ハプスブルク家の現在!家系図や紋章・顎のしゃくれや奇形児など呪いの噂・末裔の日本人も徹底解説

ヨーロッパ史上最も有名な名家ハプスブルク家は「ハプスブルクの顎」と呼ばれるしゃくれが多いことでも有名です。

 

今回はハプスブルク家の歴史、家系図や紋章、奇形児やしゃくれが多い理由と呪いの子、日本人の末裔や現在を紹介します。

ハプスブルク家の概要

出典:agora-web.jp

 

ハプスブルク家は13世紀から20世紀初頭まで650年以上にわたり、神聖ローマ帝国(現在のドイツやその周辺)やオーストリアを支配してきたヨーロッパの名門の家系です。


神聖ローマ帝国の歴代皇帝を輩出し、最盛期にはスペインまで支配するなど、広大な領土を持っていました。

 

ハプスブルク家は中世ヨーロッパから20世紀初頭までヨーロッパの歴史の中心に居続けた名門一家であり、最も有名で重要な家系と言えます。

 

ハプスブルク家が君主として君臨していた国には次のものがあります。

 

・神聖ローマ皇帝(ドイツ王、ローマ王)
・オーストリア君主
・ボヘミア君主
・ハンガリー国王、クロアチア国王
・スペイン君主
・ポルトガル君主
・ガリツィア・ロドメリア王国君主
・トランシルヴァニア元首

 

ハプスブルク家は神聖ローマ帝国(962年~1806年)、オーストリア帝国(1806年~1866年)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867年~1918年)の君主で居続けました。

 

そのため、この3つの帝国をまとめて「ハプスブルク帝国」と呼ぶこともあります。

 

 

ハプスブルク家の歴史① ルドルフ1世の誕生

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ハプスブルク家の発祥の地にはいろいろな説がありますが、スイス北東部のライン川上流域が有力視されています。

 

1020~1030年頃に「ハビヒツブルク城」という城を築き、それがハプスブルク城と呼ばれるようになってその領主が「ハプスブルク家」と言われるようになりました。

 

ハプスブルク家は最初から力を持っていたわけではありません。

 

最初は神聖ローマ皇帝に服従し、十字軍にも参加していましたが、婚姻政策や政治的な特権を得ることで、少しずつ力を蓄えていきます。

 

そんな中、1254年から神聖ローマ皇帝が事実上の空位となる「大空位時代」が訪れました。

 

危機感を覚えたドイツ諸侯は1273年に、ハプスブルク家のルドルフ1世を新たなドイツ王(ローマ王)に選出します。

 

ここからハプスブルク家の繁栄が始まりますので、ルドルフ1世はハプスブルク家の始祖と呼ばれ、伝説化しています。

 

 

ハプスブルク家の歴史② 神聖ローマ皇帝を独占する名家に

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ルドルフ1世がドイツ王(ローマ王)になったことで、ハプスブルク系の繁栄が始まりますが、すぐに神聖ローマ帝国の皇帝位を独占できたわけではありませんでした。

 

ルドルフ1世の子が暗殺されるなど、ハプスブルク家の勢力は一時的に衰えたこともあります。

 

しかし、1438年にアルブレヒト2世(アルブレヒト5世)が神聖ローマ皇帝に選出されると、そこからはほぼハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の地位を独占し、世襲制になっていきます。

 

 

ハプスブルク家の歴史③ 婚姻政策でハプスブルク帝国を作る

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「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

 

この言葉がハプスブルク家のモットーです。


この言葉に従い、ハプスブルク家は結婚をして勢力を拡大していきました。そのハプスブルク家のモットーは「婚姻政策」と言われるようになります。


そして、ハプスブルク家の中で、婚姻政策に最も成功したのが、1508年から神聖ローマ皇帝に即位したマクシミリアン1世です。

 

・自分の結婚:ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領を継承
・子供の結婚:スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承

 

ハプスブルク家はマクシミリアン1世の婚姻政策によって、ヨーロッパの広大な地域を獲得することに成功し、その後の最盛期を迎えることになりました。

 

マクシミリアン1世の孫にあたるカール5世が神聖ローマ皇帝に即位した時には、スペインが持っていた中南米も手中に収めています。

 

さらにマゼランの世界周航が行われたため、太平洋方面にも植民地を持ち、ハプスブルグ家の領土は「日の沈まぬ大帝国」になっていました。

 

