大平正芳さんは元内閣総理大臣で、現在ひ孫でミス青山の大平ひかるさんが”ミスオブミス”となり話題となっています。
そんな大平正芳さんの家系図や経歴、結婚した嫁、子供や孫、死因などをまとめました。
この記事の目次
- 大平正芳のプロフィール:第68~69代の内閣総理大臣で元大蔵官僚
- 大平正芳の家族:父親は農家できょうだいは8人
- 大平正芳の経歴① 高松高等商業学校時代にクリスチャンとなる
- 大平正芳の経歴② 東京商科大学在学中に高等試験に合格、大蔵省へ入省
- 大平正芳の経歴③ 秘書官などを経て、衆議院議員として初当選を果たす
- 大平正芳の経歴④ 内閣官房長官、外務大臣を歴任
- 大平正芳の経歴⑤ 外務大臣時代には、アメリカとの”核密約”が話題に
- 大平正芳の経歴⑥ 佐藤政権では不遇が続き、”大福密約”で幹事長に
- 大平正芳の経歴⑦ 1978年、第68代内閣総理大臣に就任
- 大平正芳の経歴⑧ 1980年に起きた”ハプニング解散”
- 大平正芳が結婚した嫁は大平志げ子
- 大平正芳の子供:娘に対する発言が女性軽視ではないかと話題に
- 大平正芳の孫は4人以上?孫の渡辺満子は玉木雄一郎の公設秘書だった
- 大平正芳のひ孫はタレントでモデルの大平ひかる!家系図も話題に
- 大平正芳の現在:1980年に享年70歳で死去、死因は心不全
- まとめ
大平正芳のプロフィール:第68~69代の内閣総理大臣で元大蔵官僚
生年月日:1910年3月12日
出身地:香川県
所属:自由党→自由民主党
大平正芳さんは政治家で、第68代・第69代の内閣総理大臣でもあります。
当時大蔵大臣だった元内閣総理大臣・池田勇人さんの秘書官を経て、政界へと進出。衆議院議員や内閣官房長官、外務大臣、通商産業大臣、大蔵大臣などを経験し、1978年に内閣総理大臣となりました。
また、素朴な風貌から「讃岐の鈍牛」、演説時の口癖を用いた「アーウー宰相」といった異名がつけられていた一方で、「戦後政界指折りの知性派」とも評されていた人物です。
娘婿である森田一さんは、2015年に受けたインタビューで大平正芳さんについて次のように回顧。
浴衣姿におなか丸出しだったという初対面の姿から「ちょっと頭の悪そうな人だな、よく大蔵省に入れたと思った」と感じたものの、すぐにその印象はかき消されたといいます。
「鈍牛」と呼ばれるに相当する振る舞いだったが、第一印象はすぐかき消された。読書量による知性、国際的な視野の広さに圧倒された。人格も別格だったという。<人間的には神様に近いという感じだ。生涯、人を怒鳴りつけたりしたことはなかった。(盟友となる元首相の)田中角栄さんは「大平君は政治家というよりは宗教家だねえ、哲学者だねえ」と言っていた>
答弁や演説の際に発した「あーうー」には理由があったという。
<大平は自分の発言が日本、全世界にどういう影響があるかを考えた上で初めて一言を発していた>
大平正芳の家族:父親は農家できょうだいは8人
大平正芳さんは農家だった父親・大平利吉さんと、母親サクさんの元に三男として誕生。
大平家は全部で8人きょうだいで、兄が2人、姉が3人、さらに下には弟と妹が1人ずついました。しかし、大平正芳さん誕生時には長女と兄のうちの1人が亡くなっていたといいます。
父親は農家であったため、立派な学歴こそありませんでしたが、村会議員や水利組合の総代を務めるなど地元で活躍。
大平正芳さん本人は「讃岐の貧農の倅」と自称していましたが、実際のところはいわゆる中流家庭だったのだとか。
しかし、子供6人を抱えていたことから家計はひっ迫しており、子供たちも幼い頃から内職をして家計を助けていました。
また、兄・大平数光さんは高等小学校を卒業後、家業を継いだ後に豊浜町長に。大平正芳さんの地元での選挙活動を支援していました。
大平正芳の経歴① 高松高等商業学校時代にクリスチャンとなる
大平正芳さんは、和田村立大正尋常高等小学校(現在の観音寺市立豊浜小学校)を卒業後、旧制香川県立三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)へと進学。
