アンパンマンの生みの親やなせたかしさんは、その生涯が波乱万丈だと話題です。
今回はやなせたかしさんの出身、なぜアンパンマンが誕生したか、晩年や死因、弟や結婚した嫁や子供など家族、遺産の行方、人柄や仙台との関わりを紹介します。
この記事の目次
やなせたかしはアンパンマンの原作者
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原作者のやなせたかし
日本の国民的人気キャラクター「アンパンマン」の原作者として知られる、やなせたかしさん。
アンパンマンの他にも、絵本作家やデザイナー、作曲家など様々な顔を持っていました。
2013年10月13日、惜しまれながら亡くなりました。
やなせたかしのプロフィール
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やなせたかし
生年月日: 1919年2月6日
没年月日: 2013年10 月13日
出身地: 東京都北区
活動期間: 1947年~2013年
やなせたかしの生涯① 出身地など生い立ち
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やなせたかしさんの出身地は東京都北区となっていますが、幼少期に家庭の事情で、日本各地を転々としていたことが判明しています。
父親との死別や母親の再婚など、複雑な家庭環境だった幼少期のやなせたかしさんについて見ていきましょう。
父親とは死別、母親は再婚した
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やなせたかしさんは1919年、東京都で誕生しました。
父親は、やなせたかしさんが生まれた翌年に朝日新聞社に転職し、1923年に特派員として上海に単身渡っています。
その後、母親とやなせたかしさんも上海に渡り、家族は一緒に暮らし始めたものの、父親がアモイに転勤になったことをきっかけに、父親を残して母親と東京に戻っています。
その父親は1924年にアモイで死去したため、亡き父の縁故をたどって母親と弟と共に高知県高知市に移住しています。
しばらくすると母親が再婚すると、やなせたかしさん兄弟は、移住先の高知県で開業医をしていた父方の伯父の家に引き取られました。
伯父は趣味人だったそうで、やなせたかしさんの人生に大きな影響を及ぼしたことを後年明かしています。
成長したやなせたかしさんは、幼い頃から興味があった絵を極めたいと考え、東京高等芸学校図案科(現在の千葉大学総合工学科デザインコース)に進学。
これを機に家族と離れて単身上京しているので、高知県での生活から、再び自身が誕生した東京へと戻ることになったのです。
やなせたかしの生涯② 戦争を体験
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大学を卒業したやなせたかしさんは、一般企業に就職しました。
しかし、世の中は第二次世界大戦の真っただ中。創作どころか、生きることも困難な世の中へとなっていく激動の数年間を送っています。
幹部候補生として生き残る
学校を卒業後、東京田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)に入社したやなせたかしさんは、宣伝部に配属されました。
しかし1941年、徴兵で大日本帝国陸軍の補充隊へ入営しています。
やなせたかしさんは高学歴だったこともあり、幹部候補生を志願したところ、見事「乙幹」と呼ばれる試験に合格し、暗号を解読する部隊の下士官に抜擢されました。
前線に立つ必要がなかったことから、戦闘とは縁のない平和な土地に居住していたのだとか。
やなせたかしさんは、戦地で敵に銃を向ける経験をせずに終戦を迎えています。
やなせたかしの生涯③ デザイナーを経て漫画家へ
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戦後、世の中が徐々に落ち着きを取り戻し始めると、やなせたかしさんも趣味として楽しんでいた絵を描きたい、表現したいという気持ちが湧いてきました。
しかし、漫画家になるまでの期間、新聞社や大手百貨店に勤務していた経歴を持っています。