 

ハプスブルク家の歴史④ オーストリアとスペインに分割

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広大な領土を手に入れたハプスブルク家でしたが、カール5世は退位する時に、あまりにも広い領土を1人で統治するのは不可能と考え、分割統治をさせることにします。

 

自分の弟のフェルディナンド1世にはオーストリア方面を統治させて「オーストリア=ハプスブルク家」を創設。

 

また「スペイン=ハプスブルク家」を創設して、息子のフェリペ2世にはスペインを統治させることにしました。

 

 

ハプスブルク家の歴史⑤ スペイン=ハプスブルク家

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スペイン=ハプスブルク家は、カール5世の息子・フェリペ2世の時に最盛期を迎え、無敵艦隊と呼ばれる強力なスペイン海軍を武器に海外植民地を獲得していきます。

 

しかし、1588年にイングランドとのアルマダの海戦で敗北し、さらに八十年戦争やスペイン・フランス戦争に敗れて、勢力はどんどん衰えていきました。


そして1700年にカルロス2世が亡くなると、スペイン=ハプスブルク家は跡継ぎがおらず断絶し、スペインの王位はスペイン・ブルボン家に移ることになりました。

 

 

ハプスブルク家の歴史⑥ オーストリア=ハプスブルク家

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カール5世の弟のフェルディナント1世から始まったオーストリア=ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝として君臨していました。

 

しかし、1740年にカール6世の死去で男系が途絶え、マリア・テレジアの時代に一時的に神聖ローマ皇帝位を失いますが、マリア・テレジアの夫フランツ1世が帝位を奪還します。

 

その後、マリア・テレジアは自分の娘であるマリー・アントワネットをフランスのルイ16世と結婚させるなど周辺国との関係を強化して、ハプスブルク家の地位を固めました。

 

 

ハプスブルク家の歴史⑦ ハプスブルク帝国の解体

出典:ja.wikipedia.org

 

富国強兵を推し進めていたオーストリア=ハプスブルク家でしたが、1804年にフランスでナポレオン1世が誕生するとその繁栄に陰りが見え始めます。

 

ナポレオン率いるフランス軍の攻勢に屈し、神聖ローマ帝国は解体され、神聖ローマ帝国の帝位を失いました。


その後、オーストリア=ハプスブルク家の当主は、オーストリア帝国の皇帝となります。

 

19世紀後半からはヨーロッパ各地の領土(植民地)や諸民族が自治を求めるようになり、ハプスブルク家の影響力は低下していきました。

 

そして1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者だったハプスブルク家のフランツ・フェルディナンドがボスニアのサラエボでセルビア人青年に暗殺される事件が起こります。

 

そこから第一次世界大戦が始まり、この戦争をきっかけにハプスブルグ帝国内の各民族は次々に独立し、1918年にハプスブルク帝国は崩壊します。

 

翌1919年には、オーストリアで「ハプスブルク法」が成立し、ハプスブルク家は財産を没収されたうえでオーストリア国外へ追放となり、オーストリアへの入国を拒否されてしまいました。

 

第二次世界大戦後の1961年、最後のオーストリア皇帝だったカール1世の息子オットー元皇太子がオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄し、オーストリアに忠誠を誓います。

 

これで、ようやくオーストリアに入国が認められました。

 

 

ハプスブルク家の家系図① ルドルフ1世~オーストリアとスペインに分かれるまで

ハプスブルク家の家系図を見ると、「この人、歴史の授業で聞いたことがある!」、「歴史に興味はないけれど、名前だけは知っている」という人がたくさん出てきます。

 

まずは、ハプスブルク家の事実上の始祖と言われるルドルフ1世から、スペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家に分かれるところまでの家系図を見ていきましょう。

 

 

この中で、特に有名な人物を簡単に紹介していきます。

 

■ルドルフ1世(1218年~1291年)
神聖ローマ帝国のローマ王、ハプスブルク家の基礎を築く

■アルブレヒト1世(1255年~1308年)
神聖ローマ帝国のローマ王

■マクシミリアン1世(1459年~1519年)
神聖ローマ皇帝、婚姻政策で領土を拡大する

■フェリペ1世:(1478年~1506年)
美公、端麗公。カスティーリャ女王フアナと結婚してスペイン獲得する。凡庸な君主だが容姿端麗だったと言われる。

■フアナ(1479年~1555年)
カスティーリャ王。フェリペ1世と結婚。夫のフェリペ1世を愛しすぎて精神的に不安定になることも。

■カール5世(1500年~1558年)
神聖ローマ皇帝、スペイン王。日の沈まぬ大帝国を築く。

 

