「日本航空350便墜落事故」を引き起こした片桐清二機長が注目されています。
この記事では片桐清二の経歴、顔写真、実家や家族、逆噴射など異常操作の理由、ボイスレコーダーで判明した石川幸史副操縦士とのやりとり、その後や、現在の自宅や様子などについてまとめました。
この記事の目次
片桐清二は「日本航空350便墜落事故」の機長で事故を起こした犯人
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片桐清二(当時35歳)は1982年2月9日に発生したJALの航空機墜落事故「日本航空350便墜落事故」で、墜落した旅客機(ダグラス DC-8-61型機)の機長です。
日本航空350便墜落事故は、この片桐清二機長の意図的な「逆噴射」や操縦桿の異常操作などによって引き起こされた人災だったことがわかっています。
今回はこの日本航空350便墜落事故を起こした犯人である片桐清二についてまとめていきます。
日本航空350便墜落事故の概要
まず最初に、機長であった片桐清二の異常操作によって引き起こされた「日本航空350便墜落事故」の概要をみていきます。
1982年2月9日、日本航空(JAL)の福岡発東京行350便(ダグラス社製 DC-8-61型機)は、予定より9分遅れの午前7時34分に福岡空港を離陸しました。
その日、機長の片桐清二は吐き気などの体調不良から朝食を取っておらず、客室乗務員が持ってきたコーヒーにも口をつけなかったようです。
午前7時51分、同機は巡航高度29000フィート(約8800m)に達して水平飛行に移り、同8時19分、着陸準備のために16000フィート(約4900m)までの降下を羽田空港管制官が指示。片桐清二機長はこれを受けて降下を開始しています。
同8時35分には着陸許可を受け、同8時39分に同機は着陸装置を下ろして着陸準備に入り、その2分後にフラップが50度まで展開されました。
同8時43分25秒、石川幸史副操縦士が500フィート(約150m)のコールを行いましたが、片桐清二機長は応答せず、さらに同8時43分59秒、石川幸史副操縦士が200フィート(約61m)とコール、さらにその直後に、決心高度(かなりざっくり言うと、視界不良などを理由に着陸を取りやめるか、問題なしと判断してそのまま着陸するかを決める高度)を示す「ミニマム」をコールしました。
本来であれば「ミニマム」コールの後に機長は「ランディング」(そのまま着陸を実施すること
)もしくは、「ゴー・アラウンド」(着陸を中止して上昇に移る事)とコールアウトしなければなりませんが、片桐清二機長は「チェック」としか返しませんでした。
そして、その直後(2秒後)の8時44分1秒、片桐清二機長は、機体が高度164フィート(約50m)を時速240kでで飛行しているタイミングで、突然自動操縦装置を切ると、操縦桿を前に押し倒して機首を下げ、全エンジンのスロットルレバーをアイドル位置にまで引き戻して推力を下げる操作を行いました。
コクピットに同乗していた航空機関士のO氏(当時48歳)は、ここでエンジンの出力が低下している事に気がつき、「パワー・ロー!」と叫びました。
その直後、片桐清二機長はさらに、第2エンジンと第3エンジンのスラストリバーサー・レバーを逆噴射の位置に操作。
石川幸史副操縦士は咄嗟に操縦桿を引き戻しますが、この時に片桐清二機長はまだ操縦桿を前に押し倒すようにしていたため、それに気がついた石川幸史副操縦士が「キャプテンやめて下さい!」と叫んでいます。
そして、8時44分7秒、機体は、滑走路前の海上に設置されていた誘導灯に車輪を引っ掛けながら、滑走路から550メートル手前の空港南側の東京湾海上に墜落しました。
墜落した機体はわずかに右に傾き、真っ二つになった機体後部が、大破した機首部分に乗り上げました。
その後、救助活動が行われましたが、乗員乗客174人のうち24人が死亡、149人が負傷する甚大な被害をもたらしました。
以上が、「日本航空350便墜落事故」の大まかな経緯です。この事故は「日航羽田沖墜落事故 」や「日航逆噴射事故」とも呼ばれています。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)と石川幸史副操縦士のやりとりを記録したボイスレコーダーの文字起こし
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片桐清二機長が引き起こした「日本航空350便墜落事故」では、コックピットボイスレコーダー(CVR)の音声記録が回収され、事故後の調査報告書でその文字起こしが公開されています。
以下が、「日本航空350便墜落事故」発生時のコクピットボイスレコーダーの内容です。
時刻 | 発言者 | 内容 |
