NHK朝ドラ「ブギウギ」のモデルとなった歌手・笠置シヅ子が再び脚光を浴びています。
この記事では笠置シヅ子の波瀾万丈な生い立ちや家族、結婚目前に死去した旦那、息子や娘など子供、孫、娘のヱイ子さん誘拐事件の顛末、現在、晩年の様子や死因などについてまとめました。
この記事の目次
- 笠置シヅ子はNHK朝ドラ「ブギウギ」のヒロイン・鈴子のモデル
- 笠置シヅ子の生い立ち① 香川県で生まれるも大阪の家族の養子に
- 笠置シヅ子の生い立ち② 幼い頃から歌や踊りの才能を示し地域の人気者に
- 笠置シヅ子の生い立ち③ 宝塚音楽学校を不合格になり松竹楽劇部養成所へ
- 笠置シヅ子の生い立ち④ 松竹少女歌劇団で5年間の下積み生活
- 笠置シヅ子の生い立ち⑤ 松竹楽劇団への抜擢が転機になり大スターへ
- 笠置シヅ子の家族① 養母の亀井うめ
- 笠置シヅ子の家族② 実の母親は谷口鳴尾
- 笠置シヅ子の家族③ 義理の弟の八郎
- 笠置シヅ子の家族④ 事実上の旦那は9歳下の吉本穎右だが結婚前に死去
- 笠置シヅ子の家族⑤ 子供は娘の亀井ヱイ子さん1人で息子はいない
- 笠置シヅ子の家族⑥ 孫についての情報は現在の時点ではなし
- 笠置シヅ子の娘の亀井ヱイ子さん誘拐を匂わせる脅迫事件があった
- 笠置シヅ子の現在…1985年に70歳で死去
- 笠置シヅ子の晩年
- 笠置シヅ子の死因は卵巣癌
- まとめ
笠置シヅ子はNHK朝ドラ「ブギウギ」のヒロイン・鈴子のモデル
笠置シヅ子のプロフィール
本名 :亀井静子
生年月日:1914年(大正3年)8月25日
没年月日:1985年(昭和60年)3月30日(70歳没)
出身地 :香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)
身長 :147cm(諸説あり)
笠置シヅ子は、戦前から戦後にかけて活躍した人気歌手で、当時は日本国内では皆無だった派手なダンスパフォーマンスとリズミカルな楽曲を取り入れた革新的存在として「ブギの女王」と称されました。
作曲家・服部良一とのコンビで数多くのヒット曲を生み出し、特に終戦から3年後の1948年に発表され大ヒットした「東京ブギウギ」は、敗戦に沈む日本国民の心を明るくし活力を与えた楽曲として現在も多くの人々に愛されています。
この笠置シヅ子をモデルとしたNHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」が2023年10月から2024年3月まで放送された事で、笠置シヅ子が再び脚光を浴びています。
ここでは、笠置シヅ子の生い立ちや家族、結婚や旦那、子供や孫などを中心に紹介していきます。
笠置シヅ子の生い立ち① 香川県で生まれるも大阪の家族の養子に
笠置シヅ子は、香川県大川郡相生村黒羽(現在の東かがわ市)で1914年に生まれています。
父親は郵便局員だった三谷陣平、母親は三谷家にで家事手伝いとして住み込みで働いていた谷口鳴尾(なお)という女性でしたが、豪農だった三谷家は身分違いの2人の結婚を許可しませんでした。
さらに、笠置シヅ子が生まれた翌年の1915年に父親の三谷陣平が25歳の若さで死去したため、谷口鳴尾は三谷家にいる事ができなくなり、生まれたばかりの笠置シヅ子を連れて、香川県大川郡引田町の実家へ戻る事になりました。
ちょうど同じ頃に引田町に出産のために嫁ぎ先の大阪から帰省していたのが、亀井うめという女性で、笠置シヅ子の母親の谷口鳴尾の母乳の出が悪かったのを心配して、自分が代わりに母乳を与える事を申し出ました。(貰い乳と言って、経済的に貧しい人も多かった当時の日本ではよくある事だった)