大手企業に就職しても、なお消えない漫画への道をどのように切り開いたのかを紹介します。
グラフィックデザイナーとして三越へ転職
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やなせたかしがデザインした包装紙
戦後最初に就職したのは、高知新聞です。
「月刊高知」の編集部に配属されて、編集者の肩書を持ちながら、誌面の表紙や漫画を自身の手で手掛けていたのだとか。
その後、懇意にしていた同僚の小松暢(こまつのぶ)さんが転職して上京する計画を聞いたやなせたかしさんは、「自分もそうする」とあっさり退職しています。
再び東京に舞い戻り、三越の宣伝部に就職してグラフィックデザイナーとして活動を開始。三越の包装紙のデザインを担当したのです。
三越の包装紙と言えば、濃いピンクの中に白抜きで「mitsukoshi」と流れるような文字が印象的ですよね。この文字のレタリングを担当したのが、やなせたかしさんだったのです。
デザイナーとして勤務を続けながら漫画を書き続けていく中で、会社の社内報を手がけ、さらに新聞や雑誌に応募して、少しずつやなせたかしさんの漫画が知られていくようになりました。
三越を退社して漫画家一本へ
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こうして、やなせたかしさんは副業のような感覚で少しずつ漫画で収入を得るようになり、やがて会社員の収入を超えるほど稼ぐようになりました。
1953年3月には、漫画の収入が会社の給与の3倍にまで跳ね上がったため、三越を退社し、漫画一本で食べていく生活へとスイッチ。
しかし、独立して10年も経たずして、あっさりと挫折しています。
実は、1960年代に入った頃から、手塚治虫さんを代表とする「ストーリー系漫画」が徐々に漫画市場のシェアを高めていたのです。
やなせたかしさんの描く漫画は「大人漫画」「ナンセンス系漫画」と呼ばれるジャンルで、一時期は人気を誇りましたが、その後人気が低迷し、漫画家としての収入が減少していきました。
やなせたかしの生涯④ 絵本作家としては遅咲きだった
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漫画家活動が低迷する中、やなせたかしさんの危機を救ったのは、ハローキティなどのファンシーグッズで知られる「サンリオ社」でした。
ここからは、絵本作家として歩き出すきっかけを見ていきましょう。
デザインの仕事を受けていた
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1960年代半ば、当時やなせたかしさんが所属していた「漫画集団」の展覧会に、山梨シルクセンターの社長を務めていた辻信太郎さんが訪れました。
この山梨シルクセンターとはサンリオの前身で、当時はまだ無名の中小企業でした。
小物雑貨を販売しながら、ヒット商品を出すために試行錯誤中だった辻信太郎さんは、展示場でやなせたかしさんの作品を見て、商品パッケージのデザインや漫画をオファーしたのです。
サンリオで出版した詩集がヒット
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大ヒットした「愛する歌」
1966年、やなせたかしさんは詩集の出版を計画していましたが、出版社を見つけることに苦戦していました。
この話を聞いた辻信太郎さんは、当時のサンリオ社は出版経験ゼロでノウハウもありませんでしたが、「それならうちで出そう」と嬉しい提案をしてくれたのです。
そして、やなせたかしさんの初詩集「愛する歌」を世に出したところ、サンリオ社の業績を1段押し上げる程の売上を記録する想定外の大ヒットとなりました。
これをきっかけに、サンリオ社の出版部門から絵本を出版することに繋がり、1973年には雑誌「詩とメルヘン」の創刊に携わったやなせたかしさんは編集長に就任しています。
一方で、漫画家の馬場のぼるさんと共に「漫画家の絵本の会」を立ち上げました。
その後のやなせたかしさんは、売れっ子の絵本作家兼編集者という新たな道を歩むことになります。
やなせたかしの生涯⑤ アンパンマンはなぜ生まれたのか?