8時42分37秒 | 管制官 | Japan Air 350, wind 360 at 20(風方位360から20ノット), Clear to land, runway 33 Right(着陸許可、滑走路33R). |
8時42分37秒 | 副操縦士 | Roger 350(了解350), clear to land, runway 33 Right(着陸許可、滑走路33R). |
8時42分49秒 | 機長 | Clear to land(着陸許可). |
8時42分49秒 | 副操縦士 | はい |
8時43分25秒 | 副操縦士 | 500(高度500フィートのコール) |
8時43分50秒 | 副操縦士 | アプローチング・ミニマム |
8時43分50秒 | 機長 | チェック |
8時43分59秒 | 副操縦士 | 200(高度200フィートのコール) |
8時44分00秒 | 副操縦士 | ミニマム |
8時44分00秒 | 機長 | チェック |
8時44分01秒 | – | 片桐清二機長が自動操縦装置を解除 |
8時44分01秒 | – | 片桐清二機長がスロットルをアイドル位置に操作 |
8時44分02秒 | 航空機関士 | パワー・ロー! |
8時44分02秒 | – | 片桐清二機長がスラストリバーサー・レバーを逆噴射位置に操作 |
8時44分04秒 | GPWS(警報装置) | Glide Slope(降下経路が下方に外れている事を示す警告音) |
8時44分05秒 | 副操縦士 | キャプテン! |
8時44分05秒 | GPWS | Glide Slope |
8時44分05秒 | 副操縦士 | やめてください! |
8時44分07秒 | – | 墜落により録音終了 |
なお、パイロットボイスレコーダーの音声データは原則公開されないため、「日本航空350便墜落事故」のボイスレコーダーの実際の音声はインターネット上にも存在しません。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)が逆噴射したのは統合失調症が原因
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ここまで見てきたように、「日本航空350便墜落事故」は、機長の片桐清二の機体を墜落させるように操縦桿を操作する、エンジンを逆噴射させるなどの異常な操縦操作によって引き起こされました。
事故発生後の関係者への聞き取り調査や精神分析などにより、片桐清二機長が逆噴射などの異常行動を取ったのは「統合失調症(当時は妄想型精神分裂症)」が原因だった可能性が高い事が判明しています。
日本航空350便墜落事故発生までの経緯
事故後、本人への聞き取り、片桐清二機長の関係者の証言などから、片桐清二機長には以前から精神的な変調があった事判明しました。
それによると、片桐清二機長は1976年秋ころから自信喪失のような思考状態になり、幻覚なども現れ始め、友人と接触する事も避けるようになったようです。
関係者によれば、片桐清二機長は以前は明るい性格だったが、1977年頃から突然口数が減って陰気な印象になり、同僚からノイローゼを疑われる事もあったという事です。
1978年に入る頃には、自分の家族に対しても異常な行動を見せるようになり、1979年に姉に「自分は日本人ではない」などと真剣に相談するなどしていました。
さらに、1980年には幻聴の症状が出始め、同年10月には体調不良を理由に乗務を取りやめたり、11月には、雑なブレーキ操作や、旋回行動の遅れによる飛行経路からの逸脱、推力不足状態での着陸復行(何らかの問題発生により着陸態勢を取りやめて再上昇に移る事)などの異常な操縦を頻発させたため、上司によって乗務予定取り消しの処分が取られています。
この上司による乗務予定取り消しから10日後に、片桐清二機長は精神科を受診し、うつ病または心身症という診断を受けました。これを受けて、日本航空は片桐清二機長に療養を指示して業務から外しています。
療養期間中、片桐清二は精神科への通院を継続、その後、1981年4月に国内線の副操縦士として現場に復帰しています。日本航空側は片桐清二のうつ病は回復したと認識していましたが、実際には4月8日の時点で、精神科からうつ状態の診断を受けていました。
しかし、同年10月6日、片桐清二の担当医師は、片桐機長について「自律神経症で抑うつ状態」としつつも、「飛行時にはこれらの症状は見られない」、「機長として乗務しても問題はないと思われる」などとする意見書を日本航空に送付しています。
これを受けて、日本航空は同年11月に片桐清二を機長に復帰させていますが、実際にはこの時、片桐清二の精神状態はさらに異常をきたしており、「ソ連が日本を滅ぼすために日本国内を二派に分断させ、血生臭い戦闘をさせている」などの被害妄想を抱くようになっています。
