美空ひばりさんらと「三人娘」として一世を風靡し、高倉健さんとの結婚でも知られる歌手の江利チエミさんが話題です。
この記事では江利チエミさんの身長、波乱に満ちたその生涯、代表曲、異父姉や異母弟ら家族、元旦那の高倉健さんとの子供や離婚原因、死因についてまとめました。
この記事の目次
- 江利チエミのプロフィール
- 江利チエミの身長は五尺一寸五分
- 江利チエミの生涯① 12歳の時に歌手として活動を開始
- 江利チエミの生涯② 15歳でレコードデビューし大ヒットを果たす
- 江利チエミの生涯③ 美空ひばり、雪村いづみとの「三人娘」で一世を風靡
- 江利チエミの生涯④ 女優としても人気を博す
- 江利チエミの生涯⑤ 晩年は波乱万丈だった
- 江利チエミの代表曲
- 江利チエミの家族① 父親は音楽家の久保益雄
- 江利チエミの家族② 母親は喜劇女優の谷崎歳子
- 江利チエミの家族③ 姉(異父姉)の吉田よし子は高倉健との離婚原因
- 江利チエミの家族④ 弟(異母弟)は元歌手の益巳健
- 江利チエミの家族⑤ 元旦那は俳優の高倉健
- 江利チエミは高倉健との子供を授かるも重度の妊娠高血圧症候群で中絶
- 江利チエミと元旦那の高倉健の離婚の原因やその後
- 江利チエミの死因
- まとめ
江利チエミのプロフィール
江利チエミのプロフィール
本名 :久保智恵美
生年月日:1937年1月11日
没年月日:1982年2月13日(享年45歳)
出身地 :東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)
血液型 :A型
江利チエミさんは、戦後の時代から昭和後半にかけて活躍した歌手で、美空ひばりさんらとともに「三人娘」と呼ばれ社会現象になるほどのブームを起こしました。
また、女優としても活躍し、映画版やドラマ版の「サザエさん」の主人公・サザエさん役がよく知られています。
国民的人気俳優であった高倉健さんの元妻としても知られています。
今回はこの江利チエミさんについて紹介していきます。
江利チエミの身長は五尺一寸五分
下のツイートによると、1957年発売の雑誌「平凡」に江利チエミさんの身長は「五尺一寸五分」と記載があるようです。
メートル法に直すと、江利チエミさんの身長は大体「156cm」ほどという事になります。
1957年 平凡より#三人娘#美空ひばり 五尺一寸五分 十二貫五百#江利チエミ 五尺一寸五分 十二貫五百#雪村いづみ 五尺三寸 十二貫 二十歳
— 白鳳(ハクホウ) (@hakuho89) April 9, 2020
身長は尺で表示
体重は貫で表示していますけど、今だったら体重は載せないですよね。 pic.twitter.com/zuvsD8E56y
江利チエミの生涯① 12歳の時に歌手として活動を開始
江利チエミさんは、クラリネット奏者、ピアノ奏者、三味線奏者として活躍した音楽家の父・久保益雄さんと、東京少女歌劇出身で、喜劇女優として浅草軽演劇などで活躍した母・谷崎歳子さんとの間に3人の兄を持つ末娘として生まれました。
江利チエミさんは12歳の時に、家族の生活を支えるために歌手として活動を始め、「エリー」という芸名でアメリカ軍の進駐軍のキャンプを回ってジャズを歌い、進駐軍のアイドル的存在となりました。
江利チエミの生涯② 15歳でレコードデビューし大ヒットを果たす
江利チエミさんは、14歳の時にキングレコードのオーディションに合格し、15歳になったばかりの1952年1月23日に、「テネシーワルツ/家へおいでよ」をリリースしてレコードデビューを果たしました。
このレコードは23万枚の大ヒットを記録し、さらにこのデビュー年には映画「猛獣使いの少女」に主演し、「美空ひばり以来の天才少女」と評されました。
1953年には紅白歌合戦への出場も果たし、その後、1968年まで計16回の出場を果たしています。
江利チエミの生涯③ 美空ひばり、雪村いづみとの「三人娘」で一世を風靡
江利チエミさんはジャズやラテン、ポップスなど様々なジャンルの海外の名曲を見事に歌いこなし、それまであまり日本人に馴染みのなかった西洋音楽ブームの火付け役となりました。
瞬く間に人気歌手となった江利チエミさんは、メジャーデビュー翌年の1953年には招待を受けて渡米し、ロサンゼルスやハワイでの公演も成功させています。
アメリカからの帰国後、えりちえみさんは、自身と同じ1937年生まれの2人の人気歌手、美空ひばりさんと雪村いづみさんと共に「三人娘」と呼ばれるようになって一大ブームを巻き起こし、1955年の「ジャンケン娘」、1956年の「ロマンス娘」、1957年の「大当り三色娘」、1964年の「ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば」と、3人の主演映画が次々と公開されるなど、一世を風靡しました。
