若い頃は学生運動家として活動していた藤本敏夫さんですが、歌手の加藤登紀子さんとの獄中結婚が話題になりました。
今回は藤本敏夫さんの学歴や経歴、連合赤軍との関連、加藤登紀子さんとの馴れ初めや娘、死因やその後もまとめました。
この記事の目次
藤本敏夫は元学生運動家 【学歴・連合赤軍との関係も紹介】
藤本敏夫のプロフィール
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藤本敏夫(ふじもと としお)
生年月日: 1944年1月23日
没年月日: 2002年7月31日
出身地: 兵庫県西宮市甲子園
藤本敏夫さんは、1960年代後半から1970年代前半にかけて、学生運動に力を入れていた人物です。
指導者としてのカリスマ性で名が知られるようになりました。
過激な学生運動に参加していたので、警察から目を付けられ、逮捕された経歴も持っています。連合赤軍との関わりを疑われたことも。
プライベートでは、歌手の加藤登紀子さんの旦那という顔も持っています。
2002年に死去していますが、壮絶な人生を送った藤本敏夫さんの生涯を、この後の章で紹介していきます。
藤本敏夫の学歴は?
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藤本敏夫さんは、兵庫県西宮市に生まれ育ち、地元の兵庫県立鳴尾高等学校を卒業後、同志社大学に進学しています。
元々は新聞記者になることを志していたため、大学の新聞部に入部したところ、実は裏で学生運動家を育成するクラブだったそうです。
大学2年生の頃に学生運動に初参加。その時は「デモってこんなものなのか」という感想しかなかったそうですが、いつしかのめり込んでいきます。
1965年には羽田闘争に参加、1968年は反帝全学連の委員長に就任するなど、頭角を現していった藤本敏夫さんは、連合赤軍との関わりを疑われていた時期もあります。
そもそも連合赤軍とは?
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連合赤軍とは、1970年代前半に活動していた極左テロ組織を指しています。
1971年には、人質を取って山荘に立てこもった「あさま山荘事件」、別名リンチ殺人事件と呼ばれている「山岳ベース事件」を起こしたことで知られています。
学生運動に身を投じていた藤本敏夫さんは、連合赤軍との関与を疑われていましたが、実際には所属したこともなく、運動の中で繋がりを持ったこともなかったことが後年判明しています。
藤本敏夫は学生運動で逮捕歴がある
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藤本敏夫さんは、連合赤軍との関連がなかったことが判明していますが、過去に学生運動をやっていた中で、逮捕され、刑務所で服役した過去があります。
その経緯について振り返ってみましょう。
公務執行妨害で逮捕された
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藤本敏夫さんは、学生運動のリーダーとして警察から目を付けられていました。
1968年には反帝全学連の委員長として、国際反戦デー防衛庁抗議行動に参加。これを理由に、同年11月に逮捕されており、1969年6月まで勾留されています。
さらに1970年に入ると、機動隊が出動したり、学生運動家の中で死者が出たりするなど、学生運動はさらに激化していきました。
藤本敏夫さんは1972年4月に再逮捕されます。理由は、公務執行妨害及び凶器準備集合です。
裁判において実刑判決を受け、中野刑務所に収監されました。その後、栃木県黒羽刑務所に移動し、1974年に出所しています。
出所後、学生運動が衰退したこともあり、藤本敏夫さんは学生運動から完全に手を引いています。
藤本敏夫は鴨川自然王国の設立者
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千葉県鴨川市に所在する鴨川自然王国
刑務所を出所した藤本敏夫さんのその後の人生について見ていきましょう。
過激な運動家だったこれまでと異なり、自然を追求した人生を送っていて、「鴨川自然王国」を設立しました。
鴨川自然王国とは?