赤ん坊時代の笠置シヅ子は、次第に実の母親である谷口鳴尾よりも母乳を与える亀井うめの方に懐くようになります。
そして、母乳を与えているうちに情が移ってきた亀井うめは、笠置シヅ子を養女として迎えたいと申し入れました。谷口鳴尾の実家は経済的に裕福でなかった事もあって、谷口家はこれを了承し、笠置シヅ子は物心がつく前に大阪の亀井家へと養子に出される事になったのでした。
笠置シヅ子の生い立ち② 幼い頃から歌や踊りの才能を示し地域の人気者に
養母の亀井うめは、聡明で明るい笠置シヅ子を溺愛し、5歳の頃から三味線や踊りなどの習い事もさせています。
笠置シヅ子は幼い頃から歌の才能を示し、尋常小学校の通信簿では音楽の成績はいつも最高の「甲」で、この頃亀井家が経営していた銭湯の脱衣場で歌と踊りを披露してお客さんの人気者になりました。
そんな評判を聞きつけた芝居小屋に頼まれて、浪花節の芝居に子役で出演し始め、早くもエンターテイメントの世界での活動を開始しています。
小学校での進路指導でも、担任の教師から「無理に上の学校への進学は勧めないので、みっちり芸の修行をしてみても良いのではないか」と勧められるほどでした。
笠置シヅ子の生い立ち③ 宝塚音楽学校を不合格になり松竹楽劇部養成所へ
幼い頃から歌とダンスの才能を示した笠置シヅ子は、近所の人から宝塚音楽歌劇学校の話を聞いてその気になり、家族からも「あんたはきっと大丈夫や」と背中を押され、1927年に尋常小学校卒業後に受験しています。
宝塚音楽歌劇学校の筆記試験と面接は簡単にクリアした笠置シヅ子でしたが、最終の体格審査で、身長145cm(当時)と痩せ型の体型から気管支が弱く宝塚音楽学校の厳しい稽古に耐えられないと判断されて不合格とされてしまいました。
負けん気が強った笠置シヅ子は、家族には不合格とは言わずに「あんなとこ、好かんさかいやめてきてしもた」と伝えて、「道頓堀の松竹楽劇部に入ろうと思って帰りに願書を出してきた」と、当時宝塚とライバル関係にあった大阪松竹の楽劇部に入ろうと思っていると家族に伝えました。
実際には願書を出してきたというのは嘘で、笠置シヅ子は何のツテもないまま、松竹座の楽屋口へ毎日通い詰めて入所を直談判しました。当初はケンもホロロに追い返されてしまいますが、笠置シヅ子は一向に引き下がらず、楽劇部の事務員はついにその執念に負けて、奥の事務所へと笠置シヅ子を案内しました。
そこで、笠置シヅ子の話を聞いてくれたのが、松竹楽劇部の音楽部長を務めていた松本四郎という中年の紳士で、笠置シヅ子は大きな声で「宝塚で体が小さい事を理由に断られたのが悔しい、こうなったら意地でも道頓堀で一人前になり、体が小さくても芸に変わりはない事を見せたいと思う」という内容を癖の強い大阪弁で訴えました。
これを聞いた松本四郎氏は、「よう喋るおなごやな、そんなに喋れるのやったら身体も悪い事ないやろ。明日から来なはれ」と即決し、笠置シヅ子は大阪松竹楽劇部への入所を認められました。
笠置シヅ子の生い立ち④ 松竹少女歌劇団で5年間の下積み生活
1929年「第4回春のおどり開国文化」での笠置シヅ子(中央)
笠置シヅ子は、試験を受けずに特例で松竹楽劇部への入所を認められた事もあって、上下関係の厳しかった当時の大阪松竹楽劇部において、先輩や幹部の部屋付きを命じられ、掃除洗濯、化粧道具の用意、舞台衣装の裁縫、買い物や言伝などの小間使いなどあらゆる下働きを命じられて酷使されました。
