現5000円札の人物として有名な樋口一葉ですが、何した人なのかについてはあまり知られていません。
今回は樋口一葉が何した人なのかについて、経歴や作品、死因、意外な性格や名言、美人だったのかや子孫はいるかをまとめました。
この記事の目次
樋口一葉は何した人?現在の5000円札の人
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2004年から現在(2019年時点)まで発行されている「5000円札」の肖像の女性は、樋口一葉です。この樋口一葉が何した人か?という事は、実際はあまり知られていません。
樋口一葉は、明治時代に活躍した天才女流作家です。
24歳の若さで早逝したため、作家活動はわずか1年2ヶ月に過ぎません。
しかし、その短期間の間に「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」など、文学史に残る名作を次々と発表し、当時の文学界からその才覚を絶賛されました。
近代文学史の中で日本史上初となる職業女流作家であり、文学史に残した偉大な足跡は、その作品とともに現在においても高い評価を受けています。
今回はそんな樋口一葉に焦点を当てます。
樋口一葉の生い立ち~経歴① 下級役人の家に誕生〜利発な幼少時代
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1872年5月2日、樋口一葉は、東京府(現在の東京都)で下級役人を務めていた父・樋口則義の次女として生まれました。
「一葉」というのは後に名乗るペンネームで、本名は「奈津」と名付けられています。
上に兄2人と姉1人、下に妹が1人の5人兄妹で育ち、幼少期から利発で物覚えが良く、早くから言葉も達者だったそうです。
幼少時代の樋口一葉は、同じ年頃の少女が好む手毬や羽根つきなどには興味を持たず、もっぱら読書を好み、「草双紙(当時流行した絵入りの娯楽本)」を読み漁っていたのだそうです。
こちらは伝承になりますが、樋口一葉は7歳の頃、全98巻にも及ぶ、曲亭馬琴の著した超長編小説「南総里見八犬伝」をわずか3日間で読破したそうです。
流石に3日で読破したというのは現実的に不可能と思われますが、7歳の頃に読破としたというのは事実のようで、樋口一葉が当時どれほどの読書好きであったのかが伝わる逸話です。
1881年11月、樋口一葉は、私立吉川学校から上野元黒門町の私立青海学校へと転校し、ここで初めて和歌を学びます。
1883年12月、樋口一葉は11歳で私立青海学校小学中等科第四級を主席にて卒業しますが、第三級には進学せず退学しています。
樋口一葉は進学を強く望みましたが、母の多喜が「女性に学問は不要、そんなことよりも家に入って針仕事でも覚えた方が良い」との考えで、進学を許されなかったと伝えられています。
樋口一葉の生い立ち~経歴② 歌塾「萩の舎」に入門
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学問の道を断たれた樋口一葉は失意落胆しますが、それを見かねた父・樋口則義は、樋口一葉が13歳になる頃、知人の元士族である和田重雄という人物の下で和歌を習わせています。
樋口一葉はここで数ヶ月間和歌を学んだ後、今度は父の知人の医師・遠田澄庵の紹介によって、15歳で、歌人・中島歌子の主催する歌塾「萩の舎(はぎのや)」へと入門する事になります。
「萩の舎」は、公家や旧大名家、政治家や軍人などの夫人や息女が通う格式の高い歌塾で、士族とは言え下級役人の家の出である樋口一葉は、周囲との格差に気後れする事もあったようです。
しかし、そんな中でも樋口一葉は、新春の発会での歌会で最高点を取るなど、その才能を発揮し、師匠である中島歌子からも特別に目をかけられる存在となりました。
そして、後に明治以降初の女性作の小説「藪の鶯」を執筆した事で知られる三宅花圃(みやけかほ)と並んで「萩の舎二才媛」と呼ばれるほどの評価を受けます。
樋口一葉の生い立ち~経歴③ 父の死や兄の早世で家督を継ぐも貧窮
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樋口一葉の兄で、樋口家の長男でもある樋口泉太郎は、大蔵省出納局に勤めていましたが、1887年12月27日に肺結核を患い、若くして亡くなってしまいます。
樋口一葉は兄の早逝を受けて、父・樋口則義の後見を受ける形で樋口家の相続戸主となります。ちなみに、樋口家の長女は既に他家へ嫁ぎ、次男はかなり以前に勘当されていたようです。