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鴨川自然王国とは、農事組合法人の1つで千葉県鴨川市にあります。
1981年に設立され、米や大豆や野菜など、有機無農薬栽培による農業塾を運営しています。
農場は90アールに及ぶ広い土地を生かし、50種類の野菜を栽培。収穫された米や大豆から作られた味噌は会員に配られるという優待特典があります。
春から秋にかけては、田植えや収穫のイベントだけではなく、夏祭りなども開催。
味噌作りや豆腐作りが体験できるワークショップもあるようです。
藤本敏夫が結婚した嫁は歌手・加藤登紀子 【馴れ初めも紹介】
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歌手の加藤登紀子
藤本敏夫さんの嫁は、シンガーソングライターとして有名な加藤登紀子さんです。
学生時代にデビューを果たし、学歴がすごいと当時大きな話題を呼びました。
加藤登紀子のプロフィール
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加藤 登紀子(かとう ときこ)
生年月日: 1943年12月27日
出身地: 満州国ハルピン市
所属事務所: トキコ・プランニング
大ヒット曲「知床旅情」で知られる加藤登紀子さんは、カバーソングも積極的にリリースしています。
日本酒好きでも有名で、毎年10月1日は「日本酒の日コンサート」を開催。
1971年のコンサートで大関のCMソングを歌ったところ、酒造メーカーから酒樽が贈られたのだとか。
これをきっかけに、コンサートに訪れる客に日本酒を振る舞う「ほろ酔いコンサート」も行っています。
加藤登紀子の学歴がすごい
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加藤登紀子さんは、幼少期から6歳年齢の離れた兄と共に机を並べて勉強していたそうで、みるみる学力が向上し、東京都立駒場高等学校に学年トップで入学しました。
アナウンス部の1年後輩には吉永小百合さんがいたそうで、共に早口言葉を練習したりと仲を深めます。
入学時に成績が良かったので、1年生の頃から「東大を狙います」と教師に宣言したそう。
しかし、教師から難しいのではないかと諭されたことで、絶対受かってやると猛勉強。
その結果、浪人することなく東大西洋史学科に合格、無事卒業しています。
代表曲は知床旅情
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大学2年生の時、「アマチュアシャンソンコンクール」で優勝したことがきっかけで歌手デビュー。
「赤い風船」で第8回日本レコード大賞を受賞し、人気を博しました。
1971年にリリースした「知床旅情」はミリオンを記録し、代表曲となりました。
馴れ初めとは?
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若い頃の加藤登紀子と藤本敏夫
現役東大生で人気歌手となった加藤登紀子さん、片や別の大学に通っていた藤本敏夫さんは、どのようにして出会い、結婚に至ったのでしょうか。
仕事が多忙すぎた加藤登紀子さんは、2年留年して東京大学を卒業しますが、学校側から、卒業式には振袖で参列するように言われていたそう。
加藤登紀子さんはそれを無視して、ジーパン姿で颯爽と大学に現れたところを、週刊誌の記者が激写して記事にしています。
誌面を見た藤本敏夫さんは、そんな加藤登紀子さんを気に入り、東大に赴いて「学生運動の集会で歌を歌って欲しい」と依頼したのです。
加藤登紀子さんは、自身の歌を政治的な問題に使われることが我慢ならず、拒否しています。
しかし、お互いに無視できる存在ではなかったのでしょう。これがきっかけで2人は交際に発展したのです。
藤本敏夫と嫁・加藤登紀子は獄中結婚だった
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藤本敏夫さんと加藤登紀子さんが結婚したのは1972年で、藤本敏夫さんが服役中のことでした。
前年、初の紅白歌合戦に出場し歌姫としてのポジションを確立していた加藤登紀子さんと、なぜ獄中結婚に踏み切ったのでしょうか。
妊娠がきっかけだった
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1972年、藤本敏夫さんの服役が決定した際、加藤登紀子さんからプロポーズをするも、藤本敏夫さんは断わっています。
断わった理由としては、刑期を終えるまで待たせてしまうことになるからです。
一度は納得した加藤登紀子さんでしたが、妊娠が判明。
事務所の社長をはじめ周囲は藤本敏夫さんとの結婚に大反対でしたが、加藤登紀子さんの母親が「藤本敏夫さんと結婚しなさい」と背中を押してくれたことで、獄中結婚に踏み切ったのです。
藤本敏夫と嫁・加藤登紀子には娘が3人いる
3人の娘に恵まれた
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藤本敏夫さんと加藤登紀子さんは、3人の子供に恵まれています。
1972年に生まれた長女の名前は美亜子さん。現在は千葉県市川市在住だそうです。
次女の八恵さんは1975年に誕生。現在は歌手「Yae」として活動中です。母親と同じ道を歩んだということになりますね。
2009年以降は、「鴨川自然王国」で暮らし、歌手活動と両立をしているようです。
1980年に誕生した三女の美穂さんについては情報がありませんでした。
藤本敏夫と嫁・加藤登紀子には離婚の危機があった
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藤本敏夫さんと加藤登紀子さんは、仲睦まじい夫婦関係を送っていましたが、一度だけ離婚の危機に陥ったことがありました。
それは、藤本敏夫さんが出所後、環境問題や農業、政治にのめり込んでいったことが原因だったようです。
選挙に出馬して大喧嘩
1992年に突如、藤本敏夫さんはミニ政党を作り、参議院選に出馬すると表明。
加藤登紀子さんは大反対したそうで、何度も話し合い、大喧嘩に発展して「どうしても出馬するなら離婚するわよ」と脅しました。
ですが、藤本敏夫さんは折れることはなく、「男が一度決意したことを変えるわけにはいかない、離婚も仕方ない」と言ったそうです。
加藤登紀子さんは「分かった、選挙で離婚はないわ。女に二言はあるのよ」と、認めてくれたのです。
それでも、歌手活動を続ける上で特定の候補者の応援をオフィシャルにはできないので、「妻としては応援します」ということでした。
ただし選挙は落選してしまい、以降は出馬した記録は見当たりませんでした。
藤本敏夫の死因は?
