千円札の肖像に描かれる細菌学者の野口英世ですが、その功績や性格は意外と知られていません。
今回は野口英世について、左手の火傷など生い立ちや経歴、偉大な功績や名言、死因の黄熱病、父や母と嫁や子供など家族をまとめました。
この記事の目次
- 野口英世は何をした人?
- 野口英世の経歴① 福島県の貧しい農家に生まれる
- 野口英世の経歴② 左手に重い火傷を負う
- 野口英世の経歴③ 高等小学校で猛烈に勉強〜会陽医院の書生に
- 野口英世の経歴④ 国家試験に合格して医師免許を取得
- 野口英世の経歴⑤ 伝染病研究所に入所
- 野口英世の経歴⑥ アメリカへ渡り蛇毒の研究で成果を出し認められる
- 野口英世の経歴⑦ ロックフェラー医学研究所で細菌学研究の道へ
- 野口英世の偉大な功績① 進行性麻痺に梅毒スピロヘータが関係している事を証明
- 野口英世の偉大な功績② 黄熱病の病原体を特定・南米の黄熱病を収束させる
- 野口英世の死因は黄熱病
- 野口英世の家族① 父・佐代助
- 野口英世の家族② 母・シカ
- 野口英世の家族③ 嫁や子供
- 野口英世の名言集
- まとめ
野口英世は何をした人?
千円札の肖像である野口英世は、明治時代の東北の貧しい農家に生まれ、教科書も満足に買えないほどの貧しさを乗り越え、ほぼ独学で勉強して医者になりました。
20代でアメリカへと渡って細菌の研究に力を注いで素晴らしい成果を出し、人類全体にとっての多大な功績を残した人物です。
現在でも「世界的細菌学者」として野口英世の偉業は世界中で称えられています。
まずは、野口英世の経歴を見ていきましょう。
野口英世の経歴① 福島県の貧しい農家に生まれる
野口英世は1876年(明治9年)11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村(現在の猪苗代町)の三城潟という場所で生まれました。
父・佐代助と母・シカの長男として生まれ、「清作」と名づけられます。上には姉のイヌがおり、後に弟の清三が生まれています。
野口英世の生まれた三城潟は寒村で貧しく、父の佐代助は酒好きな上にあまり働き者ではなかったため、畑を質に入れるハメになり、幼少時代の野口英世は貧しい暮らしを送ったそうです。
野口英世の経歴② 左手に重い火傷を負う
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野口英世は、1歳半の頃に実家の囲炉裏に転落して左手に重度の火傷を負っています。
母のシカはこの時、ワラで編んだカゴの中に野口英世を入れ、自分は外で農作業に勤しんでいました。英世が泣き叫ぶ声を聞いて慌てて家に戻り、囲炉裏に落ちている英世を発見しました。
左手の指が完全に固まってしまうほどの大火傷で、子供の頃の野口英世は周囲の子供らからその事で随分とからかわれたと伝わります。
野口英世もこの左手を随分コンプレックスに思っていたようで、人と会う時にはいつも左手を隠すようにしていました。
この事故を母のシカは終生悔やみ、左手が不自由では農作業は難しく、勉強しなければ食べていけないと思い、英世に必死に勉強をさせたと言われています。
1892年10月、高等小学校4年生だった野口英世は、この火傷のせいで思うようにならない左手に苦しむ思いを作文に書きました。
この作文は同級生や先生の胸を打ち、左手の手術費用を皆で出し合う話が持ち上がります。こうして、手術費用として10数円の金が集まりました。
そして、野口英世は当時会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎(わたなべかなえ)執刀で左手の手術を受けて成功、癒着した指は切り離され、物をつかめるようになります。
野口英世は、医学によって自分の左手が治ったことに感激し、これが医者の道を志すきっかけの1つになったとも言われています。
野口英世の経歴③ 高等小学校で猛烈に勉強〜会陽医院の書生に
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母のシカは、野口英世の左手の火傷が自分のせいだと思い、力仕事の難しい英世に学問で身を立てさせなくてはならないと悩んでいたようです。