江利チエミの生涯④ 女優としても人気を博す
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江利チエミさんは女優としても人気を博し、1956年に第一作が公開された映画「サザエさん」シリーズでは主役のサザエさんを演じて大ヒットを記録し、以降1961年までに10シリーズが公開されました。
また、1965年から1967年にかけてTBSで放送されたテレビドラマ版でもサザエさん役を務め、舞台版でも主演するなど、江利チエミさん最大の当たり役となりました。
「唄祭りロマンス道中」、「ジャズ娘誕生」、「チエミの婦人靴」などに主演した他、演技の面でも評価され、京都市民映画祭の優秀助演女優賞を受賞した1962年公開の映画「ちいさこべ」をはじめとして「ふんどし医者」など、生涯を通じて約50本の映画に出演されています。
舞台女優としても活躍し、1963年には日本において初のブロードウェイ・ミュージカル公演となる東京宝塚劇場での「マイ・フェア・レディ」に主演し、テアトロン賞(東京演劇記者会主催の演劇賞)、毎日演劇賞、ゴーデンアロー賞に輝いています。
舞台での代表作としては、「アニーよ銃をとれ」、「お染久松」(芸術祭奨励賞受賞)、「芸者春駒」、「白狐の恋」(芸術祭優秀賞受賞)、「春香伝」、「花木蘭」などがあります。
江利チエミの生涯⑤ 晩年は波乱万丈だった
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歌手、女優として一時代を築いた江利チエミさんでしたが、その晩年は波乱に満ちたものでした。
詳しくは後述しますが、江利チエミさんは東映映画で共演した俳優の高倉健さんと1959年に結婚し、1962年には子供を妊娠したものの、重度の妊娠高血圧症候群により中絶を余儀なくされています。
さらに、3人の兄のうち2人が相次いで若くして亡くなり、自らの子供のように可愛がっていた甥っ子も電車事故で不慮の死を遂げます。異父姉とのトラブルが原因で旦那・高倉健さんと離婚する事になり、体調面でもポリープによる声帯の手術や自宅を火災で失うなどの不幸が重なりました。
そして、江利チエミさんは1982年2月13日に45歳の若さで亡くなっています。死因などについては後半で改めて紹介します。
江利チエミの代表曲
続けて、江利チエミさんの代表曲をいくつか紹介します。
江利チエミの代表曲① テネシー・ワルツ
「テニシー・ワルツ」は、江利チエミさんのデビューシングルで23万枚の大ヒットを記録しました。
江利チエミの代表曲② ツゥー・ヤング
「ツゥー・ヤング」は、江利チエミさんの2ndシングルで、これも15万枚の大ヒットを記録した曲です。
江利チエミの代表曲③ ゴメンナサイ
「ゴメンナサイ」は1953年にアメリカでレコーディングされた曲です。
アメリカの大手キャピトル・レコードからリリースされ、日本人として史上初めてアメリカのヒットチャートにランキングしたという伝説がある曲です。ただし、このキャピトル・レコード版は現在まで発見されていません。
江利チエミの代表曲④ 酒場にて
この「酒場にて」は1973年にリリースされ、江利チエミさんにとっての久々のヒットとなった曲でした。この曲の2年前、江利チエミさんは高倉健さんと離婚されています。後述しますが、この離婚の原因になった出来事があまりにも不幸な内容であったため、この曲で歌われている心情がそれとシンクロして多くの人々の共感を呼びました。
江利チエミの家族① 父親は音楽家の久保益雄
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ここからは、江利チエミさんの家族についても紹介していきます。
江利チエミさんの父親は、音楽家として活躍した久保益雄さんです。江利チエミさんの父の久保益雄さんは、独学でクラリネット奏者になりますが、戦争中に徴用された工場での作業中に指を痛め、その後はピアノを独学で学んでピアノ奏者となりました。
江利チエミさんが生まれた頃は、吉本興行に所属してバンドマスターを務め、当時の吉本の大スターだった三味線漫談の柳家三亀松さんの相三味線やピアノ伴奏を担当しました。
しかしその後、この柳家三亀松と揉め、それが原因となって吉本興行を解雇されて仕事を失っています。これによって生活が困窮したため、当時12歳だった江利チエミさんは少女歌手として進駐軍のキャンプを周り、家族の生活を支えました。
当時はこの父親がマネージャー、一番上の兄が付き人を務めました。
父の久保益雄さんは、江利チエミさんが亡くなった8年後の1990年に84歳で他界されています。
江利チエミの家族② 母親は喜劇女優の谷崎歳子
