今は亡き伝説のプロレスラー・ラッシャー木村さんはヒールとして活躍しましたが、実はいい人で有名でした。
今回はラッシャー木村さんの若い頃の経歴、人柄エピソードや名言2つ、結婚した嫁や子供、死因や葬儀など現在をまとめました。
この記事の目次
ラッシャー木村のプロフィール
生年月日:1941年6月30日
出身地:北海道
所属:プロレスリング・ノア
ラッシャー木村さんは、元力士のプロレスラーで、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれました。
新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアなどのプロレス団体で活躍し、2003年にはプロレスリング・ノアの終身名誉選手会長に就任しました。
ラッシャー木村の若い頃の経歴① 相撲部屋に入門
ラッシャー木村さんの本名は「木村政雄」で、4人兄弟の末っ子として誕生しました。
北海道天塩高等学校に進学しましたが、プロレスラーになるための基礎体力を作るべく、高校を中退して、大相撲「宮城野部屋」に入門しました。
角界入りしたのは、本人いわく、「相撲好きの兄と部屋の稽古を見に行ったら、親方(第43代横綱・吉葉山)に、『いい身体しているな』と言われ、ちゃんこをご馳走になった手前、断れなくなった」からだという。
その後、1958年に「木ノ村」という四股名で初土俵を踏み、幕下20枚目まで昇進するも1964年に廃業しました。
宮城野部屋の親方・吉葉山から思いとどまるよう説得されたものの、「十両となったら相撲を辞められなくなる」と決意は揺らがず、部屋を脱走する形での廃業となったそうです。
ラッシャー木村の若い頃の経歴② プロレスデビュー
ラッシャー木村さんは、力士を辞めた1964年にプロレス団体「日本プロレス」へ入団。
翌1965年には、高崎山猿吉(のちの魁勝司)さんとの試合でプロレスデビューを果たしました。
さらに翌年、プロレス団体「東京プロレス」の旗揚げメンバーとなるも、1967年にはプロレス団体「国際プロレス」に移籍。リングネームを「ラッシャー木村」と改めます。
1969年になると、サンダー杉山さんとタッグを組み、「TWWA世界タッグ王座」で初タイトルを獲得しました。
その後は渡米し、NWAを主戦場に活躍。
1970年に凱旋帰国した際には、ドクター・デスさんを相手に日本初の”金網デスマッチ”を開催しました。
その後、オックス・ベーカーさんとの戦いで左足を複雑骨折し、重傷を負うも、金網デスマッチにおいては不敗を誇り、「金網の鬼」という異名がつけられています。
1971年には「IWA世界タッグ王座」で勝利し、以降7回の防衛に成功。1972年に行われた金網デスマッチではバションさんを破り、「IWA世界ヘビー級王座」を獲得しました。
以降、国際プロレスが崩壊する1981年まで、国際プロレスのエースとして大活躍。
1970年代後半は、当時大人気だったアントニオ猪木さん・ジャイアント馬場さん・ジャンボ鶴田さんらと対戦しました。
その中でも、1976年に行われたジャンボ鶴田戦は高い評価を得ており、同年に東京スポーツ新聞社による「プロレス大賞」で「年間最高試合」に選定されます。
また、国際プロレスで共に切磋琢磨していたアニマル浜口さんは、ラッシャー木村さんについて以下のように語っています。
相撲で鍛えられているから、とにかく頑丈でした。身体の強さはケタ外れで、国際プロレスで文句なくナンバー1だったんじゃないですか。メチャクチャ強くて、特に顔なんかすごかったですよ。こっちがどんなに力いっぱい顔を叩いても、張っても、ビクともしない。それどころか、しまいにはこっちの手がしびれあがって、真っ赤に腫れたものです。
ラッシャー木村の若い頃の経歴③ 新日本プロレスへ移籍
ラッシャー木村さんが所属していたプロレス団体「国際プロレス」は、1981年に解散。