ハプスブルク家はルドルフ1世が種をまき、マクシミリアン1世が水をやり、カール5世の時に花開いたと言えるでしょう。

 

 

ハプスブルク家の家系図② 分割~神聖ローマ帝国解体まで

続いて、カール5世の息子フェリペ2世がスペイン、弟フェルディナント1世がオーストリアをそれぞれ統治することになってから、神聖ローマ帝国が解体するまでの家系図を見ていきます。

 

背景が赤の方がスペイン=ハプスブルク家、青がオーストリア=ハプスブルク家になります。

 

ただ、この後に詳しく説明しますが、ハプスブルク家は近親婚を繰り返しています。

 

そのため、スペイン=ハプスブルク家の最後のスペイン国王だったカルロス2世までは、スペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家はかなり入り組んでいます。

 

 

まずは、スペイン=ハプスブルク家の重要人物を簡単に見ていきましょう。

 

■フェリペ2世(1527年~1598年)
スペイン王、ポルトガル王。スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した王で、絶対主義の代表的な君主。

イングランド女王メアリー1世と結婚していたこともあった。

 

■マリア(1528年~1603年)
カール5世の娘で神聖ローマ皇帝のマクシミリアン2世と結婚した。

 

■フェリペ3世(1578年~1621年)
スペイン王、ポルトガル王。フェリペ2世の息子で「怠惰王」と呼ばれ、スペイン衰退のきっかけとなる。

 

■フェリペ4世(1605年~1665年)
スペイン王、ポルトガル王。フェリペ3世の息子。

 

■カルロス2世(1661年~1700年)
フェリペ4世の息子で、スペイン=ハプスブルク家の最後のスペイン国王。病弱で子どもをもうけることができず、スペイン=ハプスブルク家は断絶した。

 

■マリア・テレーズ(1638年~1683年)
フェリペ4世の娘で、フランス王14世と結婚した。

 

次に、オーストリア=ハプスブルク家の重要人物を見ていきます。

 

■フェルディナント1世(1503年~1564年)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、オーストリア君主、ハンガリー王。オーストリア=ハプスブルク家の初代当主で、カール5世の弟。

 

■マクシミリアン2世(1527年~1576年)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、オーストリア君主、ハンガリー王。フェルディナント1世の息子で、いとこのマリアと結婚する。

 

■カール2世(1540年~1590年)
オーストリア大公。フェルディナント1世の息子で、15人の子供をもうける。子供の1人であるフェルディナント2世は皇帝位を継承した。

 

■フェルディナント2世(1578年~1637年)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、オーストリア君主、ハンガリー王。三十年戦争を引き起こした。

 

■レオポルト1世(16340年~1705年)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、オーストリア君主、ハンガリー王。三十年戦争で衰退したハプスブルク帝国を引き継ぎ、復興の足掛かりを築く。作曲家としても評価されている。

 

■カール6世(1685年~1740年)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王。男系の後継者がいなかった。マリア・テレジアの父。

 

■マリア・テレジア(1717年~1780年)
オーストリア=ハプスブルク家の男系最後の君主で、実質的な女帝。実際の称号は神聖ローマ皇帝の皇后。16人の子どもを出産。マリー・アントワネットの母親。

 

■レオポルト2世(1747年~1792年)
神聖ローマ皇帝。統治期間は短いが、賢明な君主として知られる。マリア・テレジアの息子で、マリー・アントワネットの兄。

 

■マリー・アントワネット(1755年~1793年)
マリア・テレジアの娘で、フランス国王ルイ16世と結婚したフランス王妃。フランス革命で処刑された。


■フランツ2世(1768年~1835年)
神聖ローマ帝国最後の皇帝、初代オーストリア皇帝。

 

神聖ローマ帝国はフランツ2世の時に解体され、それ以降はハプスブルク家の当主はオーストリア皇帝となります。

 

 

ハプスブルク家の家系図③ 神聖ローマ帝国解体後

 

最後に、神聖ローマ帝国解体後のハプスブルク家の家系図を見ていきます。

 

 

