戦後最大の経済事件「イトマン事件」を引き起こし「戦後最大のフィクサー」とも呼ばれる許永中が話題です。
この記事では許永中のイトマン事件の概要、山口組の宅見勝や古川組との関係、結婚や嫁、子供、米倉涼子との関係やイトマン事件での判決と保釈金、現在についてまとめました。
この記事の目次
許永中のプロフィール
許永中のプロフィール
通名 :野村永中、藤田永中
生年月日:1947年2月24日
出身地 :大阪府大阪市北区中津(当時は大淀区)
身長 :180cm
許永中(きょ・えいちゅう、ホ・ヨンジュン)は、在日韓国人2世の実業家で、1970年代から1990年代にかけて日本の政財界で暗躍した人物です。
戦後最大の経済事件とも言われる「イトマン事件」に関与し逮捕された事で知られ、「戦後最大のフィクサー」、「闇社会の帝王」などの異名で呼ばれています。
許永中の生い立ち
許永中は戦後間もない1947年2月24日に、当時は在日コリアンと同和地区(被差別地域)が混在していた大阪府大阪市大淀区中津(大阪梅田の北方1kmほどの場所)で7人きょうだいの5番目の三男として生まれました。(戸籍上は6人きょうだいの4番目)
父親は儒家で漢方薬の調合師だった許生樅(ホ・センジョン)という人物で、1940年に釜山から日本に渡り創氏改名で湖山正夫を名乗りました。
父は漢方薬局を営みながら読み書きのできない住民の書類の代筆を請け負い、母親は自家製のドブロク(密造酒)を販売して生計を立てていました。
小学校時代からやんちゃだったという許永中でしたが、1959年に大阪市立大淀中学校へと進学してからは喧嘩に明け暮れ番長のような存在になっています。
1962年に大阪府立東淀川高校へと進学。高校3年生の時には恐喝、窃盗、暴行傷害などの犯罪を繰り返すようになり、喧嘩相手に大怪我を負わせる事件を起こして家庭裁判所に送致されています。しかしこの時は担任の門田という教師と父親が全力で庇ってくれて少年鑑別所送りは免れ、高校の謹慎6ヶ月の処分で済んでいます。
その後高校は無事卒業した許永中は、1965年に大阪工業大学へと進学。許永中は大学進学後も不良学生として鳴らし、愚連隊の親玉として40人以上を束ね、麻雀店などの用心棒のような仕事をしてみかじめ料を稼ぐなどしていました。
この頃から許永中には暴力団関係者や現在でいうところの半グレの知人や友人も多くおり、この人脈を利用して許永中は身を立てていく事になります。許永中の自叙伝「海峡に立つ」によれば、大学時代の許永中は、友人の喧嘩に巻き込まれて殺人を犯していますが、この友人が責任を取って出頭して罪を被ったため逮捕はされていません。
許永中の経歴
暴力団の世界に深く関わるようになった許永中は大阪工業大学を3年で中退し、1969年に大阪市北区富田町(現在の西天満5丁目)のテナントビルに個人事務所を構え、当時の同棲相手(後に結婚)の藤田という苗字を通名として使い、パチプロのまとめ役や土木関係の人材派遣業、不動産業などで収入を得ています。
1970年、許永中は右翼や同和団体と繋がりを持ち不動産関係の経営コンサルタントの肩書きで活動していた裏社会の実業家の西村嘉一郎という人物に出会い、西村の秘書兼運転手としてその手法を学んでいます。
許永中はこの西村の紹介で、児玉誉士夫や小佐野賢治らと並び「戦後最大のフィクサー」とも称された大谷貴義という人物と知り合います。許永中はこの大谷貴義の付き人(運転手兼ボディガード兼雑用係)として修行し、フィクサーとしての立ち回りを学んだとされています。
その後、許永中は1973年から74年にかけて、帝國商工興信所、西日本パトロール警備保障といった会社を設立していますが、いずれもまともな会社ではなく合法的とは言い難いような方法で金を稼いでいたようです。
さらに1975年には休眠状態になっていた大淀建設という建設会社を買収し、建築・不動産業に進出して同和関連事業を中心に関わっています。また、この当時の許永中は広域暴力団の住吉会とも関係を深め、当時同会が取り仕切っていたボクシングの興行にも関わっています。