笠置シヅ子は要領がよく気が利いたため先輩に気に入られ、小柄ない体格から「豆ちゃん」という愛称をつけられて可愛がられました。しかし、新しく後輩が入ってきても「豆ちゃんじゃないとあかん」と言われるほど気に入られてしまい、結果として5年間も部屋子を務める事になっています。
そんな中で、笠置シヅ子は入所半年後の1927年夏に上演された「日本新八景」レビュー「日本八景おどり」の華厳の滝の水しぶきの妖精役で初舞台を踏みますが、その後も役らしい役をもらえないまま5年間の下積み生活を送っています。
笠置シヅ子の生い立ち⑤ 松竹楽劇団への抜擢が転機になり大スターへ
長い下積み生活を送っていた笠置シヅ子の転機が訪れたのは、初舞台からちょうど10年後の1937年のことでした。
同年10月、7月にオープンしたばかりだった当時国内最大の劇場「浅草国際劇場」にて、大阪松竹少女歌劇団が「国際大阪踊り」のレビューを公演しました。
笠置シヅ子もこの公演に出演したのですが、笠置シヅ子の歌唱力は大阪松竹少女歌劇団の中で抜きん出ており、それが松竹の東京の関係者の目に留まりました。
翌1938年、松竹は新たに少女歌劇のスターに男性出演者を加え、本格的なミュージカルを目指す「松竹楽劇団(SGD)」を新設。団員は東京と大阪からの選抜メンバーで構成され、抜群の歌唱力で東京の関係者の目に留まっていた笠置シヅ子も選抜メンバーに選ばれたのでした。
松竹楽劇団の総指揮者は、日本のジャズのパイオニアとして知られる紙恭輔で、笠置シヅ子はこれを機にジャズの歌唱法を本格的に学んでいます。
この時、紙恭輔の右腕として松竹楽劇団副指揮者に就任したのが作曲家でサックス奏者の服部良一という人物(NHK朝ドラ「ブギウギ」で草彅剛さんが演じた羽鳥善一のモデル)で、ホットジャズに精通していました。
この服部良一氏が笠置シヅ子のエンターテイナーとしての才能を見抜き、本場のホットジャズの歌唱法やパフォーマンスを熱心に指導するようになりました。
出典:https://tokyo-panda.up.seesaa.net/
服部良一氏の熱心な指導もあり、笠置シヅ子の当時の日本人歌手達とは一線を画した、リズミカルかつエネルギッシュなパフォーマンスは評判となりました。
「松竹楽劇団」の旗揚げからわずか1年足らずの間に、本場アメリカのジャズシンガーのマキシン・サリバンやミュージカル歌手のベティ・ハットンのようなスターが日本にも登場したとマスコミに大絶賛されるようになり、笠置シヅ子は「スウィング・ジャズの女王」と称されるようになって、一躍、国民的な大スターの座へと上り詰めたのでした。
笠置シヅ子の家族① 養母の亀井うめ
続けて、笠置シヅ子の家族についてもみていきます。
生い立ちのところでも触れましたが、笠置シヅ子は物心がつく前の乳飲子の頃に実の母親に養子に出され、養母の亀井うめとその家族の下で成長しています。
笠置シヅ子の養母の亀井うめは、大阪の福島区で小売業を営んでいた亀井音吉の妻で、笠置シヅ子の実母である鳴尾とは同郷で、たまたま子供をみごもって出産のために実家に戻ってきていたところ乳児だった笠置シヅ子に母乳を提供する事になり、その縁で養子に貰い受ける事になりました。
笠置シヅ子の養母であるうめは、この時に出産した息子の正雄と、もう1人大阪に残してきた長男の頼一がいましたが、養子とはいえ初の娘という事で溺愛したようです。
笠置シヅ子は17歳の時に、自分が養女である事を初めて知ったという事ですが、自分を溺愛する養母のうめがその事実を隠そうとしている事を慮って、養女であると気づいていないフリを、うめが1939年9月11日に亡くなるまで貫き通しています。
