ケーシー高峰さんは、医療用語を駆使してエロネタで笑いを取る「医事漫談」で一世を風靡した伝説的漫談家です。
今回は、ケーシー高峰さんの若い頃の活躍をはじめ、学歴や名言だらけのネタ集、医師免許を持っているのか、現在や死因についてなどをまとめました。
この記事の目次
ケーシー高峰のプロフィール
ケーシー高峰のプロフィール
本名 :門脇貞男
生年月日:1934年2月25日
出身地 :山形県最上郡最上町
身長 :174cm
ケーシー高峯さんは、白衣姿で聴診器を首から下げて黒板やホワイトボードの前に立ち、医療用語を交えながら際どい下ネタお色気系のネタや時事問題などに鋭く切り込んだネタを軽快な口調で語り笑いを取る「医事漫談」で人気を博した伝説的漫談師です。
「ドクター」の愛称でお茶の間で親しまれ、医事漫談だけでなく司会業や俳優としても類稀なる才能を発揮し、芸能の世界で一時代を築き上げました。
故・立川談志師匠や、お笑い界のレジェンド・ビートたけしさんといった芸を極めた達人達も、ケーシー高峰さんの芸を愛し、そのスケールの大きな人柄も尊敬してやまなかったといいます。
今回は、そんな芸の道のレジェンドともいうべきケーシー高峰さんを紹介します。
ケーシー高峯の若い頃① 生い立ちと学歴
ケーシー高峰さんは、1934年、山形県最上郡最上町で、産婦人科医の母・シヅエと商社マンの父の間に生まれました。母方は代々医師の家系で、母のシヅエさんは産婦人科医として生涯現役を貫き、兄弟や親戚も医師や歯科医師ばかりだったそうです。
ケーシー高峰さんも医師の道を継ぐべく山形県立新庄北高等学校を卒業後、日本大学の医学部へと進学します。しかし、医学の道はあまり肌に合わなかったようで、元々芸能の世界に興味があったケーシー高峰さんは当時流行っていたモダン・ジャズやラジオに傾倒して学業がおろそかになり、ほどなくして日本大学芸術学部へと転部しています。
また、ケーシー高峰さんによれば、風貌を理由に教授からいじめを受けるなどしたのも医学の道から芸術の道へと方向転換した理由だったそうです。
ケーシー高峰の大学時代の同級生は宍戸錠
そんなケーシー高峰さんの芸術学部の同級生に、昭和のスター俳優・宍戸錠さんがいます。ケーシー高峰さんと宍戸錠さんは気が合ったようで大学時代は悪友としてつるみ、共に2年で大学を中退してからも付き合いは続き、お互いの部屋に泊まり合うような仲だったそうです。
ケーシー高峰さんは、その頃の宍戸錠さんが女性にモテモテだったというエピソードを度々「悔しかった」とネタにされています。
互いに老年を迎えてからもその関係性は全く変わらなかったようで、2011年の東日本大震災のあとに、福島県いわき市に住んでいたケーシー高峰さんを宍戸錠さんが訪ねてきた際、2人で街を歩いていたら、それを見つけた地元の女性達から宍戸錠さんに向けて「キャー、錠さ~ん!」と黄色い歓声が飛んだのだそうで、
それをケーシー高峰さんは「俺は25年もあの街に住んでいるのに一度もそんな声をかけられた事ないのにイヤになっちゃうよ」と笑って見せ、「ジョーちゃんは今でもスターなんだな」と改めて思ったと嬉しそうに話されています。
ケーシー高峰の若い頃② キャバレークラブMC「坊られい」として有名に
さて、医学部から芸術学部へと転部したケーシー高峰さんでしたが、この頃に「坊られい」という芸名でジャズクラブの司会を務め、その軽快な語り口調で人気を博し、当時の業界ではなの知れた存在になります。
この芸名「坊られい」の由来は、当時のイタリアの有名歌手・ドメニコ・モドゥーニョのヒット曲「ヴォラーレ」とぼったくられる事を意味する「ぼられた」をかけたものでした。
ケーシー高峰の若い頃③ 下ネタ漫才コンビ「大空はるか・かなた」を結成
出典:https://tokyomanzai0408.com/
日本大学芸術学部を2年で中退したケーシー高峰さんは、まず漫才コンビ「リーガル天才・秀才」に弟子入りしようとしますが断られ、その後、「大空一門」を率いる人気漫才師・大空ヒットさんに弟子入りして寄席の世界へと入門します。
