レオナルド熊さんは1980年代に漫才ギャグで人気を博したお笑い芸人ですが、心霊エピソードやANA事件も話題です。
今回はレオナルド熊さんの経歴や心霊話、嫁との結婚や子供(息子と娘)、死因やANA事件など現在を紹介します。
この記事の目次
レオナルド熊は社会風刺の漫才ギャグで人気を博したお笑い芸人
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生前のレオナルド熊
レオナルド熊さんは、40歳を過ぎてから大ブレイクを果たした遅咲きのお笑い芸人です。
その人生は波乱万丈で、コンビを組むたびにトラブルを起こし、約25人も相方を変えたという驚愕エピソードの持ち主です。
レオナルド熊さんがどのような人物なのか気になりますよね。
まずは、プロフィールから見ていきましょう。
レオナルド熊のプロフィール
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レオナルド熊(れおなるどくま)
本名: 井上千蔵(いのうえ せんぞう)
生年月日: 1935年6月27日
没年月日: 1994年12月11日
出身地: 北海道樺戸郡
職業: コメディアン、俳優
1960年代から芸能活動を開始し、お笑いグループ「ラッキーパンチ」、「コント・レオナルド」を経てブレイク。
その後は俳優としても活動していて、「劇団七曜日」を旗揚げするなど、お笑い芸人の活動の場所を増やすことに貢献したことでも知られています。
1994年に死去しました。
レオナルド熊の若い頃の経歴① 俳優を目指して上京
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ここからは、レオナルド熊さんの若い頃について振り返ってみましょう。
実は最初から芸人志望だったわけではなく、若い頃は俳優を目指して長い間下積み生活を送ってきました。
そして、レオナルド熊さんを長年苦しめることになる結核にもかかっています。
昔は俳優志望だった
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レオナルド熊さんは北海道出身で、地元の高校に通っていましたが、役者を目指すために高校を中退し、単身上京。
その後は浅草に定着して、ストリップ劇場で幕間にコントをする仕事に就きました。しかしそれだけでは食べて行けず、副業で小料理屋を開いていたそうです。
俳優の道は厳しいもので、気が付いたら10年以上下積み生活を送り続けていたといいます。
レオナルド熊の若い頃の経歴② 結核を患う
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レオナルド熊さんは若い頃に結核を患い、壮年になっても苦しめられることになります。
結核とは、結核菌を媒介する感染症の1つです。日本では明治時代くらいまで「労咳」と呼ばれ、助かる見込みの薄い病気でしたが、医療の発展と共に治る病気に変わってきています。
レオナルド熊さんは1973年頃に症状が悪化して、5年に渡る入院生活を送ることに。
退院後、本格的にお笑い芸人として活動し始めると、体調が優れない日も多く、なかなか安定したステージというわけにはいかなかったようです。
そんなレオナルド熊さんの体調の不安定さは、グループで一緒に活動するメンバーにとっても不安の種だったようで、25人も相方が変わっているのは体調のせいもあったんだとか。
レオナルド熊の若い頃の経歴③ 石倉三郎とラッキーパンチを結成
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病気療養中だった1979年、初めてお笑いコンビ「ラッキーパンチ」として活動を開始したレオナルド熊さん。
相方は、現在は味のある俳優として知られる石倉三郎さんです。
しかし、1年経たずして解散しています。
どんなコンビだったのでしょうか。そしてなぜ短期で解散したのかも気になりますね。
石倉三郎のプロフィール
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石倉 三郎(いしくら さぶろう)
生年月日: 1946年12月16日
出身地: 香川県小豆郡
血液型: A型
身長: 170cm
時代劇の悪役から、優しいおじいちゃんの役までこなす幅広い演技力を持つ役者と知られる石倉三郎さんですが、昔はコメディアンをしていたのです。
1967年から高倉健さんの紹介で東映東京撮影所に入り、任侠映画などで端役として活躍していましたが、1972年に退社しお笑いに転向しています。
1979年にレオナルド熊さんとコンビ「ラッキーパンチ」を結成するも、すぐに解散。
その後、レオナルド熊さんが「コント・レオナルド」を結成した時には、要請に応じて再びコンビを組むという、不思議な腐れ縁だったことが知られています。
1985年以降、再び俳優に復帰すると、次第にバイプレイヤーとして脚光を浴び、現在に至っています。
ラッキーパンチの解散理由とは?