■マリー・ルイーズ(1791年~1847年)
神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世の娘。憎むべき相手と教えられて育ってきた、神聖ローマ帝国解体の原因であるナポレオン1世と結婚し、泣き続けたと言われる。

 

■フランツ・ヨーゼフ1世(1830年~1916年)
オーストリア皇帝、ハンガリー国王。68年も在位し国民から絶大な敬愛を集め、オーストリアの国父・不死鳥と呼ばれた。妻はヨーロッパ宮廷一の美貌の持ち主・エリザベート。

 

■フランツ・フェルディナント(1863年~1914年)
オーストリア=ハンガリー帝国の継承者。50歳の時にボスニアのサラエボで、セルビア人民族主義者の青年によって暗殺される。この暗殺をきっかけに第一次世界大戦が勃発。

 

■カール1世(1887年~1922年)
最後のオーストリア皇帝。スイスに亡命。国外追放後、2度にわたりハンガリー国王への復帰を企てたが失敗した。

 

■オットー(1912年~2011年)
最後のオーストリア皇太子。汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物の一人であり、欧州統合を提唱した。

 

■カール(1961年~)
現在のハプスブルク家の当主

 

この家系図を見るとわかりますが、ハプスブルク家は帝位・王位こそ失っているものの、現代でもまだ続いている家系なのです。

 

 

ハプスブルク家の紋章はライオン?双頭の鷲?

ハプスブルク家の紋章は、インターネットで検索するといろいろなデザインのものが出てきますが、大きく分けるとこの2種類です。

 

 

出典:ja.wikipedia.org

 

 

出典:antique11.com

 

・ライオン
・双頭の鷲

 

ハプスブルク家の紋章は一体どっちなのか?横を向いた赤いライオンなのか。それとも、双頭の鷲なのか。

 

この疑問にしっかりと答えているネット上の情報は見つかりませんでしたが、調べていく中で、どちらもハプスブルク家の紋章として使われていることは間違いないことがわかりました。

 

では、ライオンと双頭の鷲の紋章には、どんな違いがあるのか?どんな意味の違いがあるのか?

 

いろいろ調べてみると、横を向いた赤いライオンの紋章の方が「ハプスブルク家の正式な紋章」の可能性が高いことがわかりました。

 

なぜなら、ハプスブルク家の源流であり、資料で確認できるハプスブルク家の最初となったスイスのハビヒツブルク城の門には赤いライオンの紋章が掲げられているからです。

 

 

出典:wikiwand.com

 

ハビヒツブルク城はハプスブルク家にとって故郷・実家のような場所ですから、そこに掲げられている紋章が赤いライオンであれば、ハプスブルク家の紋章は赤いライオンと言えるでしょう。

 

次に双頭の鷲の紋章の意味を紐解いていきます。

 

双頭の鷲は西と東の双方を支配するローマ帝国を意味していて、ローマ帝国の後継者たちが使っていた紋章でした。そして、神聖ローマ帝国もこの双頭の鷲の紋章を使っていたのです。

 

前述のように、神聖ローマ帝国の皇帝は代々ハプスブルク家の人間が就いていて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家となっていました。

 

だから、神聖ローマ帝国の紋章がハプスブルク家の紋章のように扱われることになったのでしょう。

 

マリア・テレジア以降の「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(ロートリンゲンはマリア・テレジアの夫の家の名前)の紋章はこちらです。

 

 

出典:ja.wikipedia.org

 

左にハプスブルク家の紋章である赤いライオン、真ん中はオーストリアの国旗、左がロートリンゲン家の紋章です。ここに双頭の鷲はありません。

 

「ハプスブルク=ロートリンゲン家」になって早い段階で神聖ローマ帝国は解体されたので、紋章に双頭の鷲は入らなかったものと思われます。

 

 

ハプスブルク家に近親婚が多かった理由とは?