1926年、中学4年生のときに腸チフスとなり、4ヵ月もの間生死をさまよったといいます。
腸チフスは、チフス菌に感染し、全身に症状を起こす感染症です。体内に入ってから潜伏期間を経て、徐々に発熱や皮疹などの症状があらわれます。東南アジア、中南米、アフリカなど各地で多く発生しており、繰り返し流行しています。日本でも昭和初期から終戦後にかけてよくみられた感染症でしたが、衛生環境の改善に伴い、発生は一気に低下しました。
引用:腸チフス
その後、家計の負担を考えて海軍兵学校を受験するも、急性中耳炎が原因で身体検査により不合格となってしまいました。
経済的な不安はあったものの、親類からの援助や奨学金などを得て1928年に高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)へと進学。
同春に宗教家・佐藤定吉さんの講演を聴いたことをきっかけにキリスト教と出会い、病に苦しんだことや17歳で父親を亡くした影響もあり、キリスト教徒に。1929年、19歳のときに洗礼を受けています。
同校を卒業後、さらに学びを続けたいと考えていた大平正芳さんでしたが、経済面から進学を断念。
さらに世は昭和恐慌の真っただ中で、就職も難しい状況でした。
そんな中、化粧水「明色美顔水」で知られる老舗化粧品メーカー「桃谷順天館」の創業者の三男で当時会長だった桃谷勘三郎さんの食客となり、同社で化粧品業に携わるようになります。
日本では他人の家に寄食する人,たとえば師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられている書生などを含めて,ひろく食客という。中国では有力者の門に召しかかえられる寄食者,居候をさし,門客,門下客などともよばれる。
引用: 食客(読み)ショッカク
大平正芳の経歴② 東京商科大学在学中に高等試験に合格、大蔵省へ入省
大平正芳さんは1993年、再び進学することを決意。鎌田共済会・香川県育英会と2つの奨学金を得て、23歳のときに東京商科大学(現在の一橋大学)へと進学しました。
在学中は経済哲学や法律思想史などを中心に履修し、キリスト教徒としての活動にも精力的に参加していたといいます。
その後、1935年に高等文官試験行政科試験に合格。
第2次大戦前の上級官吏任用試験。正しくは文官高等試験で,高文と略称。1887年(明治20)に導入されて奏任官任用の要件となり,93年の文官任用令で帝国大学法科・文科卒業生の無試験任用特典が廃止されて確立。満20歳以上の男子が有資格者で,年1回試験。憲法などの法律必修科目,選択科目の筆記・口述試験が行われた。合格者は大学および高文の成績と本人の志望によって各官庁に採用された。
特に官吏志望というわけではなかったそうですが、当時の大蔵次官・津島壽一さんの元へあいさつに行った際、同郷だった所以からか、大蔵省に即決で採用されることになりました。
一般に役人,官員をさすが,狭義には明治憲法体制のもとで秩序づけられたそれの制度上の呼称である。その制度は明治憲法10条の天皇の官制大権と,19条の臣民就官能力の規定とに基づき,さまざまの天皇の勅令によって定められていた。つまり戦後の国家公務員法と異なり,明治憲法期には官吏制度全般を包摂した単一の法典はなく,任用,給与,服務,分限,懲戒などの各分野ごとに個別の法令が存在したのである。
引用:官吏(読み)カンリ
大平正芳の経歴③ 秘書官などを経て、衆議院議員として初当選を果たす
大平正芳さんは、1936年に大蔵省に入省。預金部へと配属されました。
1937年に横浜税務署長に就任して以降、国家機関・ 興亜院での大陸経営、東京財務局間税部長、池田勇人さんの秘書官などを経験。
日中戦争の長期化に伴う対中国政策一元化のため1938年第1次近衛文麿内閣が外務省の反対を押し切って設置した内閣直属の機関。外交以外の対中国政策の樹立・調整・執行,在中国会社業務の監督を担当。総裁は首相,副総裁は外・蔵・陸・海の4相。中国各地に連絡部を置いた。1942年大東亜省に吸収廃止。