その後、ケーシー高峰さんは、「青空一門」を率いる漫才師・コロムビア・トップの門下だった大空はるか(本名:横山あきおさん、ウィキペディアでは後の青空はるおと表記されているが誤り)さんと漫才コンビ「大空はるか・かなた」を結成し「かなた」を名乗って南千住の演芸場「栗友亭」を拠点に一定の人気を得ます。
しかし昭和30年代の半ば頃から、「大空一門」と「青空一門」が対立する「東京漫才界分裂騒動」が勃発し、それぞれの門下だった「大空はるか・かなた」の2人は解散に追い込まれてしまいます。
ケーシー高峰の若い頃④ 漫談家に転身し大ブレイクを果たす
ケーシー高峰さんは、「大空はるか・かなた」が解散に追い込まれた後の1968年、「ケーシー高峰」に改名して漫談家に転身し、漫才師時代のエロ路線と医学部に通っていた経歴を掛け合わせる芸風を編み出して大ブレイクを果たします。
「ケーシー高峰」という芸名については、医学知識を交えたネタを扱う事から1960年代に大ヒットしたアメリカのメディカルドラマ「ベン・ケーシー」から「ケーシー」を取り、「高峯」の屋号は、ケーシー高峰さんが子供時代に憧れていたという女優・高峰秀子さんに由来して付けられたそうです。
専門的な医学知識と、かなり際どいエロティックネタを巧みに掛け合わせたネタは大いにウケ、ケーシー高峰さんは一躍人気漫談師になります。ケーシー高峰さんが挨拶に使った「グラッチェ」「セニョール」「セニョリータ」などの当時は聞き慣れなかった外国語は流行語にもなりました。
テレビの一般家庭への普及が進んだこともあって、テレビ番組でもケーシー高峰さんの医事漫談は人気を博しお茶の間を爆笑の渦に巻き込みました。1969年からは演芸番組「おいろけ寄席」の司会にも抜擢されるなど人気司会者としての地位もこの頃に確立。
ケーシー高峰の若い頃⑤ 俳優としても存在感を示す
1970年からは、ピンク映画の産婦人科医や性病科のヤブ医者役として俳優としてもデビューし、テレビドラマでもコミカルな役柄で人気を集めるなど、演技の世界でも瞬く間にその才能を示しました。
1981年のNHK製作のドラマ「夢千代日記」では、一転してシリアスな医師の役を演じて幅広い演技力を見せて高く評価され、本格的に俳優として起用されるようになります。
カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した映画「楢山節考」や、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズ、「学校Ⅲ」など数々の名作映画に出演。2時間ドラマや大型時代劇でも名脇役として欠かせぬ存在となり、俳優としても大成功を収めたのでした。
また、この頃には歌手としてもデビュー「そりゃあないぜセニョリータ」「いこうぜセニョール」など、多数のヒット曲を残しています。
ケーシー高峰の名言だらけの医事漫談ネタ集
ケーシー高峰さんの大ブレイクのきっかけになった名言だらけの「医事漫談」のネタをいくつか紹介します。
あのー、医学的に言うとね、大きい小さいは関係なくて、最初に愛撫するプロセスが日本人の男性は下手なの。
よくあのー、吸ってから揉む人いるけど、本来ならば揉んでから吸うのが正式な順序なの。吸ってから揉むと喧嘩になる。これをすったもんだ。
私も数多くの患者を診てきたが、外人の赤ん坊で、自分のオ○ッコやウン○をやたら手で触ってこね回す子がいた。
私が治療してあげた後、やがて立派な俳優になったが、彼の名はショーン・コネリーという。
肥満がすすんでくると、運動不足になる。
散歩に出るのも億劫だ。これを医学的には出不精(デブ症)という。
また、太った人は、役所に届け出る義務が生じる。脂肪届けだ。
ケーシー高峰さんは、こうした医学知識とエロを掛け合わせたネタを軽快な口調でリズミカルに話し笑いを取るスタイルを確立しました。
