戦後最悪の連続殺人・西口彰事件は、犯人逮捕のきっかけやその後も話題です。
今回は西口彰事件の犯人の西口彰の生い立ちと家族(子供や子孫)、被害者の1人のるり子ちゃん、死刑判決と最後の言葉、映画やドラマ化、アンビリーバボーでの特集を紹介します。
この記事の目次
西口彰事件とは
「西口彰事件」とは、事件当時ですでに前科4犯だった西口彰(当時37歳)が起こした、5人もの人を立て続けに殺害した連続殺人事件です。
西口彰は1963年10月に2人を殺害、1964年1月3日に逮捕されるまでにさらに3人を殺害しました。
大学教授や弁護士など高学歴だと騙し、被害者を信用させ、逃走資金として約80万円も詐取していました。
そして熊本で、弁護士を装って教戒師・古川泰龍さんの家に押し入ったところ、当時10歳だった娘の瑠璃子ちゃんが逃走中の犯人であることを見抜き、通報されて逮捕されました。
このことから、警察は「全国12万人余の警察官の目は幼い一人の少女の目に及ばなかった」と語り、西口彰は死刑判決が下っています。
西口彰事件の被害者は5人
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1963年10月18日、福岡県京都郡苅田町堤の国鉄(現・九州旅客鉄道)、日豊本線苅田駅西側の山道で専売公社職員が殺害されました。
さらに同日、田川郡香春町の仲哀峠で運転手が殺害されています。
同年11月には、静岡県浜松市で旅館経営の親子が殺害され、さらに同年12月29日には東京都豊島区で弁護士が殺害されました。
西口彰に殺害された被害者は、この計5人になります。
西口彰事件の犯人の生い立ち
西口彰(にしぐち あきら)は、1925年(大正14年)12月14日、キリスト教カトリックの家庭に生まれ、5歳の頃に洗礼を受けました。
家は比較的裕福でしたが、西口彰の父親は、隠れキリシタンの伝統が残る長崎県五島列島の出身だと言われていて、厳しいキリスト教の戒律で縛られた家庭で育ったようです。
そのため、西口彰は、父親に反抗して犯罪を犯すようになったと言われています。
西口彰は中学校から福岡にあるミッション系スクールに入れられましたが、そこでの生活に馴染めずに3年生の時に家出しています。
その後、詐欺や窃盗を繰り返すようになり、少年刑務所に送られました。
出所してからも改心することなく、西口彰は詐欺や窃盗をして日銭を稼ぎ、逮捕されては服役するということを繰り返す人生でした。
その後、西口彰は上記5人の人々を殺害し、詐欺や窃盗などを繰り返しながら、12万人も動員した警察の目をかいくぐり日本中を逃走し続けました。
その冷酷な犯行手口から裁判では「悪魔の申し子」と呼ばれ、当時として「戦後最悪の連続殺人」と言われていました。
西口彰事件の詳細
それではここからは、この「西口彰事件」についての詳細を紹介していきます。
西口彰が福岡県で2人を殺害
1963年10月18日、福岡県京都郡苅田町堤の国鉄日豊本線苅田駅の西側にある山道において、専売公社職員が殺害されているのが発見されました。
そして同日に、田川郡香春町の仲哀峠で、運転手が殺害されているのが発見されます。
この2件の殺人事件は、目撃者の証言から、詐欺や窃盗などで前科4犯だった西口彰が捜査線上に浮上し、福岡県警は西口彰を全国指名手配しました。
西口彰は逃走を続けた
西口彰は潜伏先の佐賀で、自分が全国に指名手配をされていることを知ります。
そして、警察を煙に巻くために、瀬戸内海の連絡船で靴をおいて遺書の書置きを残し、投身自殺を偽装しました。
しかし、警察はこれを偽装だと見抜き、全国での捜査は続行されています。
事件から6日後、瀬戸内海の連絡船で、西口のものと思われる背広と革靴が発見された。背広のポケットに入っていた遺書には『先立つ不孝をお許しください。この道を選ぶより外はなかったのです』と書かれている。連絡船から投身自殺したと思われた西口。だが、海上から遺体が発見されないことを不審に思った警察は、自殺を偽装と断定する。
その後の西口彰は、神戸、大阪、京都、名古屋と中部近畿地方を転々と逃走を続けました。
静岡県浜松市で2人を殺害
1963年11月、静岡県浜松市にいた西口彰は、偽名を使って大学教授を装い、 浜松旅館の女将と親密な関係になりました。