養母のうめの死因は胃がんと心臓病で、少し前から病床に伏していましたが、当時、笠置シヅ子は松竹の大スターとなっていて多忙を極めており、うめの死に目には会えませんでした。
うめは死の間際に、笠置シヅ子からの「大役がついてから帰れない」という内容の電報を聞いて、「自分の死に目に会えなかった子を、実の母親の死に目にもあわせたくない、自分が死んだ後も、決して実の母親が別にいる事をシヅ子に言わないでほしい」との旨を周囲に遺言したそうです。
笠置シヅ子の家族② 実の母親は谷口鳴尾
笠置シヅ子の実の母親である谷口鳴尾は香川県大川郡の由緒ある良家の娘で、和裁を習うために笠置シヅ子の本当の実家である豪農・三谷家に家事手伝いをしながら同居していました。
その三谷家の息子の三谷陣平と谷口鳴尾との間に生まれたのが笠置シヅ子でしたが、三谷家が2人の結婚を認めず、実の父親である三谷陣平も笠置シヅ子が生まれてすぐに死去したため、谷口鳴尾は幼い笠置シヅ子を連れて実家へ戻ったという経緯でした。
その後、前述のように笠置シヅ子は養子に出されましたが、17歳の時に笠置シヅ子はその事実を知り、実母の鳴尾を訪ねて対面しています。
しかし、鳴尾はすでに別の家に嫁いでおり、当時5歳〜6歳ほどの子供も生まれていました。鳴尾は決して自分が実母であるとは名乗らず、「私は若い頃はあちこちで女中奉公をしていたので、あなたがこの町にいた小さい頃によくお守りをしていた」と語ったそうです。
笠置シヅ子も何も言えずに、いたたまれなくなってその場を飛び出し、家のすぐ外で泣き崩れてしまったそうです。
すると、実母の鳴尾が追いかけてきて「悪うおました、気い悪うせんとお帰りやす、あんたはんに一度でも会えたら心残りはござりまへん、これでもうお目にかかる事もないでっしゃろ」と言い、「わてが命より大事にしてたお方が形見に残しておくれやした」とだけ言って、金無垢の置き時計を手渡してくれたのだそうです。
この金無垢の置き時計は、笠置シヅ子の実の父親である三谷陣平が形見として残したものでした。
笠置シヅ子の家族③ 義理の弟の八郎
笠置シヅ子は、幼い頃に大阪の亀井家に養子に出されましたが、その後に養母の亀井うめさんは息子を出産しています。笠置シヅ子はこの義理の弟の八郎をとても可愛がっていました。
当時、日中戦争が拡大しており、笠置シヅ子の弟の八郎は1938年に召集令状が届いて陸軍に入隊し、太平洋戦争が始まる(真珠湾攻撃発生)2日前の1941年12月6日にタイ王国に向けて進軍中に戦死しています。(戦死の状況の詳細は不明)
溺愛していた弟をうしなった笠置シヅ子は悲観し、それを見た服部良一氏は、笠置シヅ子と戦死した弟をモチーフにした軍歌「大空の弟」(笠置シヅ子は八郎が航空兵として空で戦死したと思っていたため)を作詞作曲しています。この曲は笠置シヅ子が戦時中歌った軍歌2曲のうちの1つでした。
笠置シヅ子の家族④ 事実上の旦那は9歳下の吉本穎右だが結婚前に死去
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笠置シヅ子は生涯結婚はされていませんが、事実上の旦那さんといえる人はいます。
笠置シヅ子の事実上の旦那さんは吉本穎右(えいすけ)という人物で、吉本興業の創業者である実業家の吉本せいの息子(次男)でした。
笠置シヅ子と事実上の旦那・吉本穎右の出会いは太平洋戦争中の1943年
笠置シヅ子の事実上の旦那である吉本穎右は、1923年10月26日生まれで、笠置シヅ子より9歳も年下でしたが、笠置シヅ子の大ファンだったため吉本興業の社員の紹介によって1943年に知り合い、1994年に交際するようになりました。
