1988年11月に起きた「女子高生コンクリート殺人事件」は凄惨な内容だけでなく、被害者とともに加害者も未成年だったことで日本中を震撼させました。
今回は事件詳細、被害者と犯人の人物像、犯人のその後や現在をまとめました。
この記事の目次
女子高生コンクリート殺人事件とは
「女子高生コンクリート殺人事件」とは、1988年11月、東京都足立区で少年らが、女子高校生を拉致・監禁し、強姦や暴行の末に死亡させ、遺体をコンクリート詰めにして遺棄した凄惨な事件です。
出典:http://image.space.rakuten.co.jp/
「綾瀬・女子高生コンクリート殺人事件」とも呼ばれた、この史上稀に見る凶悪事件は、平成が始まったばかりの1989年に発覚し、世間を震撼させました。
女子高生コンクリート殺人事件は日本人が最低限知っておくべき過去30年間で最も凄惨な事件。
— @病み垢 (@mU2hCHWsQ17Ihr6) 2019年7月2日
当時東京都綾瀬区でバイト帰りの女子高生(古田順子さん)を複数の男が狙い,やくざに目をつけられているから守ってやるなどと言い,49日間監禁,筆舌に尽くしがたい暴力や拷問と言える行為を行った。
女子高生コンクリート殺人事件の詳細
少年が起こした戦後最悪の犯罪とも言われる「女子高生コンクリート殺人事件」は、30年以上が経過した現在もなお、酷すぎる事件として語り継がれ、人々を恐怖させています。
また、事件の内容があまりにも凄惨だったため、この事件が毎日のように報道されるや、犯行時は未成年だった犯人たちに対して、極刑を望む声が多く挙がっていたと言います。
出典:https://snjpn.net/
ここからは、「女子高生コンクリート殺人事件」の、凄惨な犯行内容や事件の経緯、酷すぎる犯人たちの行動を、事件の発端から結末まで、詳しく紹介します。
1988年11月25日、帰宅中の女子高生を拉致して強姦
「今日は給料日だから金を持っているやつが多い。ひったくりに行こう」
1988年11月25日、こう誘い合わせた、この事件の主犯格となる宮野裕史と湊伸治が、埼玉県三郷市内を原付バイクで流していました。
そして午後8時過ぎ、アルバイト先から自転車で帰宅する途中だった県立八潮南高校3年生の古田順子さん(当時17歳)を偶然見かけると、宮野裕史は湊伸治に対して次のように命じます。
「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」
湊伸治は言われた通りに、原付バイクで古田順子さんに近づき、左足で右腰を思いっきり蹴りました。
古田順子さんはたまらずバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒し、側溝に転がり落ちます。
そこへ宮野裕史が「大丈夫ですか?」と近づき、古田順子さんを助け起こしながら「危ない奴に絡まれないように保護してやるから一緒に帰ろう」と声を掛けます。
そうやって古田順子さんを騙して近くの倉庫に連れ込むと、「自分はヤクザだから言うことを聞かないと殺すぞ」と脅し、仲間の車に乗せてホテルに連れ込み、強姦しました。
監禁の始まりと繰り返される強姦と暴行
その後、宮野祐史は古田順子さんを連れて、小倉譲、湊伸治、渡邊恭史らと合流しました。
この4人の少年たちは、普段からたまり場となっている、東京都足立区綾瀬の湊伸治の自宅2階に被害者を連れ込みました。
出典:https://twitter.com/
折しもこの日、湊伸治の父親は3日間の社員旅行で沖縄に出掛けていたため、自宅には母親と、湊伸治の1つ上で都立高校に通う兄がいただけだったそうです。
こうして、後に「女子高生コンクリート殺人事件」と名付けられる、凄惨極まりない拉致・監禁がスタートすることになります。
そして、監禁が始まってから3日後の11月28日深夜、宮野裕史から「いいモノを見せてやる」と言って、当時17歳だった少年Eと、当時16歳だった少年Fが呼び出されます。
この2人が犯行グループに加わると、昼夜を問わず被害者への輪姦行為や、殴る蹴るの暴行を繰り返していきました。
ただ、被害者の強姦や暴行に関係したのは、この6人だけでなく、不良仲間十数人にのぼるとも言われています。
「監禁中、被害者は、何人もの少年に強姦されているんです。十六歳から十八歳までの不良仲間十数人がしょっちゅう出入りしていて、そのたびに、夜昼関係なく代わる代わる輪姦されたんだから、被害者にとっては地獄そのものですよ」(捜査関係者)
