戦後の歌謡曲界を背負い、数々の名曲を世に送り出してきた歌手の三波春夫さんですが、若い頃の苦労や晩年も話題です。
今回は三波春夫さんの経歴や名曲、嫁との結婚、子供(娘や息子)、晩年の闘病生活や死因、自宅をまとめました。
この記事の目次
三波春夫は日本の歌謡界を支えた元浪曲師
三波春夫のプロフィール
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三波 春夫(みなみ はるお)
本名: 北詰文司
別名: 南篠文若
生年月日: 1923年7月19日
没年月日: 2001年4月14日
出身地: 新潟県長岡市
三波春夫さんは、戦前から三味線を伴奏に独特の節と語りで物語を読み進める語り芸「浪曲師」をしていましたが、戦後に歌謡歌手に転向しました。
戦後の高度経済成長期を支えるシンボルとなり、明るい曲調の楽曲をリリース。歌謡曲に初めて和装で挑んだ先駆者としても知られています。
死去の前年である2000年まで歌手活動を行い、2001年に77歳の生涯を閉じました。
三波春夫の若い頃の経歴① 悲しみを民謡で乗り越えた幼少期
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生前、テレビに出演していた三波春夫さんはいつもにこやかな笑顔を浮かべ、「世界の国からこんにちは」や「東京五輪音頭」など明るい未来を彷彿させる楽曲を送り出してきました。
しかし、若い頃の三波春夫さんの経歴は、戦争や疫病、貧困を経験し、苦悩に満ち溢れていたのです。
ここからは、子供の頃の三波春夫さんについて紹介します。
母親をチフスで亡くす
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三波春夫さんは1923年(大正12年)、新潟県で両親との間に3男として誕生しました。
7歳の時に母親が腸チフスで死去するという不幸に見舞われますが、三波春夫さん自身も罹患していたため、母親の死に目には会えなかったそうです。
父親はなんとか家庭を明るくしたいと考えて、子供3人を仏壇の前に集めて民謡を教え、歌わせる習慣を作りました。
3人の兄弟は一生懸命歌いましたが、父親の歌はなにかもの悲しいものがあると幼いながら感じていたそうです。
それでも三波春夫さんは歌が好きになり、田んぼで働く大人たちのために、あぜ道に立って歌い続けたところ、とても喜ばれたといいます。
この時、「歌は良いな」と実感したことが歌手への原点となりました。
働きながら浪曲の勉強を続けた
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13歳の時に稼業が傾き、上京して製麺工場で住み込みで働き始めた三波春夫さん。
この頃から浪曲師になることを夢見て、仕事をしながら浪曲の技を磨いていたそうです。
一方で、他人の家で寝泊まりすることに慣れることができず、夕方になると寂しさを感じて仕事をしながら涙が止まらなったことも。
15歳の時には、伯父が経営していた築地市場内の仲買人の店「河悦」に就職が決まり、市場で勤め始めます。
仕事が終わると、魚を入れる箱を重ねて舞台を作り、浪曲を披露すると大人気だったそうです。
16歳になると、文京区にある「日本浪曲学校」へ進学。翌年には「南篠文若」名義で「新歌舞喜」で初舞台を踏み、浪曲師として活躍するようになりました。
三波春夫の若い頃の経歴② 第二次世界大戦での徴兵とシベリア抑留
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念願の浪曲師として歩き始めた三波春夫さんでしたが、第二次世界大戦が勃発したことで陸軍に入隊し、訓練後に兵隊として満州に渡りました。
さらに終戦後はシベリアに送られて、悲惨な捕虜生活を送ったことが明らかになっています。
九死に一生を得た第二次世界大戦
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三波春夫さんが徴兵されて満州に渡ったのは、1944年の20歳の時のことです。
ただ、すぐに前線に立ったわけではなく、しばらくは各中隊を回って浪曲を披露していました。
周囲からは「浪曲上等兵」というニックネームで呼ばれていましたが、1945年に入るとソ連軍との戦闘に入り、次々に戦友が三波春夫さんの目の前で命を落としていったそうです。
倒れた同僚を抱き起すと「お母さん、お母さん」と言って息を引き取り、一方でソ連軍の兵士も「ママ…」と言って絶命しているのを見て、どこの国も同じなのだと悲しくなったといいます。
