今回は、大久保清の起こした強姦事件や、連続殺人事件の概要や、その生い立ちに焦点を当てて見ていきたいと思います。
大久保清の起こした犯罪① 何度も強姦事件で逮捕されている
大久保清は、1971年に連続強姦殺人を犯す以前から、何度も強姦事件を起こして逮捕されています。
最初の逮捕は20歳
1955年7月12日、当時20歳だった大久保清は、群馬県前橋市の前橋駅前で、当時17歳の女子高生に目をつけて話しかけ、法政大学の学生だと偽って言葉たくみに誘った上で強姦。その後逮捕され、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けています。
すぐに再犯し実刑判決
大久保清は執行猶予期間中の同年12月26日の午後2時45分頃、またしても女性高校生を襲って逮捕されています。この時の逮捕状によると、大久保清はこの日、バス停でバスを待っていた女子高生に「送ってやる」と声をかけてオートバイの後ろに乗せ、人気のない松林に連れ込んで問答無用で強姦に及んだという事です。
この女子高生の叫び声を、近くで農作業をしていた農夫が聞きつけて駆けつけた事で大久保清はその場で取り押さえられ逮捕。
大久保清には裁判で「強姦致傷罪」で懲役2年の実刑判決が下り、執行猶予中の犯行だった事から前回の懲役1年6ヶ月が加算され、合計で3年6ヶ月の懲役刑となり、長野県の松本刑務所に服役しています。
大久保清は、1日でも早く刑務所から出る事を目的に、ひたすたに規則を守る模範囚となり、刑期6ヶ月を残して1958年12月15日に仮釈放を許されています。この時、大久保清は24歳でした。
またしても強姦未遂を起こす
3年間刑務所に服役した大久保清でしたが、懲りずにまたしても事件を起こしています。
今度の被害者は、前橋市に住む当時20歳の女子大生で、大久保清は全学連の活動家の大学生だと偽って接近し、言葉たくみに自宅へ連れ込んで強姦しようとします。
女子大生の叫び声を聞きつけた大久保清の両親が駆けつけたため強姦は未遂に終わります。この事件は最後は示談となり不起訴処分になっています。
大久保清の起こした犯罪② 結婚した後も恐喝や強姦事件で逮捕されている
身元を偽って女性と知り合い結婚
1961年3月1日、大久保清は前橋市内の書店で、後に妻となる佐藤節子という女性に目をつけ「お茶でも飲みませんか」と声をかけます。節子は最初は断りその場を離れたものの、大久保清は、3月19日に再び節子に声をかけ、その日のうちに「結婚を前提に交際したい」と口説いています。
その後、大久保清は言葉たくみに佐藤節子を信用させ、交際に持ち込んでいます。この交際期間中、大久保清は「渡辺許司」という偽名を名乗り、専修大学の4年生だと偽っていました。
そして、1962年5月5日、大久保清と佐藤節子は結婚します。驚くべきことに、節子はこの時に初めて大久保清が偽名を名乗っていたことや、経歴を偽っていた事を知ったそうです。この時、大久保清は27歳でした。
その後、大久保清は節子との間に長男と長女をもうけています。
恐喝および恐喝未遂罪で逮捕
結婚後、大久保清は牛乳の販売店を開業し、しばらくの間は真面目に働いていたようです。しかし、1965年6月3日、販売店から牛乳を盗もうとした少年の家に押しかけて、その兄から現金2万円を脅し取り、さらに後日再び「お前の弟を前科者にするのか」などと脅し、額面7万3千円の示談書を無理矢理書かせるなど、さらに脅迫に及んでいます。
被害者が警察に訴え出た事で、大久保清は再び逮捕され、恐喝および恐喝未遂の罪で懲役1年・執行猶予4年の判決が下されています。
この事件によって、大久保清の妻・節子は大久保清の強姦罪の前科を知ります。
再び強姦事件を起こして実刑判決
大久保清は、結婚後も密かに女性漁りを続けていました。車に乗って目ぼしい女性に次々と声をかけ、1966年12月23日に、当時16歳の女子高生、1967年2月24日に当時20歳の女子短大生をそれぞれ強姦。
大久保清は、その後すぐに逮捕され、2件の罪を合わせて懲役3年6ヶ月の実刑判決が下ります。さらに、前述の恐喝事件の執行猶予期間中だったため、その刑期も加算され、合計で懲役4年6ヶ月の実刑が下されてました。
東京の府中刑務所に服役中の大久保清の下に、妻の節子は2度面会に訪れています。この時の要件は離婚したいというものでしたが、大久保清は「出所するまで待ってほしい、今度こそ真面目になって出直す」などと言い、離婚には至りませんでした。
大久保清の起こした犯罪③ 出所後に連続強姦殺人事件を起こす
