日本や韓国で活躍し、波乱万丈の野球人生を送った元プロ野球選手が新浦壽夫さんです。新浦壽夫さんの経歴や球速、成績・年俸推移、巨人や韓国でのエピソード、韓国籍から帰化、結婚した嫁や子供などの家族と現在をまとめました。
この記事の目次
新浦壽夫は元プロ野球選手
新浦壽夫
生年月日:1951年5月11日
出身:東京都世田谷区
身長:183cm
体重:80kg
所属:読売ジャイアンツなど
活動:元プロ野球選手
ポジション:ピッチャー
投打:左投左打
新浦壽夫さんは巨人や韓国のサムスンなどで活躍した元プロ野球選手です。
韓国籍だったことがきっかけでドラフト外でプロ入りし、長嶋茂雄監督と出会ったことで才能が開花して左腕エースに成長しましたが、1984年からは韓国のサムスンでプレーします。3シーズン韓国でプレーした後は日本に戻り、巨人キラーとして活躍しました。
プロ入り前まで
東京都世田谷区二子玉川で在日韓国人2世として生まれた新浦壽夫さんは、父親の仕事の都合ですぐに静岡県に引っ越しました。
中学から野球を始め、静岡商業高校(最初は定時制、その後全日制に編入)に入学しました。全日制編入後の1年の夏の甲子園で準優勝すると、一気に注目を集めるようになりますが、新浦壽夫さんは在日韓国人だったため、国体に出場できないことが発覚します。
すると、プロ野球球団からの勧誘が始まります。
《外国籍選手はドラフト制度の適用を受けない。退学なら即交渉可能。盲点を突いたような〝大人の都合〟で、複数球団の争奪戦に巻き込まれた》
球団との交渉は弁護士の叔父や両親が行い、甲子園から18日後には高校に退学届けを出し、巨人に入団することが決まりました。
プロ入り後
新浦壽夫さんは17歳で巨人に入りますが、すでに肩を痛めていたため、入団から2年間は身体づくりに励みました。チームから離れて広島の整骨院に通って治療をしていたのです。この時、リハビリとして酒屋を手伝ったりもしていました。
一軍に昇格したのは1971年のことです。1975年に長嶋茂雄が監督に就任すると、2勝11敗と打ち込まれることが多く、大量リード時に登板しても逆転されることもあったため、「ノミの心臓」と揶揄されることもありました。
しかし、1976年シーズンからはその才能を一気に開花させて、左腕エースに成長します。結果を残せるようになったきっかけは長嶋茂雄監督の一言でした。
新浦壽夫さんは結果を出そうと願掛けの意味も込めて1976年正月から禁煙していましたが、太ってしまいました。すると、長嶋監督から「勝ち負けは俺の責任だ。お前は吸え」と言ってもらったことで、再びタバコを吸うようになって、体を絞ることができて、球速が上がり、結果を残すことにつながったのです。
その後、4年連続2桁勝利2桁セーブポイントを挙げる大車輪の活躍を見せ、絶対的な「左のエース&抑え」として君臨しました。
1980年シーズンは肘を負傷し、それ以降はとは言えなくなり、以前のような活躍はできなくなりました。そして、1983年シーズンで巨人を退団し、韓国のサムスンに移籍することになりました。
韓国のサムスンでは3年間プレーしています。2年目の1985年シーズンには25勝6敗という圧倒的な成績を残しましたが、活躍しても給料が上がらなかったこともあり、1986年シーズン終了後に日本に戻りました。
日本では横浜大洋ホエールズに復帰し、2桁勝利を挙げるなどの活躍を見せ、カムバック賞を獲得しました。1992年にはトレードで福岡ダイエーホークスに移籍、さらにヤクルトスワローズに移籍しますが、1992年で現役を引退しています。
新浦壽夫の球速
新浦壽夫さんは速球派のピッチャーでした。
現代のように「最高球速○○km/h」と記録が残っているわけではありませんが、新浦壽夫さんの最高球速は147km/h、または150km/h前後と言われています。
日本にスピードガンが導入されたのは1970年代後半と言われています。現在でこそ、時速150km超のストレートを投げるピッチャーは珍しくありませんが、当時はまだまだ時速130~140km台が一般的でした。そのような中で球速147km/h~150km/h前後を投げるピッチャーは間違いなく速球派であり、球速で勝負できるタイプのピッチャーと言えるでしょう。