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絵本業界で急激な成長を遂げたやなせたかしさんは、自身の代表作品となる「アンパンマン」を誕生させます。
ここでは、やなせたかしさんの辛い体験と、それを乗り越える力から生まれたアンパンマン誕生エピソードを紹介します。
自身の戦争体験がベースに
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やなせたかしさんは、第二次世界単線中は幹部候補生だったので、前線で戦う兵隊よりも命の危険が迫ることのない場所で任務に就いていましたが、辛いことも沢山あったようです。
例えば、泥だらけの道を延々と歩き回ったり、一睡もせずに交信を傍受して暗号解析に取り組んだりとハードワークの日々でした。
やなせたかしさんは、「最も辛かったのは飢えだ」と語っています。食べる物がなくタンポポなど野草を食べていたこともあったのだとか。
日本が1945年に終戦を迎えると、日本軍は海外の一部から「悪魔の軍隊」と呼ばれるようになり、「正義とは何なのか」と自問自答が長年続きました。
その中で、本当に困っている人に対して何をしてあげるのかが重要だということに思い至ったそうです。
「正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義はある日、突然反転する。逆転しない正義は献身と愛だ。目の前に餓死しそうな人がいれば一片のパンを与えることだ」
実際、戦中から戦後、復興がある程度進むまでの日本は、明日食べる物も住む家も、寒さをしのぐ衣類もない極貧の状態が続いたと言われています。
こういった極限の状態で追い詰められた人にとって、まず必要なのは「食べ物」です。
そして、本当に困っている人に必要な手助けをする人こそが「正義の味方」であり、この信念を持つキャラクターで絵本作りをしようと決意したのです。
当初の主人公はアンパンマンではなかった
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絵本を作り始めた時は、物語の主人公はアンパンマンではなく、実はパンを配るおじさんにしようと考えていたのだとか。
実際にストーリーを練ってみると、やはりアンパンマンが空を飛んで行って、困っている人にパンを届ける方が面白いなと考えたやなせたかしさん。
こうして、アンパンマンを主人公にして、ひもじい思いをする人々に自分の頭のパンを食べさせることで、飢えている人を救うという作品を書き上げたのです。
アンパンが好物だった
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沢山の種類の食べ物の中から、なぜアンパンが選ばれたのでしょうか。
パンでできていて中身はあんこという、おやつにも食事にもなる食べ物で、音の響きが良かったから、とやなせたかしさんはインタビューで語っています。
また、パンの中でもアンパンがやなせたかしさんの特に好物だったとも明かされています。
アンパンマンが自分の顔をちぎって分け与える、という行為については、「ヒーローは、自身が傷つくことなしに正義を行うことができない」という信念からきているそうです。
生前のやなせたかしさんは、「戦争で人間同士が殺し合うなんて実に愚劣。いざというとき、助け合うよりほかにない」と戦争反対のスタンスを表明していました。
アンパンマンは平和を願う気持ちから生まれたキャラクターだったのです。
子供の支持を受けて作品が大ヒット
最初にアンパンマンを出版したのは1973年のこと。本のタイトルは「あんまんぱん」と平仮名表記でした。
出版直後は、出版社の担当編集者や評論家からの評判はかなり悪かったそうですが、徐々に「面白い」と子供達からの口コミが広がり、ジワジワと増刷。
そして1975年、続編となる絵本となる「それいけ!アンパンマン」が刊行されました。
1988年には、日本テレビでアニメの放送が開始します。
当初、ヒットするかどうか予測が付きにくく、スポンサーもかなり少なかったのだとか。
しかし、時間の経過と共に視聴率はうなぎ上りに。人気の上昇に伴い、キャラクターグッズが爆発的に売れて、やなせたかしさんは一躍有名人となったのです。
ミュージアムもオープン
アニメ「それいけ!アンパンマン」のヒットを受けて、1996年7月に「アンパンマンミュージアム」が、やなせたかしさんが育った高知県香美市にオープン。
同館内には、やなせたかしさんが立ち上げた雑誌「詩とメルヘン」の表紙やカットイラストなどを展示した「詩とメルヘン絵本館」もオープンしました。
「アンパンマンこどもミュージアム」はその後、全国に広がり、仙台、名古屋、福岡、横浜など主要都市で展開されています。
やなせたかしの生涯⑥ 晩年は病がちだった