そして、片桐清二は、「日本航空350便墜落事故」を起こす、1982年2月9日当日には、「敵によって残忍な方法で殺害されるくらいな、自分から死んだ方がマシだ」などと妄想して強い恐怖心を感じては、現実に引き戻される事を繰り返すという極めて異常な精神状態にあったようです。
さらに、事故発生直前の着陸のために機体が200フィートの高度にまで降下した時には、突然頭の中で「イネ、イネ、……」などとやまびこのような声が繰り返し響いたと片桐清二機長は事故後の取り調べなどで発言しています。
片桐清二機長はこの「イネ」と繰り返し聞こえる幻聴により、「お前も行くんだ、行くんだ」と言われている気分に襲われ、これをきっかけにして操縦桿の押し込みやスロットルレバーのアイドル位置への操作、エンジンの逆噴射などの異常操作を行なったと供述しています。
片桐清二は日本航空350便墜落事故前日にも異常行動
片桐清二機長は、「日本航空350便墜落事故」の前日、1982年2月8日には、事故時と同じ石川幸史副操縦士と、O航空機関士と共に、羽田発福岡空港行きJAL377便に乗務していました。
この乗務時にも片桐清二機長には異常行動が見られたことが判明しています。
証言によれば、羽田空港から離陸体制に入る際、管制官が「滑走路に進入して待機せよ」と指示したところ、片桐清二機長は「管制許可は来ているね」と発言してスロットル操作を行おうとしたため、石川幸史副操縦士と、O航空機関士がそれを止めさせたという事です。
離陸後、右旋回を行なった時にも、片桐清二機長は70度近いバンク角で旋回させたため、機体が内側にスリップして15秒の間に800フィート(約240メートル)ほども高度が下がりました。この時は、石川幸史副操縦士が異常に気がついて修正操作を行なっています。
この時、石川幸史副操縦士が「キャプテン、大丈夫ですか」と確認したところ、片桐清二機長は特に慌てた様子もなく「大丈夫です」とだけ答えたという事です。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の顔写真
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「日本航空350便墜落事故」の後、片桐清二の顔写真を多くのメディアが報じています。
上の画像は当時発行された某週刊誌に掲載された片桐清二機長の顔写真ですが、”片桐機長「人生逆噴射」”などと皮肉ったキャプションがつけられています。
上の顔写真は片桐清二機長が学生時代のものです。日本航空350便墜落事故を起こした当時の顔写真なども当時の週刊誌などが掲載しています。(”片桐清二が逆噴射したのは統合失調症が原因”の見出し冒頭の画像など)
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)のその後
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片桐清二はその異常操縦によって「日本航空350便墜落事故」を引き起こしたその後、業務上過失致死罪により逮捕されていますが、精神鑑定の結果、妄想型精神分裂症と診断され不起訴処分となっています。
片桐清二機長はその後、精神衛生法に基づいて東京都立松沢病院の精神科に措置入院となり、事故から約1年後に日本航空を解雇されています。
さらに、事故発生直後、片桐清二機長が義務付けられている乗客の救助を一切行わずに、真っ先に事故機から脱出していた事も判明。加えて、ボートで救出された際の片桐清二機長の映像がテレビニュースなどで流され、しかもなぜか笑顔だったため批判が殺到しました。(この見出し冒頭の画像正面から見て右は救出された時の片桐清二機長の顔写真)
こうしたその後の不起訴という甘い処分や、機長の事故後の異常な行動から、片桐清二機長の起こした行為は事故などではなく大量殺人であり、罪を償うべきだと糾弾する声が現在も多く上がっています。
また、片桐清二が事故のかなり以前から精神異常が疑われる行動を繰り返していたにもかかわらず、機長として旅客機を操縦させていた日本航空に対する批判も高まりました。
さらに、日本航空は事故が起こった後、しばらくの間、事実を隠蔽しようと画策していたことなどもその後の報道などで判明しています。日本航空側のこうした隠蔽工作により、事故後に片桐清二機長の行方はつかめなくなり、一時は死亡の噂も流れたほどでした。(実際には真っ先に脱出し、入院先の病院で事故を起こした当日からぐっすりと眠っていた)
こうした日本航空側の不適切な対応に対しても猛烈な批判が起こりました。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の家族や生い立ち
片桐清二の家族や生い立ちについても、一部の週刊誌や当時のテレビニュースなどが報じていました。