ただ、新浦壽夫さんは年齢と共にピッチングスタイルを変え、韓国で技巧派に転身し、日本球界復帰後は多様な変化球を駆使した老獪なピッチャーになりました。
新浦壽夫の成績推移
新浦壽夫さんの成績の推移を見ていきましょう。
年度 | チーム | 登板数 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 防御率 |
1971 | 巨人 | 19 | 4 | 3 | - | 2.01 |
1972 | 5 | 0 | 0 | - | 17.18 | |
1973 | 21 | 3 | 3 | - | 3.44 | |
1974 | 26 | 7 | 6 | 1 | 2.63 | |
1975 | 37 | 2 | 11 | 0 | 3.33 | |
1976 | 50 | 11 | 11 | 5 | 3.10 | |
1977 | 44 | 11 | 3 | 9 | 2.32 | |
1978 | 63 | 15 | 7 | 15 | 2.81 | |
1979 | 45 | 15 | 11 | 5 | 3.43 | |
1980 | 18 | 3 | 4 | 1 | 3.78 | |
1981 | 14 | 0 | 5 | 0 | 3.39 | |
1982 | 27 | 6 | 6 | 0 | 4.08 | |
1983 | 31 | 3 | 2 | 0 | 3.21 | |
1984 | サムスン | 38 | 16 | 10 | 3 | 2.27 |
1985 | 34 | 25 | 6 | 0 | 2.79 | |
1986 | 19 | 13 | 4 | 0 | 2.53 | |
1987 | 大洋 | 25 | 11 | 12 | 0 | 4.26 |
1988 | 29 | 10 | 11 | 0 | 4.32 | |
1989 | 28 | 8 | 13 | 0 | 3.39 | |
1990 | 42 | 6 | 10 | 2 | 3.79 | |
1991 | 47 | 4 | 1 | 1 | 3.21 | |
1992 | ダイエー/ヤクルト | 21 | 1 | 4 | 0 | 7.08 |
通算 | 683 | 170 | 143 | 42 | 3.45 (NPB) |
個人タイトルはこちらです。
<NPB>
・最優秀防御率:2回(1977年、1978年)
・最多奪三振:1回(1979年)
・最高勝率:1回(1977年)
・最優秀救援投手:1回(1978年)
<KBO>
・最多勝:1回(1985年)
日本・韓国通算170勝、さらに41セーブを挙げているというのは、日本球界屈指の左腕エースと言える成績でしょう。
新浦壽夫の年俸推移
新浦壽夫さんの年俸の推移を調べました。
・1968年:180万円
・1977年:540万円
・1980年:1640万円
・1984年:3000万円
・1985年:3000万円
・1986年:3000万円
・1987年:2000万円
・1988年:3200万円
・1989年:4200万円
・1990年:4500万円
・1991年:5000万円
ドラフト外で17歳で巨人入りをしたこともあり、年俸は180万円でスタートしましたが、契約金は2000万円の契約でした。
その後、初めて2桁勝利を挙げた時に540万円にアップ、さらに4年連続で2桁勝利を挙げた時にはようやく1640万円になりました。
1980年までは現代の感覚とは1桁違うのかもしれません。その後、新浦壽夫さんは韓国のサムスンに移籍しますが、その時は契約金3000万円、年俸3000万円でした。
《三星との入団発表は59年1月19日、ソウルで行われた。背番号は巨人時代と同じ「28」。契約期間3年、契約金3000万円、年俸3000万円。2000万円相当のマンション、専用乗用車の提供など破格の待遇…》
ただ、2年目に25勝6敗という圧倒的な成績を残しても年俸は上がりませんでした。年俸に関する不満が、新浦さんが韓国から日本に戻った理由の1つです。
新浦壽夫は巨人では長嶋茂雄の思惑で去就が決まった?
新浦壽夫さんは17歳でドラフト外で巨人に入団し、1975年に長嶋茂雄氏が巨人の監督に就任します。その後は、長嶋茂雄監督の一声で新浦壽夫さんの去就が決まっていくんです。
江川事件の当事者に?