笠置シヅ子の事実上の旦那である吉本穎右は、兄が早逝していたために吉本興業の後継者と目されていて、早稲田大学で帝王学を学んでいました。
交際が始まった頃、2人が会うのはもっぱら市ヶ谷にあった吉本穎右の邸宅で、笠置シヅ子はそこから興行へ向かい、吉本穎右は送り迎えや身の回りの世話をしたりとマネージャーのように尽くしていたようです。
その後、戦況が悪化して東京は激しい空襲に遭い、吉本穎右の邸宅や笠置シヅ子の借家も焼失。焼け出された2人は、荻窪にあった邸宅を借りて同棲を始めています。当時は焼け出された親族やその他関係者も転がり込んできた避難所のような有様でしたが、笠置シヅ子は吉本穎右と一緒に生活する幸せを感じ、当時について自伝で「我が生涯最良の日々」と書いています。
笠置シヅ子と事実上の旦那・吉本穎右は結婚を目指すも吉本せいに反対される
笠置シヅ子と事実上の旦那である吉本穎右が荻窪の邸宅で同棲を続けていた1945年8月15日、日本の降伏で戦争が終わりました。
2人は結婚を目指すために一旦けじめをつけようと、吉本穎右は早稲田大学を中退して吉本興業東京支社に入社し同時に同棲も解消しています。
ところが、吉本穎右の母親で吉本興業の初代社長であった吉本せいが2人の結婚に強く反対したため、結婚の話はスムーズには進みませんでした。
また、吉本穎右は元々身体が弱く笠置シヅ子と知り合った頃に結核を患っており、笠置シヅ子がそれを案じて、大阪の親元へと戻る事を勧めたため、吉本穎右は1946年6月に大阪へと戻りました。
笠置シヅ子は子供を妊娠し一時は結婚のため芸能界引退を決意も吉本穎右が死去
1946年10月、笠置シヅ子は吉本穎右の子供を妊娠している事がわかり、同年12月に吉本穎右にその事を伝えています。
吉本穎右は、時間がかかっても母親の吉本せいや親族を説得して必ず結婚できるようにすると笠置シヅ子に伝えて、大阪へと戻っていきましたが、これが笠置シヅ子と吉本穎右の今生の別れとなりました。
1947年に入り、笠置シヅ子は一時は吉本穎右との結婚のために芸能界を引退しようと決意し、結婚のために自宅を買い、家具や調度品も揃えています。
しかし、吉本穎右は大阪に戻ってから急激に体調を崩しており、1997年4月に大阪医大に入院するもますます病状が悪化して、5月19日に23歳という若さでこの世を去っています。死因は「奔馬性結核による急性肺炎」でした。
事実上の旦那である吉本穎右の死を伝えられた時、笠置シヅ子は穎右との子供出産予定日が間近に迫っていましたが、ショックのあまり不眠となり睡眠薬を処方されるほどだったそうです。
5月23日、吉本興業社員が訪れ、吉本穎右から預かったとして預金通帳を笠置シヅ子に渡しています。これは吉本穎右が生まれてくる子供のために積み立てていたもので、通帳の名義は「吉本静男」となっており、これは子供が息子だった時の名前で、もしも子供が娘だった場合は「ヱイ子」と名付けてほしいとの遺言も残されていました。
笠置シヅ子はこの通帳を握りしめて号泣したそうです。
笠置シヅ子の家族⑤ 子供は娘の亀井ヱイ子さん1人で息子はいない
笠置シヅ子の子供は、事実上の旦那である吉本穎右との間に生まれた娘のヱイ子さん1人だけで、息子はいません。
笠置シヅ子のただ1人の子供である娘のヱイ子さんは、吉本穎右の死去から約2週間後の1947年6月1日に無事産まれています。
笠置シヅ子はシングルマザーとして娘のヱイ子さんを育てる事を決意し、芸能界に復帰。1948年に名曲「東京ブギウギ」を大ヒットさせて、「ブギの女王」と呼ばれる国民的大スターになりました。