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江利チエミさんの母親は、東京少女歌劇(旭少女歌劇団)で活躍後、吉本興業に所属して浅草で喜劇女優として人気を得ていた谷崎歳子さん(本名・久保と志)です。
柳家金語楼劇団の看板女優としても活躍し、映画にも出演されています。
同じく吉本にミュージシャンとして所属していた久保益雄さんと結婚後、4人の子供を出産し、その中の末娘が江利チエミさんでした。
そんな母・谷崎歳子さんが、江利チエミさんが幼い頃に病気を患って寝たきりになりますが、最後まで映画女優としてのカムバックを望まれていたそうです。
しかし、母の谷崎歳子さんは、江利チエミさんのレコードデビューを待たず1951年6月に46歳の若さで他界されています。死因は脳溢血でした。
江利チエミの家族③ 姉(異父姉)の吉田よし子は高倉健との離婚原因
江利チエミさんは3人の兄を持つ末娘として生まれていますが、実は母親の谷崎歳子さんは東京少女歌劇に所属していた頃にその座長と結婚していた過去があり、その元旦那との間に子供が1人生まれています。
この子供が、江利チエミさんの異父姉にあたる吉田よし子という女性で、谷崎歳子さんが元旦那んと別れ、久保益雄さんと再婚した時に養子に出されています。
この生き別れになった異父姉の吉田よし子さんは、名古屋市で仕立て屋の男性と結婚して暮らしていましたが、江利チエミさんが人気歌手になっているのを知ると、ファンの1人として江利チエミさんに近づきました。
江利チエミさんがこのよし子さんが自分の異父姉だと知るのは、それから2〜3年後の事だったそうです。
それからさらに10年ほどが経った頃、異父姉のよし子は病気がちになり、旦那と別れたと騙り(実際には離婚はしていなかった)子供達を連れて江利チエミさんを頼ってきました。
江利チエミさんは姉を哀れに思い、住み込みの家政婦として働いてもらう事を決めます。当時、江利チエミさんは既に高倉健さんと結婚されていましたが、高倉健さんはよし子と子供らを快く受け入れ、親子で生活できるようにと庭に離れを建ててあげています。
江利チエミさんと高倉健さんの信頼を得た異父姉のよし子は、実印を預かって財産の管理を任されるようになり家族同然の存在となります。
しかし、この頃からよし子は、江利チエミさんと高倉健さんの双方に、お互いの根も葉もない誹謗中傷を言葉巧みに吹き込むようになり、江利チエミさんと高倉健さんは次第に相互不信に陥り、別居に追い込まれます。
さらに、異父姉・よし子は、金銭管理を任されていた立場を利用して江利チエミさんの財産を横領し、無断で当時の価値で1億8千万円もの投資をした上、江利チエミさんの名義で1700万円もの借金をし、その利息を支払うためにさらに借金を重ねて、江利チエミさんの実家の土地建物の権利までも債権者に渡してしまいます。
それだけにとどまらず、異父姉のよし子は、週刊誌などのメディアに江利チエミさんと高倉健さんの根も葉もない誹謗中傷を吹聴し、これが最終的に離婚の原因となりました。
挙げ句の果てに、異父姉のよし子は失踪して自殺未遂を起こすパフォーマンスまでも見せてメディアの関心を惹き、さらに江利チエミさんや高倉健さんの家庭内の事情を有る事無い事を暴露するなどの誹謗中傷を続けました。
ここに及んで、ついに江利チエミさんは異父姉のよし子を告訴し、1974年3月11日に裁判所は、有価証券偽造同行使、有印私文書偽造同行使の罪で、異父姉のよし子に懲役3年の有罪判決を下しています。
江利チエミさんは、この異父姉のよし子によって莫大な借金(当時の価値で2億円とも4億円とも言われた)を背負わされますが、全てを自分の責任として自己破産を選択せず、地方営業などをこなして全額返済されています。
江利チエミの家族④ 弟(異母弟)は元歌手の益巳健
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江利チエミさんには母の違う弟も1人います。この弟さんは益巳健の芸名で歌手としてデビューされています。
江利チエミさんはこの弟の益巳健さんを可愛がられていたようで、この芸名を採取的にOKしたのも江利チエミさんだったそうです。
この弟・益巳健さんは、「情熱ARIGATO」、「自由であれば」、「渚・スターダスト・クラブ」などの数曲のレコードを発表しましたが、程なくして歌手としては引退され、その後は芸能界の裏方の仕事をされていたようです。
江利チエミの家族⑤ 元旦那は俳優の高倉健
江利チエミの旦那・高倉健のプロフィール
本名 :小田剛一(おだ・たけいち)
生年月日:1931年2月16日
没年月日:2014年11月10日
出身地 :福岡県中間市
身長 :180cm
血液型 :B型
江利チエミさんの元旦那さんは、国民的人気俳優であった高倉健さんです。