許永中はこの頃に、部落解放同盟大阪府連合会飛鳥支部長だった小西邦彦とも昵懇になり、3代目山口組系列の生島組組長・生島久次の後ろ盾で、山口組直参の金田組を率いる大物・金田三俊組長を相手取ってトラブル対策にあたるなどし、関西の暴力団の世界やアンダーグラウンドな世界で名前を売っています。
ただ、この頃までは許永中のビジネスは裏社会の人脈によって、その事業を少し噛ませてもらったような内容ばかりで、実業家としてそこまで大きな成功を収めていたというわけではありませんでした。
しかし1970年代後半から80年代にかけて、許永中は裏の人脈を活かしたトラブル解決の手腕を買われて、東邦生命の社長の太田清蔵(6代目)や東急グループの五島昇ら経済界の大物に気に入られるようになり、その後ろ盾を得ました。許永中はさらにその人脈を活かす形で多くの大物政治家や実業家を含む、表の政財界とのパイプも作り上げていきました。
裏の暴力団の世界と表の実業の世界の双方の後ろ盾を得た許永中は一気に事業を拡大させ、バブル景気の波にも乗る形で表と裏双方の様々な事柄に関わり、後に「戦後最大の黒幕」と呼ばれるほどの大物になっていきました。
当時の許永中が関わった事柄で特に知られているのが、1984年の日本レースの株買い占め事件で会社防衛を依頼された際の手形乱発や、1985年の京都新聞社とKBS京都の内紛への介入、1986年の大阪国際フェリーの設立などで、いずれの件でも許永中の豪快な手腕が伝説的に語られています。
許永中のイトマン事件とは
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許永中の名前が世間一般に広く知られるようになったのが、1990年から1991年にかけて大きな騒動となった「イトマン事件」でした。
イトマン事件の発端は雅叙園観光ホテルを巡る仕手戦
イトマン事件は、わずか1年弱の間に総額で数千億円もの金額が住友銀行系の総合商社「イトマン株式会社」から引き出され、株や土地、絵画やゴルフ会員権などを通じ、山口組とも関わる闇の世界へと流失し消えた事件で「戦後最大の経済事件」とも言われています。
イトマン事件のことの始まりは1984年、新興の仕手筋「コスモポリタングループ」を率いていた元山口組系組長・池田保次が、東京目黒にあった「雅叙園観光ホテル」の内紛に乗じて、その株の買い占めを狙った事でした。許永中はその雅叙園観光ホテルの仕手戦に相乗りする形で関わっていました。
この仕手戦の資金として200億円以上を融資していたのが共和綜合開発研究所(地上げ業者)の代表だった伊藤寿永光という男でしたが、その債務を残したまま突如として池田保次が失踪。1987年1月のニューヨーク市場の株価大暴落(通称・ブラックマンデー)で多額の損失を被った池田保次は、資金繰りのために、株価買い占めで経営権を握っていた雅叙園観光ホテルの手形を700億円分も乱発しそのまま失踪したのでした。
池田によって手形を乱発された雅叙園観光ホテルは倒産の危機に陥り、池田に債権を持つ伊藤寿永光と、仕手戦に絡んでいた許永中、2人の金主(資金提供者)であった大阪府民信用組合(雅叙園ホテルの大株主でもあった)の理事長の南野洋らは倒産を回避するためにその事後処理にあたらざるを得ない状況となったのでした。
イトマン株式会社に伊藤寿永光が雅叙園観光ホテルの件を相談
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イトマン株式会社は創業110年を誇る老舗商社でしたが、オイルショックの影響をもろに受けて経営が傾いており、メインバンクだった住友銀行から経営再建のために人形町支店長だった河村良彦という人物が送り込まれ社長に就任していました。
このイトマン社長の河村良彦と伊藤寿永光は不動産取引をめぐって以前からつながりがあり、伊藤寿永光は河村良彦に雅叙園ホテルの手形回収資金の相談を持ちかけ、イトマン株式会社は増資を引き受ける形で100億円の資金を援助しています。