この頃、笠置シヅ子は一人娘のヱイ子さんと雑誌でよく紹介され、親子仲の良い様子や溺愛する様子が明かされています。
笠置シヅ子さんの娘のヱイ子さんは、2023年10月29日に開かれたNHK朝ドラ「ブギウギ」のトークイベントに特別ゲストとして出演し、元気な姿を見せています。
笠置シヅ子の家族⑥ 孫についての情報は現在の時点ではなし
笠置シヅ子さんの孫についても関心が高まっているようです。
しかし、笠置シヅ子さんのただ1人の子供である娘のヱイ子さんは一般の女性で、自身のプライベートについては明かされていません。結婚しているのかや子供がいるのかなども非公開で、笠置シヅ子さんに孫がいるのかどうかは不明です。
笠置シヅ子の娘の亀井ヱイ子さん誘拐を匂わせる脅迫事件があった
出典:https://president.ismcdn.jp/
笠置シヅ子さんにとってただ1人の子供であり、最愛の娘であったヱイ子さんですが、過去にはこのヱイ子さんを誘拐すると匂わせる脅迫状が笠置シヅ子さんに届く事件が発生しています。
この誘拐未遂事件は笠置シヅ子さんをモデルにしたNHK朝ドラ「ブギウギ」では、主人公の鈴子宛に「娘を誘拐されたくなければ、金を出せ」と電話がかかってくるエピソードとして描かれていますが、モデルとなった事件が実際にありました。
この誘拐未遂事件を報じた1954年4月9日付の「朝日新聞」によると、同年3月31日に「オレ達の結社で金が要るから天神橋下に六万円置け。さもないと一人娘=ゑい子ちゃん(七才)を殺すぞ」と記された脅迫状が笠置シヅ子さんの自宅に届られたという事です。
さらにその後、電話など合計9回ものヱイ子さんの誘拐を匂わせる脅迫があったのだそうです。
笠置シヅ子さんは警察に通報し、4月8日の朝に犯人からの脅迫電話をテープレコーダーに録音し、犯人から指定された「自由ケ丘駅表出口の公衆電話で金を渡す」と要求を受け入れたフリをし、その場所で笠置シヅ子さんの事務員男性が指定された目印のハンカチを左手に巻いて立っていたところ、15時半頃に1人の男が近づき、偽の紙包を受け取りました。
そこへ、隠れて見張っていた警察捜査員が飛び出して男を取り押さえ、事件は解決となりました。犯人は、横田武夫という30歳無職の男で、「6月に結婚をする事になっていたのに失業してしまい、金に困って思いついた」と自供したという事です。
なお、この時の誘拐未遂事件で要求された金額は6万円で、現在の価値ではおおよそ200万円ほどです。当時の笠置シヅ子さんは超売れっ子のスターで大金持ちと思われていた事を考えればささやかな要求金額だといえ、犯人は純粋に結婚資金だけを手に入れたいと考えていたのかも知れません。
笠置シヅ子の現在…1985年に70歳で死去
NHK朝ドラ「ブギウギ」が放送されていた時には、そのモデルである笠置シヅ子の現在についてもネット上で多く検索されていました。
笠置シヅ子の現在ですが、1985年3月30日に70歳でこの世を去っていてすでにこの世にはいません。
笠置シヅ子は病床で、歌手としての自分のパートナーであった服部良一さんを描いた伝記ドラマ「昭和ラプソディ」を観て「日劇時代は楽しかったね」と呟いたそうで、これが笠置シヅ子の最期の言葉だったと報じられています。
笠置シヅ子さんが死去してから40年近くが経過していますが、笠置シヅ子さんが残した「東京ブギウギ」は誰もが1度は耳にした事がある戦後の時代を象徴する名曲として現在もよく知られています。
笠置シヅ子の晩年