しかしその後、西口彰は貴金属や衣類を強奪する目的で、女将とその母親を絞殺しています。
西口彰は12月頃から弁護士を騙るようになり、千葉県から北海道、さらに東京に戻ったり栃木県に潜伏するなどして、金品類を詐取して回りました。
東京都豊島区で弁護士を殺害
西口彰は1963年12月29日に、東京都豊島区に住んでいた一人暮らしの弁護士の老人を殺害し、弁護士バッジを強奪しました。
西口彰はこの弁護士バッジで人を信用をさせ、さらに強盗殺人を繰り返すつもりでいたようです。
西口彰が熊本県で逮捕される
1964年1月2日、西口彰は東京の弁護士を騙って熊本県玉名市に住む、冤罪事件防止の活動に取り組んでいた教戒師・古川泰龍さんの家を訪れています。
西口彰の姿を見た当時10歳の古川瑠璃子ちゃんは、西口彰と同級生の名前が似ていたことから全国指名手配犯の情報を覚えており、家を訪ねてきた男が西口彰だと見抜きました。
娘からこれを聞いた聞いた古川泰龍さんは、これ以上西口彰に人殺しを繰り返させないために、あえて危険を承知で、西口彰に家に泊まるように勧めました。
そして、弁護士団体の名前や、西口彰が卒業したと主張する東京大学の著名な法学部教授などの名前などを聞き出し、嘘が露呈したところで犯人だと確信し、警察に通報しています。
これにより、西口彰は1964年1月3日に逮捕されました。
西口彰の判決は死刑
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西口彰は5人の殺害と、10件の詐欺、2件の窃盗の容疑で起訴されました。
裁判での検察の論告では、西口彰のことを「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と揶揄し、地方裁判所の判決文では「悪魔の申し子」と呼ばれました。
さらに検察は死刑を求刑し、1964年12月23日に福岡地方裁判所小倉支部において死刑判決が言い渡されました。
1965年8月28日には、福岡高裁において控訴棄却の判決が下され、1966年8月15日に西口彰側が上告を取り下げたため、死刑が確定しました。
西口彰事件のその後① 古川瑠璃子(るりこ)ちゃんに手紙を送っていた
西口彰は逮捕され、福岡拘置所に収監されてから5年後、自分が逮捕されるきっかけとなった瑠璃子ちゃんに手紙を送っていたことがわかっています。
手紙の内容には、次のようなことが書かれていたそうです。
「その折は大変迷惑をおかけし、まことに申し訳ございませんでした」
「るり子さんも高校生に成長なさて、朗らかに、毎日元気にお過ごしのこととうかがっております」
「決して皮肉ではございません」
「できたら今後、るり子さんと文通をしたいと思いますが、唯「こはい人」と言った感じだけを残しているのかもしれませんネ」
手紙には押し花が添えられていたといいます。
皮肉ではないと書いた西口彰ですが、普通に考えて常軌を逸した行動です。
しかし、全国12万人の警察を出し抜き続けた自分を見抜いた瑠璃子ちゃんに、もしかしたら「よくぞ見つけた」という褒める気持ちがあったのかもしれません。
ちなみに、瑠璃子ちゃんはこの西口彰の手紙に返事をすることはありませんでした。
古川瑠璃子ちゃんの現在
事件当時10歳の少女だった瑠璃子さんは、2021年現在は57年以上が経過しており、67歳くらいになっていると思われます。
2014年にフジテレビの番組『Mr.サンデー』で「西口彰事件」が取り上げられた際には、瑠璃子さんの姉・愛子さんが出演して、西口彰が宿泊した部屋を紹介しています。
この時、瑠璃子さんは番組に出演しませんでしたが、現在も熊本県玉名市に住んでいるのではないかと言われています。
西口彰事件のその後② 西口彰の家族(子供・子孫)
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西口彰には犯行当時、妻と3人の子供がいました。
西口彰事件のその後、妻や3人の子供がどうなったのかは不明ですが、西口彰の長男は事件以降に非行に走るようになったようです。
西口彰はそんな息子に向けて獄中から「自分のようになるな」と、20通以上も手紙を出し続けました。
この手紙に心を動かされたのか、その後の長男は更生し、結婚もして普通に生活していると言われています。