1889年、父は警視庁を退職し、家屋敷を売却した資金で荷車請負業組合設立事業に参加しますが、出資金を騙し取られる形で失敗し、借金を背負ったままその年の7月に死去しています。
これにより、樋口一葉は17歳の若さで、樋口家の家督を相続しますが、父の残した負債を含めて背負う事になってしまいます。
この父の死をきっかけにして、樋口一葉の許嫁だった渋谷三郎という男との婚約も破棄となりました。
これは、高等文官試験を目指していた渋谷三郎が、借金によって貧窮する樋口家に対して生活費や学費の補償を要求したため、樋口一葉の母・多喜の怒りを買ったためと言われています。
この頃の樋口一葉は、母や妹と共に針仕事や洗張り(和服(呉服)の洗濯)、下駄の蝉表作りなどの仕事をしながら生計を立てようとしていました。
しかし、それでは足りず、さらに借金を繰り返す苦しい生活が続きました。
樋口一葉の生い立ち~経歴④ 職業作家となり「奇跡の14ヶ月」で数々の作品を残す
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生活が困窮する中、樋口一葉は「萩の舎」の姉弟子・三宅花圃が、1888年に小説「薮の鶯」を発表して、33円20銭もの高額な原稿料を得た事を知り、自分も小説を書くことを決意します。
樋口一葉は1891年4月に、妹の知人の紹介で朝日新聞の専属作家・半井桃水の門下に入り、その師事を受けます。
そして、1892年半井桃水の刊行した同人誌「武蔵野」にて、樋口一葉は恋愛小説「闇桜」を発表します。
半井桃水は樋口一葉を朝日新聞の主筆記者の小宮山桂介に紹介しますが、一葉の小説が採用される事はなく、その時は職業小説家になるという目的は果たせませんでした。
さらにその後、樋口一葉と師である半井桃水が恋愛関係にあるという醜聞が広まり、「萩の舎」の師である中島歌子や友人の伊東夏子らの反対を受けて、一葉は半井との関係を断っています。
それからも樋口一葉は独学で小説を書き続け、小説「うもれ木」を「萩の舎」の姉弟子・田辺花圃の紹介で文芸雑誌「都之花」にて発表します。
これによって、樋口一葉は11円50銭の原稿料を得て職業作家としての第一歩を踏み出します。ちなみに、この原稿料のうち6円は借金の返済に充てたそうです。
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樋口一葉はさらに、1893年1月に創刊した文芸雑誌「文学界」に小説「雪の日」を発表します。
しかし、それから執筆が滞った樋口一葉は、1893年7月に生活のために吉原遊廓近くに雑貨店を開店します。
この雑貨店経営時の経験が、「たけくらべ」をはじめとする、樋口一葉がその後発表する数々の作品の元になったと言われています。
雑貨店を経営しながらも小説の執筆を続けた樋口一葉は、同年末には「文学界」で「琴の音」を発表しています。
しかしその後、近くで同業が開店したため経営が苦しくなり、1894年5月に店を閉めています。
1894年12月、22歳になった樋口一葉は「文学界」にて「大つごもり」を発表。
1895年にはかつての師、半井桃水から「太陽」「文芸倶楽部」などの文芸誌を発行する出版社「博文館」の編集者を紹介され、小説執筆を依頼されるようになります。
その依頼によって、1895年1月から樋口一葉は「たけくらべ」「ゆく雲」「経つくえ」「にごりえ」「十三夜」などの名作を立て続けに発表。
1896年も「わかれ道」「うらむらさき」などの作品を発表するなど、わずか1年2ヶ月の間に、文学史に残る名作を次々と発表した事から、この期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれています。
樋口一葉の若すぎる死とその死因とは?
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短期間で名作を次々と発表し、森鴎外や岸辺露伴から高い評価を受けるほどになった樋口一葉でしたが、1896年頃には体調が悪化していました。
そして、同年11月25日、自宅にて24歳の若さでこの世をさります。
樋口一葉の死因は、当時は不治の病とされ、栄養不足が原因と考えられていた「肺結核」でした。
作家として活動したのは、わずか14ヶ月あまりでしたが、その短い期間で現在までも読み継がれる名作の数々を残しました。
当時の文壇も才能溢れる女流作家の、その早すぎる死を惜しみました。
特にその才を愛したという森鴎外は、貧窮を理由に身内だけで執り行うという樋口一葉の葬儀への参列を打診したものの遺族によって丁重に断られた、という逸話が残っています。
樋口一葉の性格とは?
