松山ホステス殺害事件と犯人/福田和子の生い立ちと現在!結婚や旦那と子供(息子)・顔の整形・裁判の判決と死因まとめ

「松山ホステス殺害事件」は犯人の福田和子が15年にわたって逃亡したセンセーショナルな事件です。

 

この記事では松山ホステス殺害事件の内容、犯人の福田和子の生い立ちや顔を整形しての逃亡生活、結婚や旦那、息子ら家族、裁判判決や死去の現在と死因、ドラマ化などについてまとめました。

 

松山ホステス殺害事件の概要

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

「松山ホステス殺害事件」とは、1982年8月19日に愛媛県松山市で発生した強盗殺人、および死体遺棄事件です。

 

犯人はホステスの福田和子(事件当時34歳)。被害者は同僚のホステスだった安岡厚子さん(事件当時31歳)で、福田和子は着物の帯締めで首を絞めて安岡さんを殺害し、現金13万円と預金通帳(70万円を引き出している)、家財道具334点(951万円相当)を奪い、安岡さんの遺体を山中に遺棄しました。

 

犯人の福田和子は整形手術で顔を変え、日本各地を転々としながら15年にわたって逃亡を続け、公訴時効が迫ると、日本警察史上初の試みとして懸賞金100万円がかけられ、マスコミも大々的に報道。日本全国からの注目を集めた末、時効成立直前に逮捕されるという劇的な展開となり、その後はテレビドラマ化や映画化などもされて注目されました。

 

 

松山ホステス殺害事件の経緯① 事件に至るまでの背景

 

出典:https://i2.wp.com/

 

犯人の福田和子は、愛媛県松山市の高級クラブ「英国亭」で、松山ホステス殺害事件の5ヶ月前に当たる1982年3月から勤め始めました。事件の被害者となる安岡厚子さんは同店のナンバー1で月に50万円〜70万円を稼ぎ、「英国亭」のママからも「10年1度で出るか出ないかのホステス」と称賛される存在でした。

 

福田和子は安岡厚子さんに嫉妬の感情を持つようになりますが、美貌でも接客技術でも全く敵わない事に嫌気が差して、約1ヶ月後、僅か17日間勤務しただけで「英国亭」を辞めてしまいます。

 

福田和子は当時結婚していて4人の子供もいましたが、客と愛人の関係になっており、その愛人との関係を続けるためにサラ金からの借金を繰り返しており、自分の名義での借入額が限界になると知人から借りた保険証を使ってまで金を借りていました。

 

福田和子の借金は事件2日前の1982年8月17日の時点で、他人名義でサラ金から借りた借金が147万円、自分の名義で借りた金を合わせると、サラ金16社から合計で197万8687円にもなっていました。

 

 

松山ホステス殺害事件の経緯② 事件発生

 

事件当日の8月19日、福田和子は何の連絡もなく突然、安岡厚子さんの自宅マンションを訪ねまました。安岡厚子さんは困惑しながらも福田和子を部屋に招き入れました。

 

福田和子の供述によると、しばらく酒を飲みながら話した後、福田和子の方からクラブを共同経営しないかと安岡厚子さんに持ちかけたという事です。

 

それを聞いた安岡厚子さんは表情を変え「英国亭のママへの義理もあるから辞められない、1人でやったら」とその誘いを拒否。

 

福田和子は断られた事に逆上し、テーブルに置かれていた果物ナイフを手に取って立ち上がりました。安岡厚子さんはそれを見てナイフを取り上げようとして揉み合いとなり、右手の指先を負傷。福田和子はそこで我に返って冷静になり、咄嗟に自分の紙袋からおしぼり用の小さなタオルを出して渡したという事です。

 

しかし、安岡厚子さんは「人殺しみたいな真似して、警察に言ってやる」と激怒。さらに安岡厚子さんは福田和子の胸の辺りを足蹴りにして後ろ向きに転倒させます。蹴り倒された福田和子は再び激昂し、鏡台の側にあった着物の帯留めを手に取り、安岡厚子さんの首を絞めて殺害しました。

 

