「玄倉川水難事故」は13名もの死者を出した痛ましい水難事故ですが、一方で「DQNの川流れ」とバッシング対象になったのも事実です。
今回はこの水難事故の経緯、死者の数、リーダー加藤直樹など生き残りのその後や現在をまとめました。
この記事の目次
「玄倉川水難事故」とは~13名もの死者を出した史上最悪の水難事故
「玄倉川水難事故」は、1999年8月14日に神奈川県足柄上郡山北町の玄倉川で発生した、13名もの死者を出した史上最悪とも言うべき水難事故です。
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玄倉川の中州でキャンプをしていた横浜市内の廃棄物処理会社に勤める社員と彼らの家族、さらに社員の婚約者や女友達ら計18人が、大雨による増水によって流され、13名が死亡しました。
ただ、この「玄倉川水難事故」は多くの犠牲者を出した痛ましい水難事故である一方、ある理由から世間から大バッシングを受けた事故でもあるんですよね。
そのため、この「玄倉川水難事故」は後に「DQNの川流れ」と呼ばれることに。
そして、現在も毎年お盆の時期になると、ネット民にネタとして語り継がれており、良い意味で注意を喚起する教訓として使われているようです。
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今回は、そんな「玄倉川水難事故」発生の経緯と、「DQNの川流れ」と呼ばれるようになった理由を中心に総まとめしてみました。
「玄倉川水難事故」の事故現場とは?
玄倉川は、隣接する丹沢山地の最高峰・蛭ヶ岳や檜洞丸、塔ノ岳など急峻な山を水源とし、相模湾からの湿った空気を高い山々で引き受けるため、冬季を除いて降水量が多いのが特徴です。
「玄倉川水難事故」の遭難事故現場について、これらの気象条件と地理的条件からWikipediaには次のように解説されています。
玄倉川は降雨量によっては急激に水位を増す可能性の高い渓谷である。玄倉ダムも渓谷を堰き止める形で建設されたものである。遭難現場は砂防用に造られた立間堰堤上流の、水流が湾曲する地点に広がった堆砂地で河床幅は約100メートル、堰堤より2メートル高かった。冒頭に掲げられた遭難現場の写真からは傾斜の少ない地形がキャンプの適地にもみえるが、植生があまりない場所であることからも窺えるように、豪雨の際は水没する地点である。
引用:玄倉川水難事故 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
また、「玄倉川水難事故」の発生場所について地図で示すと、次のようになります。
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事故現場となった河原の普段の様子は、こんな感じです。
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Wikipediaにもあるように、一見、平坦でキャンプに適したポイントに見えますが、砂地で草木が自生していないことからも分かる通り、川の水量が増すと簡単に水没してしまう場所です。
つまり、そもそも被災者たちがキャンプしていた場所は、“キャンプ場”ではなく、ごくごく普通の“川原(中州)”だったのです。
また、「玄倉川水難事故」が発生するポイントにもなった、「玄倉ダム」の位置関係を地図で示すと次の通り。
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「玄倉川水難事故」の事故現場の約5キロ上流に、ダムが位置していることが分かります。玄倉ダムで放流が行われた場合、現場がどのような状況になるのかは想像に難くありません。
実際、事故現場には玄倉ダムの放流による注意喚起を促す立て看板が複数設置されている場所でもあるんですよね。
もちろん、放流前にはけたたましいサイレンが鳴らされますし、被害者はそのサイレンを何度も耳にしていたはずなのです。
出典:https://ameblo.jp/
出典:https://ameblo.jp/
「玄倉川水難事故」の当日の天候は?