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樋口一葉の性格について、「萩の舎」で一葉の最も仲の良い友人の1人であった伊東夏子は、後世になって語っています。
それによれば、10代の頃の樋口一葉は、人の悪口は決して言わず、いつもじっと何かを我慢しているような人だったのだそうです。
「萩の舎」での樋口一葉は、周りの上流階級の女子達の中にあって、身分の低い自分に気後れし、内向的になっていったようです。当時につけられたあだ名は「物つつみの君」でした。
つまり、自分の考えを押し殺し、隠している人の意味のあだ名で呼ばれたのです。
また、「萩の舎」の姉弟子である、三宅花圃は樋口一葉の性格について「妙に僻(ひが)んだ感情を持っていた」と語っています。
おそらく樋口一葉はかなり屈折した内面的性格を抱えていたように感じます。
その後、小説の最初の師であり、月2円(現在価値で20万〜30万円)の援助を受ける愛人関係にあったとされる半井桃水とは、事実、かなり入れあげた恋愛関係だったとも言われています。
しかし、樋口一葉はそんな半井桃水とも、周囲によからぬ噂を立てられたのを理由に一方的に絶交しています。これには、樋口一葉のプライドが高く、自意識の強い性格が感じられます。
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その後、食い詰めた樋口一葉は、今度は面識のなかった占い師・久佐賀義孝に接近し、「自分の身をかけて相場でお金を稼いでみたい」と訴え、いきなり借金を求めます。
最初、久佐賀義孝はその申し出を断ったものの、よほど樋口一葉の事が印象深かったのか、今度は自分の方から一葉へと接近したようです。
すると一葉は、今度は焦らすような態度を取り気を持たせます。この後、久佐賀義孝は一葉に定期的にお金を援助するようになっています。
さらに、それから4ヶ月後には「自分のものになってくれるのならお金を出す」といった事まで樋口一葉に持ちかけています。
しかし、この提案に対して樋口一葉は日記の中で「あのバカ男、私という女をどう見ていたのか(現代語訳)」と痛烈に批判してみせます。
このエピソードから、樋口一葉が女を武器にして、男を手玉に取っていた一面が垣間見えます。
こうした流れを見ると、樋口一葉は、自意識の強い内向的な女性から、目的のためならばしたたかに男性を手玉にとって見せる悪女へと、その性格を変貌させていったように思われます。
樋口一葉は美人?美人ではなかった?【顔画像を紹介】
晩年は男性を手玉に取るような事もしていた樋口一葉。
一説によれば、当時は「美人ではない」と言われていたようですが、作家となってから何人もの男性から金銭的な支援を受けている樋口一葉が、美人ではなかったとはどうしても思えません。
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上の写真の右側の女性が樋口一葉です。目鼻立ちのはっきりした美人に見えます。
ただし、当時の感覚では目がぱっちりとした女性は美人とは見られなかったそうです。
樋口一葉は現在の感覚なら、目鼻立ちのはっきりした美人だったのではないかと思われます。
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さらにこちらの写真の一番右に写っているのが樋口一葉です。こちらもまた美人に見えます。
現在と当時の美的感覚の違いを差し引いたとしても、樋口一葉がその才能だけでなくその美貌で何人かの男性を惹きつけていた事は、おそらく事実なのではないかと思います。
樋口一葉の恋愛名言集
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樋口一葉は、晩年には遊女の愛人との心中を描いた「にごりえ」や男女の不倫関係を描いた「裏紫(うらむらさき・未完作)」といった、かなり大人向けの恋愛小説を書いています。
そんな樋口一葉が小説の中で残した恋愛の名言を紹介します。
恋とは尊くあさましく無残なもの也。
「色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう」
「せつなる恋の心は、尊きこと神のごとし」
こうした数々の文章からは、樋口一葉が恋愛を苦しいものと感じつつも、それを強く切望していた切ない心情が伝わります。
樋口一葉に子孫はいる?
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ここまで見てきたように、樋口一葉は結婚する事なく24歳の若さでこの世を去っているため、直系の子孫は存在しません。
また、樋口一葉の傍系の子孫についても不明です。
まとめ
5千円札の肖像として有名な明治時代の女流作家・樋口一葉についてまとめてみました。
樋口一葉は、わずか1年2ヶ月の作家生活で「たけくらべ」や「十三夜」といった、現代まで読み継がれる数々の名作を残しました。
肺結核により24歳でその生涯を閉じますが、その人生は波乱に満ち、かつ、とても女性的な色が感じとれるドラマティックなものでした。
これを機会に、樋口一葉の残した名作の数々に触れてみてはいかがでしょうか?