一方、検察側の裁判での主張では、福田和子が安岡厚子さんのマンションを訪ねたのは、最初から金銭を奪うためで、愛人を招くために借りたマンションに入れるための家具を奪う目的もあったとしています。

 

そして、福田和子は安岡厚子さんの酒のグラスの中に睡眠薬を混入させており、意識朦朧状態となった安岡厚子さんを帯締めで絞殺したとしています。

 

犯行時刻は14時から半の間でした。

 

 

松山ホステス殺害事件の経緯③ 遺体を梱包し証拠隠滅を図る

 

安岡厚子さんを衝動的に殺害した福田和子は、室内にあったナイロンの紐で遺体を縛るようにし、万が一にも息を吹き返さないようにと遺体の口と鼻にガムテープを二重に貼り付け、さらに顔にはナイロンの袋を被せています。

 

その後、寝室から毛布とタオルケットを持ってきて遺体を包むようにし、その上からさらにナイロンの紐で縛り、ガムテープでグルグル巻きにしています。

 

そして、マンションの7階と6階の間にある非常階段の踊り場へと遺体を移動させてそこに放置しています。マンションにはエレベーターと階段が別にあったため非常階段を普段使う住人はなく、盲点のようになっている場所でした。

 

 

松山ホステス殺害事件の経緯④ 安岡厚子さんの遺体を運び出し家具を盗む

 

出典:https://guardians7.com/

 

一旦マンションを出た福田和子は、公衆電話から親戚(従姉妹の夫)に電話をかけ「友人が引越しをするので家具の運び出しを手伝って欲しい」と嘘をついて呼び出しました。その後、自宅にも電話をかけて同じ嘘をついて旦那も呼び出しています。

 

20時少し前、旦那が車で到着。この時、福田和子は旦那には安岡厚子さんを殺害した事を打ち明け「果物ナイフを持って襲ってきたので、揉み合っているうちに首を絞めて殺してしまった」と嘘をついて、遺体を始末するのを手伝って欲しいと頼んでいます。

 

旦那は当然同様し、自首するよう勧めますが、最終的に福田和子に押し切られて遺体を捨てるのを手伝い、遺体をエレベーターで下ろして、駐車場に停めた車の後部座席に積み込んでいます。

 

21時過ぎ、呼び出されていた親戚がレンタカーの1.5トントラックを運転して到着。3人は協力して安岡厚子さんの部屋にあった家具や洋服のほとんどを運び出しトラックに積み込んでいます。

 

それから、福田和子と旦那、親戚の3人は、事前に福田和子が借りていた松山市宮田町のマンションに安岡厚子さんから奪った家具を運び入れています。このマンションは福田和子が愛人と過ごすために借りたものでした。(当然、旦那と親戚にはその事実は伏せている)

 

日付が変わって8月20日の未明、福田和子と旦那は、国道33号線沿いから林道に入り、約1kmほど入った場所にある三坂峠の県有林に穴を掘り、安岡厚子さんの遺体を埋めています。

 

 

 

松山ホステス殺害事件後犯人の福田和子は整形して顔を変え15年間逃亡生活

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

 

警察が動き出し福田和子は旦那や息子らを残して逃亡

 

福田和子が安岡厚子さんを殺害してから数日後、すぐに警察が動き出しました。これは、安岡敦子さんの交際相手や友人、家族らが、部屋の異変に気がつき警察に相談したためでした。

 

福田和子は自宅にかかってきた刑事かららしき電話や、家具の運び出しを手伝わせた親戚の自宅に2人組の刑事が訪ねてきた事などから警察の手が迫っている事を察知して逃亡を決意。

 

事件から5日後の8月24日、福田和子は旦那と子供4人を置いて家を出ています。その直後に警察が自宅を訪れ、旦那を任意同行して取り調べが始まっています。

 

 

偽名を使い整形して顔を変えながら金沢市や京都に潜伏

 

8月25日の午後、福田和子はタクシーと電車で石川県金沢市へと移動しています。

 