ある時、銃撃戦の見張りを命じられた三波春夫さんは、トーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)に登っていたところ、遠方からの砲撃を受けて意識不明に陥りました。
数時間後に目が覚めると、周囲に生存者はおらず、泥水は日本兵の血で真っ赤に染まっていたそうです。三波春夫さんはまさに九死に一生を得たのです。
4年間シベリアで捕虜生活
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日本では1945年に終戦を迎えましたが、満州にいた日本兵はソ連軍の捕虜として捕虜就労所に送り込まれ、三波春夫さんも4年に渡るシベリア抑留生活を送りました。
シベリアに抑留された日本人は57万5千人以上にのぼり、極寒の環境下で過酷な環境で労働を強いられ、まともな衣服や食事が与えられず、約5万8千人が死亡した記録があります。
そんな中でも三波春夫さんは生き抜き、1949年9月に帰国して浪曲家として復帰しました。
三波春夫の若い頃の経歴③ 「三波春夫」としてデビュー
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命からがら帰国した三波春夫さんのその後について紹介します。
「南篠文若」を名乗り浪曲活動を再開していましたが、1957年に歌謡曲の歌手「三波春夫」として再デビューしました。
浪曲師を辞めた理由や、三波春夫になった後の活動について紹介します。
民謡との決別
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1949年に帰国後、再び浪曲を始めた三波春夫さんでしたが、1950年代半ばになると日本の芸能文化は大きな変化を遂げていきました。
時代の流れと共に、音楽の流行は演歌などの大衆歌謡へとシフトしていくのを感じた三波春夫さんは、浪曲は衰退していくだろうと考えました。
さらに、民謡歌手として成功を収めていた三橋美智也さんが歌謡界に転向したことも三波春夫さんの背中を押したそうです。
ただ、浪曲全てを捨ててしまうのではなく、浪曲調歌謡曲があっても良いだろうと決めて、1957年6月に芸名を「三波春夫」へと改名して歌謡界の歌手に転向しました。
和服姿の男性歌謡歌手の第一人者へ
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三波春夫さんが歌謡曲の歌手としてデビューした1957年当時、男性の衣装は白いタキシードやスーツ姿がメジャーでした。
どうしても同じような恰好になることに物足りなさを感じた三波春夫さんは、浪曲をやっていた時に着ていた着物姿で歌謡曲を歌うことを思いついたのです。
レコード会社の重役からは「前例がないから」と反対されたのですが、浅草国際劇場の公演の際に家紋が付いた紋付き袴姿で舞台に上がります。
観客から拍手喝采で絶賛されている様子を見た重役は、以降は三波春夫さんが着物姿で出演することを認めることに。
このことがきっかけで、男性歌手が和服姿で歌を歌うというスタイルが次第に流行していくことになります。
三波春夫の名曲① 東京五輪音頭
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1963年6月にリリースした楽曲「東京五輪音頭」は、1964年に開催された東京オリンピックのテーマソング。
この楽曲は三波春夫さんだけではなく、キングレコードの三橋美智也さん、ビクターの橋幸夫さん、コロムビアから北島三郎さんと畠山みどりさんが同時期にリリースしています。
レコード会社各社からアーティストを変えてリリースすることで、競作としてレコードの売上を競うという趣旨でした。
1964年までの売上枚数合算で見ると、三波春夫さん版の東京五輪音頭が最も高い売り上げとなり、130万枚とミリオンを達成。
時が流れて、2020年開催のオリンピック開催地が東京に決まると、再び「東京五輪音頭」が注目を集め、三波春夫さんの「東京五輪音頭」のCDを1万枚限定で発売してみたところ、即完売。
その後、iTunesなどのストア配信数も大いに伸び、第一興商の発表によるとカラオケのリクエストランキングが9700位も上昇するなど、令和になっても話題になりました。
三波春夫の名曲② 世界の国からこんにちは
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1967年に発売された「世界の国からこんにちは」は、1970年に開催された「日本万国博覧会」のテーマソングです。
