吉江豊さんは新日本プロレス・無我ワールド・ハッスルなどで活躍したプロレスラーですが、2024年3月に急逝し死因がワクチンではと現在噂があります。
今回は吉江豊さんの若い頃、結婚した嫁や子供、退団理由や死因を紹介します。
この記事の目次
- 吉江豊のプロフィール:身長180cm・体重160kgの巨漢プロレスラー
- 吉江豊の家族:兄弟はWAHAHA本舗の芸人・よしえつねお
- 吉江豊の若い頃の経歴① 新日本プロレスへ入門しプロレスラーに
- 吉江豊の若い頃の経歴② ドラマ出演歴も
- 吉江豊の若い頃の経歴③ ユニット・タッグで活躍
- 吉江豊の若い頃の経歴④ 新日本プロレス退団後、フリーで活動
- 吉江豊の若い頃の経歴⑤ 無我ワールドの旗揚げに参加後、再びフリーに
- 吉江豊の新日本プロレス退団の理由は?年俸の不満との噂も
- 吉江豊が結婚した嫁・美奈は一般人・馴れ初めは福田雅一の紹介
- 吉江豊と嫁・美奈の馴れ初めは福田雅一の紹介
- 吉江豊の子供はいない?これまで明言はなし
- 吉江豊の現在① 2024年に急逝・死因がワクチンという噂はガセ
- 吉江豊の現在② 通夜には100人以上のプロレス関係者が参列
- 吉江豊だけじゃない・急逝してしまったプロレスラーたち
- まとめ
吉江豊のプロフィール:身長180cm・体重160kgの巨漢プロレスラー
生年月日:1974年1月5日
出身地:群馬県
所属:フリー
吉江豊さんは身長180cm・体重160kgという恵まれた体格を生かしたプレイスタイルで活躍したプロレスラーです。
「フライングタンク」「桃色巨漢」などといった愛称で親しまれ、プロレス団体「新日本プロレス」などに所属。
2024年3月に出場した試合の直後に控え室で倒れ、50歳という若さで亡くなっています。
吉江豊の家族:兄弟はWAHAHA本舗の芸人・よしえつねお
吉江豊さんの兄は、元お笑い芸人のよしえつねおさんです。
かつてお笑い事務所「WAHAHA本舗」に所属しており、お笑い芸人・チェリー吉武さんらとともに、お笑いユニット「ラジークイーン」として活動していました。
また、テレビ朝日系列のバラエティ番組「銭形金太郎」にも”ビンボーさん”として出演したこともあります。
2008年にラジークイーン脱退&WAHAHA本舗を退所してからも芸人を続け、2015年からはお笑いタレント・佐々木孫悟空さんと、ユニット「ウンコチンコ」としても活動しています。
吉江豊は兄思いの弟だった
吉江豊さんは兄思いだったようで、よしえつねおさんが先輩レスラーに過度なイジられ方をした際には食ってかかったそうです。
上下関係が厳しいプロレスラーの世界、さらには普段怒ることがほとんどなかったという吉江豊さんだっただけに、目撃した人はとても驚いたといいます。
会場にアニキが来たときに、控室で先輩レスラーがアニキをちょっといじくったことがあった。お笑い芸人だからいじくられるのはしょうがないと思うんだけど、ちょっとやりすぎっぽいところがあった。そしたら、吉江がその先輩レスラーたちに、うちのアニキを粗末に扱うなみたいな感じで、食ってかかったというか抗議した。すごく真っすぐなやつなんだなと思いましたね
吉江豊の若い頃の経歴① 新日本プロレスへ入門しプロレスラーに
吉江豊さんは中学・高校と柔道をしており、初段を取得。そして樹徳高校を卒業したのちに、食品関係の会社で配達の仕事に就いていました。
その後、プロレスラーになるべく「アニマル浜口トレーニングジム」に通い始め、1994年にプロレス団体「新日本プロレス」へと入門。
同年、小島聡さんとの試合でプロレスラーデビューを果たしました。
しかし、デビューからわずか2戦目で右足首を骨折するという大怪我を負ってしまい、1年近くリングに上がれない日々が続きます。
ライバルにも恵まれず、伸び悩む日々が続きましたが、1998年に開催された長州力さんの引退試合に出場。1999年からは1年ほど海外で武者修行をしていました。
なお、1998年に新日本プロレスに入門した棚橋弘至さんは、当時の吉江豊さんについて以下のように振り返っています。
僕が新日本プロレスに入門したとき、吉江さんが寮長でした。新日本の練習は厳しい、道場は厳しいと聞いてびびりながら入門したんですけど、寮長の吉江さんがとても優しくていつも笑っていて、すごいちゃんこ食べて、ほっとしたのを覚えています。新日本の練習で受け身の練習があるんですけど、ダメージもあるし、息も上がる中で吉江さんの受け身が本当にあの当時、新日本の道場では一番でした