出典:sankei.com
1978年シーズンオフのNPBの大問題と言えば、「江川事件」です。江川事件は巨人に入りたい江川卓さんの独占交渉権を阪神が獲得したけれど、何とか江川卓さんを巨人に入団させることができないかといろいろ画策し、NPBと巨人が力技で解決した事件です。
江川事件は一度江川卓さんを阪神に入団させ、その後すぐに巨人にトレードさせるという方法で解決させたのですが、阪神から巨人にトレードで出されたのが江川卓さん、巨人から阪神にトレードされたのが巨人のピッチャーである小林繁さんでした。
ただ、実は江川事件のトレード要員の候補に挙がっていたのが新浦壽夫さんという噂があるんです。最初、阪神は新浦さんをトレードに指名しましたが、長嶋茂雄さんがこれを拒否。その代わりに小林繁さんがトレードに出されたとのこと。
《当時、小林は女性関係の噂も取り沙汰されていた…》
小林繁さんは女性関係の悪い噂もあったそうなので、長嶋茂雄監督と巨人としてはより戦力になりそうな新浦壽夫さんを守って、小林繁さんを厄介払いしたのかもしれません。長嶋茂雄さんの鶴の一声で、新浦壽夫さんは阪神へのトレードを免れて巨人に残留することになったのです。
長嶋茂雄の一声で韓国に移籍
江川事件では長嶋茂雄監督の鶴の一声で阪神へのトレードを免れ、巨人に残ることになりました。
しかし、それから4年後に新浦壽夫さんは長嶋監督の一声で、韓国のサムスンに移籍することになったのです。
指定された都内のホテルに行きました。長嶋さんがいました。いきなりです。
「こちら三星ライオンズの人、李(吉鉉)日本代表です」って紹介された。間髪入れずにこう言った。
「新浦、お前、来年から韓国に行け」
「えっ…」
そこに行けって? 「ハーッ?」ですよ。
契約面も長嶋監督が全部まとめてくれて、新浦壽夫さんは韓国のサムスンに移籍しましたが、新浦壽夫さんには拒否権はなかったと思われます。
自分の所属チームの監督(しかもNPBのレジェンド&カリスマ)に「韓国に行け」と言われて、それを拒否したら、自動的に引退ということになってしまいます。それどころか、引退後にNPB関係の仕事ももらえない可能性すらあります。
だから、韓国行きを承諾せざるを得なかったのでしょう。新浦壽夫さんの野球人生は巨人と長嶋茂雄監督に振り回されたと言えるのかもしれません。
新浦壽夫は韓国から日本に帰化
出典:sankei.com
新浦壽夫さんの父親の新浦永植さん、母親の新浦寿子さんはどちらも韓国人で、在日韓国人1世でした。新浦壽夫さんは在日2世になります。韓国名は金日融(キム・イリュン、김일융)と言います。
両親とも韓国人で、つまり在日韓国人2世として生まれたのです。
日本生まれで公立学校に通っていましたので、日本語しか話すことができず、韓国にはサムスンに移籍するまでに1回しか行ったことがなく、韓国語は祖父母が話しているのを聞いていたので「ニュアンスはわかる程度」だったそうです。
新浦: 在日韓国人とはいえ、私は日本語しか話せません。韓国にもそれまで一回しか行ったことがなかったんです。
引用:環境が変わっても、自分のスタイルは変えてはいけない ~新浦壽夫氏インタビュー~ SPORTS COMMUNICATIONS
新浦壽夫さんは韓国籍だったために、高校時代に国体に出場することができず、悔しい思いをしています。また、日本国籍ではなかったため、NPBの球団に入団するためにドラフト会議を経る必要がなく、高校を中退してドラフト外で巨人に入団することになりました。
新浦壽夫さんが日本に帰化したのは長男が生まれた1978年のことです。
私は息子が生まれたとき(53年3月)、日本に帰化しました。そう生きると決めた。
自分が在日韓国人として、いろいろな思いをしてきたために、息子には同じような思いをさせたくないと思って、韓国から日本に帰化したのでしょう。
新浦壽夫は韓国で糖尿病を発症…覚醒剤使用&運び屋と誤解される?