また、こうした下ネタ系のネタ以外にも、その時々の時事ネタを痛烈に皮肉る芸風でも人気を集めました。
シックハウス症候群が、最近問題になっている。特に、みんな胸が悪くなる。こんな家を「ムネオハウス」という。
こちらは、2002年に取りざたされた、鈴木宗男議員の利権問題をきっかけに流行語になった「ムネオハウス」を交えた時事ネタです。鈴木宗男議員の利権に国民の胸糞が悪くなっている空気を見事にお笑いネタに変えてしまっています。
放射能の原産地、いわき市よりやってまいりました。皆様方に放射能をお分けしたいと思います。
これは、当時、福島県いわき市に在住だったケーシー高峰さんが、東日本大震災の原発事故の後に「笑点」に出演した際、冒頭で突っ込んできた時事ネタです。この過激な発言の後、ケーシー高峰さんは着用していいた白衣をバサバサと払う仕草を見せました。
放射能漏れによって深刻な被害が出て、政府の説明もどこか不透明で国民に不安が広がっていた空気感の中で、全国ネットの「笑点」にこのネタを持ってくるという批判を恐れない覚悟と、一見不謹慎に見えながら力一杯の皮肉で原発事故に抗議して見せたその姿に、笑いと同時に感動を覚えた人も多かったようです。
ケーシー高峰は医師免許を持っている?
医学の専門的知識を巧みに交えた「医事漫談」で大ブレイクしたケーシー高峰さんなので、医師免許を持つ本物の医師だと思っていた方も多いようです。
しかし、ケーシー高峰さんは前述したように日本大学医学部から途中で転部しており、医師免許は取得されていません。
ただ、芸の事になると非常に勉強熱心だったというケーシー高峰さんは、医学生時代に習得した医学知識以上の知識を漫談家になってからも熱心に学ばれていたそうです。
また、医師家系出身であるケーシー高峰さんが、医学にまつわるブラックジョークを放つ皮肉さも人気を集めた一因でした。
ケーシー高峰の現在は死去している~死因は「肺気腫」
現在でも、下品ながらウィットに富んだ洒落た漫談芸を披露していそうなケーシー高峰さんですが、残念ながら2019年4月8日に亡くなられています。
ケーシー高峰さんは2005年に一度、「舌癌」を患っていますが、こちらは完治しています。この「舌癌」の療養中、ケーシー高峰さんが独演会を開催し、発声できない中で身振りと筆談だけでネタを展開し、客席のウケを大いに取って見せたエピソードは現在でも伝説的に語り継がれています。
自身の病気すら笑いに変えてしまうケーシー高峰さんでしたが、2018年9月BS朝日の「お笑い演芸館+」の出演を最後に、肺気腫を理由に全ての番組を降板し休業します。
その後、復活を目指して療養生活に入っていましたが、容態は一向に好転せず、2019年2月に病状が悪化して福島県いわき市の病院に入院し、同年4月8日に同病院で死去されました。享年は85歳。死因は「肺気腫」と発表されています。
葬儀は地元山形県にて家族葬で執り行われました。
まとめ
今回は、専門的な医療用語を交えたエロネタや時事ネタで笑いを取る「医事漫談」で人気を博した伝説的漫談家・ケーシー高峰さんについてまとめてみました。
ケーシー高峰さんは医者の家系の生まれで、日本大学の医学部へと進学して医者を目指していましたが、入学してすぐに芸能の世界へと道を変え芸術学部へと転部します。
その後、大学は2年で中退し、漫才コンビ「大空はるか・かなた」を結成して本格的に芸の道へと入り、その後「ケーシー高峰」に改名して漫談家に転身。医学部に通った経歴と漫才師時代に培ったエロネタを組み合わせた「医事漫談」によって大ブレイクを果たし、お茶の間に爆笑の渦を巻き起こしました。
そんなケーシー高峰さんは、80代を迎えても現役で活躍されていましたが、2018年に肺気腫に倒れ休業。そのまま体調は回復せず、2019年4月8日に福島県の病院で亡くなられました。最後にケーシー高峰さんのご冥福をお祈りします。