引用:コンクリ殺人の”鬼畜”を守る少年法の敗北 | プレジデントオンライン https://president.jp/
もちろん古田順子さんは、この悪夢のような場所から何度も逃げようとしたり、家族に電話をかけようとしましたが、その度に激しい暴行や脅迫を受けたと言います。
また、最初のうちは抵抗を示していた被害者でしたが、監禁の日数が経つにつれて次第に抵抗を示さなくなっていったそうです。
しかし、その後も暴行や強姦行為は延々と続き、耐えかねた被害者は、犯人たちが寝ている隙を見計らって警察に通報しようとするも、宮野祐史に見つかってしまいます。
そして、これがきっかけとなって、さらに暴力行為はエスカレートして行くことに…。
翌12月に入っても古田順子さんの悪夢は続きました。
犯人たちは被害者を輪姦し、殴る蹴るなど凄惨なリンチは止むことはなく、さらに少女の手足などにライター用オイルをかけて焼くといった虐待行為を日常的に繰り返していたと言います。
遂に、生きる気力を失った古田順子さんは、「殺して、殺してよ!」と、懇願したこともあったそうですが、犯人たちはそんな被害者の姿を見て笑い転げていたといいます…。
出典:https://www.iza.ne.jp/
女子高生への暴行はさらにエスカレートし、遂には殺害へ
12月中旬から下旬にかけては、与えられる食べ物も少なくなっていき、ついには1日に牛乳1杯だけ…そんな状態が続いたと言います。
暴行により被害者の顔は腫れあがり、食事も与えられない日が続いたことから、最後には自力で歩くこともできなかったそう。
そのため、監禁されていた家の2階から1階のトイレに行くにも、数十分かけて這って下りるほどだったそうです。
そんな1989年1月4日早朝、宮野祐史は賭け麻雀に負けた腹いせに、古田順子さんをリンチしてスッキリしようと考え、小倉譲、湊伸治、渡邊恭史とともに被害者への暴行を開始します。
殴る蹴るなど、犯人たちによるリンチは2時間に及んだと言います。しかし、被害者にはもはや抵抗する気力すらなく、されるがままの状態だったそうです。
さすがにこのままでは被害者は死んでしまうのではないか、と思っていた犯人たちでしたが、途中で手を止めることはありませんでした…。
凄惨なリンチを終えた後、4人の犯人はまるで何事もなかったかのようにサウナへ出かけていきました。
そして彼らがサウナを楽しんでいるちょうどその頃、拉致・監禁されてから約1ヶ月間、耐え抜い抜いた古田順子さんでしたが、ついに限界を迎え、息絶えてしまいました。
遺体をドラム缶に入れコンクリート詰めにし、草むらに遺棄
翌1月5日、監視役だった湊伸治の兄から「少女の様子が変だ」との報せを受けた犯人たちは、事件の発覚を恐れ、被害者の遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしようと考えました。
死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に運んできた鞄ごと放り込み、セメントを流し込みました。
ちなみにセメントは、宮野裕史が以前、タイル工として働いていた店に頼んで、セメントと砂利を調達して作ったものだったそうです。
出典:https://www.amazon.co.jp/
最初は近くの川に捨てよう話していた犯人たちでしたが、そのうちの1人である小倉譲が「化けて出られたら困る」と言い出したようです。
そして、捨てる場所を海へ変更するも…なかなか適当な場所がみつからず、結局、江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場の空き地の草むらに捨てて、そのまま帰ってしまいました。
「翌五日夜、紺のスカートに格子柄のシャツ姿のF子(『文春』では実名)さんは、二枚重ねにしたカバー付き毛布でロール巻にされる。さらに、粘着テープでグルグル巻きにされたうえ、旅行用のキャリアバッグに押し込まれる。
そのあと、知人から借りてきたワゴン車に遺体を運び込み、車内で、工場から盗んできたドラム缶にそれを放り込むのである。もちろん、流し込んだセメントも盗んできたもの。殺害の手口も凄絶だが、死体の処理もマフィア顔負けだ」(『文春』)
遺体はむちゃくちゃに殴られ、内出血で顔が膨れ上がったままだったため、肉親でさえもわが子と識別できなかったという。
