元オウム真理教信者で麻原彰晃に心酔していたことで知られる歌手の鹿島とも子さんですが、有罪判決後の生活も気になりますよね。
今回は鹿島とも子さんの写真や生い立ち、家族、オウム真理教への入信のきっかけや脱会、現在を紹介します。
この記事の目次
鹿島とも子はオウム真理教信者だった芸能人
鹿島とも子
生年月日:1950年8月23日
出身:東京都立川市
所属:元日劇ダンシングチーム
職業:歌手、女優
鹿島とも子さんは、日劇ダンシングチームに入団し、その後は主に歌手として活動していた芸能人です。「新・太陽がいっぱい」などのドラマにも出演していました。
1989年にオウム真理教に入信し、息子と一緒に出家して、主に広告塔として活動していました。
有名芸能人がオウム真理教に入信し、熱心に活動していたことから、オウム真理教が事件を起こした時には大きな話題となりました。その後は逮捕され、オウム真理教を脱会しています。
鹿島とも子の写真:若い頃~オウム真理教時代~現在まで
鹿島とも子さんを若い頃、オウム真理教時代、脱会後の現在までを写真で振り返ってみましょう。
■若い頃
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若い頃の鹿島とも子さんは妖艶でとても美しく、セクシーな印象が強い女性でした。
写真の「不安のときめき」は1974年にリリースされたシングルですから、鹿島とも子さんが24歳の時ですね。
■オウム真理教時代
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オウム真理教時代の鹿島とも子さんは、ガラッと雰囲気が変わります。
もちろん、年齢を重ねたということもありますが、妖艶さは一切なくなり、地味で硬いイメージになっていますよね。
また、やつれていて疲れているようにも見えます。
オウム真理教の出家信者になったことで、俗世を離れているため、全く違う雰囲気になったのでしょう。
■オウム真理教脱会後
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こちらはオウム真理教を脱会して、芸能活動を再開した時の画像です。
2007年ごろですので57歳前後の写真と思われます。若い頃と雰囲気が近いですよね。
オウム真理教信者だったころとメイクや衣装の違いだけででは説明できないくらい、華やかで生き生きとした雰囲気があります。
オウム真理教に入信したことによって、こんなにも1人の女性の雰囲気が変わってしまうのですね。
鹿島とも子の生い立ち
鹿島とも子さんは父親はアメリカ人、母親は日本人の日米ハーフで、東京都立川市で生まれました。
ハーフという生い立ちもあり、純日本人にはないような妖艶さ、ミステリアスな雰囲気があったのかもしれません。
父親はアメリカ人とのことですが、母親は後に日本人の鹿島清さんと再婚し、鹿島清さんが養父となっています。
時代的なことを考えると、鹿島とも子さんの父親(アメリカ人)は進駐軍として日本に来ていて、その後は帰国してしまったのかもしれません。
18歳の時に日劇ダンシングチームに入り、翌年の1970年には「ハレルヤベイビー」で初主役。1971年には「愛ふたたび」でレコードデビューを果たしています。
鹿島とも子の家族
鹿島とも子さんは1970年代前半に結婚し、1975年ごろに長女、1985年ごろに長男が誕生していますので、夫と子供2人の4人家族でした。
しかし、鹿島とも子さんがオウム真理教にのめり込んでいったことで、1993年には離婚しています。
親権は鹿島とも子さんが持ったようで、長男は母親の鹿島とも子さんと一緒にオウム真理教に出家しました。
鹿島とも子は麻原彰晃の本に出会いオウム真理教に入信
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鹿島とも子さんがオウム真理教に入信したきっかけは、麻原彰晃の本に出会ったことです。そこから一気に麻原彰晃とオウム真理教にのめり込んでいきました。
1982年、鹿島とも子さんはスノーモービルの事故で脊髄損傷のケガをして、半身不随になり、芸能活動を停止せざるを得なくなります。
しかし、必死のリハビリと整体師の助けを得て、1988年には芸能活動を再開できるまでに回復しました。
しかし、リハビリを支えてくれた整体師が36歳の若さで急死してしまいます。そのことがきっかけで、鹿島とも子さんは「死後の世界」について考えるようになります。
そして、頭の中に「本屋に行きなさい」という言葉が降りてきたそうで、導かれるように本屋に向かいます。
本屋では美術書を立ち読みして帰ろうとした時、麻原彰晃の本が目に留まり、その場で購入して、むさぼるようにして読んだとのことです。
そして、本を読んだ後は麻原彰晃の教えを請いにオウム真理教の施設に出向いています。
そして、1989年に鹿島とも子さんはオウム真理教に入信しました。
脊髄損傷でダンサーの夢が絶たれ、ようやく復帰できたときに支えてくれた整体師が亡くなったことで、心にぽっかりと穴が開いて虚脱したような状態になり、心が弱っていたのでしょう。
そのような時に偶然、麻原彰晃の本が目に入ってしまい、オウム真理教と麻原彰晃に心酔してしまったと思われます。
鹿島とも子はオウム真理教の広告塔として活動
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1989年に入信した鹿島とも子さんは、芸能人として顔と名前が知られていたこともあり、オウム真理教の広告塔として活動することになりました。
具体的には、オウム真理教放送でラジオの司会をしたり、教団関連会社の「スーパースターアカデミー」で歌の指導などをしています。