伊藤寿永光は、イトマン社長の河村良彦や住銀の天皇とも呼ばれた住友銀行の磯田一郎会長から信頼されるようになり、イトマン株式会社に入社し常務取締役としてその経営にも関わるようになっています。
伊藤寿永光はビルの再開発やゴルフ場の開発を中心としたリゾート開発計画をイトマン株式会社に持ちかけて数千億円規模の融資を引き出しています。
一方で伊藤俊光は雅叙園観光ホテルの手形回収も成功しており、その資金700億円もイトマン株式会社に融資させています。
伊藤寿永光を通じて許永中とイトマン株式会社が多額の絵画取引
1989年11月、住銀の天皇こと磯田一郎住友銀行会長の長女の黒川園子が、河村良彦に海外の買取を依頼しました。黒川園子は当時、西武セゾングループの美術品・宝飾販売会社「ピサ」に非常勤嘱託職員として勤務しており、そこで取り扱っていたフランスの名画「ロートレック・コレクション」の売買を持ちかけた形でした。
自身の後見役ともいえる、磯田一郎会長の長女からの頼みを断れず、河村良彦は総額16億円で「ロートレック・コレクション」を購入。河村良彦はこの絵画の転売先がないかと伊藤寿永光に持ちかけたところ紹介されたのが許永中でした。
許永中はこの時、「ロートレック・コレクション」をイトマンの仕入れ値の4倍にあたる68億円で購入する事を約束。これをきっかけにして河村良彦は絵画取引にのめり込んでいきました。
そしてその後、今度は逆に許永中がイトマンに絵画の売買を持ちかけ、許永中が経営していた「関西新聞社」、「関西コミュニティ」などを通じて、取引点数211点、総額で678億円にものぼる絵画や骨董品の取引が行われました。
この際、許永中は仕入れた絵画を次々から次へと3倍から5倍、最大で90倍もの値でイトマンに売却しており、その結果イトマン株式会社は市場の評価額よりもかなり高い値段で仕入れた多数の絵画を抱えたままとなりました。
不正な絵画取引と不動産投資が明るみになり許永中や伊藤寿永光らが逮捕
1990年9月16日、日経新聞が「伊藤萬グループ不動産業などへの貸付金、1兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ」と題する記事を掲載したのを皮切りに、イトマンをめぐる不正な取引が次々と明るみに出ました。
住銀からイトマンに流れた数千億円もの資金が、暴力団など闇社会に流れていた事も明らかになり大きな騒動へと発展。
同年10月17日には伊藤寿永光に不正融資を行なっていた住銀の会長・磯田一郎が引責辞任を発表。1991年1月25日には、河村良彦がイトマンの社長を電撃解任されました。
そして、1991年4月24日、大阪地検特捜部と大阪府警がイトマンに強制捜査を実施し、同年7月23日に河村良彦、伊藤寿永光、許永中を含む6人が商法の特別背任罪で逮捕されました。許永中はこの時、法人税法違反容疑でも逮捕されています。
イトマン事件後にイトマンは吸収合併され消滅
イトマン事件が発覚した後、実質多額の債務超過状態に陥っていたイトマン株式会社は、1993年4月に鉄鋼商社「住金物産(現在の日鉄物産)」に吸収合併されて消滅しました。
5000億円にもおよぶイトマンの不良資産は別会社に分離され、住友銀行が処理を担当する事に決まりました。
許永中と5代目山口組若頭・宅見勝の関係
許永中と山口組の関係も注目されています。
特に、イトマン事件をめぐっての5代目山口組若頭のでナンバー2であった宅見勝との関係が注目されています。
イトマン事件では、許永中が伊藤寿永光らと雅叙園観光ホテルの事後処理の話し合いを持った時に、許永中が立会人として連れてきたのがこの5代目山口組若頭の宅見勝だったようです。
許永中は大淀建設を買収した1975年頃からこの宅見勝と関係を持っていたとも言われており、後ろ盾のような存在だったと言われており、許永中の経営する会社は実質的に宅見勝組長の宅見組のフロント企業だったとの話もあります。
イトマン事件で闇に消えた数千億円のうち、600億円から1000億円もの金が山口組系宅見組に流れたとも言われています。