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コンビを結成したものの、わずか1年弱で解散してしまった「ラッキーーパンチ」。
解散理由について、石倉三郎さんが以下のようにインタビューで語っています。
熊が結核でしょっちゅう倒れるんですよ、そのたびに飯が食えなくなる。
もう疲れちゃいましてねえ。
熊に「あんた、このままだと死んじゃうぜ? もうやめなよ。オレもやめるわ」と言ったんです。
引用:石倉三郎の運命を変えた分岐点 – AERA.dot https://dot.asahi.com/
期待していた収入は、レオナルド熊さんの病気で全く先行きが見えなくなってしまったのです。
確かに、頻繁に相方が休んでいたら、仕事が回ってこなくなるのも仕方がありませんね。
また、心身共に疲れていた時、先輩から「トマトの水耕栽培をする会社を立ち上げるので、一緒にやってくれないか」とオファーを受けていたという背景もありました。
コンビ解散後、石倉三郎さんは千葉県に引越して朝から晩まで土を掘り、畑を作る作業に当面没頭することになったのです。
レオナルド熊の若い頃の経歴④ コント・レオナルドでの社会風刺ギャグで人気に
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わずか1年という短い期間でラッキーパンチは解散しましたが、レオナルド熊さんはめげずにすぐに「コント・レオナルド」を結成。
結成時のメンバーは、弟子のブッチー武者さんです。しかし、すぐに相方に逃げられてしまうというトラブルが起こりました。
ここからは、「コント・レオナルド」における相方との関係や活動について紹介します。
ブッチー武者のプロフィール
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ブッチー武者(ぶっちーむしゃ)
本名: 武者博和
生年月日: 1952年8月6日
出身地: 長野県東御市
血液型: B型
事務所: BMCエンタープライズ
1977年に開催された「お笑いオンステージ コメディー研究会」のオーディションに合格したことで、レオナルド熊さんに弟子入りしたブッチー武者さん。
レオナルド熊さんとお笑いコンビ「熊田うつぞう・にげろう」を結成し、ブッチー武者さんが「にげろう」を名乗り活動していました。
ちなみに、このコンビ名はレオナルド熊さんの師匠であるポール牧さんが付けたものでしたが、しばらくして「コント・レオナルド」に改名しました。
ただ、改名の甲斐もなく、ブッチー武者さんはすぐに脱退しています。具体的な時期は不明です。
なお、ブッチー武者さんはその後、「俺たちひょうきん族」の懺悔の神様に抜擢され、たちまち人気を博しました。
石倉三郎が戻ってきた
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ブッチー武者さんはコンビ結成後程なくして「コント・レオナルド」から脱退しました。
レオナルド熊さんとブッチー武者さんは師弟関係でしたが、実はコンビ仲がかなり悪かったそうです。
レオナルド熊さんからパワハラを受けていた、という証言もありました。
結果的にブッチー武者さんはノイローゼになってしまい、さらに運悪く漫才中に舞台で転倒し、活動休止をせざるを得なくなったのだとか。
こうして1人になったレオナルド熊さんは、かつての相方である石倉三郎さんに連絡を取って「相棒が逃げた。一緒にやってくんねえか」とお願いしたのです。
千葉でトマトの水耕栽培に従事し、日々肉体労働をしていた石倉三郎さん。すぐに答えは出さずに、1回だけ試しにライブに参加したところ、やはり楽しかったのでとても迷ったといいます。
そのような気持ちの中、千葉に帰ると先輩が「芸能界に戻りたいんだろう?」と背中を押してくれたそうで、再度レオナルド熊さんとコンビを組むことに決めたと語ってします。
こうして、「コント・レオナルド」は、石倉三郎さんとレオナルド熊さんのコンビで再出発することになったのです。
時事ネタギャグが大ヒット
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これまで、「ラッキーパンチ」も「コント・レオナルド」の台本も、全部レオナルド熊さんが制作してきました。
コント・レオナルドのギャグは、時事問題を風刺した辛口で軽快なやり取りが特徴です。
例えば、スリの父親が銀行に就職が決まった息子に「銀行はスリよりタチが悪い」とバッサリ。