部屋からは避妊具が発見されなかったため、妊娠についても調べたが、損傷がひどくてわからなかったようだ。
引用:コンクリ殺人の”鬼畜”を守る少年法の敗北 | プレジデントオンライン https://president.jp/
被害者の古田順子さんは、監禁前には50kg台だった体重が、事件後に発見された際には、32.3kgになっていたそうです。約1ヶ月の監禁生活がいかに過酷だったかを物語っていますね。
別件での事情聴取で口を滑らせたのがキッカケで事件が明るみに…
その後も犯人たちは、女性を狙ったひったくりや強姦などを重ねていました。しかも、古田順子さんを監禁している間にも、2件の強姦事件を起こしていたというから驚きですね。
そして「女子高生コンクリート殺人事件」が明るみに出たのは、偶然だったと言われています。
別の婦女暴行や盗みなどで鑑別所に入っていた宮野裕史に、捜査員が別件で事情を聴きに行った際、警察が事件に気づいたものと勘違いして、ポロッと喋ったのがきっかけだったそうです。
もしも宮野裕史の勘違いが無ければ、古田順子さんは単なる行方不明者として処理されていたかもしれないと考えると、ゾッとしますね。
そして1989年3月、宮野裕史の供述通りに遺体が発見され、「女子高生コンクリート殺人事件」は遂に世間に明らかにされたのです。
女子高生コンクリート殺人事件
— ぱくちー@OL辞めたい (@pakpakchy) 2019年7月8日
知っておくべきだけど、知ってしまうとその文字を見るだけでしんどくなるんだよ。。
本当に読み進めるの辛すぎる内容だから…
凄惨な事件を啓蒙として女の子に発信しなくて済むような、安全な世の中になれば一番いいのに。まだ自分の身は自分で守らなきゃいけないのか。
女子高生コンクリート殺人事件。
— まりも (@1Celf) 2019年3月6日
この事件かなりトラウマ。
ショックを受けた人はたくさんいると思う。自分と同世代だけどこの頃くらいから変な事件増えてきたような気がする、、、
少年法に守られてしまった鬼畜。
なんでこんな酷いことできるの?
女子高生コンクリート詰め殺人事件ってワード見ただけで吐きそうになる
— (^。^) (@obatin_) 2019年7月7日
女子高生コンクリート殺人事件の被害者・古田順子さんとは【生い立ち~監禁・死亡するまで】
「女子高生コンクリート殺人事件」が発覚するや、被害者が美人だったことも手伝って、メディアでは連日のように、被害者の顔写真と実名を出して彼女のプライバシーを執拗に報じました。
出典:https://www.youtube.com/
そんな倫理観が欠如したメディアの報道姿勢の酷さに、被害者の父親がメディアに自粛を要請するという異例の事態にまで発展しました。
この「女子高生コンクリート殺人事件」は、あまりに凄惨で目を覆いたくなるような内容ですが、犠牲者となってしまった被害者少女はいったいどのような人物だったのでしょうか。
また、この「女子高生コンクリート殺人事件」においては、被害者家族の対応も気になるところではないでしょうか。
ここからは、そんな被害者関連の情報をお伝えしましょう。
女子高生コンクリート殺人事件の被害者は古田順子さん
「女子高生コンクリート殺人事件」の被害者である古田順子さんは、両親に3人兄弟の5人家族でした。
拉致された当時は17歳の高校生で、成績優秀で美人の才色兼備な人物で、既に家電量販店への就職も決まっていたそうです。
友達も非常に多く、彼女の葬儀には多くの友人が詰めかけ、彼女との別れを惜しんだと言います。
被害者家族が捜索願を取り下げた理由
監禁後、犯人の中でもリーダー格であり、悪知恵の働く宮野祐史の発案で、古田順子さんに3回に渡って家族に電話を掛けさせています。
1回目は、家族が捜索願を出して間もなくのことで、古田順子さんは「すぐに帰るので心配しないで欲しい。もし捜索願を出していれば取り下げて欲しい」という旨の内容を話したそうです。
2回目の電話では、「もう2、3日で帰る」とだけの連絡だったようです。
そして、3回目の電話では母親がたまらず叱りつけたそうです。
これに対して古田順子さんは、「誘拐されたんじゃないから、心配しないで。」という言葉に続けて、「友達の家にいるの、助けて」と言うと、電話が切れてしまいました。
そう、最後の「助けて」は古田順子さんの“命がけのサイン”だったんですよね。