引用:興亜院(読み)コウアイン
そして、1952年に池田勇人さんから誘われる形で政治の道へと足を踏み入れます。
同年に大蔵省を退職し、「第25回衆議院議員総選挙」において、地元の旧香川2区から自由党公認で立候補。初当選を果たしました。
前年末から春、夏にかけて20年ぶりに選挙運動のために香川へしばしば帰る
9月5日 大蔵省を依願退官する
10月1日 自由党公認候補として衆議院議員に初当選(第25回総選挙)得票数4万3093票で第2位
11月 農林常任委員となる
引用: 大平正芳の事項
大平正芳の経歴④ 内閣官房長官、外務大臣を歴任
大平正芳さんは1957年に池田勇人さんが発足した「宏池会」に参加。政策ブレーンとして活躍し、宮澤喜一さん・黒金泰美さんらと「秘書官トリオ」と呼ばれていました。
その後の1960年、第1次池田内閣で内閣官房長官に就任。
1962年の内閣改造に際して外務大臣に就任すると、大韓民国中央情報部長の金鍾泌さんと国交正常化に向けて会談を開き、合意を得ています。
日韓交渉の大きな節目となったのが,第 6次会談期の1962年10月20日と11月12日に東京で行われた太平正芳外相と金鍾泌韓国中央情報部長の会談である。当時は池田勇人内閣であり,金の訪米を挟んで、会談は 2度開催された。大平と金は,経済協力として無償で 3億ドル,長期低利借款 2億ドル,さらに民間信用供与 1億ドル以上で合意した。大平・金メモと呼ばれるものである。
中国大陸との関係については、それまで途絶えていた日中関係の改善を重大な課題として捉え、アメリカとの兼ね合いに苦労しつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追及。
互いに貿易連絡事務所を設置したり、新聞記者交換を実現したりと、それまでの関係からは信じられないほどの進展を見せました。
大平正芳の経歴⑤ 外務大臣時代には、アメリカとの”核密約”が話題に
大平正芳さんが外務大臣を務めていた時代には、「日米核持ち込み問題」も発生。
当時はキューバ危機の影響で、在日米軍・自衛隊が臨戦態勢の状態だった中、アメリカから原子力潜水艦寄港の申し出が。
同件については1年8ヵ月かけて議論され承認に至りましたが、大平正芳さんはアメリカのライシャワー駐日米大使と核密約を交わしていました。
米軍による日本への核兵器持ち込みは本来、日米安全保障条約で定める「事前協議」の対象になるが、核搭載した艦船の寄港や航空機の飛来を対象外とした日米間の秘密合意。1960年の安保改定時に日米両政府は、日本側が黙認する旨の「秘密議事録」を交わし、1963年に大平正芳外相とライシャワー駐日米大使が内容を確認した。
なお、ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官・パッカードさんは2010年に受けたインタビューで、「密約は必要なものだったか」と問われ、以下のように回答しています。
「米国は核の傘で日本を守る一方、日本人の核アレルギーも理解していた。米海軍は核の存在を肯定も否定もしない方針だったから日本が事前協議を求めても応じなかったろう。安保闘争を再現させないためには核持ち込みを秘しておくのが当時は最良の選択だった」
大平正芳の経歴⑥ 佐藤政権では不遇が続き、”大福密約”で幹事長に
大平正芳さんは続く佐藤政権で政調会長、通商産業大臣を歴任。しかし、佐藤栄作さんは大平正芳さんを好きではなかったようで、不遇といえる状況が続きます。
日米繊維交渉を託され、意欲的に取り組んでいましたが交渉の進展が芳しくないと判断した佐藤栄作さんが大平正芳さんを事実上の更迭に。ライバルであった宮澤喜一さんを後任に据えました。
1971年には、田中六助さんらの後押しもあり、宏池会会長に就任。”ポスト佐藤”として注目を集めるようになります。