時事問題の不条理ネタは1980年代前半にはまだ存在しておらず、コント・レオナルドの芸風は新鮮かつ斬新で、お笑いブームの到来も相まってコンビはブレイクを果たしました。
この時のレオナルド熊さんはすでに40代と、芸人がブレイクするにしては遅咲きだったことも話題となりました。
アッサリ喧嘩別れで解散
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石倉三郎さんと再びコンビを組み、人気を博したものの、2人の関係はかなりギクシャクしていたそうです。
実は、レオナルド熊さんがコンビ名に自身の名前が入っているという自負や、プライドの高さから不遜な態度を取っていたそうです。
また、ギャラを話し合って決めたにも関わらず、密かにレオナルド熊さんが自分の取り分を多くしたり、レオナルド熊さんの弟子と勝手に営業活動をしたりなど、問題行為が多かったのです。
これらのトラブルに石倉三郎さんが苦言を呈すると、レオナルド熊さんは逆ギレしてしまう始末で、結局1985年に人気絶頂の中コンビを解散してしまいました。
誰かと一緒に仕事をすることには、レオナルド熊さんは向かない性格だったのかもしれません。
横柄な態度や金銭にだらしない、さらに反省もせずに逆切れともとなれば、相方が25人も変わったというエピソードも納得ですよね。
レオナルド熊さんはコント・レオナルド解散後は、ピン芸人や俳優、若手の活動の場を作り出す活動などに専念することになります。
レオナルド熊はお笑い以外の活動でも注目を集めた
CMで流行語大賞
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レオナルド熊さんは、お笑い芸人の他に俳優として活動していました。
その中でも最も注目を集めたのが、1983年に出演したサントリービール「生樽」のCM。
話題を呼んだ理由は、レオナルド熊さんがCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうなアイディアですな」というセリフでした。
レオナルド熊さんのギャグは、コンビ時代から時事問題の風刺ネタが多く、企業のCMではスポンサーのイメージを壊しかねないリスクが潜んでいました。
こういったアイロニックな台詞をサラリと決めることがスゴイと、1983年の流行語大賞に選ばれたのです。
レオナルド熊の心霊エピソードとは
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レオナルド熊さんについて調べると、「心霊」や「怪談」といったサジェストワードが挙がってきます。
レオナルド熊さんには霊能力があったのでしょうか。何か事件に巻き込まれたのでしょうか。
ここでは、レオナルド熊さんと心霊の関係を紹介します。
入院中のエピソードが取り上げられた
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1973年から1997年に人気だったのが「怪奇特集!!あなたの知らない世界」という番組です。
番組は、視聴者からの実体験をベースにした再現ドラマがVTRとして流されるというスタイルで、かつてレオナルド熊さんの体験が取り上げられたことがありました。
レオナルド熊さんが結核で入院していた時、同じ結核患者が同じ病室に集められていたそうで、ある日、同室のAさんが結核で亡くなってしまいました。
数日後、同室のBさんが夜中にトイレ行ったところ、血相を変えて戻ってきて「Aさんがトイレにいた!」と訴えたそうです。
そして数日後、Bさんは亡くなったといいます。
続いて、Cさんも同様に夜中のトイレから戻ってきて「Aさんがいた」と青い顔をしていた数日後に亡くなったんだとか。
そしてDさんも同じように亡くなり、レオナルド熊さんは「トイレでAさんを見たら命が危ない」と考え、なるべく夜中にトイレに行かないように頑張っていたのです。
ある日、どうしても我慢ができない日が来てしまい、もしAさんがトイレにいたらどうしようとドキドキしながらトイレに行ったものの、Aさんとは遭遇しなかったようです。
その後、レオナルド熊さんは生き延びて無事退院しています。
レオナルド熊が結婚した嫁は元女優の中川加奈
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ここからは、レオナルド熊さんのプライベートについて見ていきましょう。