大久保清は、1971年3月2日、府中刑務所から出所しました。大久保はこの時も刑務所内で真面目に振る舞い、模範囚として4度も表彰されるなどしています。そのため、刑期を8ヶ月残しての仮釈放でした。
出所してすぐに最初の殺人事件を起こす
しかし、大久保清は出所直後の1971年3月31日、最初の強姦殺人事件を起こす事になります。その日の午後6時40分頃、大久保清は白のロータリークーペーに乗り、新町駅で多野郡新町に住む当時17歳の女子高生・津川美恵子に声をかけて誘い、榛名山までドライブ、そこで強姦し殺害に及び、榛名湖の東方2キロほどのところに遺体を埋めています。
その後次々と7人の女性を殺害
さらに、大久保清は立て続けに強姦殺人を続ける事になります。1971年4月6日頃、大川美知子という当時17歳のウエイトレスと行為後に口論になり殺害。大久保清は殺害動機について、大川美和子が自分には警察官の旦那がいるとほのめかしたためだと供述しています。
同年4月17日には、当時19歳の県庁土木課の臨時職員・井川千寿子を殺害しています。大久保清は、井川千寿子と5回デートをし5回目に殺害していますが、その殺害動機は、偽名を使っていた大久保清の本名や過去に前歴を調べあげ、嘲るようにその事を話してきたためにカッとなったというものでした。
その翌日の4月18日には、当時17歳の川田静子を誘ってドライブに行き、車内で口論になったのをきっかけに殺害し、遺体を榛名山南麓にあった町、榛名町付近に穴を掘って埋めています。
さらに、同年4月27日には、当時16歳の女子高生・加藤晴美とのドライブ中、親が警察官だと言いはじめたために、カッとなって首を絞めて殺害し、高崎市上豊岡町の工事現場に遺体を埋めています。
同年5月3日、大久保清はさらに、当時18歳の電電公社(NTTの前身)職員・川合昭代を自身の身元や過去の殺人がバレそうになったために殺害。さらに5月9日、当時21歳の会社員・松村恵子を殺害しています。松村恵子殺害の動機は、大久保清がキスしようとしたところ「私の父は刑事だ」と言って抵抗し逃げ出したため、追いかけて暴行して首を絞めて殺害。
さらに5月10日、大久保清は、当時21歳の無職・小橋孝子を殺害しています。小橋孝子も大久保清が前科者である事を知り、その事についてしつこく問い詰めてきたため殺害に及んだようです。
こうして、大久保清はわずか40日ほどの間に8人の女性を立て続けに殺害して遺体を埋めています。
大久保清の逮捕と死刑判決
大久保清は、5月13日に身柄を拘束され逮捕されています。
逮捕のきっかけは松村恵子の兄が、自身が経営する会社の従業員を使って独自に捜索し、大久保清を突き止めた事でした。
その後の取り調べで大久保清は次々と前述の犯行を供述し、1973年2月22日に死刑判決が下されています。大久保清は控訴せず、そのまま死刑判決が確定しました。
大久保清の生い立ち① 小学6年で幼女に対してわいせつ行為に及ぶ
続いては、大久保清の生い立ちについても見ていきます。大久保清は、1935年1月17日、群馬県高崎市の碓氷郡八幡村(当時)の434番地で誕生しました。
父は、国鉄職員の善次郎、母はキヌという女性でした。兄弟は8人(3男5女の)おり、大久保清はその三男でした。母のキヌはロシア人の父を持つハーフで、幼少期の大久保清は青い瞳を持ち彫りが深く、「フランス人形みたい」と言われるなどエキゾチックな顔立ちをしていたようです。
両親からは甘やかされた大久保清でしたが、それ以外の大人達からの評判は極めて悪く、教師からは「全般の教科に対する気迫なし、課題もいつもやらない、学習態度も悪い」と散々な評価を受けています。
そんな大久保清は小学6年の夏、近所に住む4歳の幼女をガムとチョコレートで麦畑に誘い出し、強姦しようと試みています。当然ながらうまくいかず、幼女の泣き叫ぶ声を聞きつけて駆けつけた大人を前にして、大久保清は「ちくしょう!」と捨て台詞を残して立ち去ったそうです。
駆けつけた人が幼女を抱き上げたところ、おぞましい事に幼女の性器には石ころが詰め込まれていたそうです。
大久保清の生い立ち② 中学卒業後は電気屋になるが窃盗癖で逮捕され失業
中学生になった大久保清は、父・善次郎の闇屋を手伝い始めています。中学卒業後は、農業をたまに手伝いながら、群馬県立高崎商業高等学校定時制課程に進学していますが、1年の途中で自ら退学しています。その後は、東京都板橋区の電機店で住み込みで働き始めましたが、近所の銭湯の女湯をのぞいた事がバレて解雇されています。