この宅見勝という人物は伊藤寿永光とも親しく、伊藤寿永光の会社も宅見勝のフロント企業だったようです。伊藤寿永光はイトマンの社長の河村良彦にも宅見勝を紹介しており、実質的にイトマン事件の糸を引いていたのは、この宅見勝という人物だったとも言われています。
許永中とも伊藤寿永光とも関係が深かったとされる宅見勝ですが、許永中が雅叙園観光ホテルでの話し合いの場宅見勝を立会い人として連れてきたのは、伊藤寿永光を出し抜く形だったと言われており、伊藤寿永光に対して優位に立つための許永中の巧みな駆け引きを表すエピソードとしても語られています。
ただ、許永中は2019年に受けた取材で、実際には宅見勝とは犬猿の仲だったと発言していますが本当のところはわかりません。
許永中と古川組(元3代目山口組の直参団体)の関係
許永中と3代目山口組の直参団体だった古川組との親密な関係も知られています。
許永中は若い頃に古川組の初代組長の古川真澄(稼業名は古川雅章)という人物と知り合い、信頼を得ていました。許永中は古川組の相談役を務めていたとも、企業舎弟だったとも言われています。
1983年4月には、許永中と東急建設、そして古川組の3者が、不動産関係のある女性を地上げに絡んで恐喝したという事件が報じられました。
この事件では東急建設と古川組に対しては不起訴となりましたが、許永中には暴力行為など処罰違反で略式起訴され罰金7万円を受けています。
許永中の自叙伝「海峡に立つ」によると、この東急建設事件の発端は、先に被害者側の不動産関係者の女性が東急建設大阪市店の幹部を拉致し恐喝した事だったようです。
これに3代目山口組系の組織が絡んでいたため、東急建設側から相談を受けた許永中は、かねてから世話になっていた山口組直参の大物であった古川真澄に口添えを依頼。その結果、山口組系組織は手を引く事になりました。
それを逆恨みした女性が、東急建設と古川組、そして許永中に恐喝を受けたと訴えて駆け込み、警察は許永中を指名手配したものの、実際は女性側が先に山口組系の組織を使って東急建設側を恐喝していた事が判明したため、事を丸く収めるために許永中1人が罪を被ったというのが真相だったという事です。
こうした関わりもあり、古川組初代組長の古川真澄氏は許永中を信頼しており、自身の息子で当時は堅気であった古川恵一氏(古川組2代目組長で、山口組分裂抗争に関連して2019年11月27日に射殺)を、当時許永中が経営していた不動産会社に勉強させて欲しいと預けた事もあったようです。
許永中の1度目の結婚の嫁は大学時代に出会った日本人女性・藤田紀子
許永中は1970年7月に大阪工業大学時代に知り合った同い年の女性・藤田紀子と結婚しています。
許永中と嫁・藤田紀子の出会いはお互いに20歳の頃で不良仲間の紹介がきっかけでした。当時嫁の藤田紀子は地元の鹿児島から大阪へ出てきて大阪樟蔭女子大に通っていました。
許永中は大学3年の時に、不良仲間の喧嘩に巻き込まれて傷害致死事件を起こし指名手配されますが、この時に許永中を匿ったのが嫁の藤田紀子で、その縁で2人は交際するようになりました。
この事件後すぐに許永中は大学を中退して大阪中津の文化住宅で同棲生活を始め、藤田紀子が子供を身籠ったのをきっかけに1970年7月にお互い23歳の時に結婚しています。
許永中はこの最初の結婚の嫁の藤田紀子との間に3人の子供を儲けています。許永中の子供については後述します。
許永中は何度か結婚をしておりイトマン事件の頃の嫁は金美佐子
許永中は最初の結婚相手の藤田紀子とはその後離婚しており、金美佐子という女性と2度目の結婚をしています。
許永中の嫁の金美佐子は1999年当時の新聞報道で38歳とされているため、1961年頃の生まれで許永中より15歳近く年下です。
この金美佐子という女性は、銀座の高級クラブでホステスをしており、許永中が店を訪れた時に見初めて口説き結婚したと言われています。
金美佐子は許永中がイトマン事件での保釈中に逃亡した際にも行動を共にしていたとも言われています。
許永中には内縁の嫁や愛人も複数いた
許永中は2度の正式な結婚以外にも内縁の関係や愛人関係にある女性が多数いました。