万博を記念して、8社のレコード会社が競作として「世界の国からこんにちは」が作られ、坂本九さん、吉永小百合さん、山本リンダさんなどが各々で楽曲をリリース。
アーティスト全員のセールス枚数は300万枚を越えましたが、最も売れたのが三波春夫さんバージョンで140万枚のヒットとなりました。
万博開催記念の切手がリベリア共和国で作られた際には、絵柄に三波春夫さんが採用されました。日本の芸能人が海外の切手に登場したのは初のことです。
競作として作られたこの楽曲は、三波春夫さんが生涯を通し歌い続け、代表曲として認識されています。
なお、この万博は大阪で開催されたことから、「大阪万博」という名称でも親しまれています。
三波春夫の名曲③ 桃太郎侍の歌
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1976年から1981年まで日本テレビで放送された、高橋英樹さん主演のドラマ「桃太郎侍」の主題歌「桃太郎侍の歌」を担当した三波春夫さん。
番組が始まったばかりの頃は、高橋英樹さん演じる主人公は悪人を斬らず、言葉で諭して改心させるという設定で、立ち回りがない人情ストーリーだったからか視聴率が低迷。
そんなある日、高橋英樹さんと三波春夫さんがゴルフに行く機会があったそうで、三波春夫さんは「桃太郎は地味ですね。高橋英樹さんは派手なのが似合いますよ」とアドバイスしたそう。
これを聞いた高橋英樹さんは、大人数を相手に派手な殺陣を取り入れ、衣装も三波春夫さんの和服を見習って派手な柄のものに変更したところ、たちまち人気は急上昇。
桃太郎侍は、高橋英樹さんにとって代表作品と言われるようになりました。
三波春夫が結婚した嫁は野村ゆき
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三波春夫さんの結婚について見ていきましょう。
三波春夫さんは既婚者で、嫁は異色の経歴を持っている人物として知られる野村ゆきさんです。
どのような人物なのでしょうか。2人の一風変わった馴れ初めについても紹介します。
嫁は野村ゆき
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三波春夫さんが結婚したのは1951年です。嫁となった女性は野村ゆきさん、というお名前で、芸能集団「港家演藝団」の花で三味線の名手と呼ばれていました。
三波春夫さんより2歳下であることが判明しているので、1925年生まれが濃厚です。
野村ゆきさんは芸事に対して厳しい視点を持っていて、三波春夫さんに向かって「音が外れるわね」、「声を大きく出しすぎるところがありますね」とズケズケと進言していたそうです。
結婚後は、三波春夫さんの地方公演に同行するなど、ビジネスパートナーとしての顔も持ち続けました。
2人の馴れ初めは?
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三波春夫さんと野村ゆきさんとの出会いは、お見合いでした。座員を通して「三味線が得意な独身女性がいるがどうか」と打診があったのです。
実は三波春夫さん、妻になる女性に曲師として三味線を弾ける人が良いと考えていたので、ありがたい申し出だったといいます。
見合いの席で顔を合わせると、三波春夫さんは一目惚れ。猛烈アタックが実り、1年後に婚約にこぎ着けたのです。
三波春夫の子供:息子は三波豊和
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三波 豊和(みなみ とよかず)
本名: 北詰豊和
生年月日: 1955年8月10日
出身地: 東京都
血液型: B型
三波春夫さんと嫁の間には、2人の子供が誕生しています。
第1子となる長男は歌手兼俳優の三波豊和さんです。
1965年に歌舞伎座の「三波春夫特別公演」で初舞台を踏み、1976年に「青春よ翔べ」で歌手デビューを果たしました。
20代前半は歌手活動に重きを置いてきましたが、その後はタレントとしての活動がメインとなっています。
三波春夫の子供:娘は三波美夕紀
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三波 美夕紀(みなみ みゆき)
生年月日: 1958年生まれ(誕生日は不明)
出身地: 東京都
1958年、三波春夫さんの第2子として誕生したのが三波美夕紀さんです。
6歳から日本舞踊を習い、19歳で三波春夫さんの特別公演に出演しデビューを果たしました。
舞台やテレビで女優業をしてきましたが、31歳で芸能界を引退。三波春夫さんのマネージャーへと転向し、11年間に渡り父親の仕事を支えてきました.
