1987年に発生した世界的な株価の大暴落「ブラックマンデー」が話題です。
この記事ではブラックマンデーをわかりやすく解説し、いつ何年に発生したかの時系列、原因や日本など各国への影響やその後、当時の日経平均や為替のチャート、ブラックマンデーに関連する映画などについてまとめました。
この記事の目次
ブラックマンデーをわかりやすく解説
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1987年10月19日、ニューヨーク株式市場が歴史的な大暴落(ダウ平均株価が1日で508ドル、過去最大22.6%の下落率だった)を起こし、これをきっかけにして全世界に波及する世界同時株安を引き起こしました。この暴落が発生したのが月曜日だった事から「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」と呼ばれ、現在も歴史に残る金融危機として語り継がれています。
「ブラックマンデー」が発生した日には、ダウ平均株価が22.6%暴落したほか、「S&P500」と「ウィルシャー5000」も共に18パーセント超の下落「S&P500先物」も29パーセントの下落を記録しました。
次の見出しからはこの「ブラックマンデー」について、どういった時系列で何年のいつに起こったか、原因はなんだったのか、日本への影響などをできる限りわかりやすく見ていきます。
ブラックマンデーが何年のいつに起こったか背景など発生までの時系列
一般的に「ブラックマンデー」がいつ何年に起こったのかといえば、このアメリカ市場の株価が歴史的な暴落を起こした1987年10月19日のその日の事を指しています。
しかし、ブラックマンデーでの株価暴落が起こったのには、それ以前からの時代背景が深く関係しているため、わかりやすくするためにそれを時系列順に見ていきます。
「レーガノミクス」による貿易赤字の拡大
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1970年代のアメリカ合衆国では、景気の後退によって失業率が上昇していたことに加えて、1979年1月に発生したイラン革命が原因となった「第2次オイルショック」によって物価がさらに上昇し、スタグフレーション(景気の停滞とインフレが同時に起こる事)が深刻化していました。
1981年1月にロナルド・レーガン大統領が誕生すると、このスタグフレーションの解消のための経済政策を打ち出しました。
レーガン大統領が打ち出した経済対策は、簡単にいうと以下の4つの方策を軸としていました。
①「国の軍事支出を増やして経済を活性化させる、一方で社会保障支出は削減する」
②「個人への減税によって、労働意欲の向上、貯蓄増加、投資を促す」
③「企業に対する規制緩和し、設備投資を促して生産性の向上を図る」
④「マネーサプライ(通貨供給量)の伸びを抑制する事でドル高へと誘導し、相対的にインフレ率を低下させる」
この経済対策は「レーガノミクス」と呼ばれました。
しかし、この「レーガノミクス」による金融引き締めによって金利が上昇し、海外からの投資が米国市場に流れ込んだ事からドル需要はさらに高まり、急激なドル高が進みました。ドル高によって輸出が大幅に減少する一方で輸入は増加し、貿易赤字が大幅に拡大しました。
また、軍事支出の増大と社会保障支出削減の失敗、大幅な減税によって財政赤字が増大するという結果を生みました。
プラザ合意でドル安誘導の協調路線が敷かれる
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1985年9月22日、いき過ぎたドル高を是正するため、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルにG5(アメリカ、日本、イギリス、西ドイツ、フランス)の 蔵相・中央銀行総裁による会議が行われ、協調的なドル安路線を取る事で合意に達しました。
これを「プラザ合意」といいます。
プラザ合意後は、目論見通りドル安が進み、1985年8月末に1ドル237円10銭だった為替レートは、1986年9月末には1ドル153円63銭をつけています。しかし、アメリカの貿易赤字解消については期待ほどの効果を上げる事はできませんでした。
そして、今度は逆にドル安が進み過ぎた事で、再びアメリカ国内ではインフレ懸念が高まりつつありました。
ドル安を止めるためのルーブル合意へ
ドル安の流れがとまらないことに危機感を抱いた各国は、1987年2月22日にパリのルーブル宮殿でG7(アメリカ、日本、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリア、カナダ)による蔵相・中央銀行総裁会議を開催し、ドル下落に歯止めをかけ、為替レートを安定させる協調路線を敷く事で合意しました。
これを「ルーブル合意」と呼びます。
しかし、このルーブル合意はうまくいきませんでした。というのも、参加国の一つ西ドイツでもインフレ懸念が高まっており、同意から半年後の1987年9月に、アメリカの反対を押し切って金利の引き下げに踏み切りました。
そしてその約1ヶ月後の1987年10月19日に「ブラックマンデー」が起こることになります。
後述しますが、西ドイツが協調路線を離脱して金利上昇政策に舵を切った事がブラックマンデー発生の直接的な原因となったとする見方が有力です。
ブラックマンデーの原因① 米国で深刻化した「双子の赤字」
「ブラックマンデー」が発生するまでの時代背景を見てきましたが、この流れがどのようにブラックマンデー の原因へとつながったのかを改めてわかりやすく見ていきます。
ブラックマンデーが発生した当時の1980年代のアメリカは、貿易赤字(経常赤字)と財政赤字が共に赤字の状態である事を指す「双子の赤字」である事が指摘されていました。
そして、1980年代の前半には、アメリカの高名な経済学者・ポール・クルーグマンが、この「双子の赤字」の状態が続けば、深刻な経済危機をもたらす恐れがあると警告を発していました。現在もこの「双子の赤字」は国力を大きく低下させる可能性があると言われています。
上でも触れましたが1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンが行った経済対策「レーガノミクス」は、ドル高誘導によって貿易赤字を増大させ、軍事支出の増加と現在によって、財政赤字も悪化させてしまいました。