シカは、英世の尋常小学校の卒業試験の試験官だった、猪苗代高等小学校主席訓導(教頭)の小林栄に「英世を勉強させて欲しい」と必死に訴えたと伝わります。
これに胸を打たれた小林栄の尽力によって、野口英世の猪苗代高等小学校への進学が決まり、それをきっかけにして野口英世は寝る間も惜しんで必死に勉強に励むようになったのだそうです。
成績は常に1番で、学校単位で行う小試験はもちろん、役所が一括して行う大試験でに常に1番の成績を収め、地域でも評判になっていました。
野口英世は高等小学校最終学年の頃、医者の道に進みたいとはっきりと決めましたが、正規の医学校に入るのは野口家の経済状況ではとても不可能でした。
出典:http://www.tdc.ac.jp/noguchi/02.html
猪苗代高等小学校を卒業した1893年3月、野口英世は、自分の左手を手術してくれた会陽医院の渡部鼎医師の元へ行き、自分の想いを伝えました。
渡部鼎医師はすぐに承諾してくれ、それから英世は会陽医院に書生として住み込みで働きながら、医学の猛勉強に励みました。
会陽医院での生活は3年半ほどで、渡部鼎医師から与えられた医学書を夜中の1時2時まで毎晩読み勉強し、英語はアメリカ帰りの渡部鼎医師からの直接指導を受けたそうです。
野口英世の経歴④ 国家試験に合格して医師免許を取得
会陽医院での書生生活の中で野口英世は、渡部鼎医師の友人で歯科医師の血脇守之助と知り合います。
血脇守之助は東京の歯科医師でしたが、渡部鼎医師の求めに応じて会津若松に出張診療に訪れていました。そして野口英世に興味を持ち、「東京に来たら立ち寄るように」と声をかけたそう。
野口英世は、医師の国家試験に合格するためには東京で勉強せねばならないという思いが強くあり、血脇守之助と知り合った事をきっかけに東京行きを決意したと言います。
1896年9月、野口英世は、高等小学校時代の恩師・小林栄に40円もの大金を借りて上京、医術開業試験の前期試験に合格します。
しかし、野口英世には金があると放蕩してしまう癖があり、上京からわずか2ヶ月ほどで、小林栄に融通してもらった資金を使い果たしてしまいます。
このままでは後期試験を受けられないと困り果てた野口英世は、血脇守之助を頼って住居の面倒を見てもらいます。
さらには、医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)へと通う資金・月額15円の援助までも受けています。
こうした血脇守之助の尽力もあって、1897年、野口英世は21歳で見事後期試験にも合格、晴れて医師免許を取得したのでした。
野口英世の経歴⑤ 伝染病研究所に入所
医師免許を取得したとは言え、野口英世は開業資金が無い事や、左手の火傷を患者に見られたくない思いもあって、自分は臨床医には向いていないと考え、研究医を目指すことを選びます。
野口英世は、血脇守之助の計らいで高山歯科医学院の講師を務めながら、順天堂医院でも助手として働きました。
1898年10月、野口英世は上司に頼み込み、順天堂医院からの紹介という形で、血清療法の権威・北里柴三郎が所長を務める「伝染病研究所」に入ります。
この伝染病研究所は、当時の日本の細菌学研究のメッカとも言える機関でした。
野口英世はここでは研究には関わりませんでしたが、語学力を買われ外国人賓客の対応などを担当しています。
そして1899年4月に、伝染病研究所を賓客として訪れたのが、ジョンスホプキンス大学の病理学教授だったサイモン・フレクスナー博士でした。
フレクスナー博士の案内を任された野口英世は、アメリカへ留学して研究をしたい気持ちがある事を伝えました。
フレクスナー博士は「それはいい考えです。その節はお力添えいたしましょう」と答えたと言われています。
野口英世の経歴⑥ アメリカへ渡り蛇毒の研究で成果を出し認められる
1900年12月、野口英世はついにアメリカへと渡りました。
野口英世はペンシルベニア大学のサイモン・フレクスナー博士を訪ねますが、アポなしで突然訪れたため、仕事は無いと断られてしまいます。
しかし、野口英世は粘り、フレスクナー博士の私設助手として雇われる事に成功。英世に最初に与えられた仕事は、蛇毒の研究でした。