レオナルド熊さんには結婚歴があります。
嫁はどのような人なのでしょうか。入籍する際に起きたトラブルから、意外な結末を迎えたエピソードも紹介します。
嫁は元女優の中川加奈
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現役時代の中川加奈
レオナルド熊さんの嫁は、元女優の中川加奈さん。
1950年10月13日生まれで、レオナルド熊さんより14歳年下という、年齢差カップルです。
2人の馴れ初めは不明ですが、同棲をする中で中川加奈さんが妊娠したことをきっかけに入籍しています。
結婚を発表したのが1984年。ちょうどレオナルド熊さんが大ブレイクしている最中で、世の中から注目を集めることになったのです。
保証人は梨本勝
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芸能リポーターの梨本勝
2人が入籍するために役所に赴いたのは、1984年2月21日で雪が降っていたそうです。
その様子を取材する取材陣に向かって、レオナルド熊さんは「早く入籍しないと出るもんが出ちゃいますから」と笑いを取ってサービス。
役所のカウンターに届出をすると、保証人の判子が1つしか押されていないと指摘されてしまいます。
慌てたレオナルド熊さんは「困ったな。すみません。どなたかお願いします」と集まっていた報道関係者にお願いし、芸能リポーターの梨本勝さんが保証人になり、無事結婚できたのです。
レオナルド熊の子供は息子と娘が1人ずつ
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授かり婚だったレオナルド熊さんは、結婚して程なく第1子の長男となる息子、数年後に第2子となる娘が誕生しています。
つまり、2人の間の子供は2人ということになりますね。
息子は幼少期に「レオナルド子熊」名義でレオナルド熊さんとお笑いの舞台に立ったこともあり、現在は「井上”KB”幸法」名義でギタリストとして活動中です。
娘は一般人のようで、氏名や生年月日、画像など個人情報は公開されていません。
レオナルド熊の死因は膀胱がん
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レオナルド熊さんは、1994年10月に末期の膀胱がんであることが発覚しました。
末期での発見であれば、完治するための治療がすでに難しかったのかもしれません。マギー司郎さんやホープさんなど、これまで交流のある芸人を招き、「癌祝いの会」が開かれました。
会の詳細は明かされていませんが、生前葬のようなものだったと言われています。
がん発覚から約3か月後の1994年12月11日、家族と焼肉を食べるためにレストランに行ったレオナルド熊さん。
ご飯を食べ終える頃に急に容態が悪くなり、搬送先の病院で死去しました。享年59歳でした。
レオナルド熊の死去後に起きたANA事件とは
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レオナルド熊さんが死去してから約14年後の2008年に突如、週刊誌などのメディアで「レオナルド熊のANA事件」というタイトルがあちこちで踊りました。
ANA事件と呼ばれる騒動と、レオナルド熊さんとの関係を見ていきましょう。
パスの制度を突いた荒稼ぎ
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ANA事件とは、2008年に発売された「ANAプレミアムパス」に起因しています。
ANAプレミアムパスを購入すると、1年間国内線のプレミアムクラスに乗り放題というシステムで、価格は300万円、発売数量は100枚でした。
元を取ろうとすると羽田から那覇を年間50往復する必要があり、いくらビジネスマンでもそのような人は出ないだろうという目論見の元で発売されたのです。
また、このパスの特典としてマイルが通常プレミアムクラスの50%増しで付与されました。
このANAプレミアムパスを極限まで利用していた人物こそが、見た目が「レオナルド熊さんのソックリさん」だったのです。
この人物はなんと、365日毎日6~7便ファーストクラスに搭乗し、貯めたポイントで高級な食事や高いお酒を飲むという生活を始めました。
仮に、ダイヤモンド会員の場合は1日2往復するだけでも、一日で12,988マイル貯まるという計算になります。
レオナルド熊と事件の関係は?