もしもこの時、家族の誰かが娘の異常に気がつき、どこにいてどういう状況なのかを確認していれば…もしかすると事件の結末が変わっていたのかも知れません。
「女子高生コンクリート殺人事件」この文字を目にする度に女子高生の遺族は 再び あの時の様に心を傷付けられるかと思うと居た堪れないです。
— 猫仙人 敬天愛猫 🐈 (@222kikikuro) 2019年3月6日
女子高生コンクリート殺人事件の犯人とは【主犯4人の生い立ち~事件を起こすまで】
1989年1月、東京都足立区綾瀬で起きた、この凄惨極まりない「女子高生コンクリート殺人事件」は全員未成年の少年による犯行でした。
「悪い先輩達とよく遊んでて、自分の3年くらいの先輩が『覚醒剤と殺人以外は全部やった』というのを聞いて、ぼくと友達3人で『オレたち大きくなったら殺人と覚醒剤をやろう』と話した」
— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) 2019年7月3日
【女子高生コンクリート殺人事件(1989)】 pic.twitter.com/hFWPMEQGVc
見ず知らずの女性を誘拐・監禁して輪姦し、激しい暴行を連日繰り返した挙げ句に殺害し、遺体をドラム缶にコンクリート詰めにして埋立地に遺棄するという、まさに“鬼畜”の犯行でした。
しかし、被害者の実名や顔写真がメディアで報じられていたにも関わらず、一方の犯人の少年たちは「少年法」で守られ、当初、実名報道が差し控えられていたんですよね。
ここまで残虐極まりない犯罪を犯した人間を実名で報じないのはおかしい!そんな声の高まりを受けて、「週刊文春」は、主犯格4人の実名公表に踏み切ったのです。
「週刊文春」によれば、犯人たちの実名公表を思い立ったのは、1989年4月8日付の朝日新聞の「声」に掲載された、21歳の学生の次のような“声”だったそうです。
「……納得できないことは、少年たちの名前も写真もマスコミには登場しないということです。もちろん、未成年であるから伏せられているのですが、殺された女子高生は名前と写真、そして住所までも新聞に載りました。同じ未成年です。なのに殺したほうの人権は尊重され、殺されたほうの人権は無視されていいのでしょうか」
引用:コンクリ殺人の”鬼畜”を守る少年法の敗北 | プレジデントオンライン【】 https://president.jp/
89年女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人は、4人の未成年者だった。
— おんくん (@akihiko0817) 2019年1月17日
が、40日に及ぶ監禁・暴行・強姦・死体遺棄など、あまりの残虐さに、「週刊文春」は、実名報道に踏み切る。
「少年法改正を討議すべし」と主張した。
犯罪少年を甘やかしてきた人権弁護士たちへの、問題提起ともなったのだ。
「女子高生コンクリート殺人事件」によって、何の罪もない将来ある女子高生の人生を台無しにし、残虐極まりない非道な行為を繰り返した犯人とは、どのような人物だったのでしょうか。
ここからは、そんな加害者たちの生い立ちや人物像について詳しくみていくことにしましょう。
宮野 裕史(後に“横山”と改姓)
出典:http://personalsite.liuhui-inter.net/
「女子高生コンクリート殺人事件」のリーダー格だった宮野裕史は、昭和45年4月30日に葛飾区に誕生しました。
両親と妹の4人家族で、父親は証券会社に勤務し、母親はピアノの先生をしていたようです。
一見ごく普通の家庭で、何の問題もなさそうですが、実は家庭はとっくに崩壊していたそう。
父親は愛人宅で暮らしていた一方、母親にはネグレクトの傾向があり、子どもたちにろくに食事も作っていなかったとも言われています。
そんな中で育った宮野裕史は、小学生の頃には万引きやケンカなど問題行動を起こしていたものの、そこまでグレてはいなかったようです。
そして、宮野裕史は中学に入ると、周囲からの勧めで柔道部に入部しました。
身長は160cmほどと、特別体格に恵まれてはいなかった宮野裕史ですが、練習にしっかりと取り組み、出場した大会で優勝するなど活躍していたそうです。
そんな中学時代の活躍により、高校には柔道で推薦入学を果たすのですが…しかし、これがその後の宮野裕史の人生を変えてしまったのも知れません。
柔道での活躍が見込まれて推薦入学した高校では、練習がとても厳しく、さらに先輩や顧問からひどい体罰を受けたことなどから、入学して半年後の9月には柔道部を退部しています。