その後、田中角栄さんと盟友となった大平正芳さんは、田中内閣で外務大臣に就任。その後大蔵大臣となりました。
田中角栄さんが総理を辞任すると、再び”ポスト田中”として注目されますが、三木武夫さんが総理大臣に。三木内閣でも引き続き大蔵大臣を務め、赤字国債発行を決断。
赤字体質に危機を覚え、消費税導入による財政健全化を強く望むようになります。
<大平は三木武夫内閣の蔵相時代に、赤字国債を発行したら絶対にダメだと本に書いたのにやらざるを得なかった。一生かかっても、財政再建に全生命を注ぐと思っていた>
53年12月、念願の首相になった大平は、国の借金の解消を重要課題とした。そこで浮上したのが、現在の消費税につながる「一般消費税」の導入だ。
1976年の三木おろしでは再び総裁選を狙いますが、福田赳夫さんと「2年で政権を禅譲する」という通称「大福密約」で連合を樹立。
一般に、権力の座を話し合いで譲り渡すこと。
引用:禅譲(読み)ゼンジョウ
大福密約は、(1)大平は次の総裁に福田を推す(2)福田は党務を大平に委ねる(3)党総裁任期を3年から2年にする-とされる内容だった。任期短縮を明記したことで、大平サイドは「福田は2年後、大平に政権を禅譲する」と理解した。
福田政権で大平は幹事長となり、党務を取り仕切った。2人の関係は「大福提携」とも呼ばれた。
福田内閣が発足すると、幹事長に就任します。
大平正芳の経歴⑦ 1978年、第68代内閣総理大臣に就任
大平正芳さんはその後の1978年に、総裁選へと出馬。大福密約を反故にした福田赳夫さんも出馬していましたが、総裁予備選挙で大平正芳さんが票を上回ったことから辞退。
大平正芳さんが第68代内閣総理大臣に就任しました。
しかし、就任してすぐに右翼の男による襲撃事件が発生。首相官邸の玄関で登山ナイフで襲われ、大きな騒ぎとなりました。
大平内閣においては、「田園都市構想」や「総合安全保障構想」などを提唱。
イラン革命や石油危機、ソ連によるアフガニスタン侵攻などといった「新冷戦時代」であったこともあり、「対米協力路線」が鮮明に。
米国が要望する防衛予算増額や、1980年開催の「モスクワオリンピック」への出場ボイコットを決定しました。
また、日中緊密化を進め、「日中文化交流協定」に調印。
一方の国内では田中派と三木派の軋轢が治まらず、1979年の衆院選では自民党の獲得票数が過半数を割る事態に。
大平正芳さんは選挙の結果を受けて退陣を要求されるも、断固拒否。以降、「四十日抗争」といわれる党内抗争に発展し、自民党が分裂状態となります。
大平正芳の経歴⑧ 1980年に起きた”ハプニング解散”
大平正芳さんは国会の首班指名選挙、続く決選投票を経て続投が決定。第2次大平内閣が発足しました。
しかし、事実上の分裂は続き、1980年に社会党が内閣不信任案を提出した際に、反主流派が欠席。内閣不信任案が可決され、提出した社会党をはじめとする野党も驚く事態となります。
そして大平正芳さんは衆議院を解散。のちに「ハプニング解散」と呼ばれる珍しい経緯での解散となりました。
解散後、総選挙を参議院選挙の日に合せて行う秘策を取りますが、街頭演説中に明らかに顔色が悪かったといい、緊急入院する事態となってしまいます。
大平正芳が結婚した嫁は大平志げ子
大平正芳さんは、1937年に結婚。嫁は大平志げ子さんで、「三木証券」の創立者・鈴木三樹之助の二女にあたります。
夫婦共にクリスチャンで、大平志げ子さんは、桜蔭女学校(現在の桜蔭高等学校)卒。
当時、大蔵省に入省したばかりだったという、大平正芳さんと見合いで出会い、結婚に至りました。
1978年に大平正芳さんが内閣総理大臣に就任すると、ファーストレディとして活動。
その後、1990年に呼吸不全のため死去されています。
大平正芳の子供:娘に対する発言が女性軽視ではないかと話題に
大平正芳さんには4人の子供がいます。
長男の正樹さんは、慶應義塾大学の法学部を卒業。大平正芳さんの敬愛していた先輩が相談役を務めていた縁から、神崎製紙へと就職しますが、ヨーロッパ遊学中にベーチェット病に。