野口英世は研究室の同僚に「あの日本人はいつ眠っているんだ?」と驚かれるほど研究に没頭。
そして、これまで不明だった蛇毒の神経毒と血液毒が全く別の物質である事を突き止めました。
この研究成果が、ペンシルベニア大学の理事・サイラス・ミッチェル博士の高い評価を得る事になり、野口英世の月給をそれまでの8ドルから25ドルに引き上げられています。
野口英世が蛇毒解明のきっかけをつかんだ事により、蛇毒の免疫血清、抗血清の製造が可能になってきたのです。
これが、野口英世が研究者として認められるきっかけとなりました。
野口英世の経歴⑦ ロックフェラー医学研究所で細菌学研究の道へ
ペンシルベニア大学で認められた野口英世は、1901年に設立された「ロックフェラー医学研究所」に1904年10月に入所しています。
ロックフェラー医学研究所の責任者は、野口英世の直属の上司のサイモン・フレクスナー博士でした。
フレスクナー博士は設立当初から、野口英世を自分の片腕として研究所に呼ぶ事を決めていたそうです。
野口英世はこの研究所で、細菌学研究で数々の偉大な功績を残す事になります。
次の項からは、野口英世の功績の数々を紹介します。
野口英世の偉大な功績① 進行性麻痺に梅毒スピロヘータが関係している事を証明
野口英世は、1911年8月「病原性梅毒スピロヘータ」の純粋培養に成功した事を発表します。
梅毒スピロヘータの純粋培養は、それまで成功した者は誰もおらず、世界中が驚きました。これによって、野口英世の名前は世界中に知られるようになったのです。
但し、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養はその後追実験に成功した者はいませんでした。
1981年以降に試験管内での培養成功例は複数あるものの、それも野口英世の培養条件とは異なっており、現在ではこの純粋培養の成功自体はほとんど否定されています。
しかし現在において、野口英世の功績として最も高い評価を得ているのは、この時の梅毒に関連する研究です。
野口英世は梅毒患者の組織や、病原体を移植した動物の組織をすり潰して顕微鏡で丹念に調査して梅毒スピロヘータを確認。
1913年には「進行性麻痺・脊髄癆(現在の脳梅毒)」の患者の脳病理組織から梅毒スピロヘータを確認し、当時精神疾患と思われていましたが梅毒の進行症状である事を証明しています。
当時の考えでは、精神病が感染症によって引き起こされている事が証明されたという事になり、世界の医学界に絶大なインパクトを与えたのです。
この功績から、翌年の1914年には、野口英世に京都帝国大学、東京大学から共に理学博士の学位が授与され、同年7月にはロックフェラー医学研究所の正会員へと昇格しています。
また、ノーベル医学賞の候補にも選出されています。
野口英世の偉大な功績② 黄熱病の病原体を特定・南米の黄熱病を収束させる
その頃、野口英世が籍を置くロックフェラー医学研究所の最大の目標は、当時猛威を振るっていた黄熱病対策でした。
1918年、野口英世は南米に派遣される黄熱病調査団の一員に選ばれ、7月15日にエクアドルに入りました。
野口英世は、なんと入国からわずか9日目に黄熱病の病原体として、両端が細長くカギ型になっている螺旋菌(スピロヘータ)を特定し、「レプトスピラ・イクテロイデス」と命名します。
次いで、野口英世はこの病原体を元にしてワクチンと血清を作り、それを患者に注射して南米の黄熱病を収束させてしまいます。
瞬く間に成果を挙げたこの日本人に世界中の人々が驚愕し、エクアドル政府から名誉軍医総監と名誉大佐の称号が贈られています。
但し、この発表は後に、ワイル病の病原体と野口英世の特定したレプトスピラ・イクテロイデスが血清学的に同一だと解明され、黄熱病の病原体としての報告は間違いだと判明しています。
それでも、この発見により、南米のワイル病病原体を初めて発見し、結果的に感染を収束させた事は高く評価されています。
野口英世の死因は黄熱病
野口英世は1928年、51歳でこの世を去っています。
死因は研究のために訪れた西アフリカで感染した黄熱病でした。野口英世の最期を見ていきましょう。
黄熱病研究のため西アフリカ・アクラへ
1927年10月23日、野口英世は黄熱病研究のため、西アフリカへと渡りました。