出典:sankei.com
新浦壽夫さんは1984年から3年間、韓国のサムスンでプレーすることになりましたが、その時に糖尿病を発症しました。
1986年5月ごろから「ちょっと痩せた」と感じていて、6月になると体調不良になり、すぐに日本に戻りました。日本の病院で検査すると、遺伝性糖尿病であることが発覚したんです。
毎日血糖値を測ってインスリンを打てば、現役生活を続けられることになったのですが、10日間の日本で入院している時には韓国で「覚醒剤をやっている」という噂が出たそうです。
これは糖尿病で激ヤセしたからですね。また、韓国に戻る時にはインスリンの注射器・注射針などを大量に持ち込んだたため、「覚醒剤の運び屋」と思われるかもと不安になったそうです。
バッグに50本の束になった注射器を忍ばせ、空港の税関を通過するとき「覚醒剤の運び屋と疑われ、逮捕されたらどうしよう…」と冷や汗をたらしたのは。
引用:【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】新浦寿夫さん、先発に救援フル回転!ミスターに鍛えられた(1/3ページ) – サンスポ
糖尿病であることを隠すために、現役時代はトイレなどで隠れてインスリンを打っていたとのこと。しかも最初は1日8回もインスリンを打っていたそうですので、かなり大変だったと思われます。
新浦壽夫の家族:結婚した嫁や子供
出典:sankei.com
新浦壽夫さん1976年1月30日に登志恵さんと結婚しています。
登志恵さんは白百合学園高校からフェリス女学院短大を卒業したお嬢様で、新浦壽夫さんの1歳上の女性です。
2人の馴れ初めは毒蝮三太夫さんのラジオ番組です。毒蝮三太夫さんは巨人情報のラジオ番組を持っていて、そのアシスタントをしていたのが、嫁になる登志恵さんです。
毒蝮三太夫さんがアシスタントの登志恵さんに「好きな選手を探しなさい。そうすれば楽しくなる」とアドバイスすると、登志恵さんは好きな選手に新浦壽夫さんの名前を挙げました。
そして、球場で何度か話したり、先輩投手の関本四十四さんのアシストがあったりして、交際するようになりました。
その後、登志恵さんは献身的に新浦さんを支え、韓国籍であることも受け入れてくれて、新浦壽夫さんからプロポーズして結婚しました。
子どもは1人、息子がいます。1978年に息子が生まれ、それをきっかけにして新浦さんは日本に帰化しています。
新浦壽夫さんの波乱万丈な野球人生を支えたのは嫁の登志恵さんのおかげでした。
子供が夜泣きする。イライラして「何、泣かせてんだっ」って理不尽に怒鳴ったこともあった。「私が面倒見ます。子供のことは任せてください」って泣きやむまで外に出ていた。手を上げたこともありました。
このエピソードを見ると、新浦壽夫さん、かなりヤバいDV夫ですが、それでも登志恵さんは支え続けました。また、登志恵さんはは非常に前向きで韓国に移籍することになった時も笑顔で「行きましょ!」と言ってくれたそうです。
今では嫁の登志恵さんにストレートに感謝の言葉を述べていますので、登志恵さんの苦労も報われたと思います。
今、私がこうしていられるのは妻のおかげです。いくら感謝しても、しきれない存在です。本当にありがたいです。
新浦壽夫の現在
出典:sankei.com
新浦壽夫さんは現役引退後、日本テレビやラジオなどで解説者を務めていましたが、指導者としてユニフォームに袖を通すことはありませんでした。
それは、新浦さんが抱える病気が関係しているのかもしれません。韓国で発症した糖尿病とは現在もインスリンと食事療法を続けています。
その他にもいろいろと病気を抱えています。
・糖尿病
・白内障
・緑内障
・リウマチ性多発筋痛症
・脳梗塞
・狭心症
・膵炎
これらの病気を抱えながら、奥様の登志恵さんに支えてもらって生活していますが、そんな日々に幸せを感じているようです。
平和な日本で妻といる。いい日々です。改めて感謝です。ありがとう。
波乱万丈な野球人生でしたが、70歳を超えてから「いい日々」と思えるのはとても良いですよね。
新浦壽夫のまとめ
元プロ野球選手の新浦壽夫さんのプロフィールや経歴、球速や成績・年俸の推移、巨人での長嶋茂雄とのエピソードや韓国移籍での覚醒剤運び屋疑惑、結婚した嫁や子供と現在をまとめました。
現代では高校中退してドラフト外でプロ入りをするなんて考えられませんし、監督の一声で韓国の球団に移籍するなんてなかなかありませんよね。新浦壽夫さんは在日韓国人だったからこそ、これだけ波乱万丈な野球人生を歩んできたのでしょう。