その日のうちに福田和子は「小野寺忍」という偽名を使って金沢の繁華街・片町にあるラウンジで働く事を決めています。福田和子は、嘘の生い立ちを語ってこの店のママを同情させて採用してもらい、住居まで世話してもらっています。

 

一方、旦那は警察の取り調べを受けて、妻の福田和子に愛人がおり自分が裏切られていた事を知って8月27日についに自供。旦那の案内により安岡厚子さんの遺体も発見され、旦那は死体遺棄容疑で緊急逮捕され、福田和子は全国指名手配されました。

 

福田和子は金沢に来て2日後に東京へ行き整形手術を受けて顔を変えています。

 

福田和子はラウンジの客として出会った妻子持ちの男を離婚させ内縁の関係になって1984年に1時的に京都へと2人で移住。しかし福田和子は同時に石川県能美郡根上町で老舗和菓子店を経営する2歳下の男にも二股をかけており、その年の秋にはそちらに乗り換えています。

 

 

老舗和菓子店の内妻に収まり、息子まで呼び寄せて幸せな日々を送る

 

1985年6月、福田和子は愛人の男が離婚したのを機に、男の実家である石川県能美郡根上町の老舗和菓子店「松村松栄堂」に内妻として入りました。この時、福田和子は「小野寺華世」という偽名を名乗っています。

 

福田和子は良き妻として振る舞い、家事や和菓子店の接客にも心を配り、菓子の配達などもしています。ホステス時代に培われた福田和子の接客は評判を呼び、和菓子店の売り上げは少しずつ伸びていきました。

 

福田和子の働きぶりは町内でも評判になり、内縁の旦那も福田和子を大切にし休みの日には夫婦でドライブや旅行に行くなど幸せな日々を送っています。

 

1986年9月、福田和子は大胆にも、今治市に戻って17歳になっていた1人目の息子と接触。「親戚の子という事にして和菓子屋の職人見習いとして働きながら一緒に暮らさないか」と提案。息子はこれを了承し、一緒に暮らしていた父親(福田和子の1度目の結婚の旦那)に黙って家を出ました。

 

福田和子は、内縁の旦那の前妻との2人の子供も前妻の元へと追い出し、呼び寄せた息子は親戚の子だと偽って住まわせて幸せな生活を謳歌しています。

 

しかしそれから1年半後の1988年2月12日、素性のはっきりしない福田和子を不審に思い始めた内縁の旦那の姉が警察に通報した事で捜査の手が迫りました。

 

福田和子はそれを敏感に察知し、刑事の来訪と入れ違いのように自転車に乗って着の身着のままで逃亡。途中知人の家に立ち寄って嘘をついて金を借りると、そのまま愛知県名古屋市へと向かいました。

 

 

名古屋市のラブホテルで働きながら潜伏

 

1988年2月20日、福田和子は愛知県名古屋市緑区桶狭間にあった「松島」というラブホテルで働き始めています。例のごとく「倉本かおる」という偽名を名乗り、寮に入って潜伏生活を続けました。

 

その2ヶ月後には「松島」を辞め別のラブホテルの面接を受けて内定を得ますが、証明写真を撮られ、拇印も撮られたために警戒心を強め、1日だけ勤務して逃亡し岐阜の下呂温泉へと移動し、その後11月までに福井県福井市へと移動しています。

 

 

福井、千葉、京都、大阪を転々として逃亡生活を続ける

 

出典:https://qph.cf2.quoracdn.net/

 

1988年11月から1992年にかけて、福田和子は福井、千葉、京都、大阪の各地を転々として働き先を変えながら逃亡生活を続けました。

 

福田和子が働いた先は、スナック、置き屋(風俗派遣業)、料理店の仲居などで、1ヶ所には3ヶ月以上は留まらず、必ず偽名を使っていました。

 

1992年以降は、主に体を売ったり、ホステスのアルバイトをして引っ掛けた男から援助されたりして金銭を得ていました。

 

また、この間、福田和子は顔のアートメイク手術を何度か受けて顔の印象を変えています。福田和子は整形を繰り返しながら逃亡を続けたとされますが、本格的な整形手術を受けたのは逃亡開始直後の1度だけで、その後は何度かアートメイクを受けているだけです。