その後の11月16日、野口英世は、当時イギリスの植民地だったゴールド・コーストのアクラに到着します。
当時、野口英世の発表した黄熱病の病原菌が「レプトスピラ・イクテロイデス」との説に、疑義が持ち上がっていました。
また、ロックフェラー医学研究所内でも、野口説を否定する声が出ていました。
そのため、英世はロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を拒み、イギリス人病理博士・ウイリアム・A・ヤング博士の研究施設を借りて黄熱病の研究を開始しました。
現地では黄熱病が収束していたため、フランス領トーゴランドから黄熱病患者の血液を取り寄せて研究しますが、この血液からは、レプトスピラ・イクテロイデスが確認できませんでした。
黄熱病に感染
12月26日、野口英世は、ウエンチ村で黄熱病らしき患者が出たというので血液を採取しに向かいます。
この時に感染したのか、翌1928年の1月2日に野口英世は軽度の黄熱病と見られる症状を発症し入院しています。(別の医者はアメーバ赤痢と診断しており、黄熱病ではなかった可能性も)
1月7日、病状が回復した野口英世は病院を退院(勝手に抜け出したとの説もあり)して研究を再開します。
3月末には、米国のサイモン・フレクスナー博士にレプトスピラ・イクテロイデスとは違う種類の黄熱病病原体を確認した事を知らせる電報を打っています。
つまり、黄熱病に関する自説が誤りであった事を認めています。
51歳の生涯を閉じる
5月11日に野口英世の体調が再び悪化し、13日に黄熱病との診断で、アクラのリッジ病院に入院。一時回復するものの18日に再び体調が悪化し、21日の昼頃に病室で亡くなりました。
野口英世の遺体は汽船「ウエスト・ケーバー」に乗せられ、6月13日にニューヨーク港に着いています。
この日、ロックフェラー医学研究所の屋上には日章旗、前庭には星条旗が掲げられ、野口英世の残した業績に敬意を示しました。
6月15日にロックフェラー医学研究所で葬儀が執り行われ、棺は郊外のウッドローン墓地に埋葬されています。現在も墓が残り、そこには英文で以下の文が刻まれています。
Through Devotion to Science
He Lived and Died for Humanity
その努力を科学に捧げ
人類のために生きた彼は
人類のために死んだ
野口英世が人類に残した偉大な功績は、この墓に刻まれた碑文に集約されています。
野口英世の家族① 父・佐代助
偉人として歴史に残る野口英世ですが、実はかなりクセの強い個性的なキャラクターだったようです。
そして、このキャラクターは父・佐代助と、母・シカから受け継いだものだと言われています。
酷すぎる放蕩癖は父・佐代助譲り
実は野口英世には、酷い放蕩癖があり、金が入れば酒を飲み遊郭に通うなどしてすぐに使い果たしてしまい、生涯を通じてほとんど蓄えというものをしていません。
英世は医者になるために必要な費用や、渡米するための費用は、ほとんど全てを周囲の人間からの借金で賄っています。
ですが、こうして借り受けた金すらも本来の目的に使用せず、ほとんど遊んで使ってしまうようなところがありました。
また、野口英世は渡米するために、資産家の斎藤文雄という人物の姪の斉藤ます子という女性との婚約を取り付け、その婚約持参金300円を渡航費に充てています。
その後、野口英世はます子との婚約を破棄し、まるで結婚詐欺のような事をしているのです。(持参金は歯科医の血脇守之助が返済)
こうした野口英世の放蕩な性格は、父・野口佐代助の血を受け継いだものではないかと言われています。
野口佐代助もまた、大の酒好きでお金が入ると全て飲み代に使ってしまうようなタイプだったと伝わっています。
ただ、野口佐代助はそれほど悪い人間だったわけではなく、明るく無邪気な人物で、手先が器用で要領がよく、身軽に人生を渡っていたようです。
父のこうしたところも野口英世は受け継いでいた様で、アメリカに何のツテもなく渡った時の様に、行けば何とかなるだろうという楽天的な性格がありました。
野口英世の家族② 母・シカ
粘り強く努力家な性格は母のシカ譲り