それによると、片桐清二は大分県別府市の時計店を営む裕福な家族の生まれで、店舗とは別の高級住宅街にある別宅で生まれ育ったようです。家族構成としては両親と千鶴子という姉がいる事などがわかっています。
大分県立別府鶴見丘高等学校出身で、高校時は成績上位者で国立の九州大学を狙えるほどの学力がありましたが、岡山大学理学部数学科へと進学しています。
しかし、岡山大学は2年で中退し、航空大学校を卒業してパイロットになり、その後に結婚して娘が生まれ自身の家族を築いています。
家族の証言によると、片桐清二は1976年頃からすでに精神異常の兆候が現れていたとのことで、1度うつ病などによって療養を命じられていた片桐清二を日本航空側が機長に復帰させた際にも、妻は不安を訴えていたようです。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の経歴
片桐清二の航空大学卒業後の経歴についてもわかっている内容見ていきます。
片桐清二は1969年10月1日にパイロットとして日本航空に入社しています。
1976年8月26日に日本アジア航空へと出向し、定期運送用操縦士の学科試験を受けますが不合格となり、これを境に精神的不安定さが見られるようになったようです。
機長に昇格したのは1979年12月、33歳の時で、それからわずか2年後に「日本航空350便墜落事故」を引き起こしています。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の実家
上でも触れた片桐清二の実家は、大分県別府市の商店街で3階建の時計店を経営しており、さらに大分県内の高級住宅地に別宅を構え、片桐清二はそこを実家として育ったようです。
一部、インターネットの匿名掲示板などへの書き込みに、片桐清二の実家の家族は昭和のはじめ頃に韓国の済州島から移住してきた在日韓国人との噂も出ていますが証拠は示されておらず真偽は不明です。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の自宅は葉山
片桐清二の自宅については、一部の週刊誌が片桐清二は「日本航空350便墜落事故」を起こしてJALを解雇された後は、神奈川県の葉山に住んで悠々自適の生活を送っているなどと報じた事があるため、現在も自宅は葉山にあると見られているようです。
また、2017年には片桐清二を神奈川県伊豆市のホームセンターで目撃したとの情報がネット上に書き込まれていました。なので、片桐清二の自宅は、神奈川県内の葉山か伊豆にあると見られています。
片桐清二(日本航空350便墜落事故機長)の現在
片桐清二は2021年の現在は年齢は70代半ばになっているはずです。
片桐清二の現在の様子については噂レベルの情報しかありませんが、それによると現在も生存しており、車椅子での生活になっているという事です。
また、元々実家が資産家だったため、「日本航空350便墜落事故」を起こしてJALを解雇された後も、悠々自適な生活を送り、自動車免許も取り直しているとの情報も出ています。
そのほか、事故後に妻とは離婚しており、現在は姉の千鶴子が面倒を見ているとの噂も流れています・
これらの片桐清二の現在の情報については、いずれもインターネット上の噂レベルで真偽は不明です。
まとめ
今回は、1982年2月9日に発生した「日本航空350便墜落事故」を引き起こした犯人である片桐清二についてまとめてみました。
片桐清二は事故を起こした日本航空350便を機長として操縦していましたが、羽田空港への着陸時に機首を異常に下に向ける、推力を低下させる、エンジンを逆噴射させるなどの操作を意識的に行い、同機を滑走路手前の東京湾上へと墜落させました。この事故により、24に死亡、149人負傷という甚大な被害が出ました。
この事故発生時のボイスレコーダー音声の文字起こしなども公開され、片桐清二の異常行動を、石川幸史副操縦士が止めようとしていた事なども明らかになりました。また、事故後には片桐清二の顔写真なども複数メディアで公開されていました。
その後の調査により、片桐清二は事故を起こすかなり以前から精神異常が疑われる行動を繰り返しており、うつ病などの診断を受けていた事なども判明しました。また、その後の精神鑑定では「精神分裂症(現在の統合失調症)」との鑑定結果も出ています。
片桐清二はこの事故後に、業務上過失致死容疑で逮捕されていますが、この精神鑑定結果によって心神喪失の状態だったと認定され、不起訴処分になっていいます。
その後、片桐清二はJALを解雇されていますが、元々実家の家族が裕福な資産家であったため、悠々自適な生活を送っていると、一部の週刊誌などが報じています。
現在の片桐清二については、神奈川県葉山に自宅があるとか、精神障害者施設近くに居住しているとか、車椅子生活で妻とは離婚して姉が面倒を見ているとか、色々な噂が流れていますが、いずれも確証はなく真偽は不明です。