次期後継者として期待されていましたが、26歳の若さで亡くなってしまいました。
ベーチェット病とは、全身のさまざまな部位に炎症が繰り返し生じることが特徴的な病気です。免疫のはたらきが過剰になって自身の体の組織を攻撃してしまう“膠原病こうげんびょう”の一種と考えられていますが、現時点で明確な発症メカニズムは解明されていません(2020年10月時点)。
引用:ベーチェット病
次男の裕さんは、慶應義塾大学の法学部を卒業。大平正芳記念財団常務理事、社団法人日中協会理事などを務めています。
三男の明さんは、慶應義塾大学経済学部を卒業後、大正製薬相談役や上原美術館代表理事などを務め、長女の芳子さんは青山学院大学の文学部を卒業し、政治家・森田一さんと結婚しました。
また、大平正芳さんは芳子さんに「女子(おなご)は勉強せんでいい。」「早くお嫁に行きなさい。」などと度々語っていたのだとか。
芳子さんが女性誌「婦人公論」でそのことを語ったことを機に、婦人活動家でもある市川房枝さんから参議院で「女性軽視なのではないか」と追及されたことも。
「父は昔から口癖のように「おなごは勉強せんでいい、可愛い女になれ、そして早くお嫁に行きなさい」」と言っていられたそうですが(笑声)総理は、いまもそのお考えでしょうか。もしそうだとしたら、総理にはもう一つ、婦人問題企画推進本部長という職がおありになりますが、その方の資格は足りない、落第だと、こう申し上げざるを得ないんでありますが(笑声)
大平正芳さんは発言について認め、「熟しない御批判をいただく余地が十分ある」としながらも、「早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたい」という父親としての気持ちからの発言だと答弁。
婦人に対しましてどう考えておるかということでございますが、私は、婦人は――ここに男性の方が多いようでございますけれども(笑声)男性よりは物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。(笑声)とりわけ、子供をもうけるなどという手ごたえのある人生経験は、男にはできないことでございます。私は女性を尊敬いたしております。(拍手)
「(女性は)男性よりは物事に誠実」だといい、「女性を尊敬いたしております」とも述べていました。
現代であれば、まだまだ物議が醸されそうな答弁ではありますが、当時はユーモアを交えたこの答弁に議内から拍手が起きたといいます。
大平正芳の孫は4人以上?孫の渡辺満子は玉木雄一郎の公設秘書だった
- 大平正芳さんの子供たちは一般人でもあるため、孫の正確な人数は不明です。
しかし、これまでに報じられてきた内容などから、少なくとも4人の孫がいる様子。
詳細が分かっているのは孫のうち2人で、大平知範さんは大平正芳記念財団評議員として活動。渡辺満子さんは、慶應義塾大学の文学部を卒業後、日本テレビのチーフプロデューサーに。
また、日本テレビの専務・渡辺弘さんと結婚され、のちにプリ―プロデューサーとなっています。さらに、遠縁にあたる国民民主党党首・玉木雄一郎さんの公設秘書も務めていました。
大平正芳のひ孫はタレントでモデルの大平ひかる!家系図も話題に
大平正芳さんのひ孫で、青山学院大学文学部3年生の大平ひかるさんが2024年、全国のミスキャンパスの中から日本一を決めるコンテストでグランプリに輝き話題となりました。
全国のミスキャンパスの中から日本一のミスキャンパスを決めるコンテスト「MISS OF MISS CAMPUS QUEEN CONTEST 2024」の表彰式が12日、KT Zepp Yokohamaにて開催。青山学院大学 文学部 3年の大平ひかる(おおひら・ひかる)さんがグランプリに輝いた。
引用:“日本一美しい女子大生”大平ひかるさんに決定 ミス青山で元首相のひ孫、女子高生ミスコンと2冠達成<ミスオブミス2024>
大平ひかるさんは高校生時代よりそのルックスが話題となっており、2020年に開催された「女子高生ミスコン」でもグランプリを獲得。