それから、大久保清は姉の夫の営む電機店に引き取られ、神田の電機学校に通うなどしています。しかし、この時も赤線の娼婦とトラブルを起こして実家に逃げ帰ってしまいます。
大久保清は実家の両親に泣きつき、親の金でラジオ修理販売店「清光電器商会」を開店。しかし、今度も大久保清は同業者から電機部品を8回も窃盗し、警察沙汰になり、父親が弁償した事で示談になるなどしています。これが原因となり、大久保清は電機店を廃業してしまいます。
その後、大久保清は、既に紹介したように強姦事件を立て続けに起こすようになり、逮捕服役を繰り返し、挙句、連続強姦殺人を起こす事になるのでした。
大久保清の母親・キヌと父親・善次郎
大久保清の母・キヌは、ロシア人の父と、安中(中山道の宿場)の芸者の母を持つハーフの私生児で、大久保清を幼少の頃から成人に至るまで「ボクちゃん」と呼び、甘やかして育て、犯行に使われた自家用車を含め、溺愛する大久保清の望むものは何でも買い与えていたようです。
また、小学6年生の大久保清が近所の4歳の幼女にわいせつ行為に及び、抗議された際には、「ボクちゃんがそんなことするもんか、その時間ボクちゃんはおらと一緒に居た」などと嘘をつき、証拠を突きつけられると今度は「子供のお医者さんごっこに目くじら立てることはあるめぇ、誰でもやってる事だ」などと開き直っています。
その後も、母のキヌは大久保清が問題行動を繰り返すたびにかばい、強姦での逮捕でも一貫して、大久保清の味方をしています。挙げ句の果てには、連続殺人事件で逮捕された後でさえ、大久保清をかばうような発言をしているのです。
また、大久保清の父親・善次郎は、大久保清の次兄の妻に性交渉を強要するような異常な性欲を持つ人物だったとされます。この大久保清の兄は2度離婚していますが、いずれも父・善次郎による嫁に対する性的行為が原因だったとされています。
大久保清の子供
大久保清には、妻の節子との間に一男一女をもうけています。長男は1963年生まれ、長女は1965年生まれです。
子供が生まれてからも大久保清は奔放な生活を続け、犯罪行為を繰り返しています。妻の節子は、大久保清が府中刑務所に服役している最中に、子供を連れて実家へ逃げ帰っており、その後、大久保清が連続殺人容疑で取り調べを受けている最中に離婚が成立しています。
子供や妻たちがその後どのような生活を送ったかについては明らかにされていません。
大久保清の最期~1976年1月22日に死刑執行
大久保清は1973年2月22日に死刑判決が下され、1976年1月22日に死刑が執行されて最期を迎えています。享年は41歳でした。
大久保清は死刑判決後に取材を受けた際「長生きしたくないんだよ。死にたい。」と語っていたとされますが、一説には、死刑執行を告げられた際、大久保清は恐怖のあまり腰を抜かして失禁し、刑務官に抱えられるようにして死刑台へ連行されるという無残な最期を遂げたとされます。
大久保清の現在は?子孫はいる?
大久保清は前述の通り死刑が執行されており、現在はこの世にいません。大久保清の犯した犯行は現在も語り継がれており、度々映像化や小説化などがされています。
1976年にはオムニバス映画「戦後猟奇犯罪史」が発表され、1983年には、ドラマ「昭和四十六年 大久保清の犯罪」が放送されています。
その他にも、大久保清をモデルにした小説「天井の青」が発表され、これは2回にわたってドラマ化がなされています。
また、大久保清には2人の子供がいましたが、その子供2人のその後の消息については明らかになっておらず、その子孫が存在するのかについてもわかっていません。
2人の子供はその後も普通に生活を送ったと考えられるため、子孫が現在も存在する事も考えられますが、大久保清の犯した猟奇的な犯罪を考えれば、子孫が存在したとしても絶対に公にはされないでしょう。
まとめ
今回は、昭和の時代を代表する猟奇的連続殺人事件を犯した大久保清についてまとめてみました。
大久保清は、わずか40日ほどの間に、立て続けに8人の女性を殺害した殺人犯でしたが、その生い立ちを追うと、小学生で近所の4歳の幼女にわいせつな行為をするなど、子供時代から異常な性欲を持っていた事がわかります。
そんな大久保清は1976年に死刑が執行され、41歳の生涯を終えています。この男は警察の取り調べに対しても虚偽の供述を繰り返すなどしており、その犯行動機などは明かされないままこの世を去りました。
怪物のようなこの男が一体何を動機にして犯行を繰り返したのか、その真相が明かされる事は永遠にありません。