吉江豊の若い頃の経歴② ドラマ出演歴も
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吉江豊さんは、恵まれた体格を生かしてドラマにも出演したことがあります。
1999年にTBS系列で放送された特撮ドラマ「ウルトラマンガイア」第34話にプロレスラー役で出演。
2006年には、テレビ東京系列で放送されたドラマ「ライオン丸G」にもストリートギャング役で出演しました。
吉江豊の若い頃の経歴③ ユニット・タッグで活躍
吉江豊さんは2000年に永田裕志さん・中西学さん・福田雅一さんらとユニット「G-EGGS」を結成し、活動していました。
2002年からは「GHCタッグ王座」をかけて、森嶋猛さん・力皇猛さんら「ワイルドⅡ」に挑戦。惜しくも敗れてしまいますが、森嶋猛さんには翌月のシングル戦で勝利しています。
また、タッグにおいても2003年に棚橋弘至さんと「IWGPタッグ王座」を獲得。
2005年にも再び棚橋弘至さんとタッグを組み、プロレス団体「全日本プロレス」主催の「世界タッグ王座王者決定戦」に出場しますが、太陽ケアさん・ジャマールさんに破れています。
以降も活躍を続け、2006年には曙さんとのタッグも話題になりました。
吉江豊の若い頃の経歴④ 新日本プロレス退団後、フリーで活動
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2006年、新日本プロレスを退団した吉江豊さん。
フリーとなってすぐに、プロレス団体「ZERO1-MAX」からオファーを受け、マスクマン「Y2P-160kg」として出場します。
その後、”吉江豊”としては全日本プロレスのほか、プロレス団体「DRAGON GATE」などの興行に参加。
そのなかで、「ザ・グレート・ユタ」という新たなキャラクターも誕生しました。
吉江豊の若い頃の経歴⑤ 無我ワールドの旗揚げに参加後、再びフリーに
吉江豊さんは2006年にプロレス団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦に参加。のちに同団体へと入団しています。
また、同年には初めてプロデュースに挑戦し、故郷の群馬県前橋市で「吉江豊ふるさと祭り」を開催しました。
2007年には、無我ワールドの「DRAGON CUPトーナメント」で優勝を果たし、新団体「ドラディション」でもエースとして活躍。
それらと並行し、新日本プロレスやハッスルの興行でも活躍していました。
2009年にドラディションを退団し再びフリーになってからは、プロレス団体「プロレスリング・ノア」や、全日本プロレスなどが主催する試合に出場。
2012年に「全日本上尾大会」で再び負傷し、左足首を骨折・靭帯損傷という大けがでしたが、翌年の2013年に復帰しています。
ケガを乗り越えて無事復帰を果たした吉江豊さんでしたが、2015年に「全日本愛媛大会」に出場して以降、試合関連の情報が途絶えるように。
試合には出場していたものの、全盛期に比べて試合数が減少しつつありました。
吉江豊の新日本プロレス退団の理由は?年俸の不満との噂も
吉江豊さんは、新日本プロレスを退団した理由について明らかにしていません。
ネットなどではその後フリーに転身したことなどから、「年俸に対する不満があったのではないか」などと推測されています。
プロレスラーに関しては”退団からのフリー”という流れは珍しくなく、吉江豊さんが活躍した時期は新団体も数多く旗揚げされていました。
日本のプロレス団体は兼ねてよりのその経営の危うさが指摘されており、「それならフリーとして自分自身でやっていこう」と決断したのかもしれませんね。
その後も、いくつかのプロレス団体に所属するも最終的にはフリーに。
かつてのスター選手たちも新団体立ち上げなどに関わりつつ、最終的にはフリーとなる傾向にあったので、自然な流れだったとも言えるでしょう。
吉江豊が結婚した嫁・美奈は一般人・馴れ初めは福田雅一の紹介
吉江豊さんは2003年に結婚しています。
吉江豊さんは付き合う=結婚という考えだったそうで、お付き合いする時点で結婚についても伝えていたのだとか。
嫁・美奈さんは企業に勤めている一般人でしたが、2006年に吉江豊さんが新日本プロレスを退団するタイミングで退職。
以降、吉江豊さんのマネージャーとして夫婦二人三脚で活動してきました。
吉江豊と嫁・美奈の馴れ初めは福田雅一の紹介