 

 

 

常連だったおでん屋「園」の通報により逮捕

 

福井和子は1992年以降は、福井県と大阪、京都を行き来する生活を送っていましたが、定宿にしていたの福井県福井市にあったビジネスホテル「シティホテルフクイ」でした。

 

1997年2月から、福田和子は福井駅近くのおでん屋「園」の常連客となりました。福井和子はこのおでん屋の常連客達の人気者になり、本人も居心地がよかっったのかかなりの頻度で顔を出していました。

 

1997年7月、松山ホステス殺害事件の公訴時効が1ヶ月後に迫り、警察はマスコミも使って大々的に情報提供を求めるオペレーションを展開。それを目にしたおでん屋「園」の女将と、福田和子と親しくしていた常連客は「もしかしたら、れい子(福田和子がおでん屋で名乗っていた偽名)がこの福田和子なのではないか」と疑念を抱きました。

 

そして、常連客が警察に通報。それを受けた警察はおでん屋「園」の女将にも協力を仰ぎ、次に福田和子が現れた時に指紋を採取する事が決まります。

 

7月29日、女将と常連客は福田和子が握ったビール瓶とカラオケの際に使用したマラカスを警察に提出。鑑定の結果、指紋は福田和子のものと一致し、午後には10数人の刑事がおでん屋「園」を取り囲み、店外に出てきた福田和子を任意同行しました。

 

福田和子は最後まで人違いだと言い張り、指紋採取を拒絶していましたが、おでん屋で採取された指紋が一致している事を告げられるとついに自供。同時18時半頃、福田和子は安岡厚子さん殺害の容疑で逮捕されました。公訴時効が21日後に迫った劇的な逮捕でした。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の生い立ち① 母親の再婚相手の家で冷遇される

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子のプロフィール

 

生年月日:1948年1月2日

没年月日:2005年3月10日(没年57歳)

出身地 :愛媛県松山市

身長  :153cm

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子は、1948年1月2日に愛媛県松山市で長女として生まれました。母親は当時21歳、父親は当時30歳の大工でした。父親には別に妻と子供がおり、福田和子の母親とは不倫の関係で、それが相手にばれたために福田和子が1歳になる頃に別れています。

 

福田和子は母親に引き取られ、3歳の時(1951年)に、母親は愛媛県今治市来島の漁師と再婚。再婚相手には前妻との間に生まれた子供がいたため、福田和子は祖父母に預けられています。

 

福田和子は祖父母に愛情を注がれて成長しますが、川之江市立金田小学校の2年生の時(1955年)に再び母親に引き取られて今治市来島へと半ば強引に連れて行かれています。

 

こちらの家には義父の両親や前妻との子供(福田和子と同年代)も同居しており、福田和子は歓迎されず、食事を与えられなかったり、家から締め出されたりと酷い扱いを受けています。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の生い立ち② 母親は自宅で売春宿を経営

 

一家はその後、漁師を辞めて今治市に移り住み、1960年春、福田和子は今治市立別宮小学校を卒業し、市立日吉中学校に入学。

 

この頃、母親は棟割長屋の一軒を借りて飲み屋を開業し、店の斜め前の自宅の1階を売春宿として、飲みに来た客に売春婦をあてがい利益を得ていました。この1階が売春宿となっている自宅の2階で福田和子は思春期を迎えました。

 

その一方で母親は福田和子を甘やかし、小遣いも一般的な子供と比べて3倍近く与え、洋服もねだられるままに与えていました。また、福田和子に日本舞踊も習わせ、高価な着物を何枚も揃えていました。

 

中学3年の夏(1962年)、自宅で売春宿を経営しているようなところに孫を置いておけないと心配した祖父母が迎えてに来て福田和子は再び祖父母の元へ戻り、川之江市立金田中学校へと転校しています。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の生い立ち③ 恋人の事故死と高校退学

 

祖父母に引き取られた福田和子は中学卒業後は県立川之江高校へと進学。

 

母親からは多額の小遣いが送られてきていたため、福田和子はそれを使って洋服を買い、派手な格好をして遊んでいました。

 