江利チエミさんは、1956年にゲスト出演した東映映画「恐怖の空中殺人」での共演をきっかけに高倉健さんと知り合い、1959年2月16日の高倉健さんの28歳の誕生日に正式に結婚されています。
江利チエミさんは高倉健さんとの結婚を機に、一時は家庭に入るとして芸能活動を辞めていますが、結婚から1年後の1960年には早くも芸能界に本格復帰されています。
江利チエミは高倉健との子供を授かるも重度の妊娠高血圧症候群で中絶
出典:https://mainichigahakken.net/
江利チエミさんと元旦那さんの高倉健さんとの間には子供はいません。
江利チエミさんは、高倉健さんとの結婚から3年目の1962年に待望の子供を授かりますが、重度の妊娠高血圧症候群を発症し中絶を余儀なくされました。
江利チエミさんは子供を強く望んでいたという事でしたが、その後はついに子宝に恵まれる事はありませんでした。
江利チエミと元旦那の高倉健の離婚の原因やその後
江利チエミさんと元旦那の高倉健さんは、結婚12年目の1971年9月3日に離婚しています。
江利チエミさんと元旦那の高倉健さんの離婚の原因は、前述の通り江利チエミさんの異父姉のよし子による策謀でした。
江利チエミさんは高倉健さんと別居に追い込まれましたが、さらに、異父姉のよし子によって莫大な借金を背負うようになると、「これ以上高倉健さんに迷惑をかけられない」と考えるようになり自ら離婚を申し入れています。
しかし、高倉健さんは離婚後も江利チエミさんの事を想い続けていたそうで、撮影の合間に楽屋で江利チエミさんの代表曲「テネシー・ワルツ」を黙って1人聴いている事がよくあったのだそうです。
また、ある関係者は、離婚直後に高倉健さん宛に江利チエミさんから電話がかかってきた場面を目撃しています。この方によると、江利チエミさんの方が「健さん、もう一度、一緒になれないかしら」と離婚を撤回したいと申し入れてきたそうです。しかし、高倉健さんは江利チエミさんに諭すように「お前がいくら謝っても…。もっと…もっと早くに、なんでそう考えなかったんだ。こうなった以上はもう一緒になれない。戻れない」と、自身もとても辛そうに答えられていたというです。
離婚からちょうど10年後の1982年2月に江利チエミさんは45歳の若さで亡くなっていますが、高倉健さんは江利チエミさんの死を非常に悲しみ、離婚した事を悔やんでいたという逸話もあります。
高倉健さんの近しい関係者によれば、江利チエミさんが亡くなった時、健さんは葬儀には出席しなかったものの本名の「小田剛一」の名前で献花し会場の外で手を合わせてたそうです。また、江利チエミさんの自宅の裏手に回って1時間以上も手を合わせ、そのすぐ後には真冬の2月だったにも関わらず、比叡山へと登り、飯室不動堂で滝行をされたそうです。
高倉健さんは、江利チエミさんの死後も生涯独身を貫き、命日にはからなず墓参りをして、花を供え、自身の名前を記した線香をたむけ続けていたそうです。
江利チエミの死因
江利チエミさんは45歳という若さで突然に亡くなりましたが、その死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に入ったのが原因となった窒息と発表されています。
江利チエミさんの死因については、数日前から風邪を引いていて体調が悪かったにも関わらず、ウイスキーの牛乳割りを飲み、暖房をつけたままの部屋で風邪薬を飲んで寝入ってしまった事が原因になったのではとも言われています。
江利チエミさんのお墓は東京都世田谷区瀬田一丁目の浄土宗法徳寺にあり、現在もファンが訪れているという事です。
まとめ
今回は、戦後の時代に一世を風靡した歌手で、俳優の高倉健さんの元妻としても知られる江利チエミさんについてまとめてみました。
江利チエミさんは音楽家の父親と元喜劇女優の母親の間に末娘として生まれ、戦後の貧しい時期に家族を支えるため、12歳から歌手として活動を始め、15歳でレコードデビューを果たすと、その歌唱力で絶大な人気を得ました。当時は、同年生まれの美空ひばりさんと雪村いづみさんと共に「三人娘」と呼ばれ、国民的な人気を集める存在でした。
家族は、両親と3人の兄の他、異母弟に歌手として活躍した益巳健さんと、よし子という異父姉がいました。
デビュー以来活躍を続けた江利チエミさんでしたが、その生涯は波乱に満ちており、望んでいた子供を病気によって中絶せざるを得なくなり、信頼していた異父姉のよし子に裏切られて、莫大な借金を背負わされ、それが原因となって旦那さんの高倉健さんとも離婚に追い込まれました。
江利チエミさんは莫大な借金を数年かけて全額返済されましたが、その矢先の1982年2月に45歳という若さで亡くなっています。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に入ったのが原因となった窒息と発表されています。