「玄倉川水難事故」は、1999年8月14日の早朝に発生しました。
事故があった当時は、河川敷でのキャンプが流行っており、しかも、深夜にペルセウス座流星群が観測できる時期でもあったんですよね。
そのため、事故現場は、お盆休みを楽しむ家族連れやカップルで非常に賑わっていたそうです。
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しかし、その直前に紀伊半島の南海上に猛烈な熱帯低気圧が発生しており、その影響もあって、事故前日である8月13日の15時頃から激しい雨が降り始めました。
この雨は長時間に渡って降り続き、事故当日である8月14日の早朝5時35分には、気象庁は事故現場を含む神奈川県内全域に大雨洪水警報を発令しています。
事故現場近くの丹沢湖のアメダスには、玄倉川が増水した事故当日の午前8時までの総雨量は114mm、救助が開始される午前10時には、1時間に38mmと猛烈な降雨が記録されています。
そんな中、史上最悪の水難事故、「玄倉川水難事故」が発生したのです。
「玄倉川水難事故」の時系列まとめ
次に、「玄倉川水難事故」発生の経緯について、時系列に沿ってみていくとにしましょう。
ただ、あまり詳細に記述しても煩雑になるだけなので、ごくごく簡単にまとめてみたいと思います。
出典:http://earthjp.net/
13日:15時頃から雨が降り始める
15時20分頃にはダム管理職員が1回目の巡視を行い、ハンドマイクで水位上昇の危険性を警告し、退避を促しています。大部分のキャンパーは、この時点で退避したようです。
降雨から半時も経たないうちに退避警告を発していたことからも、事故現場がどれほど危険な場所なのかが推測できますね。
13日:16時50分
神奈川県全域に大雨洪水注意報が発令されています。
また、19時40分頃には雨足がさらに激しくなり、事故現場から5km上流にある玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らしています。
13日:19時50分頃
ダム管理職員が2度目の巡視を行い、被災者グループに直接、退避を勧告するも拒否されています。
その後、ダム管理事務所は「これ以上は危険」と判断し、地元の松田警察署に通報しています。
13日:20時20分
玄倉ダムが放流を開始しています。
大雨時に放流せずにそのまま貯水しているとダムの決壊が起こる可能性があり、さらに甚大な被害が想定されることから、放流は避けられなかったようです。
そして、21時10分には、ダム管理職員と警察官が3度目の退避勧告をするのですが、もはや直接勧告することができない状況になっていて、その後も拡声器での退避勧告を続けました。
14日:5時35分
雨は更に激しくなり、神奈川県全域に大雨洪水警報が発令されました。
また、この頃には再度、ダム放流のサイレンを鳴動しています。この頃までは、なんとか歩いて川岸に辿り着ける程度の水位だったようです。
14日:6時35分
豪雨による増水により、貯水機能の乏しい玄倉ダムが本格的に放流を開始します。
7時30分頃には、警察官がテントまで2メートル付近まで近づき、退避を呼びかけるも眠っていたのか反応はありませんでした。
しかし、7時50分頃には遂にテントに濁流が流れ込んできたようで、被災者グループは事の重大さに初めて気付くも、すでに両川岸は遠く、どちらの岸にも自力では戻れなくなっていました。
14日:8時4分
自力での退避が不可能となり、岸に退避した社員から消防に119番通報で救助要請が入りました。
テントはすでに流され、中州に取り残された18人が、川床の一番高い部分で一塊となり、パニック状態でただ濁流に耐える状態に…。
14日:9時07分
足柄上消防組合から救助隊5人が、通報を受けて現場に到着しています。すぐに、渡渉による救助を試みますが、激しい水流のために断念しています。
10時10分には、救助ヘリコプターの出動が要請されるものの、熱帯低気圧による強風と、低く垂れこめた濃雲のため二次災害が懸念され、却下されてしまいました。
1999年8月14日:11時38分
水位は胸にまで達し、遂に中州に取り残された18人が濁流に流されてしまいました。
1歳の甥を抱いていた叔父が、とっさに子供を岸に向かって放り投げ、岸で見守っていた別グループの人に救い上げられて助かっています。
また、この子供の父親とその姉を含む大人3人、子供1名も奇跡的に対岸に流れ着いています。
8月15日:8時30分頃
自力で対岸に泳ぎ着き、そこで一夜を過ごした4人の生存者が救助されました。
8月16日から警察・消防・自衛隊340人体制での捜索を実施
警察・消防・自衛隊は340人体制で捜索開始するものの、流れ出した流木など浮遊物が多く、捜索は困難をきわめました。
結局、8月29日までに濁流に流された13人全員の水死体が丹沢湖で収容されました。
「玄倉川水難事故」がDQNの川流れと呼ばれる理由~リーダーの悪態&暴言
この「玄倉川水難事故」は、犠牲者の中には全員が死亡した一家もあるという、非常に痛ましい事故なのですが、前述の通り、「DQNの川流れ」とも呼ばれていることも事実なんですよね。
被災者グループが事故の前後で取ってしまったDQNな態度や言動が、その理由となっているのですが、それがどうしてこうまで広まってしまったのでしょうか?