“日本一かわいい女子高生”の称号を得ていました。
“日本一かわいい女子高生”を決める「女子高生ミスコン2020」が20日、都内で行われ、応募数約1万2000人の中から、東京都の高校3年生、大平ひかるさん(18)がグランプリに輝いた。
また、当時よりファッションブランドをプロデュースしており、「世界のアイコンとなること」が目標だと宣言。
現在は、自身でファッションブランドをプロデュースしているという。将来の夢は「世界のアイコンになること」だといい「具体的には…私が(アイコンに)なります!!」と意気込んだ。
ミスオブミスとなった際にも「世界に羽ばたけるように頑張っていきます」とコメント。高校生の時から変わらず、世界を視野に入れているとのことでした。
そんな大平ひかるさんは2009年、小学1年生の時にオーディションを経て芸能事務所「スターダストプロモーション」へと入所。
2014年頃からアイドルとしての活動を始めます。アイドルグループ「ももいろクローバーZ」のバックダンサーなどを務め、アイドルグループ「3B junior」としても始動。
2020年にファッションブランド「Brily」を立ち上げ、「ひっか」名義でTEENSモデルとしても活動し始めます。
そして、前述にもあるとおり各ミスコンでグランプリを獲得。今後学生起業家・タレントとして飛躍していくのではないかと注目の的です。
また、曾祖父がもと総理大臣・大平正芳さんであり、そのほかの親類も日本テレビ専務や大手企業の相談役を務めていることなどから、その家系図にも注目が集まっています。
大平正芳の現在:1980年に享年70歳で死去、死因は心不全
大平正芳さんは1980年、参議院議員選挙の遊説中より体調がすぐれない様子でした。
また、「体がだるい」と訴え、主治医の勧めもあり緊急入院。
70歳という高齢であることに加え、外遊を伴う激務や心労などがたたり、心臓に不安があったのだとか。
反主流派であった中川一郎さんは、健康問題を理由に身体を決すべきと発言。その後、大平派からも退陣を促されます。
一時は会見も行えるほど体調が回復しましたが、容体が急変。
1980年6月12日、嫁・志げ子さんを含む家族などが見守る中、亡くなりました。享年70歳、死因は心筋梗塞による心不全とされています。
48年ぶりとなる現職総理の死去という事態に、官房長官の伊東正義さんが内政を監督、副総裁の西村英一さんが総裁代行、外務大臣の大来佐武郎さんがサミットへ代理出席と異例の権限分散という形で対応。
弔い合戦となった選挙では、「香典票」も相まって衆参両院で議席を大きく得ることができ、自民党の大勝となりました。
また、大平正芳さんの選挙区・香川2区には娘婿である森田一さんが出馬。見事当選を果たしています。
党内からは国葬すべきではという意見があったものの、「控えめのほうが大平正芳らしい」という伊東正義さんの意見が尊重され、内閣・自民党合同葬が執り行われることに。一般市民も4000人ほど参列しました。
その後、選挙事務所に大平正芳記念館が作られるも、2015年に建物の老朽化を理由に閉館。2016年に地元・香川県観音寺市に新たな記念館がオープンしています。
まとめ
大平正芳さんは農家の三男として誕生。いわゆる中流家庭ではありましたが、8人きょうだいだったため、学費面などで苦労したといいます。
そんな中でも勉学に励み、高等試験に合格。大蔵省へと入省しました。
その後、衆議院議員総選挙に自由党から出馬。見事当選を果たし、政治家の道を歩みはじめます。
池田内閣では外務大臣として活躍し、1978年に内閣総理大臣に就任。
反対派によって引き起こされた”ハプニング解散”後の選挙活動中に体調を崩し、現職総理であるまま亡くなりました。享年70歳、死因は心不全とのことです。
プライベートでは、4人の子供とその孫、ひ孫に恵まれている大平正芳さん。
2024年にはひ孫・大平ひかるさんの存在にも注目が集まっていますが、きっと大平正芳さんもその活躍を天から見守っていることでしょう。