学校に居づらくなった宮野裕史は、誰かれ構わず喧嘩を売ったり、母親に暴力を振るうなど問題行動をとり始め、翌昭和62年3月に高校を退学し、自宅近くのタイル工業所に就職しています。
その後、一旦は落ち着きを取り戻し、17歳の時には結婚を考える相手がいたこともあったようです。
しかし、まじめに働いていたある日のこと、ひょんなことから暴力団員と知り合い、暴力団が関係する花屋でアルバイトをすることになりました。
宮野としてはそこで働くことが嫌だったようですが、辞めるに辞められず、そのストレスから逃れるためにシンナーに手を出したと言います。
次第にシンナーに溺れていくうちに、やがて数少ない楽しみと言えば、シンナーを吸うことと強姦すること…という、すっかり破綻した人物になり果てていました…。
小倉 譲(後に“神作”と改姓)
出典:http://personalsite.liuhui-inter.net/
「女子高生コンクリート殺人事件」では、主犯とされる宮野裕史を支えるサブリーダー的な役割を担っていた小倉譲は、昭和46年5月11日に生まれました。
幼少期は両親と姉の4人家族でしたが、小倉譲が小学校3年生の頃に両親が離婚し、その後は母親に引き取られ、女手一つで育てられることになります。
中学校時代には、特に問題行動は見られなかった小倉譲ですが、昭和61年1月にスキーで右足の複雑骨折により、以後スポーツで活躍するという希望を失ってしまったとのこと。
昭和62年4月に都内の私立高校に入学するものの、勉学に対する意欲が持てず、無断欠席を重ねた挙げ句に同年11月除籍処分となっています。
その後、定時制の高校にも入学しましたが、こちらもあまり続かず、学籍はあるものの長期欠席の状態が続きました。
湊 伸治
出典:http://personalsite.liuhui-inter.net/
昭和47年12月16日に生まれた湊伸治の家族構成は、両親と兄の4人家族でした。
仕事一筋の父親は病院で看護師をしており、子どもには躾と称した厳しい体罰をふるう人物だったそうです。
湊伸治が決められた家事の分担をしないというだけでも、たとえ夜中であろうと叩き起こして叱りつけ、泣いて逃げる子供を追いかけまわして殴りつけることもしょっちゅうだったとのこと。
当時について湊伸治は、事件後「週に1回は殴られてていた。ぞっとするほど怖かった」と弁護士に語っています。
そんな湊伸治は、「足立の学習院」と言われたエリート中学を卒業すると、都内では唯一の化学専門工業学校に進学しています。
そして、この頃には父親の体罰もなくなり、今度は代わりに湊伸治が家族に暴力を振るうようになっていました。
折角入学した高校も、自分に合わなかったのか、2学期途中で中退してしまうなど、その頃の湊伸治はかなり荒れており、親に日常的に暴力を振るうような人物になっていたようです。
これらの背景もあり、親もなかなか湊伸治に近づくことができず、後に「女子高生コンクリート殺人事件」の凄惨な現場となる湊伸治の部屋は、次第に不良のたまり場になっていきました…。
女子高生コンクリート詰め殺人事件:
— okayama-taro (@okayama_taro_1) 2018年7月21日
少女暴行・拉致・監禁・殺人・死体遺棄。現場は共産党員の家。
当時少年だった犯人たちは、出所後も多くは犯罪に走った。
「いたずら程度想定の少年法」に対し、週刊新潮が犯罪の悲惨さから実名報道、少年法の運用を変えた事件。
渡邊恭史
出典:http://www1.ezbbs.net/
昭和46年12月18日に生まれた渡邊恭史は、姉と両親の4人家族でしたが、渡邊恭史が小学生の頃に両親は離婚しており、その後は母と姉の3人で暮らしています。
そんな渡邊恭史は、都立の工業高校定時制に入学するものの、たった1週間で登校しなくなり退学しています。その後も何ヵ所かで働いたようですが、いずれも長続きはしませんでした。
「女子高生コンクリート殺人事件」の犯人の中では一番痩せていて、声が小さかったそう。
右後頭部には中学教師の体罰によってできたとされる、10円玉大の白髪部分があったのですが、公判時にはこぶし大にまで広がっていたそうです。
少年E、少年F
“少年E”と“少年F”は、宮野裕史がリーダーの不良グループの一員でした。
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では犯行の途中から加わり、被害者の暴行や強姦に加担しています。