高校2年の時(1964年)に同級生の男子と交際するようになりますが、その男子がオートバイ事故で死亡。自暴自棄になった福田和子は不純異性交遊を繰り返すようになり、それが高校に発覚して高校3年生の1学期に退学処分となります。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の生い立ち④ 強盗で逮捕される

 

川之江高校を退学処分となった福田和子は再び母親に引き取られ、今治南高校へ編入学しています。

 

それから半年後の1965年3月、福田和子は1歳年上の男と交際するようになりますが、この男は非行少年で、1ヶ月前にバイク窃盗で逮捕され保護観察中でした。

 

同年6月、福田和子は母親の反対を押し切って高松市の安アパートでこの男と同棲を始め、ホステスとしてキャバレーで働き始めていますが、次第に店を休みがちになり生活費に困るようになります。

 

同年9月17日、福田和子は同棲相手と2人で高松国税局長公舎に押し入って現金と高級カメラを強盗。すぐに逮捕はされず10月末に2人は今治市へと戻り、松本町にアパートを借りて同棲を続けています。

 

1966年2月、同棲相手が盗んだ高級カメラを質屋に入れたのをきっかけに足がつき、福田和子と同棲相手は3月12日に逮捕されます。福田和子は当時18歳でした。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の生い立ち⑤ 松山刑務所で強姦被害に遭う

 

強盗事件で逮捕された福田和子は、一時は少年鑑別所に送られたものの、すぐに松山刑務所の拘置監(現在の拘置所)へと未決囚として送られています。

 

その頃、松山市内の繁華街で暴力団同士の抗争があり、それに関連した30名以上の暴力団員が松山刑務所に収容されていました。

 

現在の感覚では信じがたい事ですが、この暴力団員らは看守(刑務官)を買収し、刑務所内を自由に歩き回れる状態になっていました。そして、1966年3月22日、福田和子が収監されていた女子雑居房に2人の暴力団員が突然現れ、そのうち1人に福田和子は強姦されます。

 

この事件は後で問題となり、6月に暴力団から賄賂を受け取っていた看守らが収賄容疑で逮捕され、関わった看守ら2名が自殺しています。(松山刑務所事件)

 

1967年3月、高松高等裁判所は福田和子の強盗罪に対して、懲役3年保護観察付きの執行猶予5年の判決を下しています。福田和子が刑務所内で強姦被害に遭った事が情状酌量の材料となり減刑された結果の判決でした。

 

約1年ぶりに釈放された当時19歳の福田和子は、今治市の実家(母親と義父の自宅)へと戻っています。

 

この後、主に福田和子はホステスとして勤めながら生活し、1982年8月19日に「松山ホステス殺害事件」を引き起こしました。

 

また、福田和子はその間に2度の結婚をして4人の子供を出産して自分の家族を築いています。福田和子の家族や結婚、旦那、息子ら子供については次の見出しから見ていきます。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の家族① 1度目の結婚生活と旦那

 

釈放されて実家に戻ってすぐに、福田和子は自宅近くの飲食店街で板前をしていた1歳年上の男性と知り合って交際するようになり、子供(息子)の妊娠を機に1968年9月6日、20歳の時に結婚しています。

 

福田和子は息子を出産後、すぐに2人目の子供を妊娠し出産。2人目の子供である娘が離乳食を食べ始めた頃には今治市内の繁華街にホステスとして働きに出るようになりました。

 

1971年10月、福田和子は唐子浜にあった高級クラブ「シーサイド」でホステスと客として知り合った呉服店の若社長に出資をしてもらい、今治市松本町に「右近」というスナックをオープンさせて独立しています。

 

しかし、旦那は福田和子がホステスとして働いている事を快く思わずに、浮気を疑うようになります。福田和子は喧嘩の末に旦那を家から追い出し、入れ替えるように、元船乗りで自分の店でバーテンとして働かせていた1歳年下の男を家に入れて一緒に暮らし始めました。

 

そして、そのすぐ後の1973年1月18日、25歳になった福田和子は旦那と協議離婚しています。

 