三波春夫さん死去後は、「株式会社三波クリエイツ」の代表取締役に就任。三波春夫さんの権利関係を中心に業務全般を務めています。
三波春夫の晩年はがん闘病生活だった・・・
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三波春夫さんは2001年に死去していますが、後に晩年は病気を患っていたことが明らかにされました。
闘病中であることをおくびにも出さず、プロとして芸能生活を続けたという晩年の三波春夫さんについて紹介します。
がんの告知と闘病生活
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三波春夫さんの病気が発覚したのは1994年のこと。体調を崩して病院で検査すると、前立腺がんであることが判明しました。
娘でマネージャーを務める三波美夕紀さんが検査結果を聞き、両親に改めて病名を告げたそうです。
しかし、三波春夫さんは動揺することなく、「仕事をしながら病気と闘いましょう」と語ったといいます。
そして「最期まで完璧に歌いたい」と考えて、家族以外には誰にも病気を明かさず、さらに抗がん剤で髪の毛が薄くなると、植毛までして病気を悟られないようにしていたそうです。
告知を受けた年の8月には「芸道55周年記念リサイタル」を開き、歌謡浪曲の集大成として2時間25分に渡るアルバム「平家物語」を無事完成させた三波春夫さん。
このアルバム「平家物語」は日本レコード大賞企画賞を受賞し、三波春夫さんは闘病生活1年を乗り切ったことで自信を持てたそうです。
最後の紅白出場
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その後も闘病生活を続けながら、精力的に歌手活動を続けた三波春夫さんは、1999年の「第50回NHK紅白歌合戦」に10年ぶり、31回目の出場を果たしました。
当時のプロデューサーが、「三波春夫さんから『もう一度紅白に出場したい』と打ち明けられたことで出場のきっかけとなった」と明かしています。
実はこの当時、すでに病状が進行して体力が低下していました。紅白の舞台では元気そうな姿を見せていた三波春夫さんですが、それ以外の時間帯はずっと楽屋で横になっていたようです。
これが最後の紅白歌合戦出場となったのですが、もしかしたら三波春夫さんは死期を悟り、絶対にやり遂げたかったのかもしれませんね。
三波春夫の死因は前立腺がん
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晩年は病気と闘いながら、最期まで歌手であり続けた三波春夫さんでしたが、2001年に死去されました。
亡くなる前の娘さんとのエピソードについても紹介します。
辞世の句を残していた
三波春夫さんの最後の仕事は、2000年11月、故郷である三島郡越路町で開催された45周年記念イベントのステージでした。
当時、前立腺がんは悪化の一途を辿っていて、歩行にも支障をきたしていた三波春夫さんは、杖をついて舞台に立っています。
そしてイベントが終わった翌月である12月から、病院に入院しました。
2001年2月に東京では大雪が降った際には、三波春夫さんは「ふるさとを見せてやろうと窓の雪」、「逝く空に 桜の花が あれば佳し」とたて続けに句を詠んでいます。
娘の美夕紀さんが「辞世の句かしら」と尋ねると、「そうかもな」と力なく三波春夫さんが微笑んだそうで、「花が咲くと一緒に永眠するのではないか」と嫌な予感がしたそうです。
その後、三波春夫さんはこの年の桜が散った4月14日に都内の病院で死去しました。まさに辞世の句の内容通りになってしまったと言えます。
享年77歳で、死因は前立腺がんでした。
三波春夫の死去後、自宅はどうなった?
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三波春夫さんの死後から20年以上経過しています。
かつて「三波春夫御殿」と呼ばれた豪邸がどうなったのか調査しました。
自宅はマンションに
三波春夫さんの自宅は、東京都中野区江古田3丁目という場所にありました。
昭和時代の航空写真が現在も残されているのですが、広大な敷地に建てられたかなり立派な建物であることがわかります。
三波春夫さんが生存していた時はこの自宅は有名で、近隣のランドマーク的な存在でした。ただ、北側にある門から半分が塀で囲まれていて、中の様子が見えないよう工夫されていました。
現在、自宅は壊されてマンションになっています。
跡地に建設されたマンションについては、ネットで検索すると画像を見ることが可能です。
まとめ
出典:https://www.nikkansports.com/
三波春夫さんは、浪曲師を経て歌謡曲の世界に飛び込み、「世界の国からこんにちは」、「東京五輪音頭」などの楽曲でミリオンヒットを飛ばしてきた歌手です。
若い頃は、母親との別れや経済的困窮、第二次世界大戦への出陣やシベリア抑留といった苦労の連続でした。
デビュー後、当時の歌謡曲界でタキシードかスーツで歌うことが常識だったものの、その固定概念を崩し、初めて派手な和服姿でステージに出るという挑戦をしたことでも知られています。
プライベートでは、芸能集団「港家演藝団」に所属していた野村ゆきさんという三味線の名手と結婚しました。
夫婦仲は良好で、2人の子供に恵まれました。第1子は息子であり歌手やタレントとして活動している三波豊和さん、第2子は娘でかつてマネージャーをしていた三波美夕紀さんです。
晩年はがんの闘病と芸能活動を両立し続け、2001年に77歳で死去しました。死因は前立腺がんであることが明かされています。
日本の高度成長期を歌で支えた三波春夫さんのご冥福をお祈りします。