ラッシャー木村さんは、アニマル浜口さん・寺西勇さんとともに、プロレス団体「新日本プロレス」に移籍します。
そして、当時人気絶頂だったアントニオ猪木さんと争う悪役ユニット「国際軍団」のリーダーとなり、ヒール(悪役)として活躍しました。
1982年にはアメリカ遠征も行っており、リングネーム「ミスター・トヨ(Mr.Toyo)」で数多くの試合に出場。「NWAアメリカス・タッグ王座」でも勝利しました。
しかし、1983年頃になると、IWGPリーグ戦などの影響もあり、国際軍団の人気に陰りが生じるようになります。
さらに、軍団メンバーであったアニマル浜口さん・寺西勇さんが、長州力さん率いる「維新軍」となったため、国際軍団は解散することになりました。
1984年には、団体内で勃発した内紛を機に、プロレス団体「UWF」の創設メンバーとして同団体を旗揚げしますが、数か月で離脱しています。
ラッシャー木村の若い頃の経歴④ 全日本プロレスへ移籍、テレビにも出演
ラッシャー木村さんは、1984年に全日本プロレスが開催した「1984年世界最強タッグ決定リーグ戦」に、ジャイアント馬場さんのパートナーとして参戦。
正統派として大人気だったジャイアント馬場さんと、ヒールとして活躍していたラッシャー木村さんのタッグは大きな注目を浴びました。
しかしその後、ジャンボ鶴田&天龍源一郎戦にて、ラッシャー木村さんが突然造反を企てます。
仲間であるはずのジャイアント馬場さんにラリアットを放ち、かつて国際軍団の一員であった剛竜馬さん・鶴見五郎さんらが乱入。
結果として、試合放棄となりタッグも解消される事態となりました。
そして、剛竜馬さん・鶴見五郎さん・アポロ菅原さん・高杉正彦さんらと悪役軍団「国際血盟軍」を結成。全日本軍と敵対する立ち位置となりました。
1985年になると、プロレス団体「ジャパンプロレス」より数多くの選手が流入し、国際血盟軍の剛竜馬さん・アポロ菅原さん・高杉正彦さんが解雇されてしまいます。
残されたラッシャー木村さんは、鶴見五郎さんとのタッグを中心に活動していました。
その後の1988年には、それまで敵対の構図にあったジャイアント馬場さんとタッグを結成。「世界最強タッグ決定リーグ戦」に出場し、大きな話題を集めました。
また、翌年からはジャイアント馬場らと「ファミリー軍団」を結成。
ユーモラスさを前面に推しだした前座試合をはじめ、試合後のマイクパフォーマンスなどで全日本プロレスを盛り上げています。
1990年代に入ると、マイクパフォーマンスなどの人気からテレビ番組に多数出演。
TBS系バラエティ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」でレギュラー審査員を務めたほか、CMなどにも出演しています。
ラッシャー木村の若い頃の経歴⑤ プロレスリング・ノアを旗揚げ
ジャイアント馬場さん亡き後、ラッシャー木村さんは、全日本プロレス内で再度起こった内紛を機に、プロレス団体「プロレスリング・ノア」に参加。旗揚げメンバーとして活躍しました。
また、2001年に還暦を迎えた際には、「生涯現役」を宣言。2002年には”日本人最高齢レスラー”となるものの、試合のパフォーマンスは目に見えて落ちていきました。
2003年からは体調不良が続き、「関係者に迷惑がかかってしまう」と考えて、2004年に引退を表明。
そして同年12月に、プロレスリング・ノアの「終身名誉選手会長」に就任しましたが、以降は表舞台に出てきませんでした。
ラッシャー木村の人柄がいい人エピソード
ラッシャー木村さんはヒールとして活躍する一方で、実は人柄が「いい人」であると有名な人物でした。
実直な性格で、義理人情を大切にしていた
ラッシャー木村さんの人柄について、全日本プロレスで名誉レフェリーを務める和田京平さんは以下のように述べています。
実直を絵に描いたような人だった。無口だったけど、金網デスマッチで国際を支えたというすごみは背中を見ただけで分かった。それとギザギザの額。毎日毎日、金網で戦っていたらああなるよな。あそこまですごい額は(アブドーラ・ザ・)ブッチャーぐらいだった。