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藤本敏夫さんが死去したのは、2002年7月31日のことでした。
気になる死因や、死去後の加藤登紀子さんに起きた変化を紹介します。
死因は肝臓がん
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藤本敏夫さんは、肝臓がんを患い、58歳で死去しています。
闘病生活を続けていましたが、最期は、自ら「もういいだろう」と言って自身の力を振り絞って酸素マスクを外してしまったのだとか。
藤本敏夫さんが死去してからの加藤登紀子さんは、「毎日共に食事を摂っていたのに急に寂しくなってしまった」と心境を明かしています。
そんな時、藤本敏夫さんが作っていた味噌を使って味噌汁を何気なく作ったところ、とても美味しいと感じ、それ以降は味噌汁が大好きになったのだとか。
藤本敏夫の死去後① 没後10年のイベントが行われた
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藤本敏夫さんが死去した後のことについて見ていきましょう。
藤本敏夫さんが残した「鴨川自然王国」は現在も続いており、今でも藤本敏夫さんを偲ぶ人達が沢山いるようです。
偲ぶ会に200人が参加
死去から10年が経過した2012年、「鴨川自然王国」において藤本敏夫さんを語る会が開催されました。
当日は、生前に交流のあった農業従事者や、藤本敏夫さんの思想に賛同している200人が集まる盛況ぶり。
イベントは2部構成で、第1部は「今こそ農業の時代〜藤本敏夫氏から託された未来〜」をテーマにしたセッション、第2部は加藤登紀子さんとYaeさんが歌を披露しました。
藤本敏夫の死去後② 加藤登紀子が王国を継いだ
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現在も続いている鴨川自然王国は、藤本敏夫さん死去後、加藤登紀子さんが後を継いでいます。
自然に囲まれた生活を送る中で、現在は色々と考えが変わってきたと加藤登紀子さんは語りました。
王国を終の棲家に
鴨川自然王国を継いだ加藤登紀子さんは、自然の中で暮らす豊かさと共に、厳しさも実感したといいます。
南房総が甚大な被害を受けた、2019年の台風被害です。
しかし、地元に長く住む人々はこういった災害に遭っても慌てず、むしろ加藤登紀子さんをお見舞いをしてくれるなど、力強さを感じたと語っています。
また、2020年以降に起きた新型コロナウイルスの影響で、自粛を経験してからというもの、鴨川自然王国を終の棲家に、という考えが自然とわいてきたそうです。
若い人をはじめ多くの人が都会から移り住んでくるようになり、「鴨川に全ての拠点を移すものありだな」と価値観が大きく変わっていると明かしています。
まとめ
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藤本敏夫さんは、1960年代後半から1970年代前半にかけて、著名な学生運動指導者として知られていました。
かつて2回逮捕された経歴も持っています。
プライベートでは、歌手の加藤登紀子さんと結婚。既に歌手として成功していた加藤登紀子さんに、学生運動の集会で歌を披露して欲しいと藤本敏夫さんがオファーしたことが馴れ初めです。
このオファーは断わられたものの、その後、2人は交際に発展。1972年に、藤本敏夫さんが収監中に獄中結婚をしています。
服役を終えた藤本敏夫さんは「鴨川自然王国」を設立し、新たな人生をスタート。
2002年に肝臓がんを患い死去しています。加藤登紀子さんや娘のYaeさんが「鴨川自然王国」を引き継ぎ、現在に至ります。
自然の大切さを学べる場所なので、家族で訪れても楽しい場所ですね。
藤本敏夫さんのご冥福をお祈りします。