ハプスブルク家は近親婚が行われていた家系です。

 

ハプスブルク家はマクシミリアン1世の頃から婚姻政策を推し進め、自分の結婚・子供の結婚でヨーロッパの領土を増やしていきました。

 

ということは、逆に考えると、ハプスブルク家も婚姻政策を仕掛けられると、自分たちの領土を失う危険があったということになります。

 

ハプスブルク家は自分たちの領土を守るために、親戚、つまりハプスブルク家の中での結婚を勧めていきました。特にその傾向が強かったのが、スペイン=ハプスブルク家です。

 

こちらがスペイン=ハプスブルク家の家系図になります。いとこ同士の結婚、叔父と姪の結婚ばかりであることがわかります。

 

赤い囲みの関係がいとこ同士での結婚、青の囲みでの関係が叔父と姪での結婚になります。フェリペ3世とマリアナは、はとこ同士の結婚ということになります。

 

出典:twitter.com

 

ハプスブルク家で近親婚が行われた理由は、前述のように自分たちの領土を守るためもありましたが、それ以外にも次のような理由がありました。

 

・ヨーロッパ屈指の名門一家なので、家柄が釣り合う家系でないと結婚できない
・厳格なカトリックの家系なので、カトリックの家系でないと結婚できない

 

ヨーロッパの家格が釣り合う王族の中から、カトリックの家を見つけるとなると、良い結婚相手を見つけるのは難しく、結果として近親婚に落ち着いたということもあるようです。

 

 

ハプスブルク家は近親婚が原因で奇形児が多かった

近親婚は奇形児・障害児を生みやすいというのは有名ですよね。実際に、ハプスブルク家は奇形児・障害児が生まれる確率が高かったんです。

 

虚弱体質だったり、知的障害を持っていたり、成人になっても体に障害がある人物が続出していたと言われています。

 

また、スペイン・ハプスブルク家では乳幼児の死亡率は、当時のスペイン内の村の平均よりも明らかに高かったということもわかっています。

 

また、スペイン・ハプスブルク一族内の乳幼児死亡率が、当時の戸籍から導かれる国内村落の平均よりも明らかに高かったという事実も、これを裏付けるものだと指摘している。

 

引用:スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

ハプスブルク家が近親婚を繰り返してきた結果、スペイン=ハプスブルク家は断絶となり、最後の王だったカルロス2世はハプスブルク家の近親婚の呪いが集約した存在と言われています。

 

 

ハプスブルク家の顎のシャクレも近親婚が原因?

 

「ハプスブルク家の顎」という言葉を聞いたことがありますか?

 

16世紀~17世紀までのハプスブルク家(特にスペイン=ハプスブルク家)には顎がしゃくれている人が多くいました。

 

カルロス2世もフェリペ4世も、マルガレーテも顎がしゃくれています。

 

 

出典:ja.wikipedia.org

 

 

出典:artexhibition.jp

 

 

出典:ja.wikipedia.org

 

これは、ハプスブルク家の近親婚の影響が強いことが研究でわかっています。

 

近親交配が、「ハプスブルクの顎」につながりやすいのは、両親の同じ遺伝子の型を受け継ぐ遺伝的同型接合性といわれるもののせいだという。
遺伝的同型接合性は、血のつながりのある者同士で交配することで、より頻繁に発生する。

 

引用:ハプスブルク家の呪い。17世紀の王家に見られる独特な顎は近親交配の影響が大きいと科学者(スペイン研究) (2019年12月11日) – エキサイトニュース

 

この研究によると、もともとハプスブルク家の中には顎がしゃくれている人がいて、近親婚を繰り返していくうちに、顎のしゃくれの遺伝子がどんどん濃く受け継がれていったようです。

 

そして、マクシミリアン1世以降カルロス2世の頃まで、顎のしゃくれが強く出ている人が多くなっていったということでしょう。

 

簡単に言えば、ハプスブルク家は近親婚をしたことで、顎のしゃくれ遺伝子が濃くなって、みんな顎がしゃくれて「ハプスブルク家の顎」となったということですね。

 

スペイン=ハプスブルク家では、フェリペ1世の時には近交係数(近親交配の度合いを表す数値)は0.025でしたが、カルロス2世は0.254という数字に達しています。

 

その他にも0.2以上のハプスブルク家のメンバーは複数人いたとのことです。

 

いとこ婚の子供の近交係数は0.0625ですから、カルロス2世の近交係数がいかに高く、ハプスブルク家の遺伝子が濃くなっていたかがわかります。

 

 

ハプスブルク家の呪いの子・カルロス2世

出典:gendai.media

 

ハプスブルク家の呪いの子と言われたのが、スペイン=ハプスブルク家の最後の王であるカルロス2世です。

 

カルロス2世は生まれた時から病弱で障害を持っていました。具体的な障害は、下垂体ホルモン欠乏症と遠位尿細管性アシドーシスという2つの遺伝性疾患だったと言われています。

 