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テレビアニメが大ヒットした時、やなせたかしさんの年齢は59歳。かなりの遅咲きの作家で知られています。
60歳を過ぎたあたりから、やなせたかしさんは決して体調が万全と言えるような状況ではありませんでした。
やなせたかしさんは明るい性格で知られていますが、その裏で色々な病気を抱えていたそうです。
ここからは、晩年のやなせたかしさんの様子について見ていきましょう。
生前葬を計画していた
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60歳後半ぐらいから腎臓結石を患い、70代に入ると白内障と心臓病、80代に入ると腎臓炎、ヘルニア、腸閉塞、肝臓がん、膀胱がんと次々に病にかかっていきます。
中でも膀胱がんは、10回以上再発するという過酷なものでした。
2011年春には、とうとう視界がぼやけ始めてたこともあり、仕事の引退を決意したやなせたかしさん。
そこで最後の晴れ舞台として、生前葬の企画を自ら着々と進めていきました。
親しい人に依頼して告別式の文章を作ってもらったり、「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名を付けた位牌も作成し準備は万端に。
後は、生前葬の日が来るのを待つだけでしたが、2011年3月11日に東日本大震災が起こり、それどころではなくなりました。
多くの方が命を落としている状態なのに、生前葬をすることは不謹慎だと考えたやなせたかしさんは、結局生前葬を取り止めています。
ファンからの声で引退を撤回
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東日本大震災後、被災地が復興を徐々に開始する中で「アンパンマンのマーチ」が復興テーマソングとして扱われ、人々に勇気と希望を与えました。
楽曲を聞いた被災地の子供達が歌を何回も聞くうちに笑顔を取り戻した、という声が現地から届けられると、やなせたかしさんは引退を撤回。
アンパンマンのポスターを被災地のために書き下ろし、「奇跡の一本松」と呼ばれる岩手県陸前高田市気仙町に立つ松の木をイメージしたCDを自主制作するなど、復興支援に尽力しました。
やなせたかしの生涯⑦ 94歳で死去した死因とは?
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腸閉塞、肝臓がん、膀胱がんなど次々に襲い掛かる病魔と闘っていたやなせたかしさんは、2013年10月13日に死去しました。
ここでは、死因、亡くなる前の悲痛な心境などを紹介します。
死因は心不全だった
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病魔と闘いながらもいつもユニークなキャラクターで、アニメの舞台挨拶やインタビューでは、いつもにこやかに元気な受け答えをしていたやなせたかしさん。
しかも、突然陽気に歌を歌い出すなど、「ちょっと変わったおもしろいおじいさん」というイメージを持つ人が多かったようです。
しかし、2013年6月頃から体調は悪化の一途を辿っていたようで、アンパンマンのスタッフに以下のように本心を明かしていました。
来年までに俺は死ぬんだよね。
朝起きるたびに、少しずつ体が衰弱していくのが分かるんだよね。
まだ死にたくねぇよ。(ようやく人生が)面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ
引用:やなせたかし – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
生きたいという思いと、迫りくる死に対する恐怖が伝わってくるようです。
2013年8月に入院したやなせたかしさんは、同年10月13日に死去。享年94歳でした。
死因は心不全と発表されています。
やなせたかしの家族① 弟を戦争で亡くす
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やなせたかしさんは、可愛がっていた弟を第二次世界大戦で亡くしています。
深い悲しみ襲われて、立ち直るまでにかなりの時間が必要だったそうです。
長年、その弟は特攻で出撃して命を落としたと思っていたものの、実は後年、死の真相が明らかになっています。
ここからは、やなせたかしさんの弟について見ていきましょう。
出撃前の兄弟の語らい
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やなせたかしさんの弟は、柳瀬千尋(やなせちひろ)さんという名前で、第二次世界大戦中に、22歳の若さで戦死しています。
弟の柳瀬千尋さんは当時、京都帝大に通う大学生でしたが、海軍に入隊しています。
戦死する前、やなせたかしさんは許可をもらって弟に会い行きました。