笠置シヅ子は1985年に70歳で亡くなりましたが、その晩年についても見ていきます。
「ブギの女王」と呼ばれ、国民的スター歌手だった笠置シヅ子ですが、その後、美空ひばりさんをはじめとする若手の人気歌手が次々と出てくる中、自分の歌手活動に限界を感じ始め、1957年に歌手を廃業して女優業に専念する事を発表しています。
歌手引退の理由については、「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない。」と語っていたとされ、国民的なスター歌手のまま引退したかったというのが早々に歌手を引退した理由だったと言われています。
笠置シヅ子は1970年代前半まで女優としてテレビドラマに出演し「大阪のおばちゃん」的なキャラクターを活かした役柄を多く演じています。
また、1967年からはTBSの「家族そろって歌合戦」の審査員を務め、1971年からはカネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」のテレビCMのおばちゃんとして親しまれました。
その後、笠置シヅ子は1981年に日本劇場の閉館に伴い開催された「サヨナラ日劇フェスティバル、ああ栄光の半世紀」の最終公演日の舞台挨拶に出席していますが、これを最後に芸能界の表舞台から姿を消しています。
実は、笠置シヅ子はこの年、体調不良を訴えて検診を受けたところ、乳がんが見つかり手術を受けていました。手術は成功しましたが、1983年に卵巣への転移が見つかり1984年9月に再入院して晩年は闘病生活を送っていました。そしてそのまま入院先の病院で1985年3月30日23時43分に70歳で死去しています。
笠置シヅ子の死因は卵巣癌
笠置シヅ子の死因は「卵巣癌」でした。
笠置シヅ子の告別式の葬儀委員長は、笠置シヅ子を「ブギの女王」に育て上げた服部良一が務めています。
笠置シヅ子のお墓は東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所にあり、現在もファンが訪れているようです。
まとめ
今回は、戦前から戦後にかけて「ブギの女王」と呼ばれた国民的スター歌手で、NHK朝ドラ「ブギウギ」で再び脚光を浴びている笠置シヅ子についてまとめました。
笠置シヅ子のは生まれてすぐ養子に出されて大阪で育った生い立ちを持ち、幼い頃から歌や踊りの才能を示し、尋常小学校卒業後に松竹楽劇部養成所に入所して歌手としての道を歩み始めました。
笠置シヅ子は長い下積みを経て、23歳の時にミュージカル劇団「松竹楽劇団」の劇団員に抜擢され、そのエネルギッシュなパフォーマンスで一躍人気者となり、作曲家の服部亮一とのコンビでヒット曲を連発して瞬く間に国民的スター歌手の座に上り詰めました。
笠置シヅ子の家族は、結婚目前に先立たれた事実上の旦那の吉本穎右や、その穎右との間に生まれた娘のヱイ子さんの存在が知られています。笠置シヅ子の子供は娘のヱイ子さん1人だけで息子さんはいません。また、笠置シヅ子さんに孫がいるのかは明らかになっていません。
笠置シヅ子はシングルマザーとして娘のヱイ子さんを育て、溺愛している様子が度々メディアで紹介されていました。笠置シヅ子の全盛期には、娘のヱイ子さんの誘拐未遂事件も発生しています。
笠置シヅ子は1985年に70歳で死去しています。晩年はがんが見つかり病院で闘病していました。死因は「卵巣がん」と発表されています。
現在も、笠置シヅ子さんの残した名曲は愛されており、特に「東京ブギウギ」は、終戦直後の日本を元気付けた伝説の名曲として世代を超えて広く知られています。