実は、「玄倉川水難事故」は事故の重大性から、ほぼ生放送に近い形で全国に放送され、多くの人がテレビの前で固唾を飲んで、被災者グループの救出を祈っていたのですが…。
出典:https://girlschannel.net/
特に、救助される立場であるはずの被災者グループのリーダーが、救助隊やダム管理職員、地域住民に放った暴言や悪態が、テレビを通じてライブ中継されてしまったからなんですよね。
それとともにネットを中心に、「被災者グループはこんなことも言っていた」、「あんな暴言も吐いていた…」なんて様々な証言が次々と寄せられることになります。
たちまちネット上では炎上騒ぎとなり、拡散につぐ拡散がされた末に、誰かが名付けた「DQNの川流れ」という名称が大ウケし、やがて1人歩きしていった…というわけです。
今回はそんなDQNたちが放った暴言の数々についてまとめてみました。
退避勧告をしたダム管理職員や地元警察官、心配する地元住民に対する暴言
大雨の中必死に退避を促す警察官やダム管理職員に対して、被災者のリーダーは鼻で笑いながら…
「早く失せろ、殴るぞ」
「放っておいて。楽しんでるんだよ!」
などと暴言を吐いたそうです。
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また、彼らを心配して退避を呼びかけに行った地元住民が、ネット掲示板にその時の様子を克明に記した書き込みがあったので引用しておきます。
避難を勧めた私に対する彼らの態度は高圧的で不愉快極まりない物であった。
「水高が増えるから中州では止めた方がいい」といった私に若い男が
「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから」と冷笑しながら反論。それでも
「私は地元の者だが、川は氾濫するよ。高台に行った方がいい。子供もいるんでしょう?」と冷静に忠告したが、リーダー格が「放っておいて。楽しんでんだよ」と放言したのを皮切りに
「地元の人は臆病」「見張りを置くから平気」
「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などとの声が広がったので、
私は呆れ果てて帰宅したのである。
我が山北町はキャンプ地としては人気が高く大勢の方が来訪するが、
都会人は自然に関する知識が心もとない。「見張りを置くから平気」という暴言がその象徴で、
大雨時の川の急激な増水率を考慮すれば「見張り」はほとんど役にたたない。
しかも地理に詳しい地元の人間を嘲笑する様では、救いようの無いバカである。
そしてあのような結果に。テレビや新聞では「悲劇」のように取り扱っていたが、
私に言わせれば単なる「バカどもの必然的結末」にすぎない。
そもそも彼らがキャンプしていた場所は「キャンプ場」ではない普通の「川原」である。
(本来の「キャンプ場」はもっと高台)即ち彼らは死ぬべくして死んだのだ。
同情の余地など無い。ただ可哀相なのは子供だ(子供には大人のような判断能力が無い)
「あのおじいさんのいうとおりにしようよ」と言った小さな女の子の言葉が忘れられぬ。無念だ。
(神奈川県山北町 匿名老人)
引用:後味の悪い話まとめサイト@2chオカルト板 http://occult-atoaji.sakura.ne.jp/
命の恩人であるレスキュー隊にも数々の暴言を吐き続けたリーダー
度重なる警告を無視し続けた被災者グループは、中州が水没して始めて、ようやく自分達が危機的状況にあることに気付いたようです。
しかし、気付いた時には既に歩いて川の両岸へは辿り着けない状態になっており、グループは中州の一番高い場所で一塊になって、救助隊の到着を待ちました。
出典:https://blogs.yahoo.co.jp/
そして、中州が水没してから約1時間後、ようやくヘリコプターに乗った救助隊が到着しました。
既ににっちもさっちもいかない状況の彼らにとって、救助隊は言わば救世主です。
しかも、命をかけて自分達の救助に当たってくれている、ありがたい存在であるはずなのですが…被災者グループのリーダーは、そんな救助隊に対しても、
「おい!こら!ヘリを呼べ」
「もたもたすんな!」
「仕事なんだから早く助けろ!」
出典:https://twitter.com/
などと暴言を連発するんですよね。もちろんその様子はテレビでライブ配信されていたわけですから、ネットを中心に大炎上に発展することに…。
地元住民が差し入れた手作りのおにぎりを「まずい」と地面に叩きつけたリーダー
そんな被災者グループのリーダーなのですが、あれほどまでの危機的状況の中、なんと数少ない生存者の1人として救助されています。
出典:http://kukkuri.blog58.fc2.com/
地域住民は、何度も暴言を吐かれているにも関わらず、手作りのおにぎりをリーダーに差し入れたところ…あろうことか、それを一口食べて「まずい」と呟き、地面に叩きつけたのです。
さらに、多くの仲間が濁流の流されているにもかかわらず、救助隊に対して「テントを回収したら返して欲しい」と要求した…なんて話もあるようです。
仲間の心配ではなく、テントの心配をしていたわけで、ここまでいくと一周回って、むしろ清々しいくらいのDQNっぷりです。
「玄倉川水難事故」に遭ったグループやリーダーの加藤直樹とは
「玄倉川水難事故」で中州に取り残されたのは18人ですが、前日までは25人のグループでした。
度重なる警告を鼻で笑って無視をした末に、いざ身に危険が迫り、救助を受ける立場になっても、暴言や悪態の限りを尽くした、この被災者グループは一体何者なのでしょうか?