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吉江豊さんと嫁・美奈さんの馴れ初めは、新日本プロレスの福田雅一さんによる紹介とのこと。
美奈さんと福田雅一さんが大学の同期だったそうで、美奈さんは紹介された瞬間に「この人とは長いお付き合いになる」と感じたといいます。
出会った時のことは今でも忘れません。大学の同期で新日本プロレスの福田(雅一)選手の紹介で出会った。その瞬間に、この人とは長いお付き合いになるという不思議な感覚があり、今思うとこれが俗にいう、ひと目ぼれだったんだなと思っております
ちなみに、美奈さんはかつて卓球選手として名を馳せていたそうです。
吉江豊の子供はいない?これまで明言はなし
吉江豊さんは子供について明言していません。
しかし、これまでに姪については言及していることなどから、自身の子供はいないのではないかと推測されています。
吉江豊の現在① 2024年に急逝・死因がワクチンという噂はガセ
吉江豊さんは、2024年3月にGメッセ群馬で開催された全日本プロレスの試合に出場。4ヵ月ぶりの実戦に挑みました。
井上凌さんとタッグを組み、大森北斗さん・崔領二さんと対戦。
試合中、大きなダメージを受けたわけでもなく、いつもと変わらないパフォーマンスを見せていましたが、試合後の控え室で体調が急変してしまいます。
吉江さんはこの日午後5時より開催された全日本プロレス群馬・高崎Gメッセ群馬大会に参戦。全日本の若手、井上凌とタッグを組み、大森北斗&崔領二組と対戦。昨年11月のドラディション後楽園ホール大会以来、4カ月ぶりの実戦で崔にブレーンバスターを決めるなど大暴れ。バックステージではコメントも出していたが、控室に戻った試合後、容体が急変。高崎市内の病院に運ばれたが、帰らぬ人となってしまった。
椅子に座り、寝ているかのようだったものの、全身蒼白で呼吸も脈も止まっていたそう。
関係者による心肺の蘇生措置が行われ、すぐに市内の病院に搬送。搬送中も電気ショックなどといった措置がとられましたが、意識が戻ることのないまま、同日中に死去しました。
享年50歳という若すぎる死を迎えた吉江豊さんの死因は断定されていないものの、検視のMRI画像から、心臓の動脈硬化が要因となったと言われています。
救急車内で電気ショックなどの措置も施されたが、意識を取り戻すことはなかった。その後、検視でMRIを撮影したところ心臓の疾患が見つかったという。美奈夫人は「心臓の血管2か所に動脈硬化があって『もしかしたら、それが原因だったかもしれない』ということでした」と明かす。そして「本当に突然で、残された者はどうしていいか分からないくらいで…」と続けた。
吉江豊さんが急逝した死因について、ネットなどでは新型コロナウィルスのワクチン接種によるものだと提唱する人もいましたが、この噂の信憑性は低いでしょう。
吉江豊さんの急逝とワクチンとの関連性についてなにも報じられていないどころか、ワクチンを接種したかどうかも不明の状態です。
吉江豊の現在② 通夜には100人以上のプロレス関係者が参列
吉江豊さんの通夜は、吉江豊さんの地元・前橋市の斎場で執り行われ、200人以上が参列。そのうちの半数以上がプロレス関係者だったといいます。
14日に前橋市内で行われた通夜には多くのプロレス関係者が出席。喪主を務めた美奈夫人は出席した約200人に感謝を述べた上で「突然の出来事で、本人が一番驚いているかと思います。お医者さまによると『本人は痛みも苦しみもほとんど感じずにいたのでは』というお話でした。とても寂しくて悲しいのですが、残された家族にとってこの言葉だけが救いです」と目に涙を浮かべた。
弔辞はタッグパートナーだった、新日本プロレスの代表取締役社長・棚橋弘至さんが務め、テンカウントによる弔鐘と吉江コールとともに出棺されました。
“追悼の鐘”を打ち終えると、「吉江兄弟最高の最強の弟。そして吉江美奈最愛のパートナー、180センチ、160キロ。吉江豊ー!」と遺影に向かって絶叫した。美奈さんは吉江さんの死因を心疾患と明かし、愛する夫を突然失ったことに「私自身これからどうしていけばいいのか答えが見つかりません」と張り裂けそうな思いを告白。そして参列者に対し、「さみしがりやの夫をたまに思い出してくれるとうれしいです」と望んだ。
吉江豊だけじゃない・急逝してしまったプロレスラーたち
吉江豊さん以外にも、若くして突然亡くなったプロレスラーの方々を紹介していきます。
① 曙
吉江豊さんの古巣・新日本プロレスの試合でも活躍した曙さん。