また、“少年E”は些細なことから、宮野祐史、小倉譲、湊伸治の3人にリンチされ、病院送りになったこともあるようです。
現在は、地元スナックで「女子高生コンクリート殺人事件」のことを面白おかしく語っているとも言われています。
一方の“少年F”については、ほとんど情報がなく、事件後は新聞配達員を経て、某建築会社で社員として働いており、現在は結婚し、娘をもうけたとも…。
女子高生コンクリート殺人事件の犯人4人のその後&現在
「女子高生コンクリート殺人事件」の裁判が終結し、刑罰を受けることになった加害者たちも刑期を終え、現在では再び社会に出てきているといいます。
最長で20年の服役を終え、法律的には罪を償い、十分反省しているはずの犯人たちでしたが…なんと主要メンバーの4人中、3人が全く反省した様子はなく、再犯まで犯しているとのこと。
#綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件 #元少年の今 【驚愕】綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の元少年、4人中3人が再犯 https://t.co/1d3Cw1nsCK pic.twitter.com/bcQNwDEv5V
— nowtopnews(ローカルニュース) (@nowtopnews_ntn) 2018年9月15日
主犯・宮野裕史のその後と現在
「女子高生コンクリート殺人事件」の主犯格だった宮野裕史は、2009年に刑務所を出所した後、養子縁組をして名前を「横山裕史」に改名しています。
そして、出所してから3年半後の2013年1月、振り込め詐欺の容疑で逮捕されているんですよね。
「無作為に全国の個人宅に電話をかけ、『パチンコ必勝法』の情報料名目で現金を騙し取る詐欺グループの一員とみられましたが、取り調べに黙秘を貫いて不起訴処分で釈放されました。Aは逮捕時に定職についておらず、アルバイト感覚で手を染めた可能性があります」(捜査関係者)
出所後のAについて、彼らの“その後”を追ったあるジャーナリストが語る。
「Aはキックボクシングのジムに通っていて、よく後輩をバーベキューやキャバクラに連れて行っていた。BMWを乗り回して高級腕時計やブランド品を身に着けていた。“暴力団とつながりがある”と吹聴していて、マルチ商法で儲けていたそうです。セックスの話が大好きで、“100均の縄で女を縛るのが好き”と自慢していた。“都内の振り込め詐欺グループには知り合いが多い”とも言っていました」
引用:綾瀬コンクリ殺人の犯行グループのその後 4人中3人が再犯|NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/
しかし、宮野裕史は周囲の間で、自身があの「女子高生コンクリート殺人事件」の主犯であることが噂され始めた直後に、その姿を忽然と消したようです。
噂では、関西のどこかにいるとの情報もあるようですが、現在の詳細な行方は知られていないようです。
出典:https://president.jp/
サブリーダー的存在だった小倉譲のその後と現在
裁判中は深い反省の態度を見せていたとされている小倉譲は、1999年に満期で刑務所を出所しています。
小倉譲も宮野裕史と同様に養子縁組をしており、現在は「神作譲」に改名しています。
また、小倉譲は受刑中に簿記2級と情報処理関連の資格を取得し、出所後はIT関連の仕事に就いたのですが…その忌まわしい前科が周囲に知られるところとなったそう。
やがて人間関係に行き詰まった小倉譲は、退職を余儀なくされています。
そして退職後は、母親が経営する飲食店を手伝っているとも、暴力団の構成員になっているとも言われています。
そして出所してからわずか5年後の2004年、小倉譲は「女子高生コンクリート殺人事件」を彷彿とさせる事件を再び起こしています。
出典:https://twitter.com/
「“おれの女をとっただろう”と知人に因縁をつけて車のトランクに押し込み、母親の経営するスナックで5時間にわたって監禁して暴行を加えたんです。Bは事件を起こす直前、コンクリ詰め殺人について、“面白かったけど相手が簡単にしゃべらなくなり、抵抗しなくなったのでつまんなくなった。抵抗しているうちは楽しかった”と話し、知人を暴行する際は“おれは人を殺したこともある。殺すぞ”と脅したそうです。これでは、裁判中の反省はポーズと見られても仕方ありません」(全国紙社会部記者)