まずは、この「玄倉川水難事故」に、「DQNの川流れ」なんて別名をつけられる最大の原因となった、被災者グループのリーダーをご紹介しなければなりません。
「玄倉川水難事故」に遭ったグループのリーダーとは?
「玄倉川水難事故」に遭った被災者グループのリーダーは、「株式会社 富士繁(ふじしげ)」という産廃業者に勤務していた加藤直樹という男性でした。
事故当時の年齢は31歳で、驚くべきことに3児の父親だった言います。
「玄倉川水難事故」に遭ったグループのメンバーについて
最後まで警告を聞き入れず、最終的に中州に取り残され、流されてしまった18人の被災者は、「富士繁」の社員とその家族、および社員の婚約者や友達でした。
最終的に亡くなった13人は、「富士繁」の社員5人とその妻2人、さらに痛ましいことに1歳から9歳の子供4人と、社員が連れてきた女性2名という内訳だったと言います。
一方、濁流に流されながらも生き残った5人は、大人3人と子供2人ですが、なんと生き残った大人のうちの1人は、加藤直樹本人で、子供2人はいずれも加藤直樹の子供だそうです。
「玄倉川水難事故」の生き残りのその後と現在
被災者したDQNグループの中心が「富士繁」の社員だったため、バッシングの矛先は当然、会社「富士繁」自体と生き残りのメンバー、特に日本全国に醜態をさらした、リーダー加藤直樹に向いたことは言うまでもありません。
そこで、生き残りのメンバーと会社「富士繁」のその後と現在、そして「玄倉川水難事故」がもたらしたいくつかの影響について、紹介しましょう。
生き残りのうち3人の大人のその後は?
リーダーである加藤直樹はもちろん、生き残った大人3人全員が、事故後に会見などは開いていません。
つまり、自らの傲慢な振る舞いによって、世間を騒がせ、地元民や警察、救助隊などに迷惑をかけてしまったことを謝罪することは一切ありませんでした。
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そのため、世間からのバッシングや個人の特定作業が加速していきました。
ここではあえてDQNリーダー以外の氏名は伏せますが、残りの生き残り2名についても、名前などが特定され、現在ではすっかり晒されてしまっているようです。
生き残りの2人の子供のその後
生き残りの2人の子供は、被災者グループのリーダーでり、暴言や悪態の限りを尽くした加藤直樹の娘さんと息子さんであることが特定されています。
実は、2人の子供さんについても、現在ではしっかり名前まで特定されているのですが、子供に罪はないってことで、ここでは名前を伏せさせていただきます。
出典:https://twitter.com/
そして、加藤直樹の娘さん(当時5歳)は、成長後にブログを開設しており、彼女なりの辛い記憶をたぐり寄せ、「玄倉川水難事故」とその後の心情について語った記事が投稿されました。
具体的な名前や事故の名称など詳細は伏せてありましたが、すぐに特定され、当時大変な話題になりました。
ネットを中心に大騒ぎになったためか、現在ではブログは閉鎖されていますが、コピペが残っていたので、こちらにも引用しておきます。
たまにね私、ふとあの時の事を思い出すんだ。幼稚園の頃の事故あれは一体なんだったの?どうして私の家族なの? 小さい頃私がママを殺したんだ。私さえ居なければママは生きていたんだ。 パパがね私を抱いててママがパパに助けを求めていたんだ。 手を伸ばしてね一生懸命流されないようにしてたんだ。けどねパパまで水に連れていかれそうで怖かったんだ。だからねパパやめて!って言ったんだ。 そしたらパパがママの手を離したの。 そしたらママ水と一緒にいなくなっちゃたの。これって私のせいだよね。 ごめんね本当に…。ママに逢いたいです。小さい頃もずっとママが欲しかった。皆にはママがいて私には居なくて悲しかった。 今でもママが戻ってきてほしいと思っている。あと優香にも戻ってきてほしいんだ。私には妹がいたんだよ。 ママがいなくなっても明るい「●●」でいてねって色んな人に言われた。 そう簡単に言うなと思ったよ。けど私なりに頑張ってきた。毎日明るく生きてる… ーーー