また、重度の知的障害もあったと言われています。

 

そんなカルロス2世には、ハプスブルク家の顎(下顎前突症)が強く出ていて、あまりにも下顎が出ていたために噛み合わせが悪く、うまく噛めず食べ物は丸のみに近い状態だったそうです。

 

話せるようになったのは4歳。カルシウム・リンが骨基質に十分に沈着しないため骨が弱い「くる病」も患っていたため、8歳になるまで1人で歩くことができませんでした。

 

大人になってからも何度も転ぶような状態で、結婚式はカルロス2世ではなく代理人が執り行ったそうです。

 

また、カルロス2世のルックスは非常に悪く、嫁入りしたフランスのルイ14世の姪は、カルロス2世を見て怯えたほどでした。

 

晩年には、35歳で髪の毛が全部抜けていて、歩くこともままならず、幻覚に悩まされ、頻繁にてんかんの発作を起こしていました。

 

精神障害を発症していて、前妻の亡骸を掘り起こして手元に置いたり、うつ状態にもあったようです。

 

さらに性的にも不能で、子供には恵まれず、スペイン=ハプスブルク家は断絶しています。

 

・醜いほど顎がしゃくれていた
・食べ物を噛めず丸のみ状態
・舌が大きく、うまく話せない
・脚に障害があり、うまく歩けない
・精神疾患あり
・性的不能
・35歳で完全にハゲ
・幻覚あり
・てんかん発作あり
・重度の知的障害あり

 

これだけの障害を持っていたカルロス2世は、ハプスブルク家の近親婚を繰り返した呪いの枷を全部背負わされた「呪いの子」と言えるのです。

 

 

ハプスブルク家の現在① カール・ハプスブルク=ロートリンゲンが家長

出典:twitter.com

 

ナポレオン1世の進軍により神聖ローマ帝国が解体され、第一次世界大戦をきっかけに長年統治してきたオーストリアを追われることになったハプスブルク家ですが、現在も存続しています。

 

現在のハプスブルク家の当主はカール・ハプスブルク=ロートリンゲンです。カールは最後のオーストリア皇帝カール1世の孫にあたる人物です。

 

カールが誕生した当時、ハプスブルク家はオーストリアから入国禁止の措置を取られていました。

 

しかし、その半年後には父親のオットーがオーストリアに入国するために、ハプスブルク王朝と断絶し、あらゆる支配権を放棄すると宣誓し、オーストリア入国を許可されています。

 

カールは父親のオットーと同じく汎ヨーロッパ主義者であり、1986年に国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部の代表に就任しました。

 

また、1996年にはオーストリアのEU加盟後初のヨーロッパ議会議員選挙に当選し、オーストリア選出のヨーロッパ議会議員となりました。

 

父親のオットーはこの時ドイツ選出のヨーロッパ議会議員でしたので、ハプスブルク家の新旧当主が以前に統治していたドイツとオーストリアから選出されたEU議員だったのです。

 

その他、金羊毛騎士団長やブルーシールド国際委員会代表などを歴任し、オランダやウクライナ、ブルガリア、オーストリアでのメディア事業も行っています。

 

 

2回の結婚

現在のハプスブルク家当主のカールは、1993年にフランツェスカというオーストリア美術収集家の女性と結婚しました。

 

この結婚は以前なら貴賤結婚と言われるものでしたが、1980年代に父のオットーがハプスブルク家の結婚の基準を緩和していたので、この結婚の制限はありませんでした。


カールは1男2女をもうけましたが、2017年に円満離婚しています。

 

その後、2022年にイギリス系ポルトガル人のクリスチャン・リードと再婚しました。

 

現在のハプスブルク家の当主はカールですが、次期当主は先妻フランツェスカとの間に生まれた長男のフェルディナントになる予定です。

 

フェルディナントは1997年生まれで、現在はレーシングドライバーをしています。

 

 

ハプスブルク家の現在② 末裔の女性がナポレオン家の末裔と結婚

出典:spur.hpplus.jp

 

ハプスブルク家はナポレオン家に対して恨みを抱き、敵対心を持っていました。ハプスブルク家はナポレオンによって統治していた神聖ローマ帝国を解体することになったためです。

 

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝のフランツ2世の娘であるマリー・ルイーズは、子どもの頃から「ナポレオン」と名付けた人形をイジメながら育ちました。

 

そして前述のように、自分がナポレオンに嫁ぐことになったと知った時には泣き続けたほどです。

 

そのような因縁があるハプスブルク家とナポレオン家でしたが、21世紀になって、ハプスブルク家の末裔とナポレオン家の末裔が結婚したことが話題になりました。

 

あのナポレオン・ボナパルト(享年51)を祖先に持つジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルト(33)とハプスブルク家の子孫オリンピア・フォン・ウント・ツー・アルコ=ツィネベルク(31)が結婚!