ラッシャー木村さんは、1984年にUWFを脱退した直後、新日本プロレス・全日本プロレスから声がかかりったそうですが、全日本プロレスを選んでいます。
和田京平さんはその理由について、ラッシャー木村さんから「誘われた際の経緯が決め手」と聞いていたそうです。
「木村さん、何で全日本を選んだんですか?」って聞いたら「新日本は会社の重役が話に来た。全日本は馬場さんが料亭に招いてくれて、直接誘ってくれた。となればどちらを選ぶかは明白でしょう」と。馬場さんはその年の最強タッグのパートナーに木村さんを選んだし、選択は間違っていなかった。
地方公演では、地元のお客さんにフォーカス
ラッシャー木村さんはマイクパフォーマンスが受け、「マイクの鬼」とまで評されていました。
人気が出た理由として、地方公演では必ず毎試合ごとにその土地の名物を確認し、マイクパフォーマンスに取り入れていたからだといいます。
前述の和田京平さんは、毎試合ごとに名物を聞かれていたそうで、以下のように述べています。
秋田ならきりたんぽ、博多なら明太子。名古屋だと「渕(正信)、今日は手羽先で一杯やって、締めはみそ煮込みうどんですね」。札幌だと「渕、お前今日は妙に張り切っていたけど、試合前にジンギスカン食っただろ、このヤロー」とか…そりゃあ、地方のお客さんは大喜びですよ。
ラッシャー木村の名言① 「こんばんは」
ラッシャー木村さんの名言として知られているのが、「こんばんは」の一言です。
ラッシャー木村さんは1981年、新日本プロレスの試合に登場。
リング上でアナウンサー・保坂正紀さんにマイクを向けられた際の第一声が、「こんばんは」という真面目な挨拶でした。
当時、ラッシャー木村さんはヒールとして活躍しており、「団体同士の対決=殺伐とした雰囲気」が当たり前だったため、まさかの挨拶に、会場のファンが拍子抜けしてしまったそう。
単なる挨拶ではありますが、当時のプロレスの雰囲気からは考えられない発言だったようで、お笑いタレント・ビートたけしさんは「こんばんは、ラッシャー木村です」とギャグ化。
プロレスファンのみならず、世間からもギャグとして捉えられてしまいました。
しかし、当のラッシャー木村本人は「初めて出向いた場所できちんと挨拶するのは当然。それなのになぜ笑われなければならないんだ」と発言を笑われたことを不服に思っていたそうです。
その一方で、この発言からラッシャー木村さんのマイクパフォーマンスに注目が集まるようになりました。
当初は「馬場、俺と勝負しろ!」というような通り一遍の内容だったが、ある時からペーソス漂うおかしみが加わるようになると、徐々にファンからの支持を受け始め、いつしか試合後の観客席からは「マイク! マイク!」と、これを求めるコールが起こるまでになっていった。
特に、ジャイアント馬場さんとの試合ではマイクパフォーマンスに力を入れていたようです。
その理由として「ジャイアント馬場との対戦を望んでいたのに、向こうが全く振り向いてくれなかった」からだといいます。
ジャイアント馬場さんは当時、リング上で行われる試合以外の演出に嫌悪感を抱いており、弟子たちにも「口でプロレスをするんじゃない」と伝えていたそうです。
しかし、ラッシャー木村さんから繰り出されるマイクパフォーマンスに、ジャイアント馬場さんの態度が少しずつ軟化していったといいます。
「馬場! おまえはハワイでグァバジュース飲んで鍛えたかもしれないけど、俺だって日本でポカリスエット飲んで鍛えたんだ、コノヤロー(毎年、年末になるとハワイの別荘で過ごす馬場に対して)」「馬場! 最近なんか元気があると思ったらコノヤロー、おまえはジャイアントコーン食べてるな?」こうした木村のマイクに対し、マイク嫌いなはずの馬場も苦笑いを浮かべるなど、徐々に反応を示すようになっていく。
ラッシャー木村の名言② 「アニキと呼ばせてくれよ」