1994年7月7日には、オウム真理教の南青山のオウム東京総本部道場で出家会見を開き、出家することを世間に宣言しました。
1995年3月22日にオウム真理教の上九一色村にある教団本部施設に強制捜査が入った際には、教団顧問弁護士の青山氏とテレビ出演し、オウム真理教と麻原彰晃を擁護しています。
鹿島とも子は娘をオウム真理教施設に監禁していた
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鹿島とも子さんは1995年5月2日、逮捕監禁の疑いで逮捕されました。
鹿島とも子さんが拉致監禁したのは、実の娘です。鹿島とも子さんは、嫌がる自分の娘をオウム真理教の施設に拉致監禁したのです。
鹿島とも子さんは19歳の長女をアイドルにして、教団の広告塔として活動させようとしました。しかし、長女はオウム真理教の信者ではなかったので、それを拒否したようです。
1994年11月20日には、信者の飯田エリ子と井上嘉浩が「お母さんが待っている」と言って長女を連れだします。
その後、上九一色村の教団施設に拉致された長女は、母親と教団施設で生活することになりました。この時は、1週間程度で長女は友人たちに救出されています。
しかし、鹿島とも子さんは長女を連れ戻すように飯田エリ子と井上嘉浩に依頼。12月上旬に飯田エリ子と林郁夫が長女を訪ね、出家するように言いますが、長女は再び拒否をします。
その際、飯田エリ子らは出家を拒否した長女に睡眠薬を混ぜたジュースを飲ませ、さらに麻酔薬(チオペンタールナトリウム)を注射して、教団施設に拉致しています。
しかも、教団施設では拉致された記憶を消すために、長女に電気ショックを与え、さらに麻酔薬を投与しました。この時も友人たちにより救出されますが、その後も再度拉致されています。
最終的には1995年1月に、長女は父親と友人たちによって、南青山のオウム真理教施設から救出されて、警察に逃げ込んで保護されています。
このことによって、鹿島とも子さんは長女から告訴され、1995年5月2日に娘に薬物を投与し、拉致監禁した疑いで逮捕されています。
娘は悩んだ末に告訴、鹿島は娘に薬物を投与、拉致したとして逮捕監禁の疑いで5月2日に逮捕された。娘は「オウム真理教が母を変えてしまったのでしょう。早く目を覚ましてほしい」と語った。
長女は「母親憎し」で告訴したわけではなく、鹿島とも子さんに目を覚ましてほしいから、あえて告訴をして、自分がしたこと・オウム真理教のことを冷静に見てほしかったのでしょう。
鹿島とも子はオウム真理教を脱会
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そんな長女の願い・思いは届いたようで、鹿島とも子さんは拘留中にオウム真理教を脱会しています。
洗脳が解けて脱会するきっかけになったのは、拉致の際に長女への薬物投与が行われていたことを知ったからようです。
ただ、完全に洗脳が解けるには時間がかかり、裁判中も「娘を守りたかっただけ」とオウム真理教・麻原彰晃の影響下から抜け出していないような発言をしています。
裁判ではマインドコントロールから抜けきれず「娘を守りたかっただけ」と主張する鹿島に対し、裁判長が「相手の気持ちを考えていかないと」とカウンセリングのように話しかける場面もあった。
裁判は、20枚の傍聴券を求めて1000人が集まるという注目度の高さを見せました。長女は「処罰は求めない」と陳情したこともあり、懲役2年執行猶予4年の有罪判決となりました。
判決後は、千葉県木更津市の実家(養父)に身を寄せていましたが、父親が「お前はテロの片棒を担いだんだ」と厳しく繰り返し諭したことで、少しずつ洗脳が解けていったそうです。
ただ、世間の目は厳しく、「あのオウム真理教の鹿島とも子」と分かると、手のひらを返したように冷たい態度を取られ、アパートの部屋を探すのにも、仕事を探すのにも苦労したようです。
その後、小学生だった息子と2人暮らしを始めるまでは、アパートを借りるのにも苦労しました。不動産屋に相談し、鹿島とも子だと分かった途端、物件が見つからないと言われたことも一度や二度ではありません。仕事も見つからなくて、息子と2人で日給6千円とか8千円のビラ配りをしたこともあります。
芸能人で華やかな世界の中で生きてきた鹿島とも子さんが、日給6,000円でビラ配りというのは、逮捕後はかなり苦労されたことがうかがえます。
鹿島とも子の現在
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鹿島とも子さんは逮捕後は仕事を探すのに苦労したようですが、1998年には日本テレビやその他のマスコミのオウム取材に協力し、出演しています。
そして、1999年には東京都施設介護員2級(ホームヘルパー2級)の資格を取得し、ホームヘルパーとして高齢者の介護を11年間行いました。
「償いたいという気持ちが強かった。あえて一番大変で、人の役に立つ仕事を探した」
介護の仕事と同時進行する形で、2002年からは芸能活動を再開していて、主にライブ活動をしていました。
しかし、現在は脊髄損傷の後遺症からか左ひざの状態が思わしくなく、常に杖が必要な状態になり、ライブ活動も行えなくなってしまったとのことです。
また、現在は一時身を寄せていた実家を売り払い、家賃5万4000円のアパートで節約しながら生活しています。
鹿島とも子のまとめ
元オウム真理教信者で麻原彰晃に心酔していた鹿島とも子さんについて、写真で見る風貌の変化や生い立ち、オウム真理教への入信・娘の拉致事件、脱会後の現在などをまとめました。
オウム真理教に心の隙間に入り込まれてしまった鹿島とも子さん。脱会後は地道に、堅実に生活しているようです。
ただ、鹿島とも子さんの入信から脱会前の経緯などを見ると、洗脳・マインドコントロールは本当に怖いことが分かりますよね。