 

引用:ナポレオン家&ハプスブルク家の末裔同士が結婚!挙式にはヨーロッパ各国のプリンス&プリンセスが集結 – セレブニュース | SPUR

 

ナポレオン家とハプスブルク家の結婚式は、パリの歴史的建造物であるサン=ルイ教会で行われました。

 

新郎はナポレオンから6代目の甥、新婦はオーストリアの最後の皇帝であるカール6世のひ孫にあたります。

 

2人はハプスブルク家の婚姻政策による結婚ではなく、大学時代に出会って交際・結婚したという恋愛結婚とのことです。

 

なんとふたりは普通の恋愛結婚なのだとか。オリンピアはイェール大学で政治学の学位をとった才媛で、ふたりはオリンピアが一学期をパリで過ごしたとき、出会ったとのウワサ。

 

引用:ナポレオン家&ハプスブルク家の末裔同士が結婚!挙式にはヨーロッパ各国のプリンス&プリンセスが集結 – セレブニュース | SPUR

 

泣きながら恨みを持った状態で嫁いだマリー・ルイーズも、まさか自分の末裔がナポレオンの末裔と恋愛結婚することになるとは思わなかったでしょう。

 

2人の結婚は、ハプスブルク家とナポレオン家の雪解け、ヨーロッパの雪解けの象徴かもしれません。

 

 

ハプスブルク家に日本人がいる・鰐淵晴子は末裔の1人

出典:post.tv-asahi.co.jp

 

神聖ローマ帝国、オーストリア、ハンガリーを長年にわたり統治してきたヨーロッパの名家であるハプスブルク家。そのハプスブルク家の血を引く日本人がいます。

 

その日本人とは鰐淵晴子さんです。鰐淵晴子さんは女優やヴァイオリニストとして活躍し、1995年には「眠れる美女」で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞しています。

 

鰐淵晴子さんは父親がヴァイオリニストの鰐淵賢舟、母親はハプスブルク家の末裔でオーストリア人のベルタというハーフです

 

ハプスブルク家の末裔である母親のベルタさんは、チターという楽器の演奏家でした。

 

父親の鰐淵賢舟さんは渡米した後にチェコのプラハ音楽院を卒業していますので、ハプスブルク家の末裔のベルタさんとは、チェコで知り合ったものと思われます。

 

その後、父親と母親は結婚。日本で生活し、母親は東京大空襲の約1ヶ月後に防空壕の中で鰐淵晴子さんを出産したと、徹子の部屋に出演した時に鰐淵晴子さんが語っていました。

 

東京大空襲の約1カ月後に防空壕の中で鰐淵を出産し、異国の地で育ててくれた母への感謝の思いを語る。

 

引用:テレ朝POST » 鰐淵晴子、異国の地で育ててくれた母への感謝。出産は東京大空襲の約1カ月後、防空壕の中で

 

この頃のハプスブルク家はオーストリアを追われていましたが、それでもハプスブルク家の末裔ということは、鰐淵晴子さんの母親のベルタさんは「由緒正しきお嬢様」だったはずです。

 

それなのに、異国の日本で東京大空襲を経験し、さらに防空壕で出産するなんて、本当に大変だったはずです。

 

しかも、ハプスブルク家ということは、見た目は完全に「外国人」でしたから、太平洋戦争中の日本では「敵国人!」と思われて差別されたこともあったでしょう。

 

 

ハプスブルク家のまとめ

ハプスブルク家の歴史や家系図、紋章の秘密、近親婚と奇形児が多い理由、「ハプスブルクの顎」や呪いの子、ハプスブルク家の末裔と現在、血筋の日本人をまとめました。

 

ハプスブルク家の家系図を見ると、近親婚が盛んに行われていたことがわかります。

 

カルロス2世に近親婚の呪いが集約し、スペイン=ハプスブルク家が途絶えたのはある意味必然の結果だったと言えるかもしれません。

 

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