ラッシャー木村さんはプロレス団体「世界プロレス」に所属していた1975年より、ジャイアント馬場さんと対戦し続けていました。
その後、1988年に武道館でジャイアント馬場さんとのシングル戦に敗れると、試合後のマイクパフォーマンスで「アニキと呼ばせてくれ」と申し出ました。
これだけ戦ってると、他人と思えなくなってくるんだ。一度でいいからアニキと呼ばせてくれよ。
このマイクパフォーマンスがきっかけとなり、2人は”義兄弟タッグ”を結成。
1988年の「全日本プロレス横浜大会」では、グレート・カブキさん&石川敬士さんと対戦。
ジャイアント馬場さん50歳・ラッシャー木村さん47歳という高年齢タッグでありながら、華麗な勝利を収めました。
また、同年開催の「世界最強タッグ決定リーグ戦」で3位となったほか、1989年開催の「世界タッグ王座」にも挑戦しています。
ラッシャー木村が結婚した嫁や子供
ラッシャー木村さんはヨーロッパ遠征中、フランス・パリでのちに嫁となる女性・純子さんと出会いました。
純子さんには2人の連れ子がいましたが、ラッシャー木村さんは2人とも引き取り、家族4人での生活が始まったといいます。
2人が結婚した具体的な時期は明かされていませんが、ラッシャー木村さんは当時国際プロレスに所属。
毎週試合がテレビ中継されるなど華やかなイメージでしたが、実際は金銭面で苦労していたといいます。
国際プロレスは社長の吉原功さんが自宅を抵当に入れるほどの経営危機状態で、所属レスラーへの給与もコマ切れに支払われていたそうです。
そんな中でも、ラッシャー木村さんは国際プロレスを見捨てることはありませんでした。
そればかりか、国際プロレスが崩壊し、新日本プロレスに移籍した際のトレードマネーを全額を吉原功社長に渡しています。
移籍先の新日本プロレスではヒールとして活動していたため、自宅に生卵をなげつけられるなど飼い犬がストレスで死んでしまうほどの嫌がらせも受けました。
しかし、国際プロレス時代とは桁違いの報酬が支払われていたため、移籍を機に生活が安定するようになったといいます。
ラッシャー木村は現在:2010年に死去・死因は腎不全による誤嚥性肺炎
ラッシャー木村さんは現役引退直後、脳梗塞を患い、車椅子で生活していました。
かつてのプロレス仲間やプロレス評論家が見舞いを申し出るも、頑なにそれを拒否していたといいます。
そして、2010年5月24日に68歳で死去しています。死因は腎不全による誤嚥性肺炎でした。
葬儀は親族のみで行われましたが、2010年6月にプロレスリング・ノアが「お別れの会」を主催。選手・関係者・ファンなど400人が参加しました。
弔辞では国際プロレス時代からの盟友だったアニマル浜口氏(62)が、木村さんに連れて行ってもらった小料理屋で夫人と出会ったエピソードなどを披露。「プロレス界は決して忘れることはありません」と涙を浮かべると、リング内に設置された遺影に向かって「気合だ!」を10連発。最後に「木村さん、さようなら!」と天国へと送り出した。
まとめ
ラッシャー木村さんは、元力士のプロレスラーです。
東京プロレス・国際プロレス・新日本プロレス・UWF・全日本プロレス・ノアと6団体を渡り歩き、東京プロレス・UWF・ノアでは旗揚げにも携わりました。
ヒールとして活動し、試合では常にその力を発揮。
そして、1980年に入ると「こんばんは」「アニキ」といった名言から、その独特なマイクパフォーマンスが注目されるようになりました。
また、ラッシャー木村さんの人柄は「実直でいい人」と評判で、地方興行の際には地元ファンのため、必ずリサーチしたその土地の名物をマイクパフォーマンスに取り入れていたそうです。
プライベートでは結婚しており、嫁の連れ子2人の父親になっています。
残念ながら、2010年5月24日に腎不全による誤嚥性肺炎により、68歳で死去されていますが、これまでの功績はこれからも語り継がれていくでしょう。