その時、「特別任務」という秘密の任務に携わること、特攻であること、皆の前で志願する者は前に出ろと上官から言われて出ざるを得なかったと弟は語ったそうです。
特攻隊と聞くと飛行機を思い浮かべますが、当時日本軍が力を入れていたのは、「回天」と呼ばれる1人乗りの特攻潜行艇で、前にしか進めないという、生きては帰れない前提の代物でした。
訓練も命懸けで、訓練中に多数の若者が命を散らしましたが、弟はこれを潜り抜けて出撃前に軍少尉に任官されています。
やなせたかしさんが、弟に会ったのはそれが最後でした。
証言から分かった弟の最期
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弟が搭乗していた呉竹
弟と交わした会話から、長年「回天」の特攻に出撃して弟は亡くなったと考えていたやなせたかしさんでしたが、後年、そうではなかったことが判明しています。
弟は1944年12月30日、駆逐艦「呉竹」に搭乗し、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で、アメリカ軍の魚雷によって撃沈され、命を落としました。
この時、沈みゆく船から脱出し、12日間の漂流を経て奇跡の生還を遂げた中嶋秀次さんという兵士がいました。
後年、中嶋秀次さんがやなせたかしさんの弟と駆逐艦に一緒に乗っていたことや、船が沈没した日について詳細に証言し、この内容がドキュメンタリー本として出版されています。
やなせたかしの家族② 母親は華やかな人だった
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やなせたかしさんの母親は一般人なので、名前や生年月日、生前の画像は明かされていませんが、2008年にインタビューでやなせたかしさんが母親の人物像を語っています。
一体どのような女性だったのでしょうか。やなせたかしさんが語った、幼少の母親との思い出を紐解いてみましょう。
華やかで社交的
母親は華やかな性格で、派手な服装が大好きだったそうで、田舎では悪目立ちしてしまうこともしばしばあったそうです。
ただ、社交性が高く、誰とでも親しくなれたことから、決して嫌われたり後ろ指をさされることはありませんでした。
特派員だった父親が海外で死去した後は、生け花、お琴、三味線、茶道、洋裁など片っ端から習い事をする日々だったそうです。
そして、その中から習得できた生け花と茶道の教室を開き、やなせたかしさんと弟を育てました。
休みの日は、映画によく連れて行ってもらったことが良い思い出になっているそうです。
やなせたかしの家族③ 嫁と子供
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やなせたかしさんは戦後、高知新聞社に就職した時に知り合った女性と結婚しました。
その嫁は、やなせたかしさんが絵本作家として大成功を収めるまでの年月を気丈に支えた強い女性だったことが分かっています。
2人の間に子供はいるのでしょうか。やなせたかしさんが作った家族について見ていきましょう。
嫁は元同僚の女性
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嫁は一般人で名前が、小松暢(こまつのぶ)さんといいます。
高知新聞社でやなせたかしさんと共に働いていた女性で、俗に言う社内結婚になりますね。
小松暢さんが退職して上京すると、やなせたかしさんは追いかける形で退職して東京へと引っ越しました。
具体的な馴れ初めや結婚した時期など、詳しいことは明かされていませんが、東京で2人は結婚に至ったのです。
嫁のためにも漫画家として成功したい思いはあれど、40歳を過ぎても代表作品がないまま、年月が過ぎました。
そんなやなせたかしさんに向かって「収入がなければ、私が働いて食べさせてあげるから」と、ずっと励まし続けてくれたのだとか。
アンパンマンの大ヒットで、家計を支える必要がなくなり、旦那の活躍をそっと見守り続けていた嫁でしたが、1988年に乳がんが発見されました。
余命3ヶ月と宣告されましたが、奇跡的に手術で回復しています。しかし、1993年に再び体調を崩して入院し、やなせたかしさんの手を握って安らかな最期を迎えたそうです。
子供はいるの?
やなせたかしさんと、嫁の間に子供は誕生しませんでした。
それでも、「アンパンマンが僕たちの子供だ」と語っていたそうです。
やなせたかしの遺産の行方
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やなせたかしさんが死去したのは2013年のこと。この時に注目を集めたのは、やなせたかしさんの遺産の行方でした。
妻も子供もいないやなせたかしさんですから、総額が400億円ともいわれる巨額な遺産が誰の手に渡るのかという動向が注目を集めたのです。
やなせたかしさんの、遺産について見ていきましょう。
ミュージアムに寄付された可能性も?