許永中は藤田紀子と結婚した後、在日コリアン2世の申順徳という女性と関係を結び、特に存在を隠す事もなく内縁の嫁として扱っています。この申順徳は後に野村順子の日本名を名乗っていますが、これは関西地方の有名なフィクサーであった野村周史という人物に因んだものでした。許永中も、藤田と野村という日本名を通名として使い分けていました。
この申順徳も許永中の子供を産んでいます。この子供についても後述します。
許永中の愛人としては、大阪で高級クラブを経営していた岡西恵という日本人女性で、この方は「イトマン事件」の際に「大阪の愛人」としてマスコミに騒がれています。
他にも許永中は丁玉順という在日コリアンの女性を愛人としており、この女性は許永中の末の息子を産んでいます。
許永中の子供① 嫁との間に1男2女
許永中の複数の女性との間にかなりの人数が生まれていると言われています。
はっきりしているのは、最初の結婚の嫁との間に生まれた3人の子供と、内縁の嫁である申順徳との間に生まれた2人の子供、愛人の丁玉順という女性の間に生まれた末の息子です。
許永中と最初の嫁の藤田紀子との間に生まれた3人の子供は、1男2女で、最初の子供は1970年頃に生まれた長女の英恵さん、次女(生年不明)、1974年10月に生まれた長男です。
長女の英恵さんは、許永中が2020年に発表した自叙伝「悪漢の流儀」に、「父と私」という手記を寄せています。
許永中の子供② 内縁の嫁の申順徳との間に1男1女
許永中は最初の結婚をした頃、許永中は申順徳という在日韓国人2世の女性とも愛人として関係を持っていました。
許永中はこの女性との間にも2人の子供(1男1女)を儲けています。
この申順徳との間の1人目の子供の男子が生まれたのは1974年11月で、嫁の藤田紀子との長男が生まれた1ヶ月後でした。2人は同学年だったため同じ小学校に同級生として通っていたそうです。
この申順徳との2人目の子供の娘については情報がなく不明です。
また、愛人の丁玉順との間に生まれた許永中の末の息子についても情報がなく不明です。
許永中の愛人が女優の米倉涼子という都市伝説も存在
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嫁の他にも多くの愛人がいた許永中ですが、女優の米倉涼子さんも愛人の1人だったという都市伝説が存在します。
これは事実ではありませんが、都市伝説の元となった噂は存在します。それは、2000年に写真週刊誌「FRIDAY」が米倉涼子さんの不倫疑惑を報じた際、相手とされた男が許永中の側近だったという噂です。
上の「FRIDAY」の報道では、米倉涼子さんの不倫相手は、レストランやソープなどの経営者で別の女性と結婚していたものの、1997年から1998年頃に米倉涼子さんと出会い不倫関係になったのだそうです。しかし、この男性は1998年に2度の覚醒剤所持と詐欺事件で逮捕され、2年10ヶ月の実刑判決を受けています。
噂によれば、この米倉涼子さんの不倫相手の男性は「M」というイニシャルで山口組系の暴力団と関係しており、許永中の手下のような立場だったと言われています。
この噂が米倉涼子さんは許永中の愛人だったという都市伝説に発展したようです。
なお、「FRYDAY」の不倫スクープについてはある程度の信憑性はあるものの、この男性が本当に山口組や許永中の関係者だったのかは噂のレベルで真偽不明の情報です。
許永中はイトマン事件で6億円の保釈金を納め保釈されるも逃亡
許永中はイトマン事件で商法の特別背任罪と法人税法違反罪で起訴され裁判を受けています。
許永中は起訴後、6億円の保釈金を納めて保釈されており、イトマン事件の裁判が続いていた1997年9月27日に韓国の嫁の実家の法要を理由に裁判所の旅行許可を得て韓国へと出国しています。
しかし、同年許永中は韓国ソウルの神羅ホテルのサウナに入っている時に倒れ現地の病院に入院してしまいます。許永中の韓国滞在の予定は10月1日まででしたが、この入院により予定通り帰国していません。