元は横綱力士として活躍し、その後K-1や総合格闘技にも挑戦。2005年以降はプロレスラーとしての活動を中心とし、全日本プロレス・ZERO-1などでは王座も獲得しています。
しかし、2024年4月に急逝。死因は心不全で享年54歳でした。
2024年4月11日、元横綱の曙太郎さんが、4月に心不全のために亡くなったことが報道で明らかになった。享年54歳。曙さんはアメリカ・ハワイ オアフ島出身。1988年三月場所で初土俵を踏み、1990年9月場所で幕内入り、1993年の三月場所で新横綱となった。幕内最高優勝11回の戦績を誇ったが、2001年の一月場所で引退。
同じハワイ出身の力士・小錦さんは訃報に際して、以下のようにコメントしています。
本当にショックで言葉がありません…..同じハワイ出身で弟のような存在でもありました。今はただゆっくり休んで欲しいです。今は悲しくて辛過ぎて何も話せないけど、いつか友人達と彼の思い出話をたくさんしたいと思います。
心よりご冥福をお祈り致します。
引用:曙さん追悼コメント
② 三沢光晴
三沢光晴さんは全日本プロレスでデビューし、同団体の社長も経験。退団後は、プロレスリング・ノアを旗揚げ・社長を務めながら現役プロレスラーとしても活躍していました。
全日本プロレス入団後、しばらくは2代目タイガーマスクとして活動。その後マスクを自ら試合中に脱ぎ捨て、三沢光晴として頂点を目指す。ジャイアント馬場が亡くなった1999年、一時的に全日本の社長となるが、馬場の妻の馬場元子との確執から2000年に全日を離脱、プロレスリング・ノアを立ち上げた。その後も社長業を務めながら第一線級のレスラーとしても活躍を続け、NOAHを一大勢力に育て上げた。
引用:三沢光晴
しかし、2009年に6月に急逝。死因は、同日に試合で受けたバックドロップでの頭部強打による頸髄離離断とされており、享年46歳でした。
事故から一夜明けた14日、広島県警中央署が三沢さんの直接の死因を明かした。「関係者から夜中に事情を聴取した。診断名は頸髄離断。事件性はありません」。タッグマッチで対戦した斎藤彰俊のバックドロップを浴びて、頭部を強打した際に首に大きな衝撃を受けたようだ。リングに倒れた直後にはわずかに意識があったが、すぐに心肺停止状態に陥った。
③ 朝陽
2024年2月には、女子プロレスラー・朝陽さんが急逝。享年21歳という早すぎる死を迎えました。
死因については詳細が明かされていませんが、不慮の事故と報じられており、様々な憶測が飛び交っています。
元女子プロレスラーで、朝陽さんが所属していたプロレス団体「アクトレスガールズ」のアドバイザーでもある風香さんは、一連の騒動を受けて以下のようにコメントを発表しました。
いろんな憶測が飛び交っていますが、試合や練習中のことではありません。選手に直接質問をしないでというリリースから、何か隠蔽しようとしてるという意見もありますが、まだ精神状態が不安定の選手もいるので今はどうかそっとしておいてくださいという理由です
引用:女子レスラー朝陽さんが21歳で急逝 風香氏が死因「不慮の事故」巡り説明「臆測が飛び交っていますが試合や練習中のことではありません」
朝陽さんは14歳の時に女子プロレス団体「アイスリボン」からデビュー。初戦の対戦相手がレジェンド・豊田真奈美さんという、”期待の新人”として大きな注目を集めていました。
朝陽さんは2017年8月27日、女子プロレス団体「アイスリボン」後楽園ホール大会でデビュー。当時14歳、中学3年生の彼女は“飛翔天女”豊田真奈美さんがデビュー戦の相手を務めたことからもわかる通り、期待の新人として初陣を飾った。
しかしその後は結果が出せず、自力初勝利を挙げたのはデビューから2年4ヵ月後の2019年。137戦目にしてやっとつかんだ勝利に喜びを爆発させていました。
その後、アクトレスガールズへと移籍。これからが期待されていた中での訃報となりました。
まとめ
吉江豊さんはプロレスラーで、身長180cm・体重160kgという巨漢を生かしたプレイスタイルで活躍していました。
新日本プロレスからデビューし、無我ワールドやハッスルなどでも活躍。退団理由については明らかにされていませんが、退団後は主にフリーで活動していました。
プライベートでは2003年に結婚。嫁・美奈さんは、吉江豊さんが新日本プロレスを退団したことを機にマネージャーとなり、公私ともに吉江豊さんを支えていました。
残念ながら、2024年に急逝してしまった吉江豊さん。
今後試合が見られないのは寂しいですが、これまでの活躍はいつまでもプロレスファンの心に残り続けることでしょう。