息子は元夫に引き取られ、福田和子は娘のみを引き取っています。福田和子は2人とも引き取る事を希望していましたが、夫が「跡取りだから」と納得しなかったためでした。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の家族② 2度目の結婚生活と旦那

 

1974年4月29日、福田和子は自宅に住まわせて以来内縁の夫のようになっていた、1歳年下のバーテンと出雲大社で結婚式を挙げ、ちょうど1年後の1975年4月29日に正式に結婚(入籍)しています。

 

この頃、オイルショックの影響で不況の波が押し寄せ、福田和子は経営していたスナック「右近」を60万円の借金を残して閉店させる事になり、1976年9月に夜逃げ同然にして家族で松山市の3DKのアパートに移り住んでいます。

 

同年10月には、前の旦那との息子も引き取り、再び一緒に暮らし始めています。

 

この時、福田和子は3人目の子供を妊娠しており、ホステスとしては働きに出られず、旦那が土木作業員として働いて家族の生活を支えていました。

 

福田和子が29歳になった翌月の1977年2月には、3人目の子供(2人目の息子)が誕生しています。

 

2人目の息子の誕生から程なくして、福田和子は再びホステスとして働くようになり、いくつかの店で働いて月収で30万円ほどを稼ぎ、「右近」を閉めるときに残った60万円の借金も返済し終えています。

 

1978年4月、福田和子は勤めていたお店を辞めて、旦那の実家のある愛媛県大洲市へ家族で転居。5月には4人目の子供の妊娠もわかり、同年12月には4人目の子供となる娘が誕生しています。

 

この頃、旦那は電話架設会社に勤務しており、旦那と福田和子は1981年3月に念願のマイホームを大洲市徳森に購入しています。

 

この時期、福田和子はホステス勤めはしておらず、子育てに力を入れており、4歳になっていた2人目の息子を私立の帝京幼稚園に通わせ、1人目の息子が通う中学校のPTA役員を引き受けたりもしています。

 

ただ、その一方で旦那に内緒でサラ金から金を借りており、利子が嵩んでその返済に苦しんでいました。

 

金に窮した福田和子は再びホステスとして働くようになり、客と愛人の関係となり、その愛人との交際のためにさらにサラ金からの借金を繰り返すようになりました。

 

そして、1982年3月から福田和子は松山市の高級クラブ「英国亭」に務めるようになり、そこで松山ホステス殺害事件の被害者となる安岡厚子さんと出会っています。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の息子の現在について

 

「松山ホステス殺害事件」では、犯人の福田和子の息子にも関心が集まっています。

 

福田和子の息子は、1度目の結婚の旦那との間に1968年10月23日に誕生。福田和子は自分の1人目の子供である息子にかなり執着していました。

 

福田和子は、自分が殺人の逃亡犯で指名手配されているにもかかわらず、逃亡中に接触して自分の元へ呼び寄せ、内妻として潜り込んでいた和菓子屋「松村松栄堂」で親戚の子と偽って和菓子職人見習いとして1年半にわたって働かせ、いっときの幸せな親子生活を送っています。

 

福田和子は内妻として潜り込んでいた和菓子屋の家族達に正体がバレて、自転車を盗んで着の身着のままで逃走しますが、その後、息子は捜査に訪れた刑事と共に地元の愛媛県へと戻っています。

 

その後は、息子は祖母の元へ預けられ地元の鉄工所で働いていた事は、松山ホステス殺害事件を取り上げた書籍などで明らかにされています。

 

また、2011年に放送されたバラエティ「世界仰天ニュース」で松山ホステス殺害事件が特集された際、息子さんが取材に応じており、現在は結婚していて子供にも恵まれている事や、小さな鉄工所の社長をしている事なども明らかにされています。

 

福田和子の息子さんが経営している鉄工所の名前もネット上では噂されているようですが、この息子さんは犯罪者ではなくむしろ母親の福田和子に振り回された被害者の1人なので、追いかけ回すような事は避けましょう。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の判決は無期懲役

 