また、西口彰が逮捕前に最後に訪れた家の古川泰龍さんは、西口彰が逮捕されてからずっと西口彰の家族と交流して支え続けており、さらに子供の学費まで援助しています。
そのため、西口彰は死刑確定から執行されるまでの4年間、古川泰龍さんへの感謝を口にし続けていたようです。
西口彰事件のその後③ 西口彰は獄中でボランティアをしていた
西口彰は、福岡拘置所の中で「点字翻訳」のボランティアに励んでいました。
文通を交わしていた女子大生からの依頼で、卒論の哲学書を点字訳に翻訳するなど、獄中で生きがいをみつけたようです。
この時に西口彰が点訳した哲学書を使って卒論を書き上げ、早稲田大学を卒業した男子学生がいるとも言われています。
さらにこの学生は後に地方議員となって、政治の世界で活躍しているようで、「悪魔の申し子」と呼ばれた西口彰も、最後の最後で誰かのためになる生き方ができたと言えるでしょう。
西口彰の最後の言葉
人の心を持っていないような冷酷な殺人を繰り返して逃亡を続け、社会を騒がせてきた西口彰の最期の言葉として、法廷で死刑を求刑された時の言葉が残っています。
「死刑の求刑は、当然だと思っております。不平も不満もありません。(中略)ですから最後は、人間らしい気持ちで刑場に上がりたい。どうかその姿を想像して、笑ってください」
なお、これほどの事件を起こした西口彰の動機については、全くの不明です。
警察の取り調べでは「借金の返済と、愛人に気に入られるため」と述べているものの、犯行内容とあまりにも乖離していることから、より西口彰の不気味さが際立つこととなりました。
そして1970年12月11日、収監されていた福岡拘置所内で西口彰の死刑が執行されました。享年44歳でした。
西口彰事件はドラマ化・映画化されている
西口彰については、日本犯罪史上稀に見るシリアルキラーとして、映画や小説の題材になっています。
以下の作品が現在までに製作されています。
・1975年初版の佐木隆三著の小説『復讐するは我にあり』
同作では榎津巌が西口彰に当たる
・小説『復讐するは我にあり』を1979年映画化
緒形拳が西口彰役を務める
・小説『復讐するは我にあり』をドラマ化
1984年は根津甚八が務め、2007年は柳葉敏郎が務める
・1976年東映の映画『戦後猟奇犯罪史』
西本明が西口彰に該当する人物を務める
・1991年9月6日放送のフジテレビ系番組『実録犯罪史シリーズ 恐怖の二十四時間 連続殺人鬼西口彰の最期』
役所広司が西口彰役を務める
なお、松竹映画も西口彰を題材とした映画「仮題『国民の目』」を製作しようとしました。
しかし、 西口彰の家族により反対されて、法務省人権擁護局から制作を控えるように通達を受けたため、1964年2月16日に正式に映画化の中止を発表しています。
西口彰事件はアンビリバボーで特集されたことも
2019年5月30日に放送されたフジテレビ系列のバラエティ番組「奇跡体験!アンビリバボー」において、西口彰事件が特集されました。
番組では、古川泰龍さんの家での西口彰の逮捕劇が紹介されました。
古川家の三女で当時10歳だった瑠璃子ちゃんは、弁護士を騙る西口彰を見るなり、突然外に飛び出してどこかに走り去ります。
そして、家に戻ってきた瑠璃子ちゃんは、西口彰にバレないようにそっと母親に全国指名手配犯である西口彰にそっくりだと伝えました。
なお、西口彰は古川泰龍さんの活動資金目当てで押しかけており、隙を見て一家全員を殺害して金品類を強奪した後、沖縄に逃亡する予定だったと番組では紹介されています。
古川さん一家を手にかける前に西口彰を逮捕できて、本当に良かったとつくづく思いますよね。
まとめ
「戦後最悪の殺人事件」と呼ばれ、5人の命を冷酷に奪い続けた西口彰が起こした「西口彰事件」についてまとめてきました。
12万人もの警察が動員されながらも犯人を逮捕できなかった理由には、当時東京オリンピックにより交通網が急速に発展し、捜査手法が追いつかなかったからと言われています。
人間の感情を持たないような冷酷な殺人事件を繰り返した西口彰でしたが、法廷や獄中では意外にも常識人のような振る舞いが見られ、より西口彰の恐ろしさ、不可解さが際立ちます。
亡くなった5人の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。