そして、10月6日にこの韓国の病院で「狭心症と不整脈」という診断書が出された直後に許永中は病院から姿を消し逃亡。飛行機でソウル空港から福岡空港へ渡りそのまま行方をくらませました。
許永中が収めていた保釈金6億円は没収されています。これは当時としては保釈金の没収額では国内最高額でした。(カルロス・ゴーンの保釈金15億円の没収により2019年に更新)
なお、この保釈金6億円のうち半分の3億円は許永中の弁護士団が保証する形でした。そのため、裁判所は弁護人に弁済を求めました。弁護士らは抵抗したようですが最終的には弁済に応じ3億円を納めたと言われています。
許永中のイトマン事件の判決は懲役7年6ヶ月と罰金5億円
保釈中に逃亡し保釈金を没収された許永中は、その後2年間逃亡生活を続けましたが、1999年11月5日に東京港区のホテル・グランパシフィック・メリディアンにいるところを拘束されています。
そして裁判は再開され2001年にイトマン事件の判決として「懲役7年6ヶ月」と「罰金5億円」が言い渡されました。
許永中はこの判決を不服とし控訴するも棄却され、その後の上告も棄却されて2005年10月にこの判決が確定しています。
一方、許永中は保釈中だった1996年に石油卸会社「石橋産業」をめぐり手形詐欺事件を起こし約179億円を騙し取ったとする詐欺罪(石橋産業事件)でも起訴され、懲役6年の実刑判決が2008年に確定しイトマン事件の判決に加算されています。
許永中の現在
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許永中はイトマン事件と石橋産業事件で実刑判決を受け、黒羽刑務所で服役していましたが、2012年に母国である韓国での服役を希望し、国際条約(受刑者移送条約)に基づいて韓国へ移送されてます。
許永中は韓国ではソウル南部拘置所に収監され服役し2013年9月30日に仮釈放されています。(刑期満了は2014年9月)
許永中は上記の条約により日本の特別永住権は喪失しており、釈放後も日本には戻らずに現在も韓国でビジネスを行っています。
釈放後には日本のテレビ番組にも出演し、2018年には自叙伝「海峡に立つ 泥と血の我が半生」を発表。2020年にも「悪漢の流儀」を発表しています。
まとめ
今回は、戦後最大の経済事件とも言われる「イトマン事件」を引き起こし「戦後最大のフィクサー」とも呼ばれる在日韓国人2世の実業家・許永中についてまとめてみました。
許永中は在日韓国人と同和地区の混在する地域の出身で、学生時代から不良としてその名前が知られていました。山口組系暴力団をはじめ闇の社会の人脈を活かして力をつけ、トラブル解決能力の高さから表の世界の財政界の大物からも重用され、実業家としてのし上がって行きました。
許永中の引き起こした「イトマン事件」は、歴史ある総合商社イトマンの不動産投資や美術品投資を通じて、住友銀行などから流れた数千億円もの資金が山口組系を始めとする闇社会へと渡ったとされる事件です。
許永中は、イトマンの社長であった河村良彦に美術品の売買を持ちかけ、総額で678億円もの金銭を引き出しました。美術品の実際の仕入れ値よりも大幅に高い金額で売りつけていた事から、イトマンは大きな負債を背負う事になりました。この事で、許永中は特別背任罪で逮捕され起訴されました。
許永中は6億円の保釈金を納めて保釈されますが、その後2年間に渡って逃亡。保釈金は没収されています。
再び身柄を拘束された許永中は、懲役7年6ヶ月と罰金5億円の判決を受けています。
許永中は、20代の頃に藤田紀子という日本人女性と結婚し、1男2女の3人の子供を儲けた他、嫁以外に複数の愛人を持ち、その愛人達との間にも少なくとも3人の子供が生まれています。
許永中の愛人の1人に女優の米倉涼子さんがいたとの噂もありますが、これは別のスキャンダルのスクープが元となったデマ情報です。
現在、許永中はすでに刑期を終えて釈放されており、母国の韓国でビジネスを行っているようです。日本のメディア取材にも応じて自叙伝も出版するなど、現在も健在のようです。