引用:綾瀬コンクリ殺人の犯行グループのその後 4人中3人が再犯|NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/
この事件により、小倉譲は逮捕監禁致傷で懲役4年の実刑判決を受けましたが、2009年には出所しているようです。
湊伸治のその後と現在
「女子高生コンクリート殺人事件」では、監禁場所を提供し、自らも暴行や陵辱の限りを尽くした湊伸治には、懲役5年以上、9年以下の不定期刑が言い渡されました。
そんな湊伸治がいつ出所し、その後どこでどう暮らしてきたのかは明らかになっていません。
ただ、出所後の一時期は、ムエタイジムに所属してプロとして試合に出場する一方で、タイレストランのムエタイショーにも出演していたと言われています。
出典:https://friday.kodansha.co.jp/
当時の湊伸治を良く知るムエタイジムのスタッフは、湊伸治について次のように語っています。
「’97年ごろから2年くらい、本名で所属していましたね。プロとして2、3戦したと思いますが、試合のセンスはなかった。ジムの生徒が“コンクリ事件の犯人じゃないか”と噂するようになりフェードアウトしていきました」
引用:コンクリ殺人の「元少年」が再犯か 近隣住民「会話が成り立たない」 – ライブドアニュース https://news.livedoor.com/
そんな湊伸治のその後の様子が判明したのは、ある事件がきっかけでした。その事件を詳しく説明するために、少しだけ事件前にさかのぼってみましょう。
湊伸治が事件を起こす埼玉県川口市のアパートに引っ越してきたのは、2ヶ月前の2018年6月のことでした。
このアパートの賃貸契約時には、不動産会社に結婚予定だという同世代の女性も同席していたそうです。
しかし、近隣トラブルは湊伸治の入居後すぐに始まったと言います。
「2か月ほど前に引っ越してきたんですが、いつも短パンにTシャツで肩で風を切って歩き、周りを睨みつけて威嚇していた。“キエー!”“ウォー!”と奇声を発することもあり、身の危険を感じて目を合わさないよう注意していました」(近所の住民)
引用:綾瀬コンクリ殺人の犯行グループのその後 4人中3人が再犯|NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/
そして、事件は2018年8月19日の夕方、この自宅アパートの駐車場で起こりました。
出典:https://news.livedoor.com/
「駐車場に関するトラブルから口論になり、犯人が自家用車から警棒とナイフを取り出し、32歳男性の右肩を殴ったうえ首を折りたたみ式ナイフで刺しました。警棒は金属製で3段式のもの。ナイフは刃渡り8センチ、全長19センチのもの」
引用:コンクリ殺人の「元少年」が再犯か 近隣住民「会話が成り立たない」 – ライブドアニュース https://news.livedoor.com/
この事件が起きるまでは、怪しい人物として恐れられていたものの、まさかあのおぞましい「女子高生コンクリート殺人事件」の犯人の1人だったとは、近隣住民は知らなかったそうです。
近隣住民は次のように語っています。
「警察から戻ってくることに不安はあります。今、近所では“犯人が帰ってきたらすぐ教えてね”と声をかけ合って注意しています」(近隣住民)
引用:コンクリ殺人の「元少年」が再犯か 近隣住民「会話が成り立たない」 – ライブドアニュース https://news.livedoor.com/
昭和最後の年に起こった史上最悪の少年犯罪「女子高生コンクリート詰殺人事件」の犯人が平成最後の年にまた再犯ですよ…主犯4人のうち3人が再犯してることになるし、度を超えた凶悪犯に少年法も何もないでしょ#湊伸治 #拡散希望 https://t.co/u2CSZPyb10
— 旅好きトレーダー♡ミサ (@kabu_and_travel) 2018年8月29日
まとめ
いかがでしたでしょうか。
1988年11月に東京都足立区で起きた、17歳の女子高生を被害者とする凄惨極まりない「女子高生コンクリート殺人事件」の詳細と事件の経緯やその後と現在についてまとめてみました。
最後に、この事件で犠牲になられた古田順子さんのご冥福を心よりお祈り致します。