松山ホステス殺害事件の裁判で、福田和子は「無期懲役」の判決を受け確定しています。

 

1999年5月31日に松山地裁で無期懲役の判決が言い渡されるも福田和子は判決を不服として控訴、しかし高松高裁で控訴は棄却されます。福田和子はこれも不服として最高裁に上告しますが、これも棄却され、2003年11月に無期懲役の判決が確定し、福田和子は和歌山刑務所に収監されました。

 

 

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の現在…死因は脳梗塞で既に死去

 

松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子は現在は既に死亡しておりこの世にいません。

 

福田和子は、2005年2月下旬に和歌山刑務所の工場作業中に倒れ、病院員搬送されたものの回復せず、3月10日に搬送先の病院で死亡しました。

 

福田和子の死因は「脳梗塞」と発表されています。57歳でした。

 

松山市で一九八二年、ホステスを殺害し約十五年にわたって逃亡、時効直前に逮捕され、強盗殺人罪で無期懲役の判決を受けた福田和子受刑者が三月に和歌山市内の病院で病死していたことが二十六日、分かった。五十七歳だった。

 関係者によると、福田受刑者は二月下旬に和歌山刑務所で倒れ、和歌山市内の病院に運ばれたが三月十日に死亡した。死因は脳梗塞(こうそく)だった。

 

引用:福田和子受刑者が死亡

 

 

 

松山ホステス殺害事件のテレビドラマ化

 

出典:https://suspense-drama.up.seesaa.net/

 

「松山ホステス殺害事件」は、そのセンセーショナルな展開から何度もテレビドラマ化されています。

 

最初のテレビドラマ化は、福田和子の無期懲役の判決がまだ確定していなかった2002年8月2日で、フジテレビ系列で「実録 福田和子」のタイトルで放送されました。

 

このドラマは福田和子本人が獄中で綴った手記「涙の谷—私の逃亡、十四年と十一カ月十日」を原作としたもので、福田和子役は大竹しのぶさんが演じて大きな話題となり、第20回ATP賞優秀賞を受賞しています。

 

近年でも、2016年3月17日にテレビ朝日系列で『実録ドラマスペシャル 女の犯罪ミステリー「福田和子 整形逃亡15年」』という松山ホステス殺害事件のドラマが放送されています。こちらのドラマでは、寺島しのぶさんが福田和子役を演じています。

 

この他、松山ホステス殺害事件を取り上げたバラエティ番組でも何度も再現ドラマ化されており、中島ひろ子さん、佐藤仁美さん、宮地真緒さん、鈴木ひろみさん、河合美智子さんといった有名女優が福田和子役を演じ話題となっています。

 

また、ドラマ以外に、松山ホステス殺害事件をモチーフにした映画も製作されており、1999年に「kamome/カモメ」、2000年に「顔」という作品が公開されています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1982年に発生し犯人の福田和子が時効直前の15年にわたった逃亡を続けた「松山ホステス殺害事件」についてまとめてみました。

 

松山ホステス殺害事件は、犯人の福田和子がホステスの元同僚だった安岡厚子さんを殺害し、現金や高級家具を奪って死体を遺棄した事件です。

 

犯人の福田和子は、複雑な生い立ちを持っており、欲望のままこの事件を起こし、整形手術で顔を変えながら15年にわたって逃亡生活を続けました。

 

福田和子は2度結婚していて4人の子供もいましたが、旦那ら家族を半ば捨てる形で逃亡。逃亡中にも男をたぶらかして老舗和菓子店に内妻として入ったりし、巧みに警察の追手から逃れました。さらに、逃亡生活中に大胆にも最愛の息子を潜伏先に呼び、親戚の子供と偽って親子での日々を送った事もありました。

 

福田和子は時効成立わずか21日前に逮捕され、その後の裁判で無期懲役の判決を受けています。

 

福田和子は服役中の2005年3月、刑務所内で倒れ搬送先の病院で死亡しています。死因は「脳梗塞」でした。

 

現在も松山ホステス殺害事件のセンセーショナルな内容は人々の関心を集めており、何度もテレビドラマ化、映画化されています。

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