レオナルド熊さんのソックリさんという男性は、相当のモンスタークレーマーだそうで、航空業界では伝説の存在なのだとか。
例えば、裸足で機内の備品であるブランケットや枕に足を置き、常に酒を飲み続けているせいか酒臭く、機内食は食い散らかして壁と座席の間にゴミを毎回詰めていったそうです。
さらに、機内食で余った食べ物は持ち帰ろうとし、周りの客に向かって「ここのお酒はタダだから飲まなきゃ損」と大騒ぎする始末。
さらにCAに向かって大声で怒鳴りつけたり、ラウンジで職員にパスを投げつけて罵倒するなど、とにかく悪質な行為を連発していました。
この事態は、週刊誌やテレビでも取り上げられることになり、ANAはマイルで荒稼ぎができない仕組みを作り直して対応したことで一段落しています。
結局のところ、本物のレオナルド熊さんは一切関係なかったということになりますね。
レオナルド熊の死去後の現在 【相方たちはそれぞれ活躍】
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レオナルド熊さんが死去してから、2022年1月現在で約27年が経過していますが、レオナルド熊さんの元相方たちが大きく注目を集めています。
ブッチー武者は時の人に
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2021年12月現在、元相方のブッチー武者さんは変わらずお笑い芸人を続けており、年齢は69歳とかなりのベテラン勢になりました。
レオナルド熊さんとの関係性に悩み、コンビを脱退しましたが、「俺たちひょうきん族」に出演して「ひょうきん懺悔」の懺悔神が大人気に。
「俺たちひょうきん族」終了後はパッとしませんでしたが、2021年11月1日、ブッチー武者さんのツイッターがバズり、エンタメ系のニュースが多数取り上げています。
実は、10月30日から31日にかけて池袋で開催された「ハロウィンコスプレフェス」に、ひょうきん族の懺悔神のコスプレ姿で登場したんです。
ブッチー武者さんがフェスに参加した理由は、知人から「ひょうきん族放送終了から30年が経過してるから、若い世代がどんな反応をするのか知りたい」と言われたからだそう。
一般参加として2500円をちゃんと支払って参加したところ、人だかりができて大騒ぎに。
さらに、フジテレビの夕方の情報番組「イット!」でも取り上げられて、視聴者がツイッターに殺到したのです。
ツイッターがバズると、各メディアから取材を受けてブッチー武者さんは、時の人になりました。
石倉三郎は当時の年収をぶっちゃける
石倉三郎さんは、日刊ゲンダイWeb版のインタビューを受け、当時は言えなかった「コント・レオナルド」時代の年収について告白し、話題になりました。
コンビを組む前の年収は40万で、コンビを組んだことでおよそ100倍の4000万円に爆増したのだとか。
なお、ギャラはレオナルド熊さんとマネージャーの3人で分けていました。
また、当時の営業ランクは120万円で、人気絶頂のツービートより高かったのです。
マネージャーにその理由を聞くと「レオナルド熊さんがいつ倒れるかわからないので、希少価値があるから」という答えに、石倉三郎さんは当時衝撃を受けたそうです。
ただ、これだけ稼ぐことができたにも関わらず、人気絶頂期に喧嘩別れで解散をしており、レオナルド熊さんの態度や行動にかなり問題があったと言わざるを得ませんね。
まとめ
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レオナルド熊さんは、1960年代頃から1994年までお笑い芸人・俳優として芸能活動をしていた人物です。
「ラッキーパンチ」で石倉三郎さん、「コント・レオナルド」ではブッチー武者さんとコンビを組み、その後は石倉三郎さんとコンビを組んでいました。
レオナルド熊さんは若い頃に結核を患ったことが影響して、仕事を休みがちだったようです。
また、相方を精神的に追い詰めたり、勝手に営業をしたり、ギャラを多く取ったりと、トラブルを起こすこともしばしばでした。
そのため、お笑い芸人時代には、相方が25人も変わるという驚異の記録を持っています。
レオナルド熊さんが作るギャグの台本は社会風刺ネタが基本で、これが世の中に受けて人気を博します。
石倉三郎さんとのコンビ解消後は、ピン芸人や俳優としても活動。
プライベートでは、元女優の中川加奈さんと結婚して、息子と娘が1人ずつ誕生するなど幸せな家庭を気づいていました。
しかし、末期の膀胱がんが見つかった約3か月後の1994年に死去しました。享年59歳でした。
レオナルド熊さんの死去後、レオナルド熊さんにそっくりなクレーマーによるANA事件が起こったことで、再注目を浴びましたが、事件には一切無関係であることがわかっています。
これからも、元相方の石倉三郎さんとブッチー武者さんによって今だから言える当時のエピソードが語られるなど、その波乱万丈な人生が話題です。
最後に、レオナルド熊さんのご冥福をお祈りします。