引用:少女がブログ上で書いたとされる日記。(現在ブログは閉鎖されている) http://gahalog.2chblog.jp/
※「●●」にはご本人の名前が入っていたので伏せさせていただきました。
5歳の女の子が経験するには辛すぎる内容で、胸に迫るものがありますが、その一方で、救助してくれた人々への感謝の気持ちが綴られていないという理由で炎上したそうです。
確かに、自身の辛すぎる心情のみを吐露した内容で、周りに対する気遣いや感謝の気持ちなどは一切含まれていない内容です。
ですが、元々そちらに向けて書いた記事じゃないわけですし、周りに対する配慮が足りないのは、きっと親譲りなんでしょうね。
また、子供の生き残りのうち、もう1人も加藤直樹の息子さんでしたが、息子さんについては、現在の様子などは一切不明のようです。
ただ、あの強烈なDQNなお父さんを見て育ったわけですから、きっと立派なDQNに成長されている可能性が高そうなんですが…偉大なる反面教師にしていてくれることを祈るばかりです。
DQNグループが勤務していた「富士繁」のその後も絶賛営業中!
「玄倉川水難事故」で被災したDQNリーダー・加藤直樹を含む、5人の社員が勤務していた「株式会社 富士繁」は、現在でも絶賛営業中なのだとか。
出典:http://hamarepo.com/
あんなDQN事故があり、世間から相当なバッシングを受けたにもかかわらず、社名を変えることもなく、事業拡大を続けているそうです。
近年、「富士繁」が有する戸塚工場が近隣住民との間に、騒音問題を起こしている…なんて話もあるようです。
「玄倉川水難事故」のその後、気象庁も台風の表現を変更
「玄倉川水難事故」で大雨をもたらしたのは、紀伊半島の南海上で発生した熱帯低気圧でした。
「玄倉川水難事故」後、気象庁は、同じ台風の強さでもより危険性を感じられるように表現の改変を行っています。
出典:https://weathernews.jp/
具体的には、2000年6月より、
・「弱い熱帯低気圧」から“弱い”を外して、「熱帯低気圧」に変更。
・台風の強さを表す「弱い」「並みの強さ」を、「強い」「非常に強い」「猛烈な」に変更。
・台風の大きさを表す「ごく小さい」「小型」「中型」を、「大型」「超大型」に変更。
このように、熱帯低気圧や台風の威力を甘く見ないように、より怖いと思えるような表現に変更しています。
総額4800万円もかかった救助費や捜索費は地元の自治体が負担
実は、「玄倉川水難事故」に関わる一連の救助作業や、事故後の遺体捜索のために、地元自治体が4800万円もの公費を使ったそうです。
出典:https://blog.goo.ne.jp/
あれだけ何度も退避勧告したにもかかわらず、ガン無視された挙げ句に、そのような莫大な支出に迫られた自治体は、たまったものじゃありませんよね。
本来なら、救助され生き残った人や会社に請求しても良さそうなものですが、被災者がそのたとえ一部分でも負担したなんて話は…やはり一切ないようです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
1999年8月14日に起きた、13名もの死者を出した水難事故「玄倉川水難事故」の経緯、この痛ましい事故が「DQNの川流れ」と呼ばれている理由、生き残りのリーダーをまとめました。
現在も、お盆の季節がやってくるたびに、注意喚起のネタとして度々話題に上る「DQNの川流れ」。
自然の怖さを再認識すると同時に、DQNな言動がいかに社会から袋叩きに遭う危険な行為なのか、2つの大切なことを教えてくれる教訓として、これからも語り継がれていくでしょう。
とは言え、この事故でお亡くなりになった13名のご冥福をお祈り致します。