放蕩な性格の野口英世でしたが、いざ医学の事となると人が変わった様に尋常ではない努力を見せました。
医者を目指して猛勉強を重ねた頃は、1日の睡眠時間は3時間ほどだったと言われ、健康を害して顔色が憔悴するほど、がむしゃらに勉強していたそうです。
また、アメリカに渡って研究員になった時も、寝食を忘れて作業に打ち込む姿に、周囲からは「実験マシーン」「日本人は眠らない」などと揶揄される程でした。
野口英世のこうした常人にはとても真似できない努力家な面は、母のシカの性格を受け継いだものだと言われています。
シカは放蕩な夫・佐代助に代わって野口家を支えるために、農業の傍、産婆としても収入得ていました。
1899年、明治政府によって産婆に免許制度が制定され、国家資格の取得が必要になりました。
シカは文字の読み書きができませんでしたが、国家試験を受けるために、近所の住職に頼み込んで猛勉強をして読み書きを習得し、見事産婆の免許を取得しています。
こうした母・シカの粘り強く努力を惜しまない性格が野口英世に受け継がれた事は間違い無いでしょう。
野口英世の家族③ 嫁や子供
出典:https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp
野口英世は1911年4月、アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しています。
メリー・ダージスは野口英世と同い年で、2人はニューヨークの下町にあった「ルーチョウ・レストラン」というカフェレストランで知り合ったと言われています。
野口英世はこの店の常連で、メリーと飲みだすと楽しくて止まらなくなったのだそうです。
メリーは大柄な女性だったそうで、喧嘩をすると小柄な野口英世が投げ飛ばされる事もあったそうですが、そうした事も含めて2人は気が合ったのか、夫婦仲はとても良かったんだとか。
しかし、2人の間に子供はなく、野口英世の姉・野口イヌの長男を養子にもらったと伝えられています。
放蕩癖のある野口英世に代わり、メリー・ジーダスは義姉のイヌに仕送りを欠かさなかったとも言われています。
野口英世の名言集
続いては、野口英世の残した名言を紹介します。
志を得ざれば再び此の地を踏まず
これは、野口英世が医者になるために上京する前、実家の柱に小刀で彫り込んだ言葉です。
東京に向かう野口英世の悲痛なまでの覚悟が伝わります。現在も野口英世記念館には、この彫り込みの写しが保存されています。
努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
野口英世は、常人にはとても真似のできない様な努力をひたすら重ねて世界的に認められる医学者になりました。
野口英世は周囲から天才と言われましたが、自分は医学の天才ではなく、努力の天才なのだと言っています。
自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。
野口英世は、本当に細菌の研究が好きだったようです。野口英世は、アメリカの下宿に、東京歯科医学院から訪ねてきた荒木紀男という学生を居候させていた時期がありました。
荒木は、毎朝早くに研究所に出かけていく野口英世を見て「たまには朝寝坊されてはいかがですか?」と尋ねました。
すると野口英世は「俺の唯一の楽しみは、前日の実験の結果がどうなってるか見る事なんだ」と答えたそうです。
野口英世は、好きでたまらない研究をひたすら続ける事が人の助けになっている事が幸せな事だと感じていたようです。
まとめ
明治時代アメリカの医学界で大きな功績を残し、千円札の肖像画にも選ばれた野口英世についてまとめてみました。
野口英世は、貧しい農民の家に生まれ、1歳半で左手に大やけどをして障害を負うという大きなハンデキャップを猛烈な努力によって乗り越え、医師免許を取得します。
さらにはアメリカへと渡って、細菌の研究に打ち込み素晴らしい功績を残し、世界に認められる医学者となりました。
科学技術の進歩によって、当時の野口英世の発見の多くは間違いだった事が判明しています。
しかし、たった1人で日本から飛び出して行き、世界で誰も成し遂げなかった事に次々と挑戦したその情熱と勇気は、現在でも人々の心を熱くしています。