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やなせたかしさんは、これまでにアンパンマンの単行本を約400冊近く出版し、キャラクターグッズは1000点を軽く超えています。
キャラクターグッズは、2010年までの総売上が1兆1000億円だと発表されていおり、キャラクターの使用料だけで単価2%の計算だったとしても220億円という計算になります。
嫁に先立たれており、子供もなく、弟も若いうちに戦死しているので、やなせたかしさんの400億円以上あるとされる遺産がどうなってしまうのか、メディアでも取り上げられました。
法定相続人がいない場合、財産は国庫に帰属しますが、やなせたかしさんは生前、高知県の「アンパンマンミュージアム」と東京都にある「やなせスタジオ」に遺産を譲ると伝えていました。
これが法的に有効な遺言だったならば、この2つの施設に分配されたということになりますね。
やなせたかしと仙台の深い関わり
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やなせたかしさんは、死去するまで東日本大震災の被災地復興に力を入れていました。
「仙台アンパンマンこどもミュージアム」への訪問をずっと望んでいたやなせたかしさんは、2012年に訪問を実現しています。
やなせたかしさんと仙台の関わりについて見ていきましょう。
震災から1年後に訪れて元気を送った
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仙台アンパンマンミュージアムは、2011年4月にオープンする予定でしたが、東日本大震災の影響を受けてオープンが3ヶ月遅れていました。
やなせたかしさんはこのことを気にかけていて、「仙台に行きたい」とずっと周囲に語っていたのです。
その願いが叶ったのは2012年7月のこと。館内にある「やなせたかし劇場」の舞台に、アンパンマンなどのキャラクターと共に上がりました。
自身で作詞作曲した「カツブシマン流れ歌」をはじめ、12曲を披露。楽曲は全て、「仙台のみんなに少しでも元気を届けられたら」という気持ちを込めて作られています。
楽曲が流れると、現場は笑顔と手拍子が溢れる、明るく楽しい舞台となりました。
やなせたかしの人柄エピソードを紹介
出典:https://meigennote.com/
やなせたかしさんの生涯は、決して平坦なものではありませんでした。
戦争体験や弟と嫁の死去など、苦難に直面しながらもそれを乗り越えて作家活動に邁進してきたのです。
やなせたかしさんは、どんな人柄だったのでしょうか。ここでは、人柄が分かるエピソードを紹介します。
編集者への優しさと高いプロ意識の持ち主だった
やなせたかしさんは、病気になったことをきっかけに一度は引退を決意しましたが、東日本大震災の被災者からのメッセージを受けて引退を撤回しています。
その後も、年齢や病魔と闘いながら絵本や漫画を書き続けてきたやなせたかしさん。
病状が悪化し、入院して満身創痍の状態でも、必ず締め切り前に原稿を完成させ続けてきました。そして、明るく前向きに日々を過ごしていたのだとか。
編集担当者は「1度も原稿を遅らせたことがなかった。こんなに手のかからない作家はいない」と語っています。
体調を言い訳にせず、編集担当やファンを心配させまいという気持ちが見えてくるようですね。
まとめ
出典:https://www.nikkei.com/
やなせたかしさんは、国民的な人気を誇る「それいけ!アンパンマン」の作者です。
1919年に東京都で生まれ、高知県で育ちました。
大人になると新聞社や三越で勤務する傍ら漫画を描き、徐々に人気を博したやなせたかしさん。
絵本作家や編集者としても活動する中、「アンパンマン」が大ヒットしたことで一躍有名に。
晩年は病みがちになり、一時は引退を考えましたが、「アンパンマンマーチ」を聞いた子供たちが笑顔を取り戻しているという話を聞いて引退を撤回しています。
その後も、入院中でも原稿を書いて被災地を応援しました。
2013年に心不全で死去するまで、いつも明るく優しい前向きな人柄でファンも編集者も魅了してきたのです。
やなせたかしさんの400億円ともいわれる遺産は、「アンパンマンミュージアム」と「やなせスタジオ」に寄付されたという噂もあります。
令和になった現在も、子供達に夢や勇気を与え続けるアンパンマンの生みの親・やなせたかしさんのご冥福をお祈りします。