この「双子の赤字」状態が長く続き、改善の兆しも見られなかった事により、市場の不安感が増大し株の投げ売りを引き起こした。つまり「ブラックマンデー」の大きな原因になったとする見方があります。
ブラックマンデーの原因② ルーブル合意での為替協調介入路線の破綻
上でも触れましたが、いき過ぎたドル安に歯止めをかける事で合意した「ルーブル合意」は、アメリカの反対を押し切った西ドイツの金利引き上げ政策によって事実上破綻する事になりました。
これによって、市場は「為替の協調介入路線は破綻した」と判断し、金利の先高感が台頭する事になり、それにともなってFRB(連邦準備制度理事会)が対抗策として、ドルの大幅な金利引き上げを実行するのでは?との懸念が広がる事になりました。
これによって市場の不安が限界に達しブラックマンデーの原因になったとする見方が有力になっています。
ブラックマンデーの原因③ 当時のコンピュータの処理速度が追いつかず売り注文が滞ってパニックに
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「ブラックマンデー」では、あまりにも多くの売り注文が短時間に殺到したため、当時のコンピュータ処理速度では対応する事ができず、通信システムは機能障害を起こし、一時は売却注文が1時間以上も滞りました。一刻も早く売りたいのに売れないという状況は投資家たちをさらなるパニックに陥れ、さらなるパニック売りへとつながったと指摘されています。
また、コンピュータに関する説として、当時の投資家が多く活用していた金融工学を駆使した自動売買システムによる自動損切りが連鎖的に発動し、売り注文に歯止めが効かなくなったのが原因とするものがあります。
ブラックマンデーの世界への影響やその後
アメリカでの「ブラックマンデー」の発生後、その影響は世界中に波及しました。世界の主要23市場の全てで暴落が起こり、米ドルベースで見て、8か国で20〜29パーセントの下落、香港、オーストラリア、シンガポールで30〜39パーセントの下落、マレーシア、メキシコ、ニュージーランドで40パーセント以上の暴落が発生しました。
全世界での損失額は1兆7000億ドルにも上ると推測されています。
ブラックマンデーのその後、アメリカFRBは金利(FF金利)を7.25パーセントから6.5パーセントまで大幅に引き下げ、市場に資金を供給する事で株価のさらなる下落を食い止めることに成功しています。
また、このブラックマンデーの影響で、アメリカでも価格暴落時に一時的に取引を停止させる「サーキットブレイカー」の制度が設けられています。
ブラックマンデーの日本への影響やその後は?
「ブラックマンデー」の影響は世界中に及びましたが、日本への影響についても見ていきます。
ダウ平均株価が大暴落を起こした翌日の東京市場では、日経平均株価が3836円48銭安(マイナス14.90%)という過去最大の大暴落が起こりました。
しかし、日本政府はその後、対策として金融緩和を継続的に実施し、ブラックマンデーから約半年後の1988年4月には下落分を回復し、これによって1986年頃からすでに始まっていたバブル景気はさらなる膨張を見せ、1989年12月29日に、日経平均株価は史上最高値の「38957円44銭」をつけ、バブルの絶頂を迎えることになりました。
ブラックマンデー発生時の日経平均株価チャート
「ブラックマンデー」の前後の日経平均の日足チャートです。
チャート中央から少し右のブラックマンデーと示されている陰線が、ブラックマンデーの翌日の1987年10月20日の日経平均株価3836円48銭安(マイナス14.90%)にあたります。
チャートを見るとわかりますが、その翌日の10月21日には2037円32銭高(プラス9.30%)と、大幅に反発しています。これは当時の日経平均の1日あたりの上昇幅としては1位の記録でした。
その後は、日本政府の金融緩和策によってバブル景気が膨張を続け、日経平均株価の史上最高値へと向かっていくことになります。
ブラックマンデー発生時の為替(ドル円)チャート
上画像はブラックマンデーが発生した1987年のドル円為替チャートです。1987年2月の「ルーブル合意」後、4月頃から一時ドル高へと転じていますが、再びドル安の流れとなり、ブラックマンデーの10月からはさらなるドル安へと進みました。
これはブラックマンデー後にアメリカFRBが大幅な金利引き下げを行った事も影響しています。
ブラックマンデーに関連する映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」
ブラックマンデーに関連する映画としては、2013年に公開された映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」があります。
この映画は、レオナルド・ディカプリオ演じる若手の新人証券マンが、ブローカーとしてデビューするその日に、ブラックマンデーに見舞われてそのまま会社は倒産してしまうところがはじまります。
その後、ディカプリオ演じる証券マンは、ボロ株(低位株)ばかりを扱う怪しげな地方証券会社に転職し、天才的な話術を駆使して次々と売り上げを上げ、業界にその名を轟かせるまでになります。
しかし、非合法な手を使って利益を上げる方法に手を染めた事で当局にマークされるようになり、次第にそのサクセスストーリーに陰りが…という内容です。
ブラックマンデーそのものを描いた映画ではありませんが、コメディ映画としてはかなり面白い作品です。
まとめ
今回は、1987年10月に発生した世界的な株価の大暴落「ブラックマンデー」についてまとめてみました。
ブラックマンデーの原因は、アメリカの「双子の赤字」への懸念や、「ルーブル合意」で決められた為替協調介入路線の破綻が市場を失望させた事、当時のコンピュータの性能によって売り注文が滞りパニックを助長した事などが挙げられています。
ブラックマンデーは世界中に影響を及ぼし、世界の主要23市場全てで暴落が起こりました。日本の日経平均株価も3836円48銭安(マイナス14.90%)の大暴落を記録しました。
しかし、日本はその後、政府が金融緩和を継続的に実施した事で株価は再び上昇に転